98年11月中旬


<11月11日・水>
◇ 都内某所でフリップフラップを見かける。可愛い。あ、そういえばセーラームーンの原作者もみかけたかも。それからミニ池袋みたいなすさんだ街五反田へいって仕事。

○ 「ブレン」最終回。いやあ、よかった。お約束を踏まえつつ、30分でよくすべての物語に決着をつけたものだ。 

△ 「世界」を買う。それから「文春」で菅直人の愛人スキャンダルをチェック。夜はフジでオウムネタのNONFIX。こういう手法もありか(肯定的)。  


<11月12日・木>
◇ 六本木で「たどんとちくわ」の試写会。なんだ市川準らしい映画じゃん、というのが正直な感想。前宣伝でかなり「今度の市川は違う」的に煽っていたけれど、やはり本質はあまり変わらない。確かにカメラワークなどはかなりちがってはいるが、特に「たどん篇」は動いているか動いていないかの差がキレイに今までの市川作品とシンメトリーな関係にある。と、思っていたら作中で役所広司がそれに類することをネタバレしていて納得。「ちくわ篇」の真田広之も、最近の彼のクセになっている芝居を最大限に強調したために逆に、ひりひりした感じがあってよかった。
 会場で、筑紫哲也と草野満代を見かける。

○ 「文藝」を買う。Jマガジン・ネクスト・シーンという雑誌特集と、それに文字コード、藤沢周も特集されておりお買い得感ある1冊。
 でも、「文藝」で取り上げる雑誌って、どっかトガってるようなものでないとだめなのね。まあ、面白い雑誌というのはえてしてそういうものだけど、そういう姿勢だけっていうのはマスを切り捨てている感じがして、ちょっと雑誌シーンの大事な部分を落っことしているような気がする。だいたい、なんで活版の週刊誌を1冊も取り上げないんだ? 「総合誌とテロル」(しかし、なんともBOWDO風タイトルだ)という雑談風対談の冒頭で「雑誌は普段読まないので、比較的有名な総合誌を買ってきました。車内吊りでみたことのあるやつ」といって俎上に乗せられるのがSPA!とAERA(爆笑)。お前ら、電車の車内吊りの何を見てるんだ。
 オレはワナビーなので読んでいる「噂の真相 11月号」の資料で見るとこの2冊の実売は、SPA!が16万部、AERAが24万部。ちなみにこの資料によると、週刊ポストは72万部、週刊文春が68万部、週刊プレイボーイが48万部と圧倒的にここいらへんの雑誌の方が前の2冊より読まれている。こんなのは周知の事実だと思うが、このあたりを知らないフリして前述の2冊をセレクトしてくるあたりの、「オレには関係ないけれど世の中のリーマンとかはこういうの読んでるんでしょ」という感覚が、「オレってインテリだし、リーマン嫌いだし」(まあ、前者は事実でしょう)という、俗を嫌うカルチャー系的嫌らしさがにじみ出ているように感じるのはオレだけだろうか。
 
 ところで、俺的には総合誌ってのは、「世界」とか「中央公論」とか「文芸春秋」とかだと思っていたのだが、ここで総合誌っていうのは「専門誌でない」という意味でもっと広く使っているらしい。あんまり一般的な使い方じゃないと思うのだが。「文藝」的には、これでオールオッケー?


<11月13日・金>
◇ 淀川長治氏、死去。自分が好感を持っていたこういう人が亡くなったときに、ありきたりでない何かを言うのは難しい。ただ、さすがに高齢だったので、黒沢監督の時と同様、こちらの心の準備はしっかり出来ていた。受け手としては、「もっと」と彼に望んで悲しむよりも、手元に残された遺産をいかに継承したり、味わったりするほうが大切であろう。
 知人によると、淀川氏の死は、マガジンハウスの名物編集者である姪と、親しい旧知の男性が看取ったとか。旧知の男性が、古い恋人であったのなら、それはそれで幸せなことであろうと思う。そういう人生も収支決算的には楽しいのであろう。     


<11月14日・土>
◇ 映画を見ようと思っていたが、結局、仕事の下準備のために午後は神保町をウロウロ。夕方、会社に立ち寄り仕事をほんのわずかする。その合間を縫って「クグルーマン教授の経済入門」読了。完全に理解したとはいえないけれど、特に後半、いかにS&Lのモラルハザードが起きたか、とか住商の浜中とかのやっていたことが登場するくだりは、「ああ、そうだったのか」と納得することばかり。折に触れて、必要なところを読みかえす本になりそうである。しかし、三省堂へいったらけっこう平積みになっていたし、ジャンル別売り上げでは1位になっていた。やっぱり、みんな経済のなんたるかを知りたいんでしょうか。

○ 夜は歌舞伎町の「新宿」にて焼き肉。レバ刺しにマッコリ(最近、マイブーム)でいい気分。いい気分ついでに、突然バッティングセンターにいって、かるーく素振り。帰宅して、安ワインをなめつつ録画しておいた「彼氏彼女の事情」。安心して見られるが、この作画の手法がすべて計算尽くだけではなく、スケジュール上の必然でもあったらと思うとゾっとする、けどね。

△ 「石橋貴明、鈴木保奈美 できちゃった再婚」ってのは、なんだかリアリティがない2人だなあ。


<11月15日・日>
◇ なんだか妙に眠くてグーグーグーと、オバケのように寝てしまう。ちょぴっと「メタルギア」を進めてから、会社へ。苦吟難吟であるが、なぜだか「超常現象をなぜ信じるのか」(菊地聡、講談社 860円)は読了してしまう。著者は直接は触れていないが、これを読むとアメリカで、幼児期の虐待や宇宙人の誘拐を「思い出したり」することが、かなり慎重に論じなければいけない対象であることがわかる。この種の報告がかなり怪しいものであることは「カールセーガン 科学と悪霊を語る」でも語っていた。記憶なんてあんまりあてにならない、となると、やはり代用監獄制度下での自供なんてのもかなり怪しいものである、ということなのだろう。

○ 沖縄県知事選挙。大田知事は理念にこだわり過ぎ、と県民が感じたのだろう。そういう意味では、政治的な希望と、経済的な希望という両輪を、絶妙のバランス感覚で選択した、という見方はできる。ただ、これで自民党が勢いづくのはリーズナブルとはいえ、 ちょっとイヤかな、


<11月16日・月>
◇ 明け方帰宅。「ザ・ベビーカー刑事(デカ)」というVシネ(架空)に関連する夢から目が覚めて、とりあえず映画をみに行くことに。新宿で「スライディングドア」と「始皇帝暗殺」を見る。「スライディングドア」はまあまあ。仕事先の人が絶賛してたので見たのだが、まあアイデア賞ってとこでしょうか。しかし、あまりに「妊娠小説」のパターンにはまっていて笑えたぞ。
「始皇帝暗殺」は、わはは。中国人民の人海戦術を駆使した派手なシーンは、実はオレ的好みなので、それが見られただけでもOKという感じ。金を湯水のごとくつかった(と思われる)巨大セットも見所だぜ。チェン・カイコーの演出は骨太で、常に登場人物を正面からしっかりと捉えるあたりは、皮肉抜きで素晴らしいと思う。ただ……おそらく撮影中に膨大になってしまった細かいエピソードを抜いたためか、えらいシーンのつなぎ方が唐突なところがある。また、長くなりすぎた会話のシーンをはしょったせいか、中にはアクションカットのはずがつながっていないように見えるところもあった。試写会が始まった後に、編集をやり直したというウワサが、実感できるようなシーンは多い。

○ 渋谷で焼き鳥。勢い余ってカラオケで大騒ぎ。とりあえず「抱いて、HOLD ON ME!」(モーニング娘。)を練習なぞする。疲れているところにアルコールを入れたから、まわる〜まわる〜よ(以下JASRACを気にして削除)。帰宅して「MASTERキートン」を見ながら轟沈。本当は、なぜ自分がネットで匿名で活動しているかについて書こうと思ったが、思考がまとまらず、まわる〜よまわる〜よ(以下同様)


<11月17日・火>
◇ 飲み過ぎただけではなく、先日のバッティングセンターのせいか朝起きると下半身がバリバリである。どうりで夢見がわるいわけだ。そんな下半身を引きずるように有楽町方面で仕事し会社へ。昨日から移動中のおともはタダで入手した「結晶星団」(小松左京、ハルキ文庫 952円)。 

○ ほんとに1年以上久しぶりに「書棚放浪」を更新。やっぱ書評がいちばんムズカシイですなあ。


<11月18日・水>
◇ 風邪をひいた。しかも久しぶりに熱がある。学生時代はけっこうすぐにバテていたワタシだが、社会人になってから熱を出したのは数回だ。しかも、37度5分を超えた(をいをい、今見たら38度超えてるゼ)というのはほんとうに久しぶりである。昨日から下半身がだるかったのは、筋肉痛ではないんだ。よかったよかった。

○ というわけで、悪夢を見ながら闇のお仕事などを。夕方からは目の上にヌレタオルを乗っけて、NHKを聞く。

○ さて、そんなにしてまで日記を書いてしまったのは、新指導要領についてである。教育の問題点は、学校が社会構造の変化についていってないこと、が原点であるので、カリキュラムをいくらいじっても本質的な問題は変わらない、というのがオレの意見である。

 学校が楽しいところでなくなったのは、ひとえに学校以外で楽しいことが増えたからだ。これを見落として、単なる詰め込みの授業の問題だけに落とし込んでいるところにこそ錯誤がある。以下の文章は、教育面に絞ってのみの話である。

 学校が楽しいというのは、そこが一種の情報センターだったからだ。東京とかに住んでいる人にはわからないかもしれないが、学区に書店のない環境で暮らしている人は結構多いのである。今でもそこそこいるのだから、10年、20年とさかのぼってみれば、学校で得られる情報が最先端であった時代があったことが想像できると思う。そういう時代の学校は、それはそれなりに「楽しい」という機能を果たしていたのである。

 だが、ここ20年あまりの間に、社会の中の情報が飛躍的に増えていくにもかかわらず、情報ステーションとしての学校の機能は強化されなかった。知りたいことは常に学校の外にあるという状況に陥ったのである。一方、その過程で、学校は滅び行く村落共同体の代行者として機能することを過程や地域から求められてきた。この2つが学校がつまらないという言説の本当の背景である。
 
 だから、もし学校教育を再生しようとするのなら、社会において学校がどのような機能を求められているか、という原点に返るしかない。情報センターであるとか、村落共同体の代行者としての機能をすっぱりあきらめて、近代的な市民たりえる基本要素を身につけること。

 ややこしい言い方をしたが、もうちょっと詳しく書くと、読み書きそろばんがきっちり出来て、なおかつ自分で論理的に思考して判断がくだせること(これは端的に言うと、投票行動ができるということだ)、というのがその基本要素になる。
 今回の指導要領に盛り込まれた総合学習でも、ちゃんとした指導が行われれば、 この要素はしっかりクリアできると思う。ただ、個性を伸ばすなどの言葉に現場が惑わされてしまうのなら、もちろんうまくいかないのはいうまでもない。というか、すでに現在の教育現場が基礎基本を軽んじる傾向にあるわけで、このままでいくとうまくいかないのが予想できてしまうのだ。

 個性を伸ばすと裏腹の関係にあるのが、基礎基本の徹底だと思う。例えば、鶴見済氏は、身体の自由な動きであるダンスに対して、決まり切った動きを要求されるものをドリルとまとめて呼び、ドリルが資本主義において従順な体(精神)を創るために機能している、と批判的に語っている。これは一面正しいし、鶴見氏の生き方から考えれば至極全うである。
 だけれど、この2つは決して共存が不可能なものでもないと思う。逆に鶴見氏のように割り切ってしまうと、それはどこかで一生懸命ドリルをやっている人の「生産」を「搾取」(キャー、死ぬほど古い言葉)していることになるのではないだろうか。少なくとも、鶴見氏の意見は、フリーでダンス的に振る舞うことが自らの生産につながっている人にとっては便利だけれど、日本にいっぱいある自動車工場なんかで働いている人を救うことはできないような気がする。むしろ、そういう職業は世の中や会社に縛られ過ぎていてイヤだ、という鶴見氏の個人的な好き嫌いがそこに透けて見えるような気がする。
 もちろんダンス的人物がぐっと増えていけば、それはそれで暮らしやすくなるだろう。でも、そんなことはまずない。でかい一発がこないのと同じで。

 というわけで、ワタシは、ドリルは必要なものだと力説したい。ただそれが、自己目的化しないようにコントロールする必要はある。分かりやすく言えば、例えば必要な漢字を覚えたらそこでドリルは終わりでなければいけない。ワープロが存在する社会で、漢字博士を作るのがドリルの目的ではないのだから。
 あとは自分でダンス的な部分を伸ばせばいいのである。別にドリルをやったからといって、ダンスの要素が個人の中から消えるわけではあるまい。で、それがきっと個性なのである。


<11月19日・木>
○ 昨日の発言に補足。義務教育とは、あくまで市民となるための能力をボトムアップのためにあるものである。

△ ついでに学校教育ネタもう一つ。悪名高い読書感想文について。
読書後に感想をまとめる意義があるのは、意識的に本を読むようになるからだ。とはいうものの、本来それなら感想文である必要はない。内容のメモでもいっこうにかまわないし、感想文でなく本格的な批評であってもかまわない。読書感想文の教育的意義という本質的な問題はさておいて、正しい読書感想文の書き方について考えてみる。

 読書感想文とは何か。これは実は読書「体験」文なのである。つまり、遠足にいったあとに書く作文と同じジャンルのものなのである。これだけわかれば、方法論は自ずと定まる。
 本を手に取るまで、読み始めた時に思ったこと、途中に思ったこと、最後に思ったこと、とおおまかに分けてこんな感じで書かなくてはならないことの要素が決まってくる。この状態でハコ書きしておいて、一番自分の関心がある部分についてだんだん肉付けしていけばらくちんであろう。大切なのは、本のラストを知っているつもりで書いてはいけないこと。ラストへいくまでの道中の紆余曲折でいかに自分の心が揺れたかを書くのが、読書体験文の体験文たる所以である。ここまでが基本。

 となるとわかるように、自分の価値観をゆさぶるような本のほうが読書感想文用として適していることがわかる。それから、同時にありきたりに心が揺さぶられたのでは読んでいるのがつまらない、というのもいえる。読書感想文は、人に提出するものなのだから、ウケをねらうならエンターテインメント性は欠かせない。特に、ありきたりな教訓を導き出してくるなんてことは、ゆめゆめつつしまなければならない。もし、それをやるなら読者にとって相当美味しいエピソードが語り手になければならない。そもそも、本を読んだぐらいで読んだ人間のモラルが変化するなんてことはめったにないのは、読者もよく知っている。だから「体験」文の読者にとって時には意表をつく展開を用意して、単調になりがちな「体験」文に華をそえるのも一興であろう。

○ 眠いのでここまで。


<11月20日・金>
◇ 風邪が直る。なに、これも予定のうち。書店へよると必要なマンガが、オレの財布をねらい打ちしているので、ねらい打ちされてみる。「石神伝説 2」(とりみき、文藝春秋 819円)、「ドウブツマンガ」(しりあがり寿、朝日新聞社 880円)、「我が名はネロ 1」(安彦良和、文藝春秋 848円)、「西遊妖猿伝 5」(諸星大二郎、潮出版社 933円)、「釦」(小野塚カホリ、宝島社 857円)、「学校」(山本直樹、文藝春秋 914円)、「BORN 2 DIE」(井上三太、太田出版 952円)。それから「美術手帖 12月号」(美術出版社、1600円)となぜかキネ旬。

○ 美術手帖はもちろんマンガ特集が目当てだったのだが、うしろのページをペラペラみているとトピックに、村松正浩監督の「シンク」が取り上げられていた。で、じつは今日この映画の試写を偶然にも見てきたのである。「シンク」は東京造形大の卒業制作として監督が制作した映画で、PFF'97のグランプリ。しかも、グランプリ作品がレイトショーとはいえそのまま劇場にかかることになったという、話題性ばっちりの作品なのである。

 作品的には、一種のテレパシーを小道具に3人の生活を淡々と描くというもの。面白いのは、その前年に制作されている「手の話」のほうが短編にもかかわらず比較的ドラマチックなこと。もちろんマンガファンであれば「シンク」がポスト岡崎京子という流れに位置づけてみるのも一興であろう。
 たしか昔、藤原智美氏が「運転士」で芥川賞をとったときに、前作「王を撃て」よりも「運転士」のほうが処女作的雰囲気に溢れていて作者の力量をうかがわせる(詳しく思い出せぬ。すまん)といった寸評が出ていたように記憶しているけれど、村松監督もそれと同様で、物語的な作品よりより自主映画的な雰囲気のする「シンク」が後にきたというのは、監督の引き出しはけっこうある理由だと見たのは俺のかいかぶりだろうか? 

 事実、テレビ東京で深夜に放送した帯ドラマを1本にまとめた新作「梨園怪談」はずばりエンターテインメント路線。といってももちろんアクションがあったり、SFXばりばり、なんてわけではないのだが、オフビートなドラマというものにしっかりなっていて、これまた「シンク」をぱっと見たときに感じるアマチュアリズム的なものとは、こちらもずっと鮮やかな対比になってる。
 個人的には猿岩石扮する警備員が無線で「ほら、ナギナタもってるのはゲルググ。オレが言ってるのはグフなんだよ」というセリフが突然出てきてビックリ。まあ、それ以外にも、映画「異人たちとの夏」と「蒲田行進曲」「釣りバカ日誌」に関するセリフがちょこっと盛り込まれたりして、やっぱり監督のひそかなエンターテインメン系への憧れ?オマージュ?を感じてしまったりする。

 「シンク」はBOX東中野で12月19日からレイトショーだけど、「手の話」と「梨園怪談」は、来週末に東京国際フォーラムで開催されるのPFFスペシャルの中で、28日(土)午後6時半から見ることができる。当日券が1000円で、なおかつハッピーマニアバカ売れ(でも、オレはAmiでやってたやつの単行本を待っている)の安野モヨコ氏との対談もあるっつーから、超お得といえばお得かも。

△ 先日、WOWOWでOAされた「VISITOR」を見ました。感想すごく屈折してますので、あんまり好きな方法ではないけれど、各10点満点ってことで点数式。
脚本 6.5点 最初のSF設定が面白かったけれどオチは???  演出 2点 一番問題がある。特に1カットが不必要に冗長。もし本当に人形劇やるんであればあそこまで劇映画にする必要はない。それがそのままあのもたもたしたムードをつくってる。まあ、もたりの半分は脚本のせいでもあるが。
企画 3点 人形というエクスキューズに対するアイデア賞。減点理由はアイデア倒れだったこと。