99年1月中旬


<1月11日・月>
◇ 会社の新年会。酔っぱらっていたらしい。まあ、世間的な問題はさておき、帰宅してそうそうに眠る。オレの記憶ではメールを2,3通出したようだが、それは本来のオレではなく、オレ・エミュレイターのなせるわざなので、文章にウソではないが記憶はない(苦笑)。


<1月12日・火>
○ 浜松町でニセガンダムと本物ガンダムの見分け方を教わる。これでひよこの雄雌よりも簡単にニセガンダムを見分けられるゾ!。

◇ 会社へ出勤した後、新宿で一杯。ノストラダムスネタで、こちらが「自分が恐怖の大王だったら…」と思って怖かったと告白(?)すれば、自分はメシアだったらどうしようと思っていた告白が相手方からあり、とりあえず今年は平年通りに行うことを談合する。(←ウソ)
 あとはSFとアニメや映画の話題(だけでもないけれど)。とりあえず「妖星伝」を読んだほうがいいと薦められ、その場で座右の書というアーシュラ・K・ル・グインの「所有せざる人々」を借りる。あとは小松左京の話題とか。
 お二人様、試験期間中にもかかわらず、遅くまでごくろうさまでした。とてもおもしろかったので、また一杯やりましょう。
 
○ で、明日朝早いのに、帰宅してさらにビールを飲むバカもいる。   


<1月13日・水>
◇ 早起きして藤沢まで仕事で出向く。なんだかセキがぶり返し、寝不足もあって疲れた感じ。

○ どうでもいいがこの間、コムナビを買った。どうでもいいが一言、カーツ佐藤氏の「同じ月をみている」評。そこで氏は、「主人公のドンちゃんがほとんど喋らないところが、マンガならではの点であり、文学作品でこうした主人公を描くのはムズカシイに違いない」(要約)と語っている。けれど、これは解釈とかそういう問題ではなく、事実関係の間違いと同じくらいのレベルで違うと思うが、どうか。カーツ氏の文芸観とはいかに?

△ 今日の誤植。某ガンダム本でガンダムの放送年が’74年になっていた。

○ 自宅で仮眠の後再び新宿へ。歌舞伎町の屋台村で「火魅子伝」とかを横目でみるというシュールな経験をする。なんだか、訳知り顔に解説するオジサンがいて、なぜだか「火魅子伝」を「これけっこう面白いよ」といっていたのでゲンナリする。まあ、ほかにもゲンナリする要素はあったのだが。ともかく、能書きが好きなオジサンだったので、自分の嫌な部分を拡大して(等身大?)みているような気分に。


<1月14日・木>
◇ なんだか調子がイマイチと思ったら再び、夕方からカゼが本格化したもよう。今度は鼻にきている。せっかくの連休を前にして、なんてこったい。でも明け方まで仕事。 


<1月15日・金>
◇ つうわけで、連休初日はおとなしく寝ている。頓服の連続服用とか、使用上の注意を柔軟に解釈した(解釈改憲的?)売薬の服用などで、カゼに対して攻勢をかける。前回は、序盤に解熱剤という対処療法に頼りすぎたので、その反省をふまえての対策である。それでもクスリが切れると9度台に戻り、時に悪寒がする。もちろん、熱でもうろうとしているので悪寒とオカン(関西弁で言うところの母親)とをかけるようなダジャレはいっさい考えなかった(ウソ)。
 前回よりも今回の方が熱が高く、鼻水系である。喉は特に問題なし。

○ それでも「カレカノ」と「ビバップ」は見る。「カレカノ」いつもより編集が冗長でテンポ悪いと思ったのはオレだけ? それともクレジットばかり気にしてるからそういう錯覚が?


<1月16日・土>
◇ 昨日の続きであるが、日中に汗をかきまくる。それはいいが、その汗が多いため、冷えた汗の冷たさで目が覚めるというイヤーンな展開。でも、やっと熱も峠を越えて、夕方から会社へ出向くのには問題がない程度に回復。でも、シャワーを浴びていないので、不思議な髪型の人になっている。これで紙袋を持ったら、とてもさっきまでくるまっていたのが布団とは思えないような、街の人になっているだろう。

○ それでも多少調子がよくなった、というわけでラスト20ページぐらいで放置してあった「星界の紋章III」を読了し、ハンドブックもいっきに読む。


<1月17日・日>
◇ 熱はほとんど平熱に近づいたが、ダルさが抜けない。背中が痛くて、自分でツボを押して楽になろうとする。夕方から会社にいってダラダラと仕事をする。当然長引く。ああ、首筋のリンパ腺が腫れてるのがわかる。

○ タイソン戦を見る。元チャンピオンとはいえ、格下の相手だから負けることはないだろうと思っていたが、ああも見事にカウンターが決まるとは。タイソンをみていると、ヒーロー不在の時代にはヒールこそ「ヒーロー」なのだろうというような逆説というか妄想がわき上がり、そういえば、オレってボクシングの試合じゃなくって「タイソンが何かしでかすのをみたくて」チャンネル合わせたなとか、自分の動機などいろいろ考える。
 なんて考えているウチに、ヒーロー不在っていうけど、マグワイアは? という、セルフつっこみアリ。

○ そういえばガサラキも。いままで漠然と見ていて、平安編ってのはかなり得心がいったんですが。これで一応天皇制にも触れたようだし。一応「すめらぎ」とかいってたのはつまり「皇」だと思って聞いていたんですがいかがなんでしょうかねえ。


<1月18日・月>
◇ というわけでみたびカゼをひくのもつまらんので、終日静養の日。途中、五反田へ闇の仕事に赴く以外は家でおとなしく寝ている。これがまたよく寝られるんだな。で、夜は目がさえるので、「日本一の男の魂」「マスターキートン」「宇宙海賊ミトの大冒険」(ってこんなタイトルだっけ)というアニメのハシゴ。

○ 「男の魂」は最初はどうなることかと心配していたが、コママンガを読むテンポがちゃんと再現されているので心地よい。「マスターキートン」は、面白いし丁寧だしそれを実現するにはすごい力量がいることもわかるのだけれど、やればやるほどすごく「良くできたアニメ化」という枠内に落ち込んでしまうというところが頭が痛いところ。
 もちろんソフト・ビジネスとすれば全く問題がないし、それは正しいと思う。でも、日本のアニメの水準で写実的な作画、演出、美術をこのクオリティでできるスタッフがどれだけいるかを考えると、これでオリジナルを見たいというのも正直なところなんだが。今、テレビシリーズの「ジャリン子チエ」を見てもそう感じるだろうか。それに、今のアニメのオリジナルが面白いモノばかりか、というとそれはそれで?だし。
 理想は全体のもっと力量の底辺が上がって、マンガのアニメ化といえば少なくともキートンの8ガケぐらいの水準でできるようになれば問題はないのだと思うけれど。まあ、オールドファンの見果てぬ夢やね。

○ とはいいつつも「ミト」第2話はいい感じ。ただこれはどう考えても、ボクの感覚では夕方5、6時にオンエアされるべき内容だろう。こういう丁寧につくってあるくだらない作品ってのは、アニメファンを育てる要素があるので、できれば若い世代が見やすい時間にやってほしい。
 もっとも今のヤングジェネレーションは、ビデオでみてるから、あんまりOA時間は関係ないか。まあ、それならそれで「偶然見てしまったアニメが面白い、という経験は大切」とかと、ジジイは理屈をつけて深夜アニメばかりの状況に難癖つけたりするのだけれど。
 ともかく、なんだか得体の知れない海賊達や、ミトのデザインが、さすがに雑誌でみただけでは魅力が分からなかったのが、ちゃんとまともな作画で動いていてナットク。ヘンに客に媚びたような色っぽい姉ちゃんが出てこないのも好ましい。あとは毎回のお約束を増やして、それをアイデアいっぱいのストーリーで包んでくれればオレはそれでオッケーだ。


<1月19日・火>
◇ もうこんなに日付がたってしまったんですね。さっさと帰宅して、仕事をしながらつい徹夜。


<1月20日・水>
◇ サクっと仕事。書店をながめて、平積みになっているムックなどを立ち読みしたり。

○ サベツ語というヤツでいくつか疑問がある。ここではサベツ語は広い意味で所定の人を侮蔑するというので、メディアなどで言い換えられている表現を広く指し使っているのだけれど、なんだかよくわからないサベツ語というのがあると思うのだ。
 ここでよくわからないサベツ語というのは、本来サベツに属する言葉でないにもかかわらず、いつの間にかサベツ語ということになっているヤツである。具体的にあげると、○○屋、それから籠カキというあたりだ。
 ○○屋は基本的に○○店に言い換える、つまり八百屋は青果店と呼ぶ、というのは、マスコミでは極一般に行われているようである。これは「屋」ってのに、親しみだか見下したようなニュアンスがあるからいけないのだろうか? 強いて考えると、「屋」という表現は職業とそれの従事している人を不可分にしている表現であり、そこに使う側のサベツ意識が滑り込む可能性はある、ということはいえるかもしれない。あらゆる職業などをサベツ語的に仕上げてしまう夢(悪夢、ね)の表現としては、「○○ふぜい」という言い回しがあるが、この場合も「○○屋ふぜい」だと日本語として意味が通るが、「○○店ふぜい」だと店舗を問題にしているようなのでなんだか変な感じがする。まあ、商店街の人の口げんかとかだったら意味が通じるかも知れないが。
 まあ、というふうに「屋」が使われない理由を勝手に邪推してみたが、邪推すればするほどよくわからなくなるのであった。

 籠カキというのはタクシー運転手さんに対して、侮蔑的な表現と言うことになっている。だから、ボクも別にわざわざ使おうとは思わないのだが、やはり疑問が残る。
 調べてみると、類似した表現に雲助があってこちらは歴とした侮蔑的表現に転用可能な言葉のようである。この言葉は昔、街道などで籠をかついだ日雇い労働者のことで、もともとは住所不定の浮浪者のことだそうだ。
 雲助という言葉が現代にリアリティを持っているかどうかにはいささか疑問を感じないでもない。例えば、被差別部落の問題は社会制度として固定されていたことにあり、それ故にいまでもリアリティを持ち続けているが、辞書から見るには雲助という言葉にそうした側面は薄そうであるが。

 まあ、それはともあれ、問題は籠かきである。これは言葉通りに籠を担ぐ人という意味であろう。それとも歴史的にもっと深い意味が付加されているのだろうか。
 言葉通りで在れば、あまりにアナクロな意味しかない。この言葉だけを取り出してみて、自分のことというのがピンと分かる運転手さんなどがどれぐらいいるのだろうか? とはいうものの、「籠かき=侮蔑の言葉」という公式が既に出来てしまっている状況では、もはや言葉の意味を超えて、「不快な言葉となっているから使われると不快」という領域に入っているのかもしれない。
 しかし、わざわざ罵るときにこんな生活感情の伴わない言葉を使う人が少なからずいるらしいことに、やはり驚きを禁じ得ないのだった。

 支離滅裂な文章でした。
 
○ ちなみに、ボクはさまざまな禁止語は増えない方がいいとは思っているのだが、作家先生とかではないので基本的な言い換えについては、あまり苦痛に感じない。事実が伝われば基本的にはオッケーである。事実を伝えるにおいては、どんな言葉を使わされても、伝えうるものがあるのではないかと考えている。