98年11月上旬


<11月1日・日>
◇ 急に涼しくなったせいか、体調がイマイチ。いくらでも眠れてしまう。それでも、「ゴーストバスターズ」(高橋源一郎、講談社)は読了。物語のあちこちで切なくなる。ところで、先日からメタルギアソリッドをちょびちょびとやっているのだが、どこが「小島秀夫はゲーム界の高橋源一郎」(こちらの9月11日付日記)なのかは、とりあえず現時点では極めて謎である。これについては、時間があれば詳論したい。 


<11月2日・月>
◇ 帰宅して「マスターキートン」を見る。原作をこわさない、ソツのないつくり。ただ、こうした実写の文法を取り込んだ作品でソツのない作品をつくることが、いかにたいへんなことか、とも思い知らされる作品。特に今回はウエットなエピソードだけに、この間から頭にしこりとなって残る「ビバップ」の評価と合わせて深く混乱する。500円の赤ワインは冷やしてなければ飲めない程度の味。苦みにわずかに交じる、安酒を買ってしまった後悔。だが、酩酊。


<11月3日・火>
◇ 新宿で「ブギーナイツ」を見る。濃厚な時間を過ごせたことに感謝。アップと、カメラが移動しまくる長回しの組み合わせがちょっとトリップ感も味合わせてくれる。そして、まるで「キッズリターン」のような、1パーセントの希望の裏側に99パーセントの現実を忍ばせたラストシーン。やや長尺の映画で、展開も比較的地味だけど切れることのないBGMが、目先を変えて楽しませてくれる。(一度だけ印象的に音楽はとぎれるんだけれど)。

○ 「FLAGS」をコラシメにいって冬のラインナップをちょっとだけ考える。その後、ルミネの「ABC」でいい気持ち。「マンガ学」(スコット・マクラウド、美術出版社 2000円)、「存在論的、郵便的」(東浩紀、新潮社 2000円)などを購入。「存在論…」は、やっぱりムズカシイでごわす。

○ 高橋源一郎と小島秀夫について手短に書く。最近日記の更新が疎かな一つの理由は、文体とか語り口(ナラティヴってヤツですね)をそれに合わせていろいろやろうと思うからだ、ということもある(かもしれない)。なんでポイントだけ。

・ 「メタルギア ソリッド」のメタな表現とは、「アクションボタンを押せ」的な、作中の人物が作品(ゲーム)のルールについて言及するからである。そのメディアを支えている「いわない約束」を「言う」というのが、メタな表現の基本ではある。

・高橋源一郎は、小説について考えている人である。彼の小説観の一つに小説の要素に、その小説の法則(ルール)を探すというものがある。彼の作品は、それに忠実な小説を描くことという要素を小説に取り込んだ小説ではある。そう、高橋作品はルールを暗示しつつ、探しているのだ。逆に言えば、メタ的にルールの約束事をを取り込んでいるということはない。高橋作品は、小説の約束事(そもそも現代詩の影響の強い純文学系にそんなものがあるのか?)をとりたてて問題にはしていない。問題にしているのは、小説のスタイルそのものであろう。その姿勢はメタといえないこともないが、作品はメタではないのは、前述なとおり。

・とはいうものの、小説(というかそれを支える形式)に約束事もないわけではない。例えば、日本語を使っていること、縦書き(厳密にいうと、読者がタテに行を追い、右から左へと読むこと)などだ。では、どこまで高橋作品はそちらがわへアプローチしたのだろうか?(蛇足・反語ね)
    
・こうやってあげると、「小島秀夫はゲーム界の高橋源一郎」というフレーズが、俺的には極めて奇妙な感じがするのである。「メタルギア」がアクションゲームを中心とするゲームにそれほど、批評的なスタンスを作っているともこれは思えないし。(つまらないという意味ではないです)。

・これはほんとに個人的な高橋作品の解釈と、メタルギアのファーストインプレッションに基づくものだ。
もし、ちゃんとメタルギア、あるいは小島作品をやり込んでいる方が「このとおり作品に対する姿勢が高橋源一郎的だ」とおっしゃるななら、反論できないかも知れない。

・少なくとも自信を持って言えるのは、「高橋源一郎は、小説について自覚的ではあるが、決してメタな手法を多用する作家ではない」ということ。「ペンギン村」や「サザエわーるど」を活用していても、あれは「小説」の枠内を意図的に出ようとはしていないでしょう?

○ 異論反論オブジェクション待ってまーす。いやマジで。  


<11月4日・水>
◇ こちらの日記に記述された「ムーラン」評を拝見した。その批判的内容についてはおっしゃるとおり、なんであるが、同時にやはり「何故、オレはムーランが好きなのだ」という問いかけをしてしまう。で、これがやはり「好き」なんだなあ。好みの問題ももちろんあるのだけど、それとは違う観点からも、もっとほめらるチャーミングな映画だと思っている。手短にいうと、「ムーランってチャーミングな娘である」ということをあの映画は非常に上手く描いていると思う。テーマ主義なんてクソくらえ(苦笑・いつものお前の立場と違うだろ)で、「多くの物語は人物の魅力を描くだけに物語を用意している」ということから考えれば、やはり「ムーラン」は俺的には面白かったのだ。 え、つり目がいやだって? それはやっぱり好みの差ってヤツですね。オレは、「ムーラン」を彼女にしてもいいぐらい好きだけど、あんまりアジア人的ステロタイプキャラとは思えなかったんですよ。顔の個性、ぐらいの感覚で。

 ちなみに個人的に疑問に思うのは、首都と雪山の距離感がけっこういい加減にみえたところ。


<11月5日・木>
◇ 仕事。昨晩、夜更かししたためにちょっと眠いかも。

○ 安達哲の「さくらの唄」にこんな回想シーンが出てくる。幼稚園児だった主人公が、神経を使って丁寧に砂の城を造っている。そこに、繊細さのかけらもない「体育のできるヤツ」が現れて、その城を勝手に共作にしようとしてしまい、奇怪な基地に作り替えてしまう。主人公は、ここに世の中のルールの象徴を見るわけなのだけれど、彼に共感する人は結構多いのではないだろうか。
 
 これは、世の中には、世の中をちゃんとさせようとしている人と、そうでない人がいる、という発想だ。この2つは別に直接ぶつかり合って争っているわけではなく、どちらかというと、陰と陽というか、足してみてどちらかが多いかで、世界の進む方向が決まっている、そんなイメージで捉えられる世界観というのも、それなりにリアリティがある。ボクがこれに一番似ていると思うのは、共産党の「今はさまざまな障害があるために不完全な社会であるが、それを取り除けば完全な社会がありえる」という進歩史観であるけれども、別にこの種類の発想は、共産党だけにかぎったことではない。会社の仕事や、学校の活動のなかでも実感できると思っている人は多いだろう。

 もちろん、その時にはそう思っている自分も誰かから見たら、なにかの邪魔者になっているということを忘れてはいけない。つまりこの世の中はバカばかり、なのである。つまり、常に自分を含めた大衆は目先の欲望に騙されやすくよぶんな自我ばかりをぶら下げていて、世の中はある意味で常に「よくない方向」へ動いている、というのが世の中の基本の姿なのだ。まあ、ちょっとばかしおおげさにいえば「滅びは既に我々の一部分である」((c)原作版ナウシカ)というのとほぼ同じレベルで、我々は非常におろかなのである。

 だから、匿名でネット活動している人がボクから見るとくだらないようなことを書き散らかしていても、うっとうしいとは思っても、まあオレもあの程度なんだと思って反省してしまう。人間なんてそんなに賢くないんだから、原発だろうがなんだろうが電気があればばんばん使うし、便利になればどんどん怠けるし、エゴを拡大する装置があればそこで一人でハナタカダカになってしまうものである。
 そういうバカをボクはとがめない。教育したり、諭したり、なだめたり、すかしたり、そんなことをするのは無駄なのだ。バカはバカのままである。自分の胸に手を当ててみればわかるはずである。まあ、バカはイヤだという声が響いてくるかも知れないが、それが既にバカの証なのである。

 それでも、ごくマレにちゃんとしたことを考え実行している人がいることもある。そういう時は、ボクはただただ感動するばかりである。そういうの奇蹟であるとすら思う。だから、奇蹟は奇蹟なのであって、それを普遍化することはできない。  


<11月6日・金>
◇ 仕事をあわてて片づけて新宿へ。そのまま朝7時まで。ビール→ウイスキー(ボクとしては珍しい)→マッコリ。マッコリはここんところ密かなマイブームである。会話の話題は、ひたすらマンガばなし。マンガ家安彦良和についてめずらしく語る機会があった。また、「アニメの見方」と「マンガハンドブック」(記者ハンドブック(←こういうものが世の中にはあるらしい)のマンガ編集者版)なんて本があったらいいね、という相手の方の発言に深くうなずく。

○ 同時に、マンガの初出表記ががかなり未整備な状況で、テキスト批評を行えるような基礎データが揃っていない、ということを憂える。例えば、意欲的な講談社の手塚治虫全集において、どの作品がどのような状態で発表されたかという記述はないという。おまけに、全集収録にあたって加筆しまくりだし。そういう点では「章太郎WORLD」の「サイボーグ009」はある種完璧に近いかもしれない。まあ、あそこまで全ての本がやれとは思わないが、せめて初出一覧か底本にした本、それに加筆の有無ぐらいはフォローして欲しいですねえ。


<11月7日・土>
◇ 部屋の掃除。ビデオを借りてきて見る。「友子の場合」は、監督が今をときめく本広克行氏。短編で、イキオイだけで押す、ドラマのような映画だけど、まだ可愛かった頃の名残がある(ベストはやはり金田一ドラマのころでしょう)ともさかりえを見ているだけで楽しいのは事実。「バカだなあ」とかいいながら、ツラツラ見る。

○ 2本目のビデオ。「はじめ人間ギャートルズ」の特撮版という貴重な映画、とかってボケをかましながら解説しようかとも思ったけれど、そういう手法は既に出尽くしているので辞めておこう。みんながみんな突っ込むことが当たり前な作品に、ツッコミを入れながら見ても、それをわざわざ日記に書くことはないと思う。だって、それは人が決めた遊び場で遊んでるに過ぎないから。そんな人間が忘れてはイケナイのは、「そこで遊ぶと面白い」と最初に気が付いた人間が一番創造性を発揮しているという点である。あとから、その遊び場で遊んでいるのはそれよりも(創造性については)オチるのは間違いないわけで、そこを勘違いしないような人間になりたい。

△ 徹頭徹尾、無邪気な映画だ。登場人物のことではない。この企画そのものが、すでに無邪気な無謀さの産物である。この映画の製作者はいったい何を信じていたのだろうか? 無邪気に何かを信じていたのならまだ救いはあったのかもしれない。だが、ハダカの付き合いから生まれる異種族間の信頼を信じていたとも思えない。おそらく製作者は、無邪気に何も信じないと言うことを実行していたのだ。物語を信じず、さらに会社を信じず、結果、その映画を信じない。だから、映画は梶のない船のようにただひたすらと物語の入り口あたりをウロウロするばかり。この映画は誰にも愛されずに育ってしまった、迷子なのである。


<11月8日・日>
◇ 仕事で会社に行ったのに、ソファで寝てしまうありさま。それでもなんとかいつもよりも早く終了。

○ 「ゆで卵」(辺見庸、角川書店 476円)読了。表題作は、ちょっと、卵を小道具としたイメージの連想が寓話的すぎてハナにつかないでもないが、時折差し込まれる「匂い」のリアリティがその寓話さを現実にちゃんと着地させている。おもしろい。はっきりとしたストーリーがないような短編もあるが、どれもがそのタイトルとなった「食べ物」の影に潜んでいるイメージを引きずりだしてくる、ある種の迫力がある。

△ 「マンガ学」(スコット・マクラウド 岡田斗司夫監訳、美術出版社 2000円)読了。日本の漫画研究の名著では取り扱っていなかった、マンガの外の部分から論をはじめた点によりそれらの名著と肩を並べるほどの傑作となっている。特に詳細な背景と簡略化された人物の効果、マンガにおけるカッティング(コマ割り)の意味などの指摘は、それだけで一つの論文足り得るほどの示唆がある。


<11月9日・月>
◇ 本来休みなのに仕事。その後、映画に行こうかな、とも思いつつ、池袋でデファクトで買っているアニメ雑誌などを買うとあっと言う間に、お金がなくなる。それ以外に「もののけ姫の秘密」(久慈力、批評社 1800円)、「文学はなぜマンガに負けたか!?」(青幻社、1200円)などを購入。「文学は……」は、ちらと斜め読みをするとアイデア倒れ、というムードがあるような。負けたか、というタイトルに縛られ過ぎでそのぶん全体像を把握するのが難しくなっている。

○ 「クグルーマン教授の経済入門」(ポール・クグルーマン 山形浩生訳、メディアワークス・主婦の友社 2200円)を読み始める。分かりやすい、といっても経済音痴のワタシ(←いいのか?)は「人に説明できるほど」には理解していない。でも、普通の翻訳で出ていたら、そこにすら至らなかったであろうコトを考えると、やはりスゴイ訳でしょう。訳だけでなく内容も、経済を見るには何の数字を抑えればいいのか、あらゆる経済的な数字の根っこの数字は何か、という原点と、そこに立脚した論理の展開は非常に把握しやすいもので、名著である。

○ 夜は「詩集 1999」(田村隆一、集英社 2800円)をつらつらとめくって、メールに引用する言葉を探す。「馬車は走る」(沢木耕太郎、 466円)では、三浦和義氏の稿だけ読む。今回の再収監を見て、沢木氏はどう思うのだろうか。やはり、だまり続けて欲しいとどこかで願っているのだろうか。家田荘子の本を読めば、きっとスタンスの差などがみえて面白いかもしれない。


<11月10日・火>
◇ ここ2カ月ぐらい更新ペースが乱れまくっているのだが、あまり気にしないようにしている。基本的に日記を書く時間がないとは思うけれど、書きたくない、とは思っていないので、できるだけ長く続けるためには、義務感にならないように適度に休みを入れながらやっていくほうがベターかとも思っている。
 むしろ書かなければと、義務を感じているのは映画や本の感想だ。日記以上に趣味的な文章練習の場だと思っていたのだけれど、なかなかそれに集中できる時間がないのが残念ではある。

○ 「GAZO」購入。気になる記事がけっこう多い。氷川氏のアニメ論は、俺的ツボにばっちり入った。渋谷で人と会って帰宅。眠い。