98年9月中旬


<9月11日・金>
◇ 朝11時半ごろやっと会社のソファで眠るが、結構テンパっている。が、うーむ、今日もお仕事で徹夜でR。

◇ 「G20」を買う。そうか、こういう雑誌が作りたかった、というコンセプトはよく理解できた。ガンダムの世界(フィクション・ワールドだけではなく、現実のアニメ「ガンダム」のある風景も含めたもの)そのものを体感するような雑誌なわけですね。だから、一番核になるべき作品論はあえてはずした、というわけでしょう。ただ、個人的には、あと「ガンダム」の映像論があれば、全包囲をカバーできたのに、という思いも残るのは事実。
 最近、ボクはずっと考えている、リミテッドアニメの中でいかに上手く人間がいる空間を描ききれるか、というテーマを考えているのだが、ガンダムを語るときにこれは欠かせない要素ではあると思う。
 これは、富野監督もあちこちで話していることだけれど、具体的にデティールを詰めてある記事は読んだことがない。 ちゃんとした素養(どういう素養かわからないのだけれど)がある人が、一度しっかり解析が試みられるべきだろう。まあ、この記事ばっかりだと、「ユリイカ」的に過ぎるかもしれないが。


<9月12日・土>
◇ 仕事が終わってから、一杯やって帰宅。夕方まで基本的に眠るが、神経が高ぶっていて熟睡できない。午後6時半から出かけて、居酒屋で晩飯を食べ始めるが、ジョッキ2杯飲んだだけで、頭がフラフラして芯がしびれたようになる。帰宅して再度眠る。夜中に目が覚めると小腹が空いているので、また酒飲んで寝る。

○ 巣鴨近辺はお祭り。御輿も出ているし、青年団の集会場には席が設けられて、夜通りかかるとみんなで酒盛りをしている。こういう風景は楽しそうで、好きだ。巣鴨というマイナーな土地が気に入っているのは、こんなところが理由でもある。

◇ ビデオを貸していただいた「デジタルアニメ新世紀」をやっと見る。うーん、わかりやすい総覧図といったところでしょうか。最近の大友作品の通り、「スチーム・ボーイ」は、とりあえずビジュアルは面白そうですね。制作順調?な「ガルム」は、はてさてふむーという感じ。


<9月13日・日>
◇ 目が覚めると午後2時。映画「CUBE」を見に行こうとすると、午後4時過ぎなのに、午後5時、午後7時の回ともに立ち見の整理券を配っている段階。さすがにそんな体力はないので、ABC六本木店に待避し、仕切直し。その間に井上三太氏のコミックス2冊、伊藤潤二の「ぐるぐる」と全集の12巻、多重人格探偵サイコの小説版1、2巻、それから、諸星大二郎×中野美代子対談などが載っているユリイカの「西遊記特集」。カラーグラビアで掲載されていた瀬川画伯の西遊記絵本が読みたい!!

○ そんなこんなで、仕切直した結果、渋谷で「アナスタシア」を見に行くことにする。

 ロマンチシズムへの盲信が全てを覆っている作品だった。歴史を題材に選び、メーンのキャラクターデザインもよりリアルな造形をしたにもかかわらず、そのドラマは、非常に甘ったるいハッピーエンドのための段取りでしかなかったのである。それは、市場開拓の狙いもあるだろうが、どん欲に新たな人物造形にチャレンジしているディズニーとは極めて対照的である。
 一番の問題点は、悪役「ラスプーチン」だ。そもそもこの物語に悪い魔法使いが必要であったのか。スタッフはその点について「こういうおとぎ話に悪い魔法使いが登場するのは当然のこと」という無自覚のまま彼を登場させた。記憶を失ったアナスタシアの自分探しというテーマから考えれば、彼の存在は全く不要であるにもかかわらず。そして、彼が登場したことで、世界観そのものが揺らいでしまっていることに気づいていない。また、そもそもロシア革命を、ラスプーチンの魔力によって起きた、ロマノフ朝の栄光を襲った不幸、としてしまうアイデアも、ロマンチック過ぎて、歴史物の題材の良さを殺してしまっている)
 この映画は、自分探しの末に、今の自分らしい人生を選択する、という子供が大人になるという自立の物語となるべきであった。その障害となるべきキャラクターがラスプーチンであるべきかどうかは、考えなくても明白なことだ。

 物語だけではなく、ミュージカル要素の導入についても、この映画は無自覚のまま「ロマンチック」名ものとしてそのまま踏襲している。アニメの中で人間が歌い、踊らせることにどれほどの意味があるか。慎重に日常動作の中だけで歌わせ、ラストだけ群舞的に処理する「美女と野獣」の冒頭、あるいは祭りの1シーンとしてミュージカルシーンを用意した「ノートルダムの鐘」と比べ、どうだろうか。この映画のサンクトペテルブルグのシーンは、ミュージカルという前提だけで、民衆が歌い踊っているだけなのだ。
 実写のミュージカル映画が成立しうるのは、その肉体の魅力(ジョージ・チャキリスのファンがなぜあれほどいたのかは、あの踊りを抜きには考えられまい)があるからである。その肉体性を除外され、最初から「無名の人々」と設定された人物がアニメートされるのでは、ミュージカルシーンの魅力は大きく異なる。
 
 まあ、こうしたロマンチックさへの盲信は、劇中に挿入されるバレエが「シンデレラ」であることからも明白ではあるのだが……。そして、ラストに白コウモリに唐突に彼女が出現することで、ダメ押しされるのでした。

というわけで、なんともとりあえず目先は楽しいけれど、トータルで見るとなんだかなあ、という作品でした。メグ・ライアンとかクリストファー・ロイドの名前が並ぶキャストはなかなかです。


<9月14日・月>
◇ 夕方から仕事。16日は出張になる見込み。

◇ 文庫化されていた「ナックル・ウオーズ」(狩撫麻礼・谷口ジロー、双葉社 590円)の上下を読む。「GON!」で書かれていたとおり、傑作に成り得なかった佳作である。明らかにうち切りで終わっているのが感じられる分、惜しいんだよなあ。


<9月15日・火>
◇ 寝て起きて、とりあえずずっと読みさしだった「ブエノスアイレス午前零時」(藤沢周、河出書房新社 1000円)、「育毛通」(唐沢俊一、早川書房 )を読了する。「ブエノス…」は表題作がなかなか味わい深くて、意外に好みのタイプかもしれない。「毛髪通」は、一応抜け毛遺伝子を持っている身としては、まあ、時が来たら浅田次郎のセンを狙うしかないなと思うにいたる一冊。

○ その後「真ゲッターロボ」を見る。ヲイヲイ、こうやってみるとジャイアントロボと全く同じではないか。まあ、今後のストーリー展開が違うだろうけど、対立構図の作り方がここまで同じだとねえ。でも、ゲッター1の飛ぶシーンはかっこうよかった。それに、AMであさりよしとお氏も言っていたが、3人載ってこそのゲッターだよなあ。監督不在の感も微妙に漂うのだが……。

△ ずっとツンドクだった「多重人格探偵サイコ」をマンガ版、小説版と読む。小説1巻の各章のタイトルが全部、大江健三郎の小説のタイトルというのは単なるお遊び? それとも何かの暗号、暗示なのだろうか? 2巻のサブタイは「重力の都」以外は心当たりがないので、知っている方教えて下さい。

△ 勢いづいて劇場版イデオンを2本借りてきて改めてみる。近所のビデオ店は、イデオンのTV版は一時おいていた(といっても5巻まで)のだが、さっさと中古販売にだしてしまって、今見るのなら劇場版しか置いていないのだった。とりあえず、久しぶりに、接触編のラストで「セイリング・フライ」を一緒に口ずさむ。意外に歌詞を覚えているもんである。
 講談に転向?してしまった麻上洋子氏演じるハルル・アジバは素晴らしい。ぜひ、田中裕子に変わってエボシを演じてほしかったぐらい、生々しい声が出ている。いや、田中裕子氏も悪いわけではないんだけどさ……。(弱気なオレ)
 発動編では、やはりコスモとカーシャの模擬キスシーンって泣けるんだよなあ。まだホントの恋人ではないんだけれど、同級生的感覚の戯れというか……。しかし、久々に見ても不思議なアニメだ。


<9月16日・水>
◇ 明石へ出張。台風の影響で、三島駅で1時間ほど停車し、徐行運転も含めて2時間弱の遅れで西明石駅に到着。魔除けに関する調査?という、まるで稗田礼二郎みたいな仕事を済ませてから、一服。新幹線の車中でも飲み続けながら、酔っぱらい&寝ぼけ頭で帰社。同行者とは、道中雑談して映画『うなぎ』はエッチな映画だ、というところで意見の一致を見る。  


<9月17日・木>
◇ 昼間から、新宿でガンダムの話などをしてメシを喰う。ごちそうさまでした。


<9月18日・金>
◇ というわけで、一旦帰宅してシャワーを浴び、会社で仮眠。帰宅したついでに書店に寄って「日本人と遠近法」(諏訪春雄、筑摩書店 660円)、「広場の孤独」(堀田善衛、集英社 552円)を購入。

○ 夕方から、江東区佐賀町へ。村上隆氏の展覧会のオープニングを覗く。「マイ・ロンサム・カウボーイ」はペイントをしなおしたとかで、青山スパイラルで行われたG9の時よりずっと美麗な仕上がりになっている。ただそれより、インパクトがあったのはDOB君の「しかも、手を挙げて」などのバリエーション。大勢の人でえらくにぎわっていた。ご芳名帳で古賀学氏、大塚ギチ氏の名前を見かけるが、顔を知らないのでよくわからない。近くでメシ食べて、さんざん酔っぱらって帰社。朝まで仕事。

△ 知人に、最近日記に時事ネタは書かないのか?といわれた。確かにここのところそういう話題にはあまり触れていないし、時事ネタ以外でも、多少興味のあるネット上でのドタバタというものもあるのに、それについても書いていない。これは、忙しいことに加えて、自分の持っている話題の展開のパターンに飽きているというのが最大の理由である。
 もうちょっと話芸があれば、いろいろな味付けで変化させることもできるのだろうけれど、そこまでの技術もなかなかないので、自分の意見を書く割合が減っている、わけである。

○というわけだが、貴乃花の騒動についてちょっと考えてみる。

 あれはつまり変形した「親殺し」なんだよね。
 通常の親子関係だったら、子供が育っていく過程で、当然ながら生活環境や職業が違ってくるから、「オレはオレ」「親は親」という風に自然に育つわけだ。細かくいえば例外もいっぱいあるだろうけれど、環境が違えば親とは違うという気持ちが生まれるのは当然なことでしょう。
 で、貴乃花は、親の指導の下に今もあるわけだから、生活環境どころか、職業上のモラルまで共有しなくちゃいけないわけだ。これはツラいと思う。父親を追い抜こうと努力するには、親のいうことを聞いて精進し続けなければならないという、一種の矛盾の中にからめ取られているようなものだからだ。
 じゃあ、どうすれば楽になれるか、といえば、答は簡単、父親とは別の指導者に師事するしかない。それが、貴乃花の場合は、整体師の某氏だったというわけだろう。こうなると、戻ってこいといわれても、それにうなずいたら、結局「親のいうことを聞いている自分」ということになってしまうので、「今のお前は間違っている。目を覚ませ」みたいな呼びかけは全く効果がない。
 今回の騒動では洗脳云々という問題もあるけれど、その洗脳したしないという議論以上に、ボクは親子関係のこじれという風に見えるのである。
 
 さて、どうして、貴乃花は整体師氏に頼らなければならないほど、精神的に追いつめられてしまったのだろうか? 一つは結婚して子供が産まれたことがあるだろう。生まれたばかりの赤ん坊が少しずつ「、人間」になっていく様を見ていれば、「いかにして今の自分が作られたのか」という疑問にぶつかるはずである。貴乃花も自分の息子をみながら、ついつい自分とは何者か、なんて問いかけを心の中に持ってしまったのかも知れない。今、エヴァの(特にテレビシリーズ)を彼に見せたらきっとハマりまくって、第弐拾六話では涙ぐらいながすかもしれない……というのは余談。
 通常、こういうちょっと青臭い問いかけは、ニキビといっしょで思春期特有のもので、そこころにある程度の決着をつけておくもんじゃないか、という気もする。けれど、そこについては、彼は特殊な例で、純粋培養されてきたからだろう、と思っている。ボクの個人的な印象になるが、彼は一時期まで全く自分という存在に疑問を持っていない、少年期のまま成長していたように見えるのだ。自我がなかったのである。それだから、彼は相撲そのものと、意識しないままに一体化できたし、強かったわけである。例の婚約破棄も、一人の男の誠実さの問題でなく、自我の確立していない小学生ぐらいの恋愛ゴッコだったと思えば、あるあると納得できる側面もある。
 もう一つは、先ほど書いたとおり、自分のアイデンテティであるはずの「相撲」は、同時に父親の世界でもあるという、窮屈さであろう。
 ちなみに、無敵の強さを持たず、なおかつ長男としての屈託を抱えたまま相撲に進んだ兄・若乃花は、おそらくかなり早い時期から相撲や父親、自分を分離して、客観視することでアイデンテティを維持してきた節がある。先日の「Number」のインタビューからも、そういう雰囲気は漂ってくる。
 きっとこれと似た葛藤は、角界だけではなく、梨園やあるいは中小企業のオーナーと2代目なんかにも
ゴロゴロあるに違いない。

 処女喪失は年をとると痛さがキツいとかなんとか、いうけれど、例えるなら「自分とは何か」なんて問いかけも精神的破瓜行為といえるかもしれない。だから、遅くにやると痛いだけでは済まないだろう。これまでの日々積み重ねた「個性」とか「アイデンテティ」という積み木が、思春期時代よりはるかに高く積まれているわけで、それを一度 ご破算にして積み直すというのは、並大抵の努力ではできまい。まあ、そこに「精神的指導者」が登場する余地がある。彼が設計図をしめしてくれれば、すみやかに新しい自分を再構築できるわけだ。これは別に洗脳だけではなくって、グレた息子が暴走族なり、チームなりに所属してそこの規範を自分のものとして親に対抗することと、同じことなのだ。

 自分とは何か、というハシカはことほどさように重いものである。これがなぜここまで我々にとって重要な問題であるか、というのは宮台真司氏があちこちで語っていることなのであまり触れない。でも、かかった時期が違うだけで、貴乃花も我々も同じ病を基本的に共有していることにはかわりがない。そして、この病は、一度かかっただけでは済まないことが、往々にしてあることは覚えていたほうがいいかもしれない。 


<9月19日・土>
◇ 昼まで会社で仮眠。所用があって再び小山登美夫ギャラリーへ。今度はご芳名帳にはタニグチリウチ氏の名前もあった。しかも、所属団体が「”裏”日本工業新聞」と……。どこぞで、ライバル紙と間違えられたのがよほど気になったのであろう。渋谷への移動最中に「日本人と遠近法」を読了。

○ 渋谷の電力館へ。東京電力の「ベストミックス」に関するプロパガンダ(笑い)をつらつらと見る。その中に中にあったテプコシアターという、回り舞台を使った人形劇プラスビデオのショーを試しに覗く。
 回り舞台と書いたが、正確にいうと、これは4つにしきられた円形の舞台に対して、8人乗りの客席のほうが回る仕掛けになっている。たいして揺れもしないが、客はシートベルトを着用し、ヘッドホンで音を聞きながら、人形やビデオを通じて物語を楽しむ仕掛けになっているわけだ。
 お話といえば、「電気を大切に」という内容なのだが、あまりに無駄なセリフが多く、それなのに因果関係の説明が甘いシナリオに、わずか16分の出し物なのに眠くなる始末(ボクが寝不足という理由もあるが)。せめてもうちょっと、なんとかならなかったのか。あれでは子供も楽しめまい。
 ただ、ヘッドホンから聞こえる音は、名前はなんというか知らないが、音源の移動をダイナミックに表現する録音方法を採用しており、迫力はある。そしてなんといっても悪役である飯塚昭三氏が、例の調子で耳元でスゴんだり、ささやいたりするのは、かなりゾクゾクするものがある。

△ 睡眠不足で頭がヘロヘロなのでアニメ・特撮のビデオを借りてきてみる。見たのは新ルパン145、155話、クラッシャー・ジョー「氷結監獄の地獄」、ウルトラセブン「ノンマルトの使者」「第四惑星の悪夢」「円盤が来た」。145話はアクションアニメとしてはやはり屈指の出来映え。わずか20分余りでなぜここまで楽しいのであろうか? 若いのでシツコイところがアクションに味を与えている。 


<9月20日・日>
◇ 寝て起きて本を買いに駅前まで。「知の編集工学」(松岡正剛、朝日新聞社 2200円)をラーメン屋で読み始める。そのほか買ったのは、「鳩よ」と「海の天辺」(くらもちふさこ、集英社 各680円)。

○ というわけで、缶ビールロング缶とギョウザ、それにネギラーメンを食べる間、その本を、ラーメンの汁が飛ばないように気を付けながらも、いつものようにペラペラと読み進めたわけだが、こうやってその時のことをだらだらと書くことそのものが、脳味噌の中の編集機能の働きの一種であるというような内容が、難しすぎず、簡単すぎず、そういう意味では手頃な難易度で書かれていて、軽く酩酊しながらも、70ページほどまで読み進めたのだった。
 そもそもこの本は衝動買いだ。だいたいボクの部屋にの本棚に並べ、衣裳ケースに収納され、床に積まれ、つまりは部屋の多くの部分を浸食しつつある本の3割ぐらいは衝動的に買った本ではなかろうか。それでもまだ読んでいれば自慢というか、救いもあるが、基本的にツンドク7、読了3ぐらいの割合で本の山を増やしているばかりである。そういえば、椹木野衣氏の「日本・現代・美術」も半分ほどよみさしのまま、本の山の下から3冊目ぐらいのところに置かれたままである。うーん、この本の山を上から読むか、下から読むかそれも問題なのだが、それだと「日本・現代・美術」にたどり着く前に、その内容をキレイサッパリ忘れてしまうかもしれなくて、それはそれで問題である。まあ、読み終わった後に覚えていないのであれば、既に読んだことを忘れていても、問題がないという見方もあるが。いや、そんなことはないか。
 まあ、とにもかくにも、現在も読み差しの小説を抱えつつ、適当に読み散らかすコトばかりであるので、今後もこの本の未整理なまま(それは、物理的にも、内容的にも)放置されている状況は変わらないであろう。とちょっとした文章の練習のつもりでつらつらと書いてみたのだが、WEB日記にむいた文体というものを自分なりにちょっと考えてみたのであった。