2000年3月


3月1日(水)

■ なんだか寝不足続行中。とはいうものの『心霊写真』読了。力作であった。というわけで今日の獲物を列挙。『Palepoli(新装版)』(古屋兎丸、青林堂 980円)、『コドク・エクスペリメント 1』(星野之宣、ソニー・マガジンズ 850円)、『東京大学物語 29』(江川達也、小学館 505円)いつもの通り。『ブレア・ウイッチ・プロジェクト・ザ・コミックス』(ジョナサン・コーエン、山崎峰水、奥瀬サキ、前田真宏 角川書店 600円)レアモノコレムター意外は別に買わなくてもいいような。映画が一発ネタだから、あまり手を変え品を変え、できないところが苦しい。『アックス 13』(青林工藝社、933円)平口広美特集はなかなか面白かった。復活ガロ本誌より、ずっといいかんじの雑誌であるのは、もうみなさんご存じよね。、『GUNDAM CENTURY RENEWAL VERSION』(樹想社、銀河出版 4000円)あれ、ウワサでは書き下ろしが少々入ると聞いていたのだが。 

NF■『心霊写真』(小池壮彦、宝島社 680円)

 明治初期から現代まで、「心霊写真」の変転を鳥瞰した、いわば「心霊写真史の提案」、といもいうべき力作。ここでなぜ「提案」と付け加えたかといえば、こうした鳥瞰図が広く一般に受け入れられたときにこそ「歴史」と呼ぶべきだと僕が考えているからで、世間的な意味では同書は立派に一つの「歴史」を示していると思う。
 筆者はさまざまな資料を基に、僕たちが今知っている「心霊写真」がいかに生まれるに至ったかを丁寧に追った。個人的に新鮮に感じたのは、「心霊写真」という言葉が大正時代に一種の"学術用語"として考案されたとい事実と、それが'70年代になるまで一般的にはあまり流布していなかったという指摘だ。もちろん事実の指摘だけでなく、なぜそういう事態が出現したかも細かく書かれている。
 漠然として当たり前に受け入れてきた言葉の成立を知れば、その行く先も知ることができる。かつては二重写しなどで「幽霊」などの実像が映ったものこそが「幽霊写真」と呼ばれていたはずだが、やがて実像が映っていない普通の「写真」の中の細部に、幽霊の存在を探すポストモダンの状況に突入するようになった。筆者はそう書く。そして現在は、そのポストモダンを踏まえ、「本物の心霊写真」がなかなか表に出ることがないのは「何らかの理由で隠蔽されているから」という一種の陰謀論のレベルで、受け入れられているという。
 このようにこれまでの状況が整理して語られるので、僕はその延長線上に「心霊写真」の将来の姿を想像してしまった。僕は、やはりネットが鍵になると思う。レタッチされもっともらしく幽霊や妖怪の陰がつけられた画像ファイルが、21世紀の「心霊写真」になるだろう。その「写真」にはテレビ画像の取り込みももちろん含まれる。そして、写真にまつわる物語とともに、掲示板やメールなどに姿を見せるに違いない。その由来は「本物であるが故に表に出なかった」という一種のアングラ情報の体裁をとるだろう……。
 一方筆者は同書の中で、少し前の写真ブーム、プリクラ・ブームの中で高校生らが心霊写真をなぜ発見しないのか、という問いかけもしている。そこで筆者が導き出した答えは、とりあえずのものという印象があるのだが、それに従えば、もしかすると今後は「心霊写真」のブームは訪れない可能性もないわけではない。
 以上、さまざまな考えを巡らした。実は、このように未来予想が可能になることこそ、「歴史」があることのの一番の役割ではないだろうか。つまり同書はその役割を立派に果たしているのである。

NF■『神の子どもたちはみな踊る』(村上春樹、新潮社 1300円)

 ずいぶんと直接的な内容だ。前作『スプートニクの恋人』ではこれまで以上に鼻についた回りくどいレトリックはなりを潜めた。この小説で「あちら側」の世界を表現するときに登場するのは、言葉が悪いかも知れないがありきたり、といってもいいような表現だ。それは『レキシントンの幽霊』あたりから短編で実行されている、引き締まった文章によくなじんでいる。読んでいるときは、そのありきたりさが気にならないぐらいだ。これは嫌みではなく事実そう思える。ということは、作者には直接的な表現を使わざるを得ない動機があったのだ。僕にはそう思える。
 また、この小説では『アンダーグラウンド』以降、作者が口にしてきた「ジャンクな物語をめぐる宗教と小説の関係」も登場する。これもまた、ストレートすぎるほと直接的だ。表題作では登場人物は、個人の物語と宗教の物語を行き来する。『かえるくん、東京を救う』のかえるくんとは小説家(あるいは小説そのもの)で、みみずとはあらゆるルサンチマンを飲み込んだオウムに代表される宗教ではないか。そして、かえるくんとみみずは実は同じ存在でもある。だから、かえるくんは死ななければならないのだが……。こんなふうに、宗教と小説の関係もまた、ずいぶんとストレートに小説の中に取り込まれている。
 そして、作者が口にするコミットメント、ということ。物語を語る人間が他の人にできることは何か? 書き下ろしで収録された『蜂蜜パイ』のラストにそれは書かれている。
 村上春樹は、それまで「理由が不明のまま去ってしまう妻、恋人」というモチーフを繰り返してきた。それはかつては、彼女たち自身の理由であることがほのめかされていた。彼女たちは、草原を歩いているといつの間にか「野井戸」に落ちて、姿を消していたのだ。しかし、『スプートニク〜』以降、それはすこし変化をし、この作品では姿を消す理由は、主人公の側に原因があったことになっている。だからこそ、彼らは親しい人が「黒い箱に閉じこめられ、さらわれてしまわないように」、、物語を語らなければならないのだ。それが小説家がコミットメントすることへの現時点での回答であろう。
 この小説は、そんな村上春樹の決意表明に違いない。だからこそ、直接的な比喩、わかりやすい構造をつかって語られなければならなかったのだ。これまで以上に、村上春樹はこの小説の内容を多くの人に理解してもらいたがっている。
 
3月2日(木)

■ 『リサイクルビン』(米田淳一、講談社 340円円)を読む。ガジェットテンコもりで、なおかつどれも全力投球という感じ。その分お互いの印象がうち消し合っているような……。でも中途半端にSF要素を入れた『アナザヘブン』より、謎解きとその結論は知的ゲームになっている。物語のキーポイントの一つは藤子・F・不二雄風味か? 今後の精進に期待。続けて『D.O.A 地雷震』(新田隆男、講談社 740円)に取りかかる。新田隆男氏は、映画『うずまき』などを手がけた脚本家ですね。ところで、折り返しの似顔絵は……、高橋ツトム氏の絵だが、似ているのか? 
 これ以外にも『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(大塚英志 講談社 880円)を買うなど、めずらしくノベルズばかり。サイコが厚さの割に高いのは、角川書店との絡みなのかしらん(邪推)。

3月3日(金)

■ 午前11時から仕事。こんなに朝早くからバタバタするのは珍しい。この仕事で表参道まででかけた。東京に出てきて丸3年になろうとする僕だが、未だに表参道と六本木は「都会だなぁ」と嘆息する街である。

■ 時々、自分がどんなページにリンクされているかを、検索エンジンやウルトラランキングのアクセス解析を使って調べる。先日やはりあるリンクページにこのページがリンクされているのを発見した。実にありがたいことである。ただそこには「ぴょん太の観察日記がおもしろい」というコメントが書かれていたのである。うーん、ありがたいことではあるのだが、あの観察日記(日記ログ99年8月1日分)は、実は私が書いたものではなかったりする。3年間のうち一度だけあったそういうイレギュラーの日を面白いと感じた方には、そのほかの日は退屈だろうなぁ。などと遠い目。

■ 夜、仕事に煮詰まりながら、『Robot−ism』について雑談メール。さらにその後、自称パン屋志望者さんから電話がかかってきて、30分ほど『MEAD GUNDAM』や『Robot−ism』について雑談。でも雑談以上に重要な話題として、不景気話がありましたとさ。とほほ。そういえばソニー・マガジンズの『きみとぼく』がサヨナラ、とか。『バーズ』より売れてなかったらしいから、入れ替わりか?(邪推)。どこもかしこも、不景気の模様。

小説■『D.O.A 地雷震』(新田隆男、講談社 770円)

 原作マンガ『地雷震』の魅力とは、それそのものがテーマになりそうな難しい題材を扱いながら、ちゃんとエンターテインメントに着地させている部分だ−−そんな評を週刊誌で読んだことがある。僕自身は、別冊で出た「少年A事件」しか読んでいないのだが、その評は的確だと思った。
 で、オリジナルストーリーのノベライズ版である。
 ここで巧みだったのは二つ。一つは、犯行の動機の設定と、その殺人のプロセスの関連づけ、だ。込み入った設定にして犯罪者が主人公たちを食ってしまうことなく、なおかつ現代的な犯人像を巧く作ってあった。小道具もわざとらしくなくて効果的だ。この犯人像の設定で、だいぶ原作の雰囲気を守ることに成功している。
 もう一つは、物語の構成の巧みさ。飯田響也というキャラを立たせるためのイベントが実は物語の発端だったり、物語の折り返し地点でヒロインが拉致されクライマックスへ向けて、物語の方向性がぐっと絞り込まれるなど、観客のテンションの上下に合わせて情報が開示されたり、物語が進行するのが心地よい。
 合間に差し挟まれる刑事という仕事について思いを巡らせるくだりも、作品に深みを与えている。これもまた論考のための論考だったり、ヘンなブンガク趣味として描かれているのではなく、『地雷震』の世界が持つ、ムードを捉えるための装置だろう。そのバランス感覚が、作品全体に上手く働いていると思う。
 とはいうものの、僕はこのジャンルが不案内なのでその筋に詳しい方がどのようにこれを判定するかは興味のあるところではある。OVAを見るような感じできっちりと楽しめたので、僕としてはオッケーでしたが。
3月4日(土)

■ グースカ寝る。食事して帰宅して、夜中にテレビをつけたらWOWOWで『ブギー・ナイツ』をやっていた。後半の一番ツラくて、一番面白いところを見て、涙しつつ、絶賛モードに突入。これを見ながら、ナンシー関のコラムのもつ、面白いけれど、冷たい感じを考える。ラスト直前に流れるビーチボーイズがグっとくる。その後に『ムーラン』をビデオで見る。ムーランはやはりキュートだ。

3月5日(日)

■ 寝て起きて、映画に行こうと思った。ところが、銀行のカードを紛失していることがわかったり、立ち食いうどん食べている間になんだか疲れてきたり。そこで映画をやめて帰宅し、グーグー眠る。布団の中のお供は『D.O.A 地雷震』。原作はほんの少ししか読んだことがなかったのだけれど、たいへん楽しく読めました。

■ 『笑う犬の冒険』を見ていると、冒頭とEDのバンドの使い方とかが日テレ風味に感じるのは俺だけ? バラエティに疎いからあまりよくわかんないんだけど。

3月6日(月)

■ へんな時間に寝たら、睡眠時間が不規則になって午前4時ごろに目が覚める。それから、エクセルで仕事の資料を作ったり、二度寝したり。最近、つとに睡眠が浅くなって、すぐ目が覚める割には熟睡感がなかったりする。年だねぇ。それから闇のお仕事へ。
 午後一杯かかって機械的な作業。ずっと立ちっぱなしだったこともあって、さすがにクラクラしてくる。それから、先日の仕事の打ち上げに。冷酒と不思議な料理、美味しゅうございました。ヘタレな人の話題も少々(笑)。それから、あまりにお決まりではあるがカラオケ。どうやら東映系はアニメの絵が出るらしく、出そうな作品を選んでセレクトして遊ぶ。『乙女のポリシー』に、劇場版『セーラームーンR』の絵が被さって、センチメンタルなツボを押されて思わず落涙してしまう。これも年だねぇ。
 「乙女のポリシー」は昔、暗室の中でよく口ずさんだものよ。
 

3月7日(火)

■ 天気がよくなった途端に花粉症がツラくなり、鼻梁の脇が重く感じられ、頭が朦朧とする。というわけで、オレ的には今年の春は今日からということに決定。これでも、痒みで目を明けることができなかった幼稚園のころよりははるかに過ごしやすくなった。朝目が覚めると目やにで目が開けられないというのは本当にツラかった。当時は、今のように花粉症なんていう俗語がまだ定着しておらず、もっぱらアレルギー性鼻炎と呼ばれていた。当時はこれまた今のように嫌煙権とか公共の場所での禁煙とかが普及していなかったので、通院していた耳鼻科の待合室は、いつも紫煙でもうもうとしていた。このタバコの煙がまたツラかった。
 鼻が詰まるので、寝るとどうやらいびきをかいているらしい。しかもいつものいびきとは響いてる場所が違う感じ。というのも、自分のいびきを目が覚める瞬間に感じたことなのだけれど。

■ 昨日打ち上げをした闇の仕事が好評なようで、一安心。
 
■ 『アナン』を昨日から読み始め、上巻読了。『アナザヘブン』よりずっとこちらのほうが完成度が高い。もう少し文章にコクがあってもいいとは思うけれど、童話めいたこの物語ならそれもまたふさわしいような感じがする。さて、これにどのようなラストを用意しているのだろうか。

■ 『広告批評』(マドラ出版 590円)いろいろと思うところはあるのですが……。『彼氏彼女の事情 9』(津田雅美、白泉社 390円)安定はしてるけど、平均的な少女マンガ、というところでしょうか。『気まずい二人』(三谷幸喜、角川書店 533円)けっこう後で気まずくなるように書き足してるんでは……と思わず疑ってみたり。『SFが読みたい 2000年版』(早川書房 620円)世の中には面白そうな本が多いことよのぉ。『編集会議 創刊特別号』(宣伝会議 880円)そしてまた雑誌もたくさんあることよのぉ。『創 4月号』(創出版 550円)野村沙知代の態度を見て、ある人物を思い浮かべる日記書きの人もまたいるであろう。「リラックス」復刊の過程はすがすがしかった。とはいうものの読者じゃないけど。『ああでもなくこうでもなく』(橋本治、マドラ出版 2350円)もう10年以上読み続けているけれど、いわゆる在野の哲人ってやつですね。学問的な正統性ではなく、強靱な胃袋でなんでも咀嚼するタイプ。小説はちょっとコンセプトが優先されすぎのような。『新ゴーマニズム宣言 8』(小林よしのり、小学館 1100円)7巻はシュリンク包装されたままです。これもおそらくそのまま本棚行き。『口裂け少女さっちゃん』(大塚英志、大橋薫 角川書店 600円)うーん、完成度とかなんとかではなく、オレの口に合わなかったというところか。続きを買うかは微妙。 

3月8日(水)

■ えーと、何をしていたのだったか。パルムドール受賞作『ロゼッタ』の試写会の後に面白そうな仕事の打ち合わせに。あまりに花粉症がつらくて、クスリを買う。「比較的眠気をさそう成分の少ない」クスリを買うが、「比較的」という表現が、なんとなく心許なく感じられたり。しかし、服用後はバッチリ頭がもうろうとしましたとさ。

3月9日(木)

■ 午後2時から渋谷で仕事。なんとか無事に終わったような。その直後に『アナン』読了。物語は、おさまるところへとおさまりましたとさ。

3月10日(金)

■ 一度帰宅してシャワーを浴びて、そのまま浜町へ。午前10時から午後4時までバッチリと働く。途中段取りが不明な事態も発生しかけたが、無事終了。それから浜松町で仕事。途中、密談で抜け出すも、午前2時半には帰宅。

■ ちかごろ知人から聞いて盛り上がったのは、BSマンガ夜話『陰陽師』の回における、いしかわじゅん氏のヘタレぶりについて。まあ、別の知人も「西原理恵子」の回を見て、「いしかわじゅん、にんげんがちっちぇ」と叫んでいたなぁ。

■ 思い出したように、飯田橋で本を大量購入。とりあえず『JOJO A GOGO』(荒木飛呂彦、集英社 6800円)重い、と書いておこう。アニメ誌関連、『噂の真相』『∀ガンダム フィルムブック4』などを購入した。
 「ウワシン」で一番笑ったのは次は一行情報。風水のDr.コパのアドバイスは「その日の気分で決めている」と本人告発説。つい、「やっぱりね」と、膝を打つようなリアリティを感じるのはオレだけだろうか。

■ おお、今回のアニメージュの付録。こ、これは……。記念にとっておこう(笑)。

3月11日(土)

■ 激しく眠い。起床して、月曜日の準備を始めるが、そのまま布団で眠りこけてしまう。さらに池袋の天下一品で夕食食べるも、その後も墜落睡眠。全く何もやらないのもしゃくなので、突然思い立ったようにプレステで『GT2』をプレイする。でも、30分ほどで飽きる。まあ、こんな日もあるだろう。

■ 『CDTV』を見ていたら『dream』という娘3人組が出てきた。振り付けがとにかく変だ。頭のよこで拳をくるくる回したり、二人がのばした手を中央のヤツが握らせたり……。歌もヘタだし、奇妙きてれつな振り付けの除いても踊りそのものもヘタ。しかも顔も……なぁ。まあ、顔はどうとでもなるけど。ともかく、こういう人たちがデビューしてしまうなんて、芸能界は怖いところだな、と思いました。

3月12日(日)

■ 珍しく朝から起きて、映画館へ。とはいえ、眠気はおさまるところを知らず、帰宅後も、うとうと。春眠暁を覚えず、というヤツなのだろうか。ああ、やらなければならないこともいくつかあるのに。

■ 感想を書いた『ルーカスを超える』から派生して、僕のエンターテインメントに関する評価軸みたいなものを、覚え書きとして書いてみたい。以下、ヒットさせようと画策すること、ヒットしたこと、作品の評価、という3ブロックで考えてみる。
1、ヒットさせようと画策すること
・日本映画、日本のアニメには100万人(比喩)からお金を搾り取ろうという「ロジック」が欠けている。
・そのため大作であればあるほど、失敗しやすい。
・「ロジック」の欠如は、一人の才能に頼りすぎた作品作り体制の結果である。
・裏返せば、大勢の知恵を集約する仕組みが一般化していない。
・これらの問題点はクリエイターだけでなく、出資者もまた抱えている。
・誰のために宣伝するのかが明確であったほうがいい。
2、ヒットしたこと
・ヒットには理由がある。その理由がちゃんと分析できると、二匹目のドジョウが得られるし、3の作品のクオリティそのものに反映されてくる。その逆も可能。ヒットした作品は傑作という論理で語る場合は、この2についての話題になり、3とクロスオーバーしながらも、違う種類の批評、評価となるであろう。
3、作品の評価
・1、2、と3は全く無関係に、作品の評価というものが存在する。この時は、クリエイターの言葉に騙されず、できるだけ虚心坦懐に作品を見ることで見えてくる。クリエイターのモラル(テーマといってもいいか?)を裁いたり評価したりするのでなく、作品の全体像をいかにとらえるかが重要。

■ こうやって書き出してみると、自分の考えの足りない部分が見えてくる。特に2番目は、今後もいろいろと変わってくるだろう。例えば、『やまだ君』は、1がまったく欠けていたために作品の規模に見合ったヒットにならなかったが、作品そのものは評価するというのが、私の姿勢だ。(それに、大作映画がコケるということほど「映画」的なこともないと思うので、それも含めて、アレはオモシロイ作品だったと思うのだが)。1の部分が一番綿密な日本のエンターテインメント産業は、『少年ジャンプ』と『少年マガジン』であろう。 というわけで、日本映画界などはジャンプやマガジンの編集者をシナリオ担当プロデューサーとしてスカウトしたらどうか。

映画■『マグノリア』

 人間にはどうしようもないことがある。それはどこか外部からやってきて、自分を翻弄する「運命」だけでなない。それ以前に、その人間にとって自分自身がどうしようもない存在であることのほうが多いのだ。不条理なのは運命以上に、自分自身の存在が不条理なのだ。「吐き気がするほど愛している」。そんな矛盾めいたセリフに代表されるように。
 この映画の登場人物達もまた、自分自身のどうしようもなさに突き動かされている。どうしようもないこと、というのは当たり前の話なのだが、どうしようもない。変えることも、消し去ることも、忘れることもできない。しかし、この冷徹な真理ををポール・トーマス・アンダーソンは、冷徹なままに描かない。どうしようもないことを、変えようとしてもがき、消し去ろうとして努力し、忘れようと自分を騙すそんな人々の姿を、愛情を持って描いている。そして登場人物の多くは、どうしようもないことを、どうにかすることはできない。自分は自分でしかいられないのである。
 とはいうものの、この映画の最初と最後ではいくつかの変化が起きているのも事実だ。恋愛が芽生えかけ、だめな人間は悪事を思いとどまり、子どもは父親に決定的な言葉を告げ、罪は明らかにされる……。でもそれは、どうしようもなさをクリアにしてしまうようなハッピーエンドとは違う。これらの変化は、それよりもはるかに数多いどうしようもなさが不可欠なのだ。ここで明らかになっているのは、新しい人生なんていうのは始まりはしない、ということ。どうしようもない人生を希望を持って生きていくという矛盾こそが人生であるということ。吐き気がしなければ、愛情が語れないように、どうしようもなさがなければ希望も持てないように。

NF■『ルーカスを超える アニメ・ゲームビジネス創作術』(寺田憲史、小学館 1400円)

 筆者の体験的エンターテインメントビジネス論の、というところか。この場合、クセものなのは頭についた「体験的」というヤツだ。体験的というわけだから、専門(この場合はシナリオ)の世界が持つデティールこそ面白く読める。アニメの現場、ゲームの現場にどんな人たちがいて、どんなシナリオがどんな風に書かれているか、という手触りみたいなものは伝わってくる。(カナメ・プロのOVA『バビ・ストック』の話題が出てくるところなんて、マニアはついつい苦笑するに違いない)
 けれども、その根底にあるはずの「基礎理論」は見えてこない。骨太のエンターテインメント志向を掲げひ弱な芸術論を批判するのであれば、エンターテインメントには何が必要なのか、物語はどう語られるべきか、そこに落とし穴はないのか、といった積極的な創作論が語られるべきではなかったのだろうか? こうした本で筆者の自伝的要素だけが際だち、創作論が抽象的になりがちなことそのものに、筆者が批判する「ひ弱な芸術論」が生まれてしまう素地があるのではないか。
3月13日(月)

■ 上井草方面で仕事。終わった途端に気が抜けて、ふにゃふにゃになってしまう。昨日あたりから花粉の量が増えているらしく、クスリを飲んでも、微妙に鼻づまりをしている。それが頭が朦朧として、ふにゃふにゃな理由かもしれませんが。帰宅して、山積みになってしまった本の類を、読みながら、夜を過ごす。『まんだらけZENBU』で金山明博氏のインタビュー読む。劇画とアニメのリンクについてその雰囲気が伝わってきた。うーむ、このところ自堕落だなぁ。

コミック■『王道の狗』(安彦良和、講談社)

 掲載誌の休刊に伴って、急転直下で完結させたとしか思えない部分が多く、非常に残念な結末となった。特に、加納が風間を殺した後の「オレはオレの半身を殺した」というセリフがどこへも回収されないままになっているのは、どう読んでも未消化な印象が残る。「王道」と「覇道」という絶好のキーワードを得たことで、常に主人公と副主人公の対立軸で物語を転がしてきた、作者にとって決定版ともいえる作品となる可能性を秘めていたと思う。また、『虹色のトロツキー』以上に、歴史の深みへと足を踏み入れていただけに、史実とフィクションの連関の手腕もまた楽しみであったのだが……。
 
  なお、個人的に安彦作品で一番完成度が高いと思うのは『イエス』で、次が『ジャンヌ』である。
3月14日(火)

■ 春眠暁を覚えず、な一日。会社に行って仮眠室に入ったら最後、出てこれなくなってしまった。それにしても仮眠室、換気が悪いのでなんとかならないか。

■ 12日分の日記について、知人の方からメールを頂いたのだが、それでちょっと気になったことが。アニメとか映画とかの制作者たちは、興行的にコケた後、反省会を開いていないのだろうか? あるいは興業分析家みたいな人(果たしてこういう人って日本にいるのか? 大高宏雄氏?)から意見を聞いて、「次の作品は当てよう」とか方策を練ったりしないのか? だから、なんどでも同じ間違いをしたような作品が生まれて、犬死にしていくのか? 『ルーカスを超える』に、日本の銀行にはエンターテインメントを理解できる人物がおらず、資金調達が難しい、というくだりがある。確かに、日本の銀行(これにスポンサーを加えてもいいだろう)は、シナリオを読めたり、コンテを理解するノウハウは持っていまい。だが、では仮にシナリオなどを分析できる人物がいたとして、今の日本映画のような企画をもっていって、果たして融資してもらえるのか? (逆にいえば、ハリウッドの作品の多くがファミレスのメシみたいになっているのは、結局その程度の内容でないと融資が受けられないからではないか? 向こうの理解力も大したことはないのではないか?)バケツに穴があいたまままであれば、どんな企業も、そこに水をそそぎ込むのに、二の足を踏むだろう。
 このあたりについてのいい参考書をご存じの方は、教えて欲しい。

■ ここで誤解があると困るので付け加えておくと、別に僕はヒット至上主義者ではない。ただ、そのバランスがあまりに崩れていると、産業としてヤバイのではないか、ということを言いたいのだ。端的にいうと、日本映画は、広く人を集めるヒット作を出して産業全体に資金や人材が集まるようにバランスをとるべきだ。一方、アニメは、狭いターゲット以外にも視野を広げないと、質そのものが袋小路に入ってしまうだろう。その欠けている部分を補うにはいったいどうしたらいいか、それが僕の興味関心なのである。

コミック■『ローズ・ガーデン』(わかつきめぐみ、講談社 752円)

 相変わらずのわかつきめぐみの世界。僕が高校時代に読み始めた時から、ほとんど変わることなく、その世界は続いている。
 かつてこの世界に憧れたことがあった。それは、「どこかにこんな世界があるなら、それに参加したい」という気持ちだった。少女マンガを好きな男性なら、多かれ少なかれそんな切ない気分を抱えながら少女マンガを読んだことがあるんじゃないだろうか。
 そして今も、わかつきめぐみの作品を読むと切なくなる。ただ、それは10代の時に抱えていた切なさとは決定的に違う。今切なくなるのは、もはや自分がこんな少女マンガの世界に参加できないことがはっきりしているからだ。自分が参加を望みながら、一度も参加することのできなかった、少女マンガの世界。それは、自分のものになったことなどないはずなのに−−あるいは、それゆえに−−決定的な喪失感を感じさせる。今、わかつきめぐみの作品を読むということは、その不思議な喪失感と向き合うということなのだ。
 
3月15日(水)

■ なんだか風邪気味風味なので、さっさと寝る。

3月16日(木)

■ 風邪気味風味は続行中。寒気はしないが、眼精疲労と関節が重たかったり。酒を飲んで寝る。

3月17日(金)

■ 午前中は在宅勤務。風邪気味だったのはすっかり回復した様子である。いつもの通りお仕事の週末である。このところ読み進めているのは『レクサスとオリーブの樹』。上巻を読了。納得できる部分と、いまいち納得しきれない部分が混在する。でも、きっと外為関係者とかは、納得するんじゃないだろうか。そういう手触りのある本。

■ 明日から少し所用で静岡県に出向くので、日記の更新はできない。

■ 理由はよくわからないがなれなれしいメールが届く。世の中にはウソつきとヘタレが多いから用心用心。

3月18日(土)

■ 久しぶりの浜松。話すのと、飲むのとで忙しく、予想以上に酔っぱらう。それにしても「ぜんすけ」がいまだに営業中で、極初期からのお客としては嬉しい限り。3階は模様替えされていました。「ぜんすけ」の後は、カラオケで大騒ぎ。

3月19日(日)

■ 知人宅で起床。お子さんと一緒に、デジモンやCSのドラゴンボールZなどを見ながら、朝食をごちそうになる。うーん、酒が残っている模様。ヘロヘロのまま藤枝へ向かう。自宅で寝る。夜はまたもや宴会、酔っぱらう。

3月20日(月)

■ 目が覚めて、地に足がつかないような感覚のまま東京へ。休日だが仕事の打ち合わせを代々木で。その後、書店を巡って帰宅。なんだかヘトヘトに疲れているので、そうそうに寝る。

3月21日(火)

■ 夜に渋谷でうち合わせ? そのわりには日本酒とかいろいろ飲んでしまったような。

3月22日(水)

■ 昼に池袋でうち合わせ。

3月23日(木)

■ 上井草方面で夜にうち合わせ。調子に乗っていろいろと話をしてしまったような。それから、その場で宿題をもらうのだったが……。

3月24日(金)

■ 普通の仕事の日。小松原一男氏の訃報を電話で知らされる。ご冥福をお祈りします。

3月25日(土)

■ 明け方に仕事を一件終わらせる。

■ 映画『トイ・ストーリー2』見る。面白い。が、あらゆるシーンにサービス精神が充満しすぎていて、まるで強迫神経症のようである。そういう意味で僕はかなり胃もたれした。実物の人物をCGで描く方向性が、マンガ的リアル、であるのが印象に残る。有楽町の中華料理店で食事をして帰宅。

3月26日(日)

■ ドイラ『ビューティフル・ライフ』最終回を見る。これまたTOO MUCHな作りで、ヤレヤレという感じ。僕がそれまでを見ていないことをさっ引くにしても、あまりにドラマに緩急がないのでは? 通常の3倍の密度で演出する某監督なら15分でやるな。(まあ、それだとついてくる人が少なくて、きっとこんなに視聴率トレないだろうけれど)

3月27日(月)

■ 仕事を予想以上に引っ張ってしまい、昼過ぎにけりをつける。それから上井草へ出向き、新宿へ。

■ 新宿では、テクノ系&Gなイベントに。酒をのみつつ、踊る人々などを見る。僕の手前にいた、あまり可愛くないお姉ちゃんがそれでも、曲がが進むうちにだんだんフロアの中心に出向いて踊るようになってくのが観察できて面白かった。やはり、こういう風景を見ると、肉体から出発して、しかし身体感覚から脱するというのは当たり前のことだな、と思えてくる。安易に、身体感覚などという言葉を使うことをやめようと思う。あとは、師匠と弟子の関係についていろいろとうかがう(笑)。お開きになった後、不徹底だった仕事のフォローをして、西巣鴨のファミレスで6時過ぎまで過ごす。

3月28日(火)

■ 仕事をしてたんじゃないかなぁ。

3月29日(水)

■ ごく普通にお仕事の日、だったはず。

3月30日(木)

■ おめでたい?宴会に出席。うーん、やはりこの1年間俺は相当オイシイ目にあっていたのだと思う。ここ20年ぐらい、こんなオイシイ役回りはなかったぐらいに。あと、思ったのは読者が多くてカッコいいぞ氷川竜介氏! とか。新宿から新橋を回って、シメ。

3月31日(金)

■ 有珠山噴火で、∀最終回の放送がトブ。あちゃー。