98年9月下旬


<9月21日・月>
◇ なんだか眠れなくって、本を読みまくる。「知の編集工学」「宮本武蔵 一」を読了。

○ 国民作家という言葉がある。今はもうリアリティを持っていない言葉だと思う。まさか、渡辺淳一@「失楽園」がそうだ、なんていう人はいないだろう? 今の日本は、ベストセラー作家はいても国民作家はいない。子供から大人まで口ずさめる「歌謡曲」がなくなったかわりに、誰も知らないミリオンヒットが生まれているのと、全く同じ状況だ。そういう点から考えればずいぶん成熟した国だっていうこともできるだろう。つまり、よく資本家(この単語も「国民作家」並に古い!)がよくいう「好みの多様化とそれにともなう選択肢の増大」っていうことだ。

 今回は別に、日本の社会についてああだこうだ考えようなんてことじゃない。実は「吉川英治」のそれも「宮本武蔵」について考えてみよう、というつもりなのだ。 吉川英治となれば、これはもう「国民作家」とイコールで結べる存在。それに今でも、(ゲームの影響で)ちょっと歴史に興味を持った男の子なら、彼の筆による「三国志」「私本太平記」に手を出していてもおかしくないぐらいのポジションにいる−−そういう意味ではいまもって「国民作家」と呼ぼうと思えばそれもできそうな−−作家である。こんな作家はそうそういないだろう。

 なんでこんなことを書き始めたかというと、ワタシも遅ればせながら「宮本武蔵」に手を出したのだからなのであった。中学時代に、「新平家物語」に手を出して、途中で挫折して以来の吉川作品である。登場人物の描写が古くさくて感情移入できないんではないか、などの不安を背景に、多少の気負いがあったのは事実だ。だって、なにしろ国民作家だもの。

 で、読み始めてわかったのだが、「宮本武蔵」はマンガだったのだ! それもとびきり正統派の少年マンガ。キャラクターを各人のモノローグに頼らず、エピソードでグイグイと描いていく。また、そのエピソードの配列もみごとに工夫してあるのだ。例えば−−武蔵が、ある剣の達人のすごさに気づくシーン。
 1、ぼんくら侍に、達人から芍薬の花と手紙が送られてくる。ぼんくら侍は、そこの意味に何も気づかない。
 2、その花が偶然、武蔵に手渡されることになる。武蔵は、そのクキをみるや否や、自らもクキを切ってみて、その切り口が明らかに違うことに気づく。
 3、達人の門弟は、武蔵が切った切り口と、達人が切った切り口を並べてみても区別がつかない。
武蔵と達人がいわゆる「マッハの闘い」をやっていることが、このエピソードの順番だとだんだん明らかに
なり、その度に読者は「武蔵はすげえ!」とうならせるようになっている。この種の、テクニックが全編(といってもおいらが読んでいるのはまだ2巻だが)にちりばめられているのだから、つまらないわけがないのだ。このほか、脇のキャラクターの扱いのうまさについての語りたいのだが、それはまた別の機会に。

 最初に、国民作家、について書いたのだが、実はそのテクニックは「面白い映画」「面白いマンガ」を書くには不可欠な要素に満ち満ちていることがわかった。ハリウッドや少年ジャンプなどは、歴史の積み重ねと大量生産において、そのより多くの人に分かりやすく感動させるノウハウを完成させていったのだが、おそらく吉川英治は、独力でそのテクニックを完成させたのである。そこにはストーリーテラーとしても天分も、間違いなくあった。国民作家の不在を最初に書いたのだが、このテクニックの後継者という意味から考えると、マンガ界にこそこうした「国民作家」の登場する余地があるのかもしれない。

△ 寝て起きて、会社へいって帰ってくる。往復で「イノセントワールド」(桜井亜美、幻冬舎 457円)を読了。帰宅して「異説 黒沢明」(文藝春秋 667円)、「新 ゴーマニズム宣言 5」(小林よしのり、小学館 1100円)を読了。なんだか、何かにせき立てられるように本を読んでるなあ。「イノセントワールド」は、最近の村上龍をむちゃくちゃ薄めた感じ。一人称の視点で、さらに美文調の描写が入るところなどは失笑を禁じ得ない。平たくいえばダサイのだ。それがワザとやっているという感じもあるのけど、おそらくワザとじゃないでしょう。リアルを装った似非リアルという感じ。


<9月22日・火>
◇ 試写会にいくつもりが、ダウン。惰眠をむさぼる。会社にいって帰宅して、さっさと寝る。


<9月23日・水>
◇ お休みだけれど仕事。帰宅して、飲んだくれる。ストレスがたまっているみたい。「パンダコパンダ」と「同雨降りサーカス」それにほこりをかぶったビデオを取り出してきて「小さな恋のものがたり」。

○ この「小さな恋のものがたり」は、有名な同名のマンガのアニメ化。あまり話題にならなかったけれど、脚本雪室俊一、監督平田としお(何故かひらがな)というベテランがキッチリ制作して、原作通り(笑い)少々気恥ずかしいところもあるのだが、それも含めてかなり完成度が高い。
 主役のチッチは伊藤つかさが声をあてているのだが、これがまた、一生に一度の当たり役だとおれは思っている。下手なところがいい、と表現するにしては、微妙に上手いところが、これまたいい味を出している。舌足らずなところが可愛いし。

△ などと思いながら、深く酩酊して沈没。


<9月24日・木>
◇ というわけで、二日酔いまでいかないが、基本的にダルダルムードで会社。仕事で金朝まで頑張る。そのほか特筆すべきことはないような……。


<9月26日・金>
◇ 週末から、秋の話題映画がズラズラとはじまる。ガンバって見なければ。

○ 「篦棒な人々」(竹熊健太郎、太田出版 1800円)読了。こういう本を読むと、会社を辞めても、人間なんとか生きていけるんではないか、と間違った?方向に勇気づけられたりする。明け方になって「黒い聖母と悪魔の謎」(馬渕宗夫、講談社 660円)を読み始めたら、けっこうおもしろくて、ついつ夜更かし(というか読み始めたのがすでに、土曜日明け方なんだけどね)。

△ ボクの趣味は、読書ということになっている。ただ、これがけっこう人に説明するのが難しい趣味で、つい人にはそう名乗れなかったりもする。その理由の一つはまったく単純なこと。読書は無趣味の代名詞になっているからだ。例えば、お見合いの釣書に書かれた「趣味 読書」とか「映画鑑賞」とかを、額面通りに受け取る人はなかなかおるまい。いや、これは失礼な想像かもしれない。でも、釣書や履歴書に書かれた「読書」の数がもし本当なら、出版業界はもっと隆盛をほこっているのではないか、という想像をとめられないのも本音ではあるのだけれど。ただ、無趣味の代名詞になっていること、そのものがイヤなのではない。

 むしろ、初対面の人との外交辞令のやりとりで「いや、ボクの読書は無趣味のカモフラージュではなく……」とか(さすがにこんなに直接的な言い方はしなけれど)、うっとうしい自意識過剰な解説をしなければならない、自分の心根がイヤになるのである。そんな、自己嫌悪するような解説をするくらいなら、「読書」と名乗りたくない、とすら思うのだった。ほら、ちょっとこの件について書いただけで、もう自意識過剰なイイワケを書いている。やれやれ。

 とはいうものの、やはり本は好きだからとっさに「趣味は読書です」と答えてしまうことがある。そして、このウッカリが、さらにアリ地獄みたいにボクを苦しめるのである。
 もちろん「趣味は読書です」と、いえば「どんな本を?」と返ってくるのが、社交辞令としても非常にありがち。もちろん、向こうは別にボクがどんな本を読もうが、興味がないのである。会話をつなぐために、いちばん無難なところに会話のボールを打ち返して、会話のラリーをつなげようとしているだけなのである。だから、ボクも気楽にラリーを続ければいいのだけれど、ボクはこと「どんな本を読んでますか?」という質問に関しては、どこにボールを返したらいいか皆目わからないのである。
 ここで、またウッカリと「いろいろ読んでいます」とか「なんでも、です」なんて答えてしまうと、アリ地獄に落ちるどころか、ブラックホールのシュヴァルツシュルト半径の内側に足を踏み込んでしまうことになる。
 ここで「SFは好きです」とか「ミステリーには目がありません」とか「やっぱり今はJ文学でしょう(ウソ)」とか答えられれば、まだ楽なのである。これは、相手にとってもリアクションしやすい言葉の返し方であろう。「スター・ウオーズみたいなやつですね」とか「アサミミツヒコとかトツカワケイブとかが出てくるヤツですね」とか「シブヤ系ですか」とか、ジャンルが指定されればとりあえず適当な返事もしようがあるだろう。小説のジャンル分けについてはさまざまなシーンで話題になるが、こんな社交辞令の時にはやはりないと困るだろう。ところが、ノージャンルとなると、これはもういけない。ずぶずぶはまっていく音が聞こえる。

 多少機転が効けば、ジャンルでなく、最近面白かった本として「みんなが知っている話題のベストセラー」の名前を挙げるといテもある。ただ、これまた、自分の中にちゃんと「最近読んだ本として挙げられる本」を用意しておかないと、あわてて余計なことを口走ることになるので注意が必要だ。ちなみに、俺的にはもう半年以上「OUT」と「レディ・ジョーカー」で済ましている。あ、気が向くと「血と骨」も使ったか。
 もっともワタシの知人によれば「趣味読書、愛読書は「non−no」」とかいう人もけっこういるそうだから、まあさきほど書いたとうり、こうした対処方法も風船のように膨らんだ自意識過剰の産物に過ぎないのだけれど。

 やはりこうやって考えてみても、「趣味は読書」なんて言わないほうが心安らかに暮らせるようである。では、私の趣味を何にするかというと「映画鑑賞」にしようかと思うのだが……あ、これも同じ罠にはまってしまうぞ。やれやれ。  


<9月27日・土>
◇ 「ムーラン」を見に行った。
  予告編の映像や、「私は決してふりかえらない。」というコピーからもかなりシリアスな、どちらかというと「ノートルダムの鐘」のような一種の歴史劇を想像していた。が、その予想はあざやかに裏切られた。これはもっと、シンプルなエンタテインメントなのだ。なにしろ、ディズニー長編の必要な要素であるロマンスの要素もばっさりと削ってあるのだから。ムーランというキャラクターの魅力と、対するフン族のチェン・フーの造形の素晴らしさ、がもっとも印象に残った。この映画については、いずれ詳細に考えるつもり。
 ともかく、「アナスタシア」の100倍面白いというのは、本当にそうだった。見終わった後に、もう一度最初から見たい、あるいは、LDはやく販売しないかなと思ったもの。

○ 予告編で「アルマゲドン」。特報第2弾になったら、前の「ミッションもの風」のユーモア&カッコイイ系ではなく、涙とドラマ風の内容になっていた。きっと「ディープ・インパクト」のヒットから、泣かせのドラマ部分を強調したほうが、観客にアピールすると思ったのだろう。その判断は正しい。


<9月28日・日>
◇ 朝から仕事で天王洲アイルへ。昼過ぎに会社にあがって夕方までちょろちょと仮眠。で、夕方から寄るまで仕事。その分、明日が休みになるわけだ。ふう。「ブギーポップは眠らない」をいまごろ読了。絶妙の構成力と、各人の設定のうまさが印象深い。ちょっと気取った書き方をしても、あまりそれが鼻につかないのが美質。

○ WEBの内容を、広義の意味で批評する(される)場合の個人的覚え書き。
・あらゆるWEBは批評されることを拒めない。
・的はずれな批評なら無視する権利はある。
・自分の意見が常に正しいと思わないこと。(間違えたなあらは早めにあやまる・訂正するほうが有効)


<9月29日・月>
◇ 明け方に帰ってきて、仮眠?したらそのまま新宿へ。「大怪獣東京に現る」と「岸和田少年愚連隊 望郷」の2本立てを見に行く。

○ 「大怪獣東京に現る」は、もともと一発ネタだけの映画だと思っていたんで、予想以上にまっとうなストーリー展開に、高い評価。「ディープ・インパクト」も、大統領なんて登場させずにこれぐらい市井の人が出てくれば、よかったのにとも思ったり。ただ、監督が、劇場映画初演出ということで、もうちょっとテンポよくとか、メリハリを、と感じる箇所は何カ所かあった。わりとオーソドックスに各人物の行動を追いかけるので、多人数が交錯して登場する楽しさがあまりない。もうちょっと、各キャラクターを突き放して、コマのように描いた方が(そうしてもシナリオ段階で、人物描写はしっかりできているので、人物像は平板にならないはず)、カタストロフと人間の日常の対比は、もっと際だっただろう。
 また、怪獣映画のパロディのように見えて、日本人にとっての怪獣という存在、についても迫っているあたり、怪獣は出ない変化球スタイルではあるけれど、実はまっとうな怪獣映画と呼ぶべきだろう。
  
△ 「岸和田少年愚連隊 望郷」は、実は初めて見る三池崇史映画。おもしろい。「大怪獣……」と続けてみると、明らかにこちらのほうが演出力があるのがわかったりする。ちなみに、オレ的には、「二大怪獣激突」の次には「二大巨乳激突」(烏丸せつこVS高岡早紀)という感じの二本立てであった。子役もいいし、日本なりの娯楽映画を追及するとこういう路線もあるのだなあ。ヒットすることを期待したいが、いかんせんコヤが小さかった。

◇ 中野・まんだらけを”こらしめ”に出かける。結局「るろうに剣心」既刊22巻きセット(5300円)、ロマンアルバム「わんぱく大昔クムクム」(1500円)、「SCENE」(大野安之、笠倉出版 )、「LIVE!オデッセイ」(撫麻礼・谷口ジロー、双葉社 600/620円)。重い。巣鴨駅前の書店ででさらに、雑誌(HEAD+、プレミアなど)を購入。

 ○帰宅してグーグー寝る。「lain」最終回、見ていない回が多いので、なんともいえないが、収まるところに収まった(ってことは予定調和?)という印象。


<9月30日・水>
◇ 面倒くさいので在宅勤務。途中で書店に出かけ、松本零士の「ワルキューレ」を買ってくる。すげえぞ、松本先生。これは松本版神々との戦いでしょうか?もはや、作品の枠を超えたアルティメット戦と化していますな。これをダメということは、オレにはできない。オレにできるのはこの状況を楽しむだけだ。