2000年6月下旬


6月21日(水)

■ しばらくお休み中だった『大いなる遺産』をつらつらと読み進める。40章を過ぎてクライマックスに突入すると、これがそれまでの積み重ねが生きてきてスゲェ面白くなる。いやー、古典というのはスゴいものですな。

■ 昼過ぎから仕事にでかけ、夜は夜で夜なべ仕事。それから仕事の電話も。

6月22日(木)

■ 映画『鮫肌男と桃尻女』見る。同案多数だと思うが、和製タランティーノというか、和製パルプフィクションというか。神様に啓示を受けるシーンがあるわけだから、やっぱりパルプフィクションか。『サムライフィクション』を見たときにも似たようなことを感じたのだが、このぬけぬけとした感じは結構貴重のように思う。原作の消化の仕方はとても巧み。原作のセリフを受けたような、オリジナルの展開もニヤリとさせられる。

■ なんだか眠いような眠いような、で結局眠いわけなんですが、夜すぐ眼が覚めるのに、昼轟沈するのはなぜでしょう。睡眠障害
H
■ 某所で某氏が、昨晩女性陣にトッチメられた(笑)との情報を入手。うーん、その現場には立ち会いたかったぞ。

6月23日(金)

■ 仕事の山場。日付が変わる前に、メドをつけたいなんて思っていたのは、とても甘い見通しでした。まあ、作業そのものは滞りがなく粛々と進んだのですが、結局、終わったのは24日午前6時ごろでありました。

6月24日(土)

■ 明け方に、真っ直ぐ帰るのもナニだったので、Coco一番屋でカレー&ビール。メシのともは『薔薇の木に薔薇の花咲く』(いしかわじゅん 扶桑社 571円)の全3巻。掲載時は横目でチラチラみていただけだったのだけれど、まとめて読むと以外に面白かった。まあ、ウワサで聞く本人の性格とかはさておいて、ちょっと感想など。
 マンガってのは、映画とか小説とかの系譜で語られることも多いのだけれど、当然、そうじゃない。同じ内容を同じように表現しても、マンガなら成立するけど、小説や映画では成立しないことがままある。そして、4コマのリズムというのは、おそらくマンガでしか成立しえないものの最右翼にあるはずだ。
 4コマのリズムの基本は反復だ。一つのネタを延々と繰り返す。時には変奏し、ある時は変奏すると見せかけて、そのままだったりと、あの手この手で、一つのネタを反復される。そのとき一回の面白さより、その型を繰り返すことそのものが笑いを誘う。この型をみつけるのが、4コマのキモの部分になるのではないか。そういう意味で、『薔薇の木に薔薇の花咲く』は、このキモの部分の見つけかたがなかなか巧みだと思った。極めて職人的で、悪い意味でなくマーケティング的なものも感じられる。自分が面白がっているものと、読者が面白がるであろう事のバランスがけっこう上手くとれているのだ。革新的でもなく、傑作という種類のものでもない普通のギャグマンガにしか過ぎないのだけれど、でも、そこには普通なりの強さがある。その強さがつい笑いを誘う。

(ただ、そういう人が『笑う犬の生活』を「ぬるい。こんなもんでいいのか」とエッセイで書くのはいかがなものか。って、性格に結局言及してしまったでゴンス。そういえば、タイトルはその続くフレーズを暗示し、相撲の不思議をテーマにしているという、仕組みでしょ? これって書いたらちょっと野暮だったかしらん)。

■ ちょっと胃もたれしつつ帰宅。ネットにつないだ後、グーグー寝る。
夕方からは池袋でカラオケ。といっても4時間のうち最初の2時間は、ひたすら飲んで食べて笑って、というところでしょうか。歌い始めたら、阿久悠の詩に笑ったり、和田アキ子の歌を歌い上げたり、自分がうたいたいうたとは違う歌を入れたり、自分の思い出の曲を歌ったり、一休さんの『ははうえさま』で落涙したりなどなど。僕は「青い地球」とか「白い炎」とか。参加者にカルロス・トシキみたいな声と評されました。うむむ。もう14年前の話題ですな。そのあと、近くでさらに一杯やって帰宅。僕は飲み足りなかったので、近所のコンビニでビールを買う。というわけで、とても楽しかったので、関係者のみなさままた機会が有れば是非に。

6月25日(日)

■ 寝て起きて、在宅勤務スタート。心を動かさず、サクサクと手だけ動かす。まあ、内職の封筒貼りみたいなもんですな。途中、猛烈におなかがすいたので、近所の「ちりめん亭」でミソラーメンとかやくごはん。帰宅してもうひとふんばりして、フィニッシュ。それから選挙と買い物にでかけて帰宅。そうしたら、電話がかかってきてまたドタバタと。うーむ、タイミング良すぎだなぁ。まあ、今度は内職の造花作り、とでもいえばいいんでしょうか。そんなこんなで過ぎていく1日でした。

■ 選挙のたびに思うこと。選択肢の中に(その人にとっての)ベストの解が含まれていないという不満をいう人がどうしてこれほど多いのか。ベストでなく、ベター(つまり現実との妥協)を模索する手段こそ、政治の基本であろうはずなのに。まあ、私は俗な意味でのニヒリストなので、大衆の知恵みたいなのは基本的に信じていないので、いいんですが。(信じていないからといって、目の前にあるものは否定したりはしないですが)。

6月26日(月)

■ 例のブックオフ本の感想を書き始めたが、肝心のアイデアのところで裏付けをとろうとして詰まる。というわけで、メモ程度に書いていたものも消去する。というのは、戦前の高学歴者(旧制高校卒業者)の数=読者階級=現在熱心に本を買うヒトの数、という等号がほぼ成立するのではないかという仮説を証明する数字を調べていたのだが、戦前のいわゆる知識層といわれていた人々の人数をアバウトに書いた資料がみつからないので断念したのだった。でもこれ書くために、もう一辺アンダーラインひきながら読んだので、ちょっと悔しいかも。というわけで、以下メモ風に。

■ 本の大量生産・消費構造が、読書人階級を解体し消費者を生み出した。筆者はそこを問題の原点に据えている。とするなら、どのような購買者層を筆者はイメージしているのか? そこが見えない。そして、そこが見えていないにもかかわらず、筆者はもはや取り戻すことができない読書人階級の正しさ、正統性を強調しすぎてはいないか? しかも、その正しさをあまりにナイーブに信じている。例えば、同書にはこんなフレーズが登場する。
「私たちは70年代まで町の大衆食堂で食事をしていました。安くておいしい大衆食堂がどこにもあり、いずこも小さな店でしたが、手作りで品数もあり、好きな定食を季節ごとに選んで食べることができました」
 もちろんこの先にはファーストフード、ファミリーレストランの登場と大衆食堂の衰退が書かれているのだが、本当に筆者が書いているとおりの店であれば、どうしてファミリーレストランに駆逐されたのか? これは安易な過去の美化ではないか?
 こういう無自覚な部分で設定された正しさは、現状を改革する指針としては、根拠が薄弱すぎると思う。今必要なのは、消費者を相手に商売をしているという前提にたちかえり、そこから「いいものをより安く快適に」という流通業本来の姿に立ち返る方法を導き出すことだ。そして、おそらくそれだけが出版社発、書店発で消費者のありかたを変えられる方法だ。成功するビジネスは多くの場合、客のあり方を問題があるとはあまり指摘しないものである。本もまた消費者に売られる消費物でしかない。そこからしか、本を売るということは始まらないのではないか。
■ と、以上のような考えを前提にすると、同書のブックオフ批判の根底にある「本を消費されるモノあつかいしている」という論理には首を傾げざるをえない部分が多い。(逆に旧来の古書店が、過去から培われた本の価値の体系を維持している、というのも疑問である。一部はそうした本の内容そのものに応じて値段がつけられるかもしれないが、それならば古書店は希少価値、需要と供給で値段を決めない、というのか?)。
 どうして本だけが「モノ」ではないという特権を振りかざせるのか。どうして、本だけが中古になった場合も、著者の権利を守らなければならないと主張されなければならない商品なのか。車やCDとはどこが違うのか。そこの答えは本書のどこにもない。そこを筆者と想定される読者にとって「自明」としていることが、この本の一番の弱さである。
■ では、新古書店の営業により、新刊が売れず、作家の活動が圧迫されることをどう考えるか。まず、本の「特権性(文化を担っている云々)」に頼らずに、中古の売買などにおいて、その利益が作家に還元できる必要性をちゃんと論理的に説明できるかどうか。この第1段階がクリアできるなら、その権利を主張して、応分の金額を請求すればいい。(あるいはその制度をつくればいい)。だが、それは可能か? 例えば、ゲームの場合はかなり強引な手法をつかったという例外的な例だと思うのだが。そして、ゲームの流れは明らかに消費者利益には逆らっている。
■ なんだか疲れたのでここまで。

6月27日(火)

■ 最近、安彦麻里絵のマンガをおおむね揃えた。結構好きなのが、『スリーピース』かな。三女の行く末が気になる

6月28日(水)

■ 最近読み終わった本。『新世紀の美徳』(宮崎哲哉、朝日新聞社 1700円)。『司馬遼太郎の「かたち」』(関川夏央、文藝春秋 1333円)。『司馬遼太郎の「かたち」』は、この著者だからこそ、もうちょっと別の司馬像が見たかったという印象はぬぐえない。

6月29日(木)

■ 一仕事片づく。ずいぶん眠い1日だった。

6月30日(金)

■ 朝から出かける。目的地は浜松。新幹線の中で『はじめての構造主義』()を読了。到着後は、某所へ某ヒトを尋ねていって、グランドホテル浜松のスズキ・カラーが強まったとか、塩谷立が2度目の苦杯を舐めたとかそんな話題など。それから、少し時間があったので新聞を買って、映画の日程を確認。『エリン・ブロコビッチ』を見る。社会派風に見えて、徹頭徹尾、スター映画ですな。

■ 映画の後は、本来の目的である召還先へ出向く。いや、雑談ばかりであまりお役にたてなかったような。もうちょっと若向けの話すればよかった、とかいろいろ反省したりして。いや、雑談はおもしろかったんですけど。終電で、実家のある藤枝まで帰る。途中で、激しく眠くなり、立ちながらカックンカックンしてしまう。