ヤマトを語るのはどうして難しいのか。簡単にいうなら、それはアニメ史における「青春のあやまち」だったからだではないだろうか。だからこそ、総括はむずかしく、正面からその作品像全体をとらえるアプローチはなかなかなされない。この本も、かなり楽しく読んだものの、ヤマトの全体像をとらえるという部分では、やはりひっかかるものを感じた。
端的に言うなら、ヤマトを語るなら、「新たなる」(人によっては「さらば」かもしれないが)以降のダメな部分を積極的に引き受けてこそ、作品としてのヤマトに肉薄出来るのではないだろうか。
最初の、この本にならっていうならファースト・ヤマトだけを取り上げて云々したところで、それはファースト・ヤマトの魅力という範囲にとどまり続けるだけだろう。そして、その後の作品はこれまでどおり、語ることさえろくにされないままになってしまうのである。
以下、この本を感じて思ったことを列挙する。
・先に書いた理由の通り、ヤマトの原作者が松本零士であるのはいいとしても、あまりに松本氏を基準に考えることで、やはり先に書いたヤマト像とは遠くへいってしまっているように思える。
・戦争アニメではない、という主張が散見されたが、こうしたことへの反論がまた弱い。兵器がでれば戦争アニメと大騒ぎすると同様、
その改変のレベルで戦争アニメではないといいはるのは難しい。また、松本作品には元々、機能美と一体化した極限状態でのロマンチシズムが濃厚にある。これは、戦場を否定するほど政治的でなく、むしろ叙情面では戦場を肯定しているという要素をはらんでいる。
そこを抜け落としたまま、戦争アニメという評価への批判を書くのは、いささか苦しいいいわけではなかろうか。
こうやって書くと徹底批判しているように見えるかも知れないが、元ヤマトファンとしては楽しんだのも事実である。特にデザインの変遷はなかなかおもしろかった。
洗脳のルーツから、自己啓発セミナー、ヤマギシまで。そして事実だけに終わらず、自分なりの洗脳とのつきあい方を提示して終わる。バランスのよい一冊。
とはいうものの、重箱の隅をヒトツ。著者が昔いた会社のジャーゴンとして「モラルが高い」をあげている。これが、やる気がみなぎっている状態を指すのが、隠語であるというのだ。
これはおそらく著者の誤解で、倫理道徳のモラル(moral)以外に、士気を指す「モラル(あるいはモラール)」(morale)という単語も存在するのである。ですから、これはジャーゴンではないのだ。まあ、あくまで重箱の隅ですが。
こういう本はあまり感想とかかいても関係ないでしょう。タイトルに書かれている単語、それに大泉氏に興味があれば買って損なしです。
なんといってもII章の「文法なんか嫌い」だ。そこに書かれた「は」の使い方の説明は圧倒的ですらある。それは、単なる文法の説明を越えている。片岡義男が「日本語の外へ」で再三繰り返した「日本語そのものの機能」をずばりと、平明に言い表している。
一言でまとめると、片岡義男は日本語は「場」が前提となっている言語だと説明する。大岡晋は、それが日本語のどこからきているかを、この本のII章中でずばりと説明したのである。