98年11月下旬


<11月21日・土>
◇ 「近代の労働観」(今村仁司、岩波書店 640円)をざざざっと読了。著者にいわせると「労働の喜び」というのは、前近代を助走にして19世紀に完成した虚構のモラルであり、「労働の喜び」とは結局「自己承認を求める心」にしかすぎないと断言する。だから、「労働」の時間を減らし、自由な時間をふやすことが正しいという。
 論旨としては一直線で分かりやすいのだけれど、そこまで書いたのなら、では今生きている俺達がどうすればいいのか、について触れてほしかった。いまボクらがやっている「労働」が単なる「労苦」と同等であることがいくら正確にわかっても、ボクらは一向に救われないのだが。

○ というわけで、遅ればせながら木場の東京都現代美術館へ出向く。先日、読売新聞に石田汗太記者が「試みはいいけれど、あそことここがちょっちああなってればね」という記事を読んだので先入観ばりばりである。
 で、入館してすぐさま、声優による音声ガイドが楽しめるという秘密兵器を手にしつつ(これで再生されるガイドが、またクダラナイので悲しくなる)、手塚治虫の「新宝島」の原画なぞを見る。解説には発表年代1947年と書かれているだけなので、事情を知らない人は、手塚治虫は昭和22年頃からトーンを使っていたんだ!と驚くことうけあいである。もともとマンガは初出などの出版データが曖昧なものが多いのでしょうがないのだが、せめて原画を展示したものは、その原画が何に使用された原稿(例えば、手塚治虫全集○巻とか)かは明示してほしかった。また、作品が収録された単行本をケース内に展示する場合、最近の文庫本を並べていたのもちょっと疑問。
 ともかく、ハード(原稿、原画)ではなく、ソフト(ストーリー)マンガを総覧しようという初めての試みそのものが、かなり高くて難しいハードルであったという印象が強い。見ているお客はどうしても原画だとテンションが高くなり、コピーでは集中度が下がる。「原画展的なものを避けたかった」という、主催者の意図を汲むとしても、やはり美術館は「本物が持つアウラ」を楽しむ場所であると思うので、もっとハード主導でストーリーに迫る方法はなかったのだろうか? あるいは、コマ割、人物描写といった表現技法別に項目をたててもよかったかもしれない。
 
○ と、キビシイことをいいましたが、マンガというジャンルが好きであれば、不満はさておき、かなり楽しめます。主な展示はコピー、原画で、各作品から数ページずつ「いいシーン」を選んであるんですが、どれもなかなかいいシーンを選んであり、このあたりは主催者側の作品への愛情を感じることができた。(例えば、諸星大二郎だと「生物都市」のラスト、「妖怪ハンター」からは「おらといっしょにぱらいそさいくだー」のシーン)。また、個人的には、植田まさしという、絶対原画展なぞひらかれないであろう人の原画を見ることができたというのは、ちょっと感動してしまいました。あと、松本作品の原画がない理由を勘ぐったり、ちばてつやの絵がこれほどニュアンスにあふれているものだということに今さらながら気づいたりしながら、見て回れば3時間があっという間に過ぎてします。


<11月22日・日>
◇ 「ぶらり途中下車の旅」というわけでもないが、都電荒川線に乗って荒川遊園まで。遊園に入る前に、とりあえず、生まれて初めてもんじゃ焼きを食べる。店で隣に座ったのは、ヤンママ2人。この2人が都電荒川線のいなげな雰囲気にマッチしていて、焼き上がったもんじゃ焼き少し旅情の味がした。荒川遊園は値段分きっちり楽しかった。また、都電で東池袋へ。ゲーセンで「DANCE DANCE REVOLUTION」をやっている人を見たりしてから、帰宅。ワインを飲む。


<11月23日・月>
◇ 大学時代の先輩の結婚式で高輪プリンスホテルへ。余分なものがない非常にオーソドックスな披露宴。新郎は、ベイスターズファンということで最後の挨拶で38年ぶりの優勝に触れていたが、やはり今年は忘れがたい年だろう。そもそも、結婚を決めたときはまだ優勝のゆの字もなかったわけだし。おめでとうございます。帰宅して、力つきて寝る。

○「脳内イメージと映像」(吉田直哉、文藝春秋 710円)。内容は、わかりやすい映像論。タイトルからもっと科学的な内容を期待して購入したがちょっと違った。


<11月24日・火>
◇ 他人の日記を読む。「のざる日記」と「トラブルメイカーWITH LOVE」を読む。すでに本質的な話題ではないレベルに主題が動いているように見えるけれど、時系列を追うとこんなところか。
1、のざる日記 21日付け
2、トラブルメイカー 21日付け
3、のざる日記 22日付け
4、トラブルメイカー 22日付け
5、のざる日記 24日付け
インターネットのいいところは勝手に論評できるところだと思うので勝手に論評してみる。まあ、「メールおくるほどじゃないことをこうやって日記で書くのは悪くない」と思っているので、勝手に書く。

・トラブルメイカー筆者の十点鐘氏は、わざと荒れた言葉を使う芸風(と好意的に解釈しておこう)なので、本人の意見より荒っぽさが目立ってしまう。しかも、オレから見ると、何度読んでも21日付けはもとののざる日記を誤読(というか勘違い)しているようにしか読めない。まあ、勝手に荒い言葉を使って批評する自由があるのは認めるが、それが勘違いを基にしてたりすると恥をかくのは自分であるというのも、裏がえしの現実でしょう。23歳かあ、若いと言うべきか?(←ぴょん太自身の自問自答)

・のざる氏は、出版の文化とスポーツの文化との差をあとで論じているけれど、蛇足の感はまぬがれない。それに、自分の意見と違うことを、例としてあげるなら、「○○という意見を持っている人が多数いる」とか、自分との距離感がわかるように書いてもらわないと、のざる氏自身とのとの意見との判別が難しくなる。なにも知らない人があとから「自分の意見は○○で」といわれたら、普通は「後出しじゃんけん」のように感じるのでは? これは以前ののざる日記でも一度感じたことがあった。

△ 個人的な意見を言うと、ボクは自分が関わっているなにがしかのものに対して「利益誘導を叫ぶのは悪ではない」という考え方なので、野猿氏ほど二宮氏の態度を批判はしない。再販制度にしても、マスコミが論じることすらタブーにしているのは言論の自由からいって間違いだが、出版各社が既得権を確保しようとする動きはリーズナブルであると思う。ただ、輸出産業でもないのに保護を受けたら、産業の体質がどんどんコスト意識がなくなり、読者ニーズに対して鈍くなるなど悪化するとは思うが、まあ、そのへんの天秤のかけかたは、オレは経営者ではないのでどうでもいいのであった。腐るべき産業はどんなことをしても概ね腐ってしまうのである。

○ 本題?のJリーグの問題について。
フリューゲルスの問題についてだけれど、まず表面的な問題。あそこまで問題がこじれたことに関しては明らかにリーグと親会社の責任がある。選手に何の報告もなく発表するというのは間違いでしょう。おそらくマスコミにリークするのを恐れた隠密作戦の結果なのかもしれないのだけれど、これでは表舞台で頑張っていた雇用者から強い反発があるのはあたりまえ。超法規的なマリノスとの合併案にしても、あまりにリーグがトップダウンで仕切りすぎだと思う。選手などに対する情報開示が例え1日でも早く行われていたら、ここまで混乱は大きくなかっただろう。(まあ、サポーターは騒いだと思うけど)。新聞辞令というのは、受けた側はイヤなもの、という想像力が会社とリーグになかったというのが、こじれた最大の原因でしょう。

本質的な問題点でいうなら、フリューゲルスにしわ寄せが来たのはやむをえない部分がある。Jリーグバブルを整理するには、何処かがこういうことにならなくてはいけなかったのだから、スポンサーがキビシイと感じたフリューゲルスがこうなったのは、悲しいことではあるけれど交通事故的にしょうがない。
だからむしろ、ボクはこの交通事故をよけいにこじらせたその後の経過の方が、今後のリーグ運営について重要な示唆を含んでいると思う。

サポーターが騒ぐのはデファクト(先日書いたように、基本的に人はおろかであるから)なので、別にいいんではないでしょうか。無駄な努力もやらないよりは、やった上に得られる空虚感のほうがマシだと思うし。(世の中、効率や具体性だけで人は動いていないわけだ)。でも、もしそこから何かしかの新しい態勢が生まれるので在れば、それは奇蹟のように尊いことだと思うので、ボクはそれを決してバカにしたりはしない。 


<11月25日・水>
◇ なんだかお疲れモード。風邪は治ったはずだが、予定がいろいろある週末に向けて、体力を温存しなければ。そんなことを思いながら、表参道いったりきたり。

○ 昨日の勝手に感想シリーズの続き。
トラブルメイカー 26日付け
まったくもってありきたりの展開に、野次馬としては残念な限り。最初に相手に異論をぶつけて、ヒット&ランするというネットではありがちな人だったんですなあ。あと、ファンという人のエゴの拡大感のわかりやすいサンプルという見方はできるかな。今のオレにとっては、「「トラブルメイカー」という日記は存在感ありまくり」なんでしばらくウオッチしようなかあ。ほかの人には薦めませんが。ではなぜウオッチするかというと、オレは支離滅裂な罵倒系文章を読んで自分でイヤーな気持ちになるのが趣味だからです。


<11月26日・木>
◇ 午前中、在宅勤務してそれから昨日に引き続いて表参道へ。まあ、そんなこともあったけれど、夕方からは「約束された場所で」(村上春樹、文藝春秋 1524円)を読み始める。まあ、いまのところ内容は予定調和的な感じ。きっと最後までこんな調子なんだろうな。でも、さすがにオウム内部の実情については、現場を見ていたものが語る生々しさはある。でも、これについては書評は書かないかも。

○ 「踊る大走査線 THE MOVIE」が興行収入30億円を突破とか。めでたきかな。オレはまだ見てないけれど。

△ 細田さん掲示板でも、似たようなことが触れられていたので思い出した話題。まあ、直接そちらとはリンクはしないのだが。
 以前、他人の日記を読んで批評することを「痴漢」に例えた人がいて違和感を禁じ得なかった(誰かは失念した)。ネットで文書を閲覧する行為の基本は、文書が原理的には無制限な読者に対して開かれているということである。つまり、アクセス自由ということ。もちろん、電車の中の女性の体はアクセス自由ではないのはご承知の通り。痴漢のアナロジーはそのあたりが不正確で、比喩としては成立していない。
 もっとも何故こういう比喩が出てきたかには、示唆に富む部分が多い。ボクとしては、いつも思う「WEBによるエゴの拡大」の具体的な例の一つだと思う。本来ならオープンな領域にある文書なのだけれど、個人的な話題をそこに書いているため、そこがあたかも自分の内部のように「錯覚」してしまったのでしょう。
 これはネチケットとか、パソ通の経験がという問題ではなく、本人がインターネットをどのようなメディアとして把握しているか、という問題に集約される。おそらくこういう意見が出てくる背景には、インターネットを延長された身体として把握しているのでしょう。例えば。脳のなかに次々と巻き起こるイメージの奔流に近いもの、とか。そこには複数の人間が多層に交錯しながら存在している、ネットワークという視点が、煎じ詰めれば他人という存在が、欠落している。厳密にいうと、主観と対象はあるのだけれど、主観の主がさらに他者の対象である可能性が抜け落ちている。

 というわけで、アクセス自由な文書をぶらぶらとぶらさげているということに、批評慣れしていない人は自覚的になるべき。大切なのは、好意を寄せてくれる人と同じぐらい反対の人もいる可能性があるってことを想像できるってことだ。(当たり前の結論ですね)。
 まあ、そういう人ばっかりになると支離滅裂な罵詈雑言を読む楽しみがなくなって残念だが。←まだ、この話題でひっぱるんか。
 
○ ううむ、エンジェル係数というのも世の中には存在しているのだがなあ。一家の家計のうち子供にかけている金額の割合、だったはず。まあ、マイナーな生きていく上にあまり必要でない数字です。経済的な指標にするにはアバウトすぎてあまり質のいい係数とも思えないのだけれど、これを研究に応用している人はいるのかしらん。  


<11月27日・金>
◇ 明け方帰宅して寝て起きて有楽町へ。あちこちうろうろ。東京国際フォーラムでうろうろ。それから会社へ。

○ 「エロポップ クリスマス」のオープニングにだいぶ遅れていく。これまた会場が表参道で、ここんところ表参道ばかりである。HIROPON FACTORYのさまざまなアーティストの作品や、BOME氏、町野変丸氏らの作品が、画廊と書店と喫茶店を一つにしたような施設の中のあちこちに展示してある。これまで、少女忍者(勝手に命名)で知られるMR.氏の作品は、いままでチラとみただけでは、腑に落ちなかったのだけれど、今回はさまざまなレシートがばらばらと貼り付けてあって、それを見た瞬間にオレ的に納得できる何かが降りてきた。というわけで、得心がいった。まあ、納得のキーワードは「パラパラマンガ」であり「余白(あるいは間白)を埋める想像力」だ。
 あとは、昨年の日記でも書いたけれど、タカノ綾さんのブリッジしている人物像の立体があって、それが想像以上に原画のイメージに近くてびっくり。ともあれ、更級日記とフロに入っているヤツはけっこう可愛かったかも。残念なのは、6畳の部屋の壁全部を本棚にする計画(ちょっとオーヴァー)が実行中であるワタシにはその作品を買っても展示するところがないということだ。今月は税金払ったんで、むちゃくちゃお金がないという原因もあるが。それでもタカノ作品は売れまくっていた様子なので、気になる人はチェキ!←お前いくつだ。ハジを知れ。
 そのほか、気になる作品、笑った作品もいくつかあったのだが、金がなくてパンフレットが買えませんでした。しかも、買っても、パンフはマックのFDだからオレの愛機98aileでは読めないのさ。(無念)
 それにしてもMR氏は頭の形がいいですなあ。実にクリリン役にふさわしい。

△ 某所で「ぴょん太」という名前があまりにオタク臭いのでは?という指摘。もともとはワタシの本名にややちなんでいるあだ名をそのまま使ったので、オタク的ではない、といういいわけも可能ではあるのだが、それはさておき、少し前に本名ではないけれどそれに近いような、つまりは口にしても恥ずかしくないような名前に切り替えようとも思ったこともあるのだ。それを実行していないのは、なにはともあれ、面倒くさいし、やはり名前は自分の分身のようなものだから、おいそれとは変えられないというような気持ちもある。知人の話では、どんなに自分の名前が嫌いな人でも、名前を間違えられれば訂正する、という法則?があるという。確かに、そんな話をきけば、赤毛のアンも、別の名前を名乗ることはあっても、同時に本名に対して尋常ではないほどの(アンの行動は概ね尋常ではないのだが)執着を示したなあ、などとも思い出す。アメリカ映画でも、相手をイライラさせ挑発させるときはたいがい、名前を間違えるという方法を使っていた。なんだかそもそもの話題とだいぶずれたような気がするが、まあ、名前は大切に、ということであろう。

○ 「約束された場所で」を読了。感想は明日にでも。


<11月28日・土>
◇ ちょっとグレてるオレ。まあ、たいしたこともないけれど。

○ 「約束された場所で」は、「アンダーグラウンド」よりもスリリングではない。それは、村上春樹自身が迷っていないからだ。
 「アンダーグラウンド」は、不条理についての物語であった。不条理とはつまり、因果関係の輪から外れていることであり、インタビュアーにとって最も基本的な質問の一つである「何故そうなったのか」が封じられているということでもある。素人インタビュアー「村上春樹」は、そういう状況の中でとにもかくにも自分の方法論を探そうと試行錯誤しているように見えた。その結果はさておき、「アンダーグラウンド」が気になる本である一つの理由は、そうした素人故の手つきの不器用さがもたらすある種のスリリングさにあったということは確実にいえる。
 ところが、「約束された場所で」はその手つきに迷いはない。村上春樹は、インタビュアーである以上に物語作者=小説家として、教祖・麻原彰晃の物語に巻き込まれた(参加した)人々に向かい合っている。そこには「麻原の作ったジャンクな物語に対抗できる物語が作り得るのか」という職業意識、あるいはもっと根元的な創作衝動をベースにした内省的な問いが確固としてある。さらにオウム側には不条理というものはない。なんらかの理由、選択があって現在に至っている人ばかりである。だから、こちらの村上春樹には迷いやゆらぎがないのだ。そして、その分、「アンダーグラウンド」の時にあった素人的な危うさ、スリリングさは身を潜めている。
 村上春樹がまえがきに書いたような興味のポイントに肉薄する方法論はある。ただ、彼はそれはそれとばかりに割り切って、「多くの視座を得るための素材」としてインタビューは行われた。この本がその目的を果たしているかどうかはさておき、ただでさえゆらぎが生じようもないような状況でのインタビューは結局は予定調和に過ぎないのではないだろうか。

ううむ。結局、ちょっと書評風になってしまったな。

○ 昼は昨日に続いて表参道。「エロポップクリスマス」のトークショーを覗く。ついでに、本とTシャツ2枚(kokoちゃんとタカノ綾さんのブリッジ)購入。村上氏は何人かのFACTORYの1員を「松本大洋以降」みたいな表現で大枠を説明していたけれど、細かいことをいうならタカノさんは冬野さほさんのファンでは?と邪推をしているぴょん太でした。

△ さらに東京国際フォーラムに移動して、村松正浩監督作品の上映会と安野モヨコさんのトークショー。監督は、「手の話」が「かわいい話」と評されたことがそうとうイヤらしく、なおかつ「シンク」なんかも女の子に人気があるようなオシャレの文脈で語られるのも不本意な様子。会場には男性が多くて、それを喜んだり、「「手の話」は男気の話なのに!」と語ってみたり、なかなか本音が見えておもしろかった。
 まあ個人的には、あれだけセンシティブな話をつくってしまって、なおかつ少女マンガファンでその文脈上に位置づけられるような作品であったら、そのように評価されたりしてもしょうがない部分はあると思う。そのあたりを知人に言わせれば、よしもとよしとも的である、ということになるが、それについてはおおいに同感。どちらも少女漫画の影響下にありつつ、「男気だ!」というあたりは確かに似てる。
 「シンク」のパンフレットの村松×安野2万字対談は読まねば。

○ 軽く食事して帰宅。寝る。  


<11月29日・日>
◇ 寝て起きて「ガサラキ」見て、日記更新などをしてから二度寝しようかと思ったら、「探偵ナイトスクープ」が面白くてずるずる見てしまう。でも、結局3本目のネタで沈没。寝て起きて会社へ。
 久しぶりに見た「ガサラキ」だけれど、相変わらず地味だけど丁寧という感じ。設定は明らかになりつつあるようだけれど、物語が転がる方向がはっきり見えていないようなのが、人気がイマイチな理由ではないだろうか。これもきっと最後のお話の閉じ方で評価の半分が決まりそうな気配。

○ 仕事が忙しいなあと思いつつも、買ったばかりの「宗教学講義 −いったい教授と女生徒の間になにがおこったのか−」(植島啓司、筑摩書房 660円)を一気に読了。デティールは面白かったのだが、全体を通じて何を言いたかったのかがよくわからなくて悩んでいる。オレが大事な何かを読み落としているような気がするのだが。そのほか「トリッパー」「鳩よ」など。

○ 部屋が本で埋まりそうである。大半は読んでいない本(とほほ)。明日はそれらの誘惑に負けず、経費の精算と在宅勤務の予定。


<11月30日・月>
◇ 在宅勤務は比較的順調に推移。メールで闇の仕事などごにょごにょ。BGMは安売りCDの「フィガロの結婚」のハイライト。さすがに録音が悪いが、そのぶん邪魔にならない。結局めんどくさくなって、精算はあとまわし。しかし、ここのところ金遣いがちょっと荒いから、12月下旬にはまた経済危機がやってくるかもかも。来年5月には部屋の契約が切れるので、引っ越す可能性もあるし貯金をしたほうがいいかなあ。しかし、ここでいったん本棚を買うか、引っ越しをするか、難しい選択だ。

○ コンビニで見かけた雑誌「クオーターマガジン」。いちおう対象年齢が25歳だから、クオーターってことらしい。確かに、「BART」リニューアルとかみても、ヤングサラリーマンが買う雑誌というのを新市場として各社狙っている感じがする。しかし、特集「僕たちの常識(コモンセンス)、オヤジたちの非常識(ナンセンス)」というタイトルは、ノーセンスでわ。それにしても、例えばこの雑誌はあきらかに読み応えがないのだが、そもそも雑誌の読み応えって何で決まってるんだろう? 情報の需要と供給の問題だけではなく、やはり加工の段階で「読み応え」が生じているような気がする。食べ物に例えると、腹持ち(あとで人に話しやすい)とか食感(口当たりがいい、刺激的であるetc)ってなところなんであろうか。まあ、オレはこういう現代的なセンスとはほど遠く生きているし。

○ 田中麗奈登場の新幹線CM「こまち増量編」ですが、最後に学生服姿の田中麗奈が見られないことが非常に残念である。あの顔(特に眉)で男装されたら、コロっといっちゃうのに。←何がどう、「コロっ」なのかいってみろ。 

△ 小学館から「ありがとう」(山本直樹、1500円)が大判で再販。やはり買うしかないでしょう。金がなくても。太田出版からでてる作品集もヤツも財布に金がないので、ちゃんと揃えるのは来年になりそう。年内には「ガンダム」もあるしね。ああ、サンタクロースがほんとうにいればなあ。物欲の固まりだ。それに「子どもが子どもだったころ」(毛利子来、橋本治 集英社 1500円)を購入。結局、今日も映画の感想を書こうと思っていたが書けなかった。ううむ

○ 大学時代の後輩から「結婚しました」メール。長い長い春だったけれど、無事ハッピーな新展開というわけですな。おめでとうございます。