98年10月中旬


<10月11日・日>
◇ 立ち見はいやだったので用意周到に準備して新宿に「プライベート・ライアン」を見に行く。もちろん、見に行くつもりの作品ではあったのだが、先日の学会でこちらの方に「大画面で見たほうがいい作品」とうかがったことで、優先順位がググっと上がって、今日足を運ぶことにした。

○ 音がいい。特に、誰もが絶句する冒頭のオハマビーチのシーンは、爆発の重低音から、甲高い弾丸が風をきる音まで、音が「あの場所、時間」を再現するのに大きな役割を果たしている。画面の迫力ももちろんあるのだが、果たしてレンタルビデオでここまで音が再現できるのだろうか? これを追体験するには少なくともLDかDVDで、ホームシアターセットがなければだめでしょう。
 また、2時間50分の映画だけれど、予想以上にダレなかった。確かにエピソードの量は少ないからもっとコンパクトにできる内容ではあったと思うけれど、逆にどのシーンもこれといって長いとは感じなかったので、その点は不問に処す。
 トム・ハンクスはこれで、WWIIもベトナムも制覇したので、次は湾岸戦争か? ジェームス・スチュワートの後継者のように見えるのはオレだけかしらん。

△ で、肝心の内容ですが、知人の知人から「墓場始まり、墓場終わり」と聞いていたけれど、その通りでその点はまるで「8.15記念ドラマ」(笑い)みたいだなと思った次第。ネタバレにならないように、感想のキーワードだけ書いておくと、「わずかな良心を追い求めながら、その裏側でニヒリズムへ接近している。でもそのニヒリズムは突き詰められることなく一般的な人生論へと回収されてしまう」「ライアン2等兵がモービーディックで、ミラー大尉はエイハブ、するとイシュメールはアパム伍長か」といったところ。
 ともかく、劇場で見る価値のある映画。ただ、手慣れすぎていて、監督の葛藤が見えない映画ではある。その点では「シンドラー」のほうが、葛藤とかチャレンジが見えたかな。(「アミスタッド」は未見)
 それから、上映中に3人も携帯電話をならしやがったので、そいつらは俺的に心の中で処刑。 

△ 映画館でのCMを見て思うこと。知人曰く「(歌舞伎町の深夜スーパー)エニイのCMに出てくる娘は何故、深夜にバナナを買うのだ?」。また「金曜日の朝は映画がオシャレ」という、入場割引の宣伝コピーをなんとかしてほしい」。これも松竹の松竹カードのCM(カードを持っている課長がOL2人からモテまくる巫山戯た内容)に比べればまだマシだが。

○ 遅い昼食を食べて午後3時過ぎには、会社にいって仕事。


<10月12日・月>
◇ 夕べは会社から帰宅して、へべれけーになって寝た。今日は本来なら休みだが、打ち合わせがあるために会社へ出かける。打ち合わせは不調で明日に持ち越し。

○ 書き忘れたこと。「プライベート・ライアン」中で、スピルバーグ風の刻印としてディズニーの「蒸気船ウイリー」がありました。


<10月13日・火>
◇ 「夏のロケット」(川端裕人、文藝春秋社 1762円)を会社への往復を利用して読了。新聞記者の雰囲気がけっこうこの種の小説にしてはリアルだなと思ったら、作者は元日テレの記者だった。俺的にはかなり好感を持った小説だった。正直、もっと登場人物の人間関係を書き込んだ方がいいのかな、と思わないでもないのだけれど、作品の全体のバランスを改めて考えてみると、これぐらいでいいのではないか、とも思えてくる。中盤ダレるところも、世界観の奥行きとかリアリティの保証とかを考えると、あながち無駄とも言えないし。理想をいえば、もっと小道具をうまく使ってテーマを浮き彫りにするとかすれば、作品のイメージに深みがでたと思う。イササカ、小説が唯物的すぎるんだなあ。
 でも、この小説のウソのつきかたは結構巧妙で、ウソつけとも思うんだけれど、自分の頭の中に浮かぶビジュアルがアニメ・マンガ風ではなくて実写だった、というのはやはりそれなりのリアリティがあったということだと思う。
 ところで、これはSFなんでしょうか? 俺的には冒頭のシーンもあるからぎりぎりSFかな。空想のない科学小説という感じ。とりあえず読んだ人の感想が知りたい。そのためにもあまり内容には触れませんでした。

○ 「ゲッターロボ大全」(岩佐陽一編、双葉社 1200円)。大全の名に恥じない、さまざまな資料を網羅した労作。ただ、インタビューが短くて読み応えがないのがツラい。オレは、製作者インタビューの類がいちばん好きなので、その点は減点。しかし、取材時間がどれぐらいだったのだろうか?
 まあ、このテのインタビューは枝葉末節にこだわることがメーンになるから、時間がなければあんな感じになってしまうのかなあ。たとえ、30分の取材時間でも、もうちょっとやりようはあったと思うのだが。

△ 「大林宣彦ワールド 時を超えた少女たち」(近代映画社、2500円)を先日衝動買い。夜つらつら読んでいると、大林監督の変態ぶりが胸に迫ってくる。大林作品はかなりの率でフォローしているつもりだったが、最近は少し打率が下がっているなあ。しかし、スチールみているだけで泣ける映画もある。


<10月14日・水>
◇ 仕事の都合で寄った、神田の三省堂で本を8000円ほど買ってしまう。書名をあげるだけでも面倒だ。とりあえず「別冊世界 書評の森'97→'98 この本を読もう!」(「世界」編集部編 1000円)を斜め読み。冒頭の保坂和志のインタビューは非常に示唆に富んでいて刺激的、また、「科学の終焉」を」論じた池内了は、同書の一部に賛成しつつ、その論の閉鎖的な部分をずばりと指摘していて見事。とくにラストは鮮やかに結論を述べていて爽快だ。あとは、まあ普通というか、オレにはあまり興味のない本が多かったので、実用度は低かったです。

○ 三省堂の1階で、中古LDなどの販売をやっていたため、つい魔が差して長年の懸念であった「銀河鉄道999 ギャラクシーボックス」を1万円で買ってしまう。さっそく夜帰宅してから見るのだが、ううむ、ニューマスターなのに発色がいまいち暗いのは何故だ? とはいうものの、セリフ、BGMといったところをほとんどそらで覚えているほどの懐かしい作品なので、シンクロ率400パーセントで見る。だから書きかけのムーラン評に手が着かなくなる。  

△ 晩飯は、昨日につづいて近所のラーメン店。ニンニクをオラオラオラと入れまくり、発酵性高熱源飲料をグララアガア(←なんつーたとえだ)と流し込む。帰宅。
 ううむ、森山さんはやはり「夏のロケット」辛口派か、それも当然だけど。


<10月15日・木>
◇ 昨日勢いで買った「文学なんかこわくない」(高橋源一郎、朝日新聞社 1400円)をイキオイのママに読んでしまう。いくつかは掲載誌「小説トリッパー」で読んでいたが、やはりうならされるし、なんといっても読者を自分のペースに持ち込むだけの芸が素晴らしい。同書には全部で10の評論?が収録されている。作者の芸(テクニック)を堪能したければ、ウイルスという比喩(?)の使い方が秀逸な「(こんな作家でも)生きていていいですか」がオススメだし、小説を読む時どこに注意すべきか、ポイントが知りたければ「文学探偵タカハシさん 『失楽園』殺人事件の謎を解く」がとても参考になるに違いない。なんといっても、「殺人事件の謎」だけに、ひねりの効いたオチがついているところには、うならされる。(そしてそれがちゃんと皮肉になっているところにも)。また、日記についての言及もあり、WEB日記を書いている身として考えさせられた。

 これを読んだ感想。1、「日本という悪い場所」というのはみんなが感じていることなんだなあ、と思いました。2、「敗戦後論」と「日本語の外へ」はやっぱり読まなくてはいけないんだなあ、と思いました。3、この文章には語り手である「タカハシ」さんがいるけれど、メタフィクションとは呼べないなあ、と思いました。

○ というわけで、浜松町の「ブックストア dan」で、高橋源一郎の本を探すが1冊、「虹の彼方に」しかない。しかも、店内の本のほとんどを網羅しているという、検索機で調べても、その本はヒットしなかった……。これまでは「ペンギン村に陽は落ちて」と「優雅で華麗な日本式野球」しか読んだことがない。まずはそれ以前の作品を揃えて(笑い)、今後ゆっくり読んでみよう。(ツンドクがまた増える……)

△ そのほか「コミック・ファン」(雑草社、600円)、両国花錦闘士2(岡野玲子、スコラ 590円)。そうか、ついに「メディックス」が単行本になるのか……。西村しのぶを読むと、お父さんの胸には、甘酸っぱくなるような、ほの寂しいようなものが、ぐぐっと胸にこみ上げてくるのでした。では、そのこみ上げてきたモノは一体何なのか? それは明日のココロだー(小沢昭一風、ウソ)。


<10月16日・金>
◇ ちょっと前に読んだ畑中アニィ((c)ヤングチャンピオン)の名セリフ「普段はツマらない映画を無理して褒めているが、今回は本気でほめる」(大意)。きっと、扱う映画を編集部で勝手に決められているので、レビュアーとしてフラストレーションがたまるのだろう。それでも毎回、ほめるポイントをきっちり見つけているのは見事。覚え書きとして書いておく。

○ 理解できることと理解できないこと。なんて、大げさな書き出しだけれど、別にテツガクしようってわけじゃない。ただ、一般論として、世の中はのいくつかのことは理解できることから理解できないことへ進んでいっているような気がするのだが、どうだろうか。正確に言うと、理解できないではなくて、理解できる人が少ない方向へ、ということなのだが。
 例えば、芸術だって写実から抽象へ、それからもっとわかりにくいサンプリング&カットアップに。クラシック(というか純音楽?)だって、途中から音階を無視した方向へ発展するわけだ。小説だって、物語を捨てていく過程が、小説の進化といえないこともない。これはどちらも表現の可能性を追求していくためのプロセスで、それにともなって一般大衆をどんどん振り切って、マッハや光速に迫っているからなわけなのだ。だから、マッハや光速であることが当たり前になった時代に、メロディアスな音楽とか物語性の強い小説なんかが登場すると、時代遅れ、あるいは「新古典主義」のような呼び方をされるわけである。

 なんで、こんな話をしはじめたかというと、和歌山県の例の保険金詐欺事件について考えたからなのである。
 ちょっと前まで、人々が熱狂していたのは分からない事件というのがトレンドだった。代表的なところでいえばオウム、酒鬼薔薇。どちらも、その理由をさぐれば探るほど、暗い闇の中に足を踏み込むようで、それが逆に多くの人の議論を呼んで、まるでウイルスに感染するようにその事件の謎は広がっていった。これは、正解というのがないから、一度感染すると、なかなか治癒するのが難しかったりもした。別に現実の事件だけではなく、サイコスリラーっていうジャンルも、狂気という「分からないモノ」を物語の材料にしているわけで、犯罪者の動機不明確さなんかが「現代的である」なんて視点で論じられるわけである。

 ところが、今回の和歌山県のヒ素を使った保険金詐欺の分かりやすさはなんということだろうか。ここ数年、抽象度を高め人々を混乱させてきた犯罪シーン(そんなものがあるかどうか知らないが)においては、画期的であるほどの動機の分かりやすさだ。これは、別に真実がどうであったか問題ではない。さまざまな報道の事実を視聴者や読者がどのように物語化し、合理化して納得しているかということについてである。その視点でみれば、動機は「カネ」なのだ。楽してカネを得るために毒を盛ったなんて、あまりに古典的過ぎる動機ではないか。その動機の周辺を彩る、愛人、妊娠なんてガジェットも飛び出してきて、あらすじだけでみたらさながら週刊新潮の「黒い報告書」の世界そのものだ。「毒婦」なんて古風なフレーズが登場するのも、この犯罪が古風であることの証だろう。

 そして、古典的な犯罪だからこそ、多くの人は安心してその熱狂に身をまかせることができるのだ。
 これは、少し前の抽象度の高い犯罪とはまた違った熱狂である。以前の、抽象度の高い犯罪は、犯罪者/観衆という仕切をじわじわと浸食して、われわれの側の生活を脅かしてくるような、混乱させるような要素があった。そういう意味では、われわれはその事件の前では、観衆ではいられない。そこには、事件そのものが持つ特別性と、その事件を生んだ我々の社会の側の問題である一般性が、複雑に入り交じり、我々も事件のどこかに自分という登場人物を探してしまっていた。

 ところが、和歌山ヒ素保険金詐欺事件はそういうことはない。彼らを「悪人」であるがゆえに「悪事」に手を染めたという目で捉えている限り、我々の日常を脅かすことはない。彼らと、観客であるわれわらの間には、はっきりとした壁がある。この壁は頑丈なので、久々に安心して付き合える犯罪の登場に、多くの人が熱狂しないわけがないのだ。また、死者や被害者の数が少ないのも、気軽な気持ちで熱狂しやすい理由だろう。もちろん、命の重み、人権を軽視するわけではないが、オウム、酒鬼薔薇といった事件の死者が持っていたヘヴィーな状況と比べると、個人的に身内で事件を語るにしても「被害者の心情」をそれほど気にしなくてもいいのも無視できない。AERAの「カレーやないで……」という、フレーズはこのお気楽な状況をはからずも反映した結果だったのだろう。

 ことほどさように、抽象化の果てに袋小路に陥っていた犯罪の観客にとって、こんどの犯罪は「誰もが口ずさめるキャッチーな歌謡曲」だったのである。     


<10月17日・土>
○ 「相続人」を見に行く。ジョン・グリシャムのオリジナルシナリオ、ロバート・アルトマン監督ということで、かなり期待していたのだが、アルトマンらしい「ずらし」がみられず不発。そもそも、お話もあまり面白くないんだよな。ダサめの女弁護士ダリル・ハンナは、ちょっとマニアックな色気があったかも。

○ 「虹の彼方に」(高橋源一郎、新潮社)を読了。うーん、高橋源一郎の小説はやっぱりムズカシイ。一度、誰かに戦略的な読み方を教えてもらわないと、読みこなせないかもしれない。 

◇ ここ1カ月ぐらい忙しかったせいもあって、外で人と飲むことはなかったのだが、今日は久しぶりに新宿で飲み会。3軒をはしごして、ビール→日本酒→ワイン→マッコリというコース。午後8時から午前4時まで飲む。いやあ、ひさびさにくだらないことを言いながら飲んだなあ。楽しかったです。


<10月18日・日>
◇ 最近更新が滞りがちなのは、仕事が安定して時間ができた分、読書と映画に時間を割いているからである。日記はちょくちょく書いているのだが、文章の途中で保留(16日分とか)したりしているせいもあって、FTPをなかなかしていないことが多いのである。

○ 「妊娠小説」(斎藤美奈子、筑摩書房 680円)を読了。うわさに違わぬおもしろさ。この間の「文学なんかこわくない」と合わせて、おもわず自分でも小説について深く考えたくなってしまう。
 そんなわけで、赤鉛筆片手にもういちど「イノセントワールド」を読み始めている。これもリッパな妊娠小説だる。ラインを引きながら読むと、見落としていた暗喩に気づくことが多くて、そうか、小説はもっと丁寧によまなくっちゃ、と反省なんぞしてみたりする。


<10月19日・月>
◇ 目が覚めてテレビをつけるとTBS奥様劇場(なんなんだ、このタイトル)で「不機嫌な果実」の最終回をやっていた。つ、つまらん。これはひどすぎるぞい。<ガキオヤジ風

○ 新宿に出かけて、「カンゾー先生」。ボクは今村昌平作品はほとんどフォローしていないのだが、前作「うなぎ」は非常に好きな映画のうちの一つ。今回は戦時中だからなのか、性と生と死のコテコテぶりはちょっと控えめ。それでも、普通の映画に比べたらかなりコテコテだとは思うけど。小沢昭一が友情出演で出ていて、ちょっと嬉しい。劇場で原作を買って読んだが、案の定、物語の骨格以外は全然違っていた。

△ そのまま同じ東映の劇場のパラス2で「がんばっていきまっしょい」を見る。前評判通りの佳作。
  ボクは、素人に近い役者さんの下手さをうまく映画のなかで「リアル」に置換できる監督は上手いと思うのだが、磯村一路監督もまさにその一人だった。高校生役のキャストがボソボソしゃべるのが、リアルな雰囲気を盛り上げていた。また、メーンの5人の人物のさばきかた(誰がしゃべって、誰が黙るか、など)も見事で、特に5人の細かい芝居には何度か感心した。画面がダレそうなところで、滑ったコロンだといった「アクション」が入るのもささやかなアクセントとして効いていた。

 つまり、この映画はドキュメンタリーなのだ。この、映画の説得力は、下手なボートが上手くなっていく、かけ声がだんだんサマになっていくその過程にほとんど寄っている。そして、その下手さを裏付けるような、まだ子供っぽさを強く漂わせた5人のたたずまいが少しずつ変化して、ボートを漕ぐ体から発せられる力感が感じられるようになる、その(本当の?)変化こそが映画を本物に見せているのだ。何も起きない物語だが、それでもついつい見てしまうのは、その変化こそが魅力的だからである。

・批評する場合のアイデア。1、「青春デンデケデケデケ」との比較。2、物語が回想から始まるが回想で終わらないことの効果。3、レースシーンの視点が特徴的であること

 少し苦言を呈すると、スローモーションが邪魔に感じたのが2カ所。最初のジャンプと、貧血で倒れる瞬間。どちらも、そこまで「説明」する必要はないはず。特に、貧血で倒れるシーンは、ロングのままパタって倒れた方がよかったのでは? こうした冗長なところが監督の持ち味なのかもしれないが、それがこの映画の切れ味を削いでいるところはあると思う。

 ともかく見ていない人は、2本とも見るべし。

◇ ワタシは、人の顔を覚えるのが苦手で、さらに細かく言うと若い娘の顔を覚えるのが苦手です。CM美少女なんてのも、CMは覚えていても、顔なんてみんな同じに見えてます。「CMNOW」とか読んでもぜんぜん若い娘の顔は覚えられません。ということを「定本アイドル系譜学」(メディアワークス・主婦の友社、1400円)を読みながら思ったのでした。 

◇ 「妊娠小説」の問題点。アクロイド殺人事件の犯人をネタバレしているところ(爆笑)。


<10月20日・火>
◇ 「さようなら ギャングたち」(高橋源一郎、講談社)読了。こちらは「虹の彼方へ」よりも面白かった。

◇ 新宿で飲み会。前半からけっこうトバし気味だったかも。1次会は乳と性欲の話で盛り上がる。2次会はやっぱりアニメの話かなあ(苦笑)。アニメネタが多かった分、土曜日より暴走度はアップしていたかも(再苦笑)。それでも「この間のブレンはやっぱり泣くでしょう」と同調して下さる方がいて、一安心。関係した皆様方、どうもお疲れさまでした。楽しかったです。