2000年5月中旬


5月11日(木)

■ 続けざまに、17歳の若者が事件を起こしたせいか、バスジャックの報道量がそのまえの主婦(老女)殺人事件の報道量を上回ってしまったように見える。個人的印象としては、バスジャックというのはむしろ旧来の暴発系の犯罪に近く、また普段から問題行動が鮮明化していたのだから、心の闇とでもいうような不気味さはあまり感じない。もちろん、「何故彼がああなってしまったのか」「普通の人と彼を分けたのは何か」という疑問は残るけれど。

 むしろ気になるのは、その前の主婦(老女)殺人事件のほうが、理解不能であって(妙に論理的だからよけいにひっかかる)、その意味で「酒鬼薔薇」と類似している印象を禁じ得ない。僕がこの事件を聞いて思い出したのは、『罪と罰』なのだけれど、どうだろう。僕はこの本をもう何年も読み差しのまま放置しているので断言できないのだが、「老女を生きている理由がない(それがなにであれ)から殺そうと決意する」という表面上の構造は似ているのではないか。
 確かに警察取材で出てくる言葉って、こういう大事件の場合は特に、極端な部分だけが取り出されるわけだから、それから本人像を推察するなんて、野次馬以上のなにものでもないのも承知はしている。彼の言葉だって、見方を変えれば、優等生の強がりに見えないこともない。(僕はあまりその可能性はないと今は信じ込んでしまっているけれど)。「人生は不可解なり」と、華厳の滝に身を投げた学生が、実は失恋が理由だった、なんてこともあるわけだし。

  ところで、『罪と罰』を思い出したかといえば、迷走中の『AERA』がくだらない取材をしているらしいからで、ゲームに類似性をもとめる位だったら、『罪と罰』のほうがバッチリでしょ、と思ったわけ。なにしろ『罪と罰』は大作だから、殺人のシーンまでは読む人は多くても、ラスコーリニコフの改心まで読み通す人は少ないんだからさ。悪影響は多いと思うなぁ。

■ 物欲が亢進しているので、山野楽器でDVDソフトを買う。『デビッドリンチボックス』『ライトスタッフ』『駅馬車』『ミッキーマウス/ブラック&ホワイト』。それから雑誌。『噂の真相 6月号』、そのパチもん?『噂 6月号』、小学館の新雑誌『Sabra』核が見えないけれど(若い娘の写真なのかなぁ?)、「雑」誌な感じはいちばんよく出ているかも。

5月12日(金)

■ 先日、スシを食べたときに抽選用紙を渡された。僕はクジ運がないので、こういうものは基本的に無視することが多い。けれどその時は、ちょっとした気まぐれで、その用紙に必要事項を書き込んで投票した。そうしたら、なんと携帯電話(ツーカーのEZweb対応機種)が当たってしまったのだ。現在はDocomoを使っているため、機種変更するならi-modeと思っていたのだが、人生でも数少ない当籤経験のため、ついつい申込書を送ってくれと言ってしまった。今日届いた説明書を見ると、だんだんほしくなってきた。確かに2台あって個人用と仕事用に使い分けるってのもアリだしなぁ、などとついつい考えてしまうのだ。オチなし。単にめずらしい当籤に舞い上がっているだけです。

■ そういえば昨日は酒を飲みながら、 『喧嘩の火種』と『封印』『回収』の差について考えていた。「作者のポルトレ(肖像)を入れることで、読者と作品の間にある種の緊張が生じるかどうかが、批評とゴシップの差ではないか」とある人は言っていた。これはけっこう腑に落ちた。

■ 『広告批評』を買う。特集はタグボートの多田琢大研究。自作解説のページを面白く読んだのだが、イマイチ腑に落ちないのが、OCNのコマーシャルについてのコメント。例の、登場人物がカメラ目線になってOCNの宣伝を言い始めるアレだ。本人は「ちゃんとインターネットにつながる仕組みだし、プロバイダの広告としては、今でも最高だと思っている」と言っているのだが……。
 CMは2種類。浮気男を描いた「HIMITSU」とビデオ屋店員の「VIDEO」。確かにどちらもクリエイティブという意味ではひねってあるし、当然、「今」感はある。そういう意味では作品としては面白い。けれども、プロバイダというものの姿は少しも浮かび上がってこないし、本人がいうほどインターネットにつながっているように見えない。(HIMITSUの解決編がOCNのHPで見られるということを指しているのだろうか? それならそれで、ちょっと違うような気がする)
 まず、プロバイダはクリエイティブ(表現)の部分で利用者が決めるような市場ではないと僕は思っている。プロバイダは気分では選べず、一度決めればなかなか契約を切ることはしない。だから、そこで何ができるのか、何が得なのかをクリエイティブの中に盛り込んでおなかいと訴求力に欠ける、と考えているわけだ。例えば、プロバイダというとso−netのCMが印象的なのだが、ポストペットというキラーコンテンツと会社名をすごくストレートに盛り込んでいて、説得力があった。
 ただ、インタビューによるとOCNのコマーシャルはクレームが多かったようで、そのあたりの不満や不完全燃焼感がコメントに現れていたのかもしれない。ちなみにそのほかのCMでは、サントリー「DAKARA」が、飲料に小便小僧というきわどいネタをウマく処理していて、うならされる。

■ 『創』月刊ツルシって面白いんでしょうか? 『文藝春秋』「インターネットレイプ掲示板の投稿者」(山本徹美)は、なんともしまりがない。レイプ板に書かれている「女性の告白」を、「男性のものとはかなり趣が異なり、切実だ」ってのは??? 何の根拠があって本当の女性が書いていると思っているのかな。そもそも筆者は女性? 『論座』対談「コンピュータ文化なき日本」(東浩紀×山根信二)「ウォーゲームにはハッカーという単語は出てこない」。そうか。パンフレットには出ていたけど。確かネガティブなイメージで、ピザばっか食べてる、みたいな説明だったなあ。それから『日本のエロティシズム』(百川敬仁、筑摩書房 660円)、『世俗宗教としてのナチズム』(小岸昭、筑摩書房 660円)を購入。

5月13日(土)

■ 意外にものんびりとした1日。明け方帰宅して、買ってきた雑誌を読みながら日記を更新。『日本のエロティシズム』をつらつらと読みながら昼過ぎまで寝る。ちなみに昼食は、近所に回転した開店寿司屋(あ、字が逆だ)。夜は、近所の焼き肉屋でサンケタンを食べた後、『論座』の書評で絶賛されていた『翻訳はいかにすべきか』(柳瀬尚紀、岩波書店 660円)を買って帰宅、読了する。アニメは『サクラ大戦』と『ゾイド』。『サクラ大戦』は、『ゲートキーパーズ』にはない艶が太正という世界観にあるのは長所。観たのは2回目だが、物語が丁寧に進行しているのは好感がもてる。『ゾイド』は、もう少しハジけてほしいんだけどなぁ。いつもはヘンなコンテが出てくるので頭を抱えることが多いけど、今日は途中で寝てしまったので、ノーコメント。

■ 昼間はピアソラのCDを聞き、夜は『ロミオ+ジュリエット』。観るのは2度目。日本語版は、草尾毅と坂本真綾。ディカプリオはやはりこのころが、美少年俳優としてはピークという感じでラブ・オーラが濃い。クレア・デーンズは裸になったらかなり華奢で、それが娘っぽかった。

NF■『翻訳はいかにすべきか』(柳瀬尚紀、岩波書店 660円)

 タイトルの通り、翻訳についての本だ。ジョイスの翻訳で有名な柳瀬氏が、翻訳の姿勢から実践までを論じている。後半、『ユリシーズ』の鼎訳(丸谷才一ら3人による翻訳だから)の問題点を舌鋒鋭く指摘しつつ、ではどうあるべきかを自ら示そうとする部分はまさに筆者の真骨頂だ。けれどもこの本が面白いのは、そうした翻訳をめぐる部分だけではない。むしろ、それを論じるために筆者が用意する細部が面白いのだ。普段文章を読んだり書いたりしながらも、見落としていた(けれども少しでも文章を書いたことがある人ならなんだかもやもやしたものを感じているような)部分を鋭く突いている。例えば、読みやすく書くには代名詞はどう扱えばいいか、会話がどうして生き生きしているように見えないか、どうして文章がわかりにくくなるのか。そのもつれた糸を解きほぐす要素はこの本の2章、3章あたりに集中的に書かれている。また、さまざまな過去の翻訳の比較や推敲過程を示し、時に筆者が推敲してみせるプロセスは、どこをどういじれば文章がくっきりするか、という具体的な手本になっている。
 著者は書く。「原語を知らなくても翻訳の質を味わいもでき判別もできる」と。著者は翻訳の原則の一つである原著者の意図を再現する、という立場からそのように翻訳を問題にしてはいる。でも結局僕は、いい文章はわかりやすい、つたわりやすく、だから魅力的である。いそういうシンプルな事実をこの本で実感したのだった。
 
5月14日(日)

■ 今日は読書の日と決めて残りわずかだった『大いなる遺産 上』を読了。続けて、ツン読のままだった『ロスト・イン・アメリカ』(稲川方人、樋口泰人 デジタルハリウッド出版局 3400円)に着手。一気に読了する。夜は部屋を片づけて、リアスピーカーの正確なセッティングをする。確実に響きは良くなった。

■ 今日の『笑う犬の生活』中のコント、「タクシー」はかなりの傑作だった。映画好きのウッチャンの好みが反映したのか、不条理喜劇の趣が強く、ちょっと手を加えれば、そのまま『世にも奇妙な物語』の中の1本で使えそうだった。そうか、よく考えると、ウッチャン演じたタクシーの運転手は映画『たどんとちくわ』の役所浩司の役と似ているな。ちなみに、『たどんとちくわ』には作家に扮した真田広之が、いきなり店で、「奥さん、色紙を持ってきなさい」と言うシーンがある。これは渡辺”失楽園”淳一先生がモデルという噂である。

■ 『噂の真相6月号』の、「性差万別」。自分語り云々よりも、「僕」が気になったのは、「僕問題」。
「僕僕僕僕と無自覚に連発する人は、自らの『男の子』性を一瞬たりとも疑ったことがないんだろうな、と解釈されてもしかたがない」
「筒井康隆の『おれ』やビートたけしの『おいら』や町田康の『自分』にはまだしも含羞があるけれど、軽い甘えと幼さと感傷を含んだ僕には微妙に鈍感な感じがする」
 うーむ、これは言外に「大人は僕と使うな」(一人称にはどれを使ってもいいけれど、という一文はあるけれど?)って言っているわけでしょうか? 自分語りが鬱陶しく感じられるのは、「私」や「おれ」や「自分」でも同じ、ではない? ちなみにジェンダーが刻印sれている度合いでは「オレ」のほうが、強いと思うのだが、そのあたりはどうだろうか。例えばフィクションでは、男臭いキャラクターにはおおむね「オレ」という一人称が与えられる場合が多いようにも思う。そういえば、本田勝一が「僕を使うと、チンチンがなくなったような感じがする」とどこかで書いていたような記憶もある(まちがいかも)
 「性差万別」の本質的な主張はともかく、そこで指摘されている「自分語りの問題」は、「僕」という主語の選択とは、あまり関係がないんじゃないだろうか? 
 そういえばボクら、ボクらと連呼している週刊誌も世の中には……。

5月15日(月)

■ いろいろと番狂わせがあって、バタバタしたものの最終的には落ち着くところに落ち着きました。まあ、めでたしめでたし。というわけで、出勤するつもりだったのを、在宅勤務に変更した1日。仕事をしようと少しばかり呻吟するが、意外に難しくて難儀する。今週中にメドをつけないとヤバいかも、とアセる。

■ なんだかとても眠い1日。本を読んでいると、突然前後不覚に眠り込んでしまう。睡眠のお供は『映画狂人日記』(蓮見重彦、河出書房新社 2000円)。本格評論集よりもずっと読みやすいので、ありがたい。

5月16日(火)

■ 五反田方面でお食事。ごちそうさまでした。いろいろしゃべり倒してましたが、酔っぱらいですみませんです。

5月17日(水)

■ 『岸和田少年野球団』観る。脚本は前作と同じNAKA雅MURA。要領のいいシナリオで、安心して楽しめる出来映え。このクラスの映画がそこそこヒットするといいな、とは思うのだが、そうはならないのが現実。もちろんこの映画は単館公開だし。1800円でもっと納得できる娯楽が多いのだ。1000円なら視聴者の納得度は高くなると思うのだけれど。

■ 『Nia_7』観る。うーむ、どんどん調子が出てきていてスゴイ。1話観た時はそこそこという印象だったけれど、登り調子の勢いが感じられるのであった。演出の緩急がなかなかいい。日記でしめる構成もグー。

5月18日(木)

■ 新宿でちょこっとお酒。ビデオを渡したり、いろいろ辛口なご意見などうかがったり。珍しく日付が変わる前に帰宅。

5月19日(金)

■ 神保町でうち合わせ。

5月20日(土)

■ 村上隆×東浩紀トークショー@パルコギャラリー。いろいろと思うことは多かった。それから焦りも同時に。

■ 帰宅したら急にダルくなってきた。どうやらカゼのよう。