2000年6月中旬


6月11日(日)

■ えーと、何をしていたんだっけかな? 夕食は近所の中華料理屋だったような記憶が。

■『トンデモ大予言の後始末』(山本弘、洋船社 1500円)。疑似科学の現状を知るにはもってこいの、このシリーズ。でも、何冊目からだっただろうか、人がなぜトンデモに走るのかを分析したあたりから、少しずつその姿勢が気になり始めた。一言で言うと、そのダメなところを指摘する文章がチャーミングではないのだ。その頂点が、やはりトンデモな内容の手紙を俎上に載せた、この本の冒頭だと思う。
 僕は、山本弘氏に送られてきた手紙を読むと、それを書いた少年が、あまり普通の状態にあるとは思えなかった。もちろん脅迫状を書くのは社会生活上マズイのはいうまでもない。でも、狂ったり、壊れたり、その境界線上をうろうろしている人は絶対にいるわけで、そういう人をああまで無邪気に笑い飛ばせるのは、自分がそうはならないという自信があるからそういう振る舞いに出ているように見えるのだ。
 勘違いされるとこまるが、かわいそうな人をワラってはいけないというモラルの話ではない。笑うときに、例えばなぜ自分はキチガイだったり引きこもりだったりしなかったのかという部分に対して、批評性が皆無なのが、気になるのだ。
 これは、先に書いた 人がなぜトンデモに走るかという分析につながる。卑小な人間が自分の卑小さに耐えられなくなったために、それを回避し偉大な何かと同一になるためのトンデモ。その分析はおそらく正しい。ただ、その卑小さは我々の中にもあるものではないか? あるいはそれとアレは違うから、我々はトンデモに走らずにすんでいるのか? トンデモにとりつかれた人々を見ると、そうした部分が引っかかりはしないだろうか。
 ここで僕は別に、啓蒙としての「トンデモ本の科学的批判」を問題にしているわけではない。ただ、「別にトンデモ批判ではない」「バードウォッチャーである」という姿勢を貫こうとするがために、批評性もなく人を笑うという要素に足をつっこみすぎているように思うのだ。トンデモな人々の言説に触れた時に感じるクラクラした感じを、取り込めないのなら、中途半端に人物像をネタにすべきではないと思う。
 もちろんこれは僕の人生観で語ったまでのこと。山本氏の人生観が、そういうふうにできていればそれはそれで結構なことだ。
 

6月12日(月)

■ 終日取材の一日。寝不足で出歩いたので、ケアレスミスの多いこと多いこと。やれやれだぜ。一番の被害者の方、どうもすみませんでした。この埋め合わせはいずれ。

6月13日(火)

■ 午前中は八幡山方面へ。こちらへは久しぶりに出向いた。2年振りぐらいか。いろいろと仕事を進めるが、一進一退といったところか。やはりなかなか難しい。

6月14日(水)

■ 午前中に取材に出かけ、資料などを買い込んで帰宅。突然思い立って『ブックオフと出版業界』(小田光雄、パル出版 1800円)、『書店経営のすべてがわかる本』(能勢仁、山下出版 1359円)なども購入。

■ 今日は夕御飯をつくろうと思って、材料を買ってきたのだが、仕事の予定を自分で崩してしまい(墜落睡眠のため)、結局、適当な夕食を食べることに。とほほ。

6月15日(木)

■ 先日買った『文學界 7月号 』がかなり面白かった。これを日記に書きたかったのだが、いろいろと立て込んでいて、なかなかままならなかったのだ。
 一つは坪内祐三の「批評としての書評とポトラッチ的書評」。書評とは何かを改めて考えさせられる要素がそこかしこにある。そして、オススメするための書評というか、批評的なレビューというか、そういうものを書く場合も、こういう書評の世界を念頭に入れてなければやはりダメではないかと考えた。
 次は福田和也の「村上春樹論」。ラストに対する評価が、なかなか微妙に見えて興味深かった。
 それから、芥川賞選考委員になっ村上龍インタビュー。これはまあ、まっとうな所信表明。ただ、バブルと自分の関係を分析するくだりは、ちょっと後知恵じゃあないか? 

 ふと思ったが、ある本がどれだけ売れたか、ということと批評は無関係ではいられないはずだな。
 例えば、『ノルウェイの森』を批評するのに、むちゃくちゃ多くの人の間に共有されている漠然とした「ノルウェイの森」のイメージを無視するわけにはいかないし、そのイメージはそもそもセールスの量で次第に変質するはずだ。
 『脳内革命』も、売れなければ「黙殺もまた一つの批評」と言えたかもしれない。でも、あれほど売れたのであれば、やはりちゃんと書評は扱って、(僕の立場としていうなら)毒消しをするべきだっただろう。あれほど巨大になったモノを「黙殺も又批評」と言うのは決して、賢明ではないと思う。
 などということを突然考えた。

■ というわけで今日の夕食は自炊。レンコンと豚肉の煮物と、カツオのステーキを作ってみる。レンコンと豚肉の煮物は、難なくクリア。ついでに秋もせずに作っているキャベツのサラダも少し、刻み方が上達したようだ。問題はカツオのステーキだ。もともとアラの煮物を作ろうと思っていたのだが、スーパーに行ったらアラがなかった。そこで何にしようか考えているウチに、そういえばカツオのステーキが、料理本に載っていたことを思い出した。そこで1さくのカツオを購入。さらに、そういえばオリーブオイルを使ったよなと、オリーブオイルも購入。
 で、帰宅して料理本を見ると、これがカツオじゃなくってマグロのステーキだったわけだ。おまけに、オリーブオイルなど使いやしない。
 しょうがないので、カツオの生臭さを消せばいいわけだから、と考え、とりあえずオリーブオイルで表面を焼く。で、本当はバターとわさび醤油でつくるソースを、オリーブオイルとニンニク醤油に変更して、適当に食べたのでした。まずくはなかったです。まあ、それもこれも、ケンタロウの本って応用が利きそう読めるからできることなのだが。とりあえず、こうして経験値を少しづつ上げている最中なのだった。

6月16日(金)

■ 秋葉原で病のようにDVDを買う。『ターザン』とか日本映画がメインだったのだけれど、『ダーティペア 劇場版』とか『THE 八犬伝〜新章〜』もつい買ってしまう。タシカニ八犬伝第4章ハヘン(ホメ言葉)デスネ。いろいろと打ち合わせをして、帰宅。夕食を作り始めたら、飲み会のお誘い電話が。ウーム、タイミング悪し。残念無念。

■『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』(田口ランディ、晶文社 1600円)。タイトルとか、帯(刹那の時代のリアルストーリー)というところから逆に、敬遠していたのだけれど、読んだら面白かった。確かな手触り。さまざまな事象を扱いながら、自分の分かること分からないこと、想像できること想像できないことを見極めつつ、文章が書かれているので、地に足がついている感じがした。まあ、帯もそういう印象を言葉にしようとしたのだろうけれど。

6月17日(土)

■ ひたすら眠い1日。新宿に買い物に出かけて、帰宅後、『幕末太陽傳』を見ながら轟沈。夕食を食べて、一杯やって轟沈。さらに夜中にちょっと目が覚めたけど、すぐに寝る。
 小林信彦が10年以上前に、三宅裕司をやたらと褒めてた記憶があるのだが、あれは三宅裕司にフランキー堺とつながる線を見ていたからではないだろうか? などと根拠レスに思う。

6月18日(日)

■ 映画『グラディエイター』見る。体調不良のためか、途中から結構眠くなってツラかった。(まあ、物語もちょっとダレるのだが)。リドリー・スコットの映像派ぶりは磨きがかかっている、というか、彼の映像への傾倒がなければもっと陳腐な映画になってたと思う。そういう意味でシナリオは、あまり完成度が高くない。全体の流れは悪くないのだが、観客にとってはどうでもいい「ローマの栄光」をお話を収斂させるギミックとして使わざるをえないあたりに苦心の跡がのぞく。しかも、それを担う皇帝の姉の造形は最悪。ムードだけで実体のないキャラでした。 ジャガイモみたいな顔をしたラッセル・クロウの魅力は大。ホアキン・フェニックスの厨房(2ch風味)っぽいとこもグー。ただキャストについていうと、知人と雑談したのだが、例えばチャリー・シーンが主役でも、それはそれでどうでもいいアクション史劇としてそれなりに成立してたかもしれない。つまり粗筋がかいつまんでみればそんな感じなのデス。

6月19日(月)

■ ここのところの睡眠不足の影響か、電池がきれるように轟沈。終日おとなしくしている。肩こりがひどいので駅前のマッサージに初めて行く。30分で2500円。けっこう気持ちよかったけれど、背中は凝り凝りだったので、焼け石に水だったかも。

6月20日(火)

■ 仕事で恵比寿に出向く。ガーデンプレイスなので、もちろん帰りに軽く一杯やって帰宅。