批評とかそれにまつわるエトセトラ


 まず大前提として、レビューと評論を別物として考えたい。ここがごっちゃになっていると、見えるモノも見えてこないのではないかと思う。

 レビューというのは、極論してしまえばファーストインプレッションを基本にした「購買ガイ」ドのことである。だからもっとも現実的な方法論としては「オススメを紹介する」というものになるはず。「コレを買うな!」という逆購買ガイドも原理的にはありえるけれど、その非実用性ははなはだしいので、そのスペースがあるなら、おもしろいもの役立つものを教えてくれっていうことになるはずだ。特に、有料のメディア(雑誌とか)では、非実用情報のためにお金を払おうと思う人は少ないのでは。

 ただ肝心なのは、「おすすめ」するにもかかわらず、現実には無条件にすすめられるような「欠点のない作品、商品」もありえないという点。だから、どんな人がみればマキシマムに楽しめるかなどとからめたりしながら、傷があることを指摘した方が誠実なレビューといえるのではないか。そういう意味では、褒めることは必要だけど、別に絶賛モードになる必要はないわけで、つまりはあたりまえに作品と距離感を保って書いたレビューが一番読者の役に立つということなんだろう。そして、欠点をどのように提示できるかがレビュワーの腕の見せ所ってことだろう。

 ではここで思考実験。あなたは「脳内革命」をどのようにレビューしますか? あなたは「北京原人」をどのようにおすすめしますか? 

 で、評論はレビューとはちょっと違う。評論っていうのは、基本的に作品の位置づけ、いかに面白いかとかあるいはいかにダメか、をテッテ的に考えるものだ。よく、感想と批評は違うというけれど、感想だってものすごく高度になれば、印象批評というやつになるんじゃないだろうか。まあ、それには見巧者でありなおかつものすげえ知識がいる(後半は筒井康隆も何かで指摘していた……はず。「文学部唯野教授」の一節かな)。まあ、淀川長治さんなんかはそういうタイプの人なわけだ。
 テッテ的に考えるとはつまりトンチ合戦であって、そこでは作者の意志などは関係ない。厳密に言えば、作者の意志=正解ではない。評論は、視点の斬新さ(どういう文脈で読みとるか)と、そこで構成される論理の強固さ(矛盾が少なく、作品のどの部分でも応用可能か)の2点が評論の大切な構成要素になる。そこでは、読者に必要な情報をあたえるというレビューの原理とは違う、もっと創造に近い、読者を無視するような原理が働いている。

 とりあえずこのページでは、映画の感想はできるだけ批評というスタイルに近づけるようにしてます。で、書評はレビュースタイルでいこうかと。とりあえず、日記に書いたことをベースに、意志表示としてまとめなおしてみました。(31/12/98)