2000年2月下旬


2月21日(月)

■ しかし腰が引けたままタコ殴りポーズだけ取ってても、と思う部分がないわけではありません。という元発言を探すがうまく見つからない。でも、今はちょっと面白くなってきたから、まあいいか。(ただ、僕が田舎者なのは当たり前だと思うのだけど、どうしてわざわざ指摘するのだろう?)

■ 仕事とネットで終わった1日。昨日のウイスキーが効いているのか、終日眠い。もう少しで峠を越えるのでそうしたら、ちゃんと日記を書こうと心に決める。

■ 念のため追記。ご本人の日記で、16日付けでいただいた「言い訳」メールは、ウソである旨が書かれていました。そうでなくっちゃ。

2月22日(火)

■ ええと、仕事をしていたような。

2月23日(水)

■ 忙しい日。しかし、振り返ると何も思い出せなかったり。あちこちからファクスや郵便物が送られてきて、2ヶ月ほど前に整理したばかりの会社の机がめちゃくちゃになっている。こうなるとかえってヤル気ゼロになるんだよなぁ。

2月24日(木)

■ なんだかんだと忙しい一日。本業と闇の仕事と。深夜になると『∀ガンダム』の以前の放送をついついビデオで見てしまう。

2月25日(金)

■ 神保町で買い物をしてから、会社へ。夕方以降外出し、渋谷でいろいろと密談(ウソ。今月のボス@サイゾーが手がけた「まんがビデオ」の悪口をさんざん言っただけです)などした後に、帰社しまた仕事。さらに、帰宅して闇の仕事。おもったより手間取る。しかし、ピークは過ぎた。一安心。

■ 『MEAD GUNDAM』(編・監修、高橋良平 サンライズ 講談社 2800円)購入。まさかこの判型(A5)で出版されるとは。もっと大きな画集サイズを想定していたけれど、確かにこれだけの分量があれば、こうもなろうというものだ(一部富野ゼリフ)。ヒゲについてはいろいろ考えていることが多いので、この本をパラパラと読んだだけで言葉が少なくなってしまうのだった。

■ そのほかここ数日で購入したもの。『モデルグラフィックス4月号』、『ホビージャパン4月号』、『キネ旬ムック マンガ夜話』、『CUT』(山形氏の書評に何の前提もなしに登場するタニグチリウイチ氏。肩書きを付けるならオタク系書評家? 潜在型有名人ウォッチャー?)、『別冊宝島 裸の王様NTT』(そういえばサークルの先輩が2人勤めていたなぁ。今はそれぞれアメリカと浜松だったかな)、『別冊宝島 お宝コミックランキング』(企画意図はわかるが、ボリュームに対してネタのバリエーションが限界があったか)、『フェミニズムセックスマシーン』(砂、太田出版 1000円)、『ハリウッドリライティングバイブル』(リンダ・シガー 愛育社 2500円)これはネット通販で購入しようかと思ったら浜松町であっさり発見、『ネオデビルマン3』(講談社 880円)おすすめはとり・みき、黒田硫黄。

2月26日(土)

■ 明け方まで仕事。目が覚めたら午後だった。ここ2週間で荒れ放題になった部屋を少しずつ片づける。が、それにしても本棚に入らなくなった本はいかんともしがたい。珍しくサイモン&ガーファンクルのベストを聴く。

■ 大相撲の土俵に女性が乗れないという一件について。八百長が行われていて、なおかつ権威付けか何かのために政治権力からの表彰を導入している大相撲が、今更、「伝統」というのは滑稽では。女性を土俵に上げたくなければ、政治家からの表彰を廃止すればいいだけなのだ。

■ しかし、皇太子の会見を見て思ったのだが、皇族にはプライバシーってホントにあるのか?

■ 会社への往復で読んだ本の感想などをちょっとまとめて書いておこう。

NF■『マンガは哲学する』(永井均、講談社 1400円)
 こういうタイプのタイトルの本を買って後悔した経験をお持ちの方はいないだろうか。マンガをダシにして、どうでもいい持論を展開するという類の本。ということもあって、実は敬遠していたのだけれど、意外にに評判が高いので買ってみた。一読して、敬遠していたようなことは、この本に限っては杞憂だったようだ。
 一言で言うと、この本は「哲学でマンガを批評的に読む」という内容だった。批評というのは、筆者はマンガの完成度を云々するのではなく、その作品で使われている論理やルールを哲学の言葉であぶりだそうとするのだ。だから、作品が持つ論理の瑕疵などにもちゃんと触れている。しかも、筆者が発見している瑕疵はなかなか普通の人が見つけにくい種類のものである。そのあたりが、この本を読んで一番スリリングなところだった。
 惜しむらくは、批評として完遂するというより、さまざまな作品をさまざまな視点で総論しようとした点。僕みたいにすれた読者からするともう少し作品論を深めて欲しいな、というところで終わりになってしまうのが残念だ。筆者には、本腰を据えた作品論を期待したいのが一介のマンガ読みとしての希望だ。
 
NF■『日本美術応援団』(赤瀬川原平、山下裕二 日経BP 1800円)
 高橋由一という画家の名前を知ったのは、絵を通じてではない。椹木野衣の『日本・現代・美術』の中に引用された、福田和也の『日本の家郷』の文章によってだった。その時も名前はすぐに忘れてしまったのだが、「豆腐」「暗さ」といった単語だけがずいぶん強烈な印象として残っていた。引用された文章と、引用している文章という二重のカッコが、僕にとっての高橋由一の存在をかなり気になるものにしていたのだ。だから、この本でモノクロの「豆腐」をみた瞬間、忘れたはずの僕の頭の中に『日本・現代・美術』と『日本の家郷』の文章が甦ってきたわけだ。
 僕は、絵は好きなのだけれど、いわゆる善し悪しがわからない。好き嫌いは確かにあるけれど、それも不確かだ。だから、前述の二冊(これほど専門的でなくてもいいのだが)やこの本のように、楽しみ方、スタンスのヒントを与えてくれる本を読むことはとても楽しいのだ。言葉を通じて人の見方を教わるだけでなく、なんとなくヘンだな、面白いな、と思ったけれど言葉にできないもやもやとしたものを、形にしてくれることも楽しい。そもそも素人の感じる「面白さ」ってのは専門家にとっては、それなりに
 この本で、そんなモヤモヤが晴れたのは、曾我簫白の「林和靖図屏風」だ。以前、「寒山拾得図」を見たときは、ヘンな絵だなぁという印象だけが先行していた。今回の「林和清図屏風」も、まず見た瞬間にそのヘンさから簫白だな、とは思ったのだけれど、そのヘンさの正体がイマイチつかめなかった。ところが、
 「赤瀬川「(林和靖の)高潔な人格。それがドロンとしている。」山下「そう。それをわざと童子に流し目を送っているエロホモオヤジにしている」。」
 というくだりを読んで、そのヘンさの一部は明確になった。もちろん、まだわからないことは多い。けれど、これぐらい明快にあの表情の不思議さを言葉にしてくれると、とても助かる。こういう言葉が「簫白はこうやって見ればいいんだ」という一種の羅針盤になるのだ。
といっても難しい言葉が飛び交うわけではなく、赤瀬川、山下両氏のコンビの語り口は平易だ。もちろんそれは「乱暴力」とかそういう赤瀬川氏独特の造語センスによる部分も多いので、その点では「もやもや」したものを「言葉」に固定化するというより、「もやもやをそのまま袋につめる」ぐらいの言語化ではある。でも、そのほどほど具合が、僕のようなよくわからないまま絵画に興味を持っている人間がにとっては丁度いいのだ。
 
コミック■『他人の家 1』(深巳琳子、小学館 505円))
 製麺会社(もちろん中小企業だろう)の社長である主人公の父が再婚した。再婚相手は、飲み屋をつぶした経験を持ち、今回が再々婚。主人公と同じ歳でOLをやっている連れ子までいた。でも、一番の問題は、その二人と、主人公である美大生のソリが徹底的に合わないことだった……。
 マンガの魅力の一つはカリカチュア、なんていまさら言うまでもないのだが、このマンガの魅力は、後妻とその娘の造形に尽きる。(主人公の設定もウマいがこれはまた別の機会に)あまりに生々しい「女」ぶりは、「ああ、こういう人っているよね」ユーモアを感じさせながらも、同時に息苦しさもたっぷり。そのあたりに作者のイジワル(ほめ言葉)目線が感じられ、こわいものみたさもあって続刊を期待してる。ところで、彼女はこれ以前に何か書いているのでしょうか?
 
コミック■『平成イリュージョン』(小だまたけし、メディアワークス 850円)
 もう一つの日本の姿を描いた短編で、電撃ゲーム3大賞の大賞を受賞。読みやすい絵、複雑な設定を分かりやすく織り交ぜた物語、自らの欲望を節制した演出と、バランスのよい作品。ただ、太平洋戦争を経験しなかった日本を描くということは、現在と過去のモラルをともに試すことになるはずだ。もちろん短編だから、そんなに大きなテーマに触れることはできない。ただ、それを作者が意識しているかいないか、がこの世界を「趣味」で作ったか、「テーマ」を描くために設定したかの差になって現れるはずだ。この作品では、登場人物がもう一つの世界(つまり読者がいる現実の日本)を幻視するシーンがある。このシーンを、先に書いたモラルの問題と関連づけて読むかどうかでこの作品の評価は変わるだろう。とりあえず僕はツッコミ不足な感じ(表現が練れていない感じ)がするものの、好意的に評価するのだけれど。
 しかし、もともとは違う世界に見える話を強引に「平成イリュージョン」としてまとめてしまったのは、作者のためにはいいかもしれないが、単行本の印象は薄まる結果になった。それが少しばかりもったいないと思う。 

■ 展開が遅い。流れをメモると、まず日記がゲーム中心になったころに、こちらの掲示板のリンクがはずされ、それと前後して、ジャバスクリプトで夜久さんの発言を弾くように設定。その後、夜久さんの過去発言を削除した模様。なんだかどれもが中途半端な展開で、いや〜んな日記を楽しみにしていたのに、いや〜んな日記に好意的でない俺以外の人が見たら「ヘタレ」と言われてもしょうがない状況になっているのではないだろうか。

2月27日(日)

■ 起きると午後1時半。この時間に起きると、いつも『噂の東京マガジン』の「やってTRY」をテレビでやっている。しかし、この企画、女子しか出てこないのは反則では? この番組そのものはわりと、まじめに社会の事物を扱おうという傾向にあるのだが、なぜここのコーナーだけこんなふうになるのか? まあ総じてこの番組が「男女平等を口で言う割には古風な全共闘オヤジ」の産物と思えば理解も可能ではあるのだが。

■ 思い立って、『Robotーism 1950−2000』のシンポを見に行く。恵比寿で開催中のアニメーション学会はパス。
 僕が見たシンポは、『Robot-ism デザイン』 “ロボット・デザイン”の変遷、というもの。パネリストは、柏木 博(武蔵野美術大学教授)、カトキハジメ(ゲームデザイナー)、西口 勇(大林組マルチメディアスタジオ プロデューサ)、松井 龍哉(北野共生システムプロジェクト研究員)。会場にはその前のシンポに参加していたメディアアーティスト、八谷和彦氏の姿も。(以下、メモなしで聞いていたので、記憶により再現。誤りあったらごめんなさい)

■ 司会の柏木氏は、チャペックを例に引き、ロボットは労働とセットで語られることが多かったが、AIBOのようなものが出てくると、デザインが一層意味を持つようになるのではないか、とまずは趣旨説明。その後に順番に3人の仕事を説明、それぞれの仕事のリンケージを司会者がフォローするというスタイルで進行した。カトキ氏の発言で印象に残ったのは「やがてロボットも大量生産されて当たり前に存在するようになると、今の自動車みたいにつまらないデザインが増えるだろう。けれど、今から20〜30年ぐらいはきっとさまざまなデザインが登場して試されるだろうから、そういう場に関わることができれば」という趣旨の最後の発言。西口氏は、そもそもロボットとは縁遠い部署ということもあって、ミスキャストという感じが少々。ただ、全自動ビル工事ロボのビデオは面白かった。いえ、ビデオが面白いのではなく、まるで「篠原重工」@パトレイバーのプレゼン用資料みたいだったからです。松井氏は、聴覚と視覚の統合を調べるためのロボットのガワをデザインした経験から見えてきた者を披瀝した。このSIGというロボットサイズとしては胸像ぐらいなんですが、6畳の部屋に置いても圧迫感がないように、と8頭身の女性のラインを念頭に置いてデザインしたとか。そうして、人型をかぶせたロボットが動く様を見ると、やはりドキっとする部分があったそうだ。松井氏はそのほか面白い話をいろいろしていた。

■ というわけで、つまらなくはなかったけれど、「惜しい」と思うとこが多かったシンポでした。例えば、ロボットは人型でなければいけないのか? AIBOは犬型である必要があったのか? 顔の持つ意味、シルエットの与える印象、といったところが僕の関心だったので、特にそう思っているのだが。ここは一発、デザインだけに割り切って、AIBOの空山基氏に参加を願うのもテだったかも。

■ その後、『Robotーism Park』で、さまざまなロボット展示を覗き(AIBOとP3の本物は始めてみた)、6Fにのぼって『『Robotーismmuseum』でロボアニメ鑑賞。鉄腕アトム(旧)から∀まで、40作品が十数台のモニターで上映されているという世にも不思議な光景。笑えたのは、マジンガーZとグレンダイザーを隣り合ったモニターで上映しているので、兜甲次の顔の違いがすぐ確認できたこと。さらにその上の「メディア芸術祭授賞作品」では、「鉄コン筋クリート」のパイロット版が圧巻! やはりこのあたりに3DCGアニメの可能性はあると見たゾ。 「老人と海」の原画もすごかった。

■ 後に池袋経由で帰宅。『別冊宝島 いまどきのブンガク』(宝島社、1143円)物議を醸しそうですなぁ。というか、この本をネタに読んだこともないのに作家批判するバカを生みそうな気もするが、それは別にこの本の罪ではない。たぶん。『エンタテイメントの書き方 映画に学ぶ発想とテクニック』(ドラマ'99、1200円)、『神の子どもたちはみな踊る』(村上春樹、新潮社 1300円)本格的な三人称小説は初めて? ちょっと調べないと断言できないけど。はてさてコミットメントはいずこへ?。

■ 創刊されたばかりのホラー映画雑誌『SCARED』(ABC出版 都内のでかい書店ならすぐに手に入るぞ!)の2号読む。いや、先週末からチラチラとは読んでいたのだけれどね。今回は日本製ホラー特集なのだけれど、インタビューが伊藤潤二鶴田法男高橋洋に小中千昭三輪ひとみとずらりといるし、連載陣が井上雄彦友成純一東雅夫というわけで、こりゃそっちの趣味(どっち?)の方ならとりあえずチェックでしょ。ちなみに私は、三輪ひとみ@発狂する唇のインタビューでチャレンジ精神とけなげな心根に打たれました(泣笑)。デザインはもうちょっとコジャレてたほうがマイナー感がないかもと思うのだけれど、これはもしかして「ホラーらしさ」を保つための作戦!!?

■ クズアニメ鑑賞と称して先週に続き『わが青春のアルカディア』を見る。松本先生が入れろといったエピソードを全部つっこんだような、それゆえめちゃくちゃな作品ですな。昨晩見た『CUBE』は噂通りかなりの完成度でした。

2月28日(月)

■ 夕方からは昨日に引き続いて、シンポジウム『Robot-ism メカニズム』“ロボット・メカニズム”の進化論を覗く。パネリストは、以下の通り。浜野 保樹(東京大学大学院助教授)、富野 由悠季(監督・演出家)、村上 隆(現代美術家)。

■ 今回のシンポジウムの方向性は冒頭の浜野氏の発言で決まった。「いつも雑誌の対談を読んでいると、富野さんが相手を苛めているので、今回は村上さんと二人で苛めようというわけです」。浜野氏は、シンポのテーマを解題するでもない大胆さでもっていきなり富野氏に話を振った。というわけで、シンポは浜野氏and村上氏VS富野氏のなんでもありのトーク合戦の様相を呈したのでした。もちろん、テーマなんて遠くどこかに行ってしまいます。でも、「プロレス」と思ってみるとこれほど面白いものはなかったです。
 誤解を招くと困るので注釈する。僕はこういう異業種公流系シンポは、パネリストそれぞれの持ち味、技の繰り出し合い、にしか期待していな
い。テーマに対して垂直に切り込み、実りを得るには、パネリスト全員が同じ前提、同じ問題意識を共有していないと不可能だ、それはこういう異業種の人が集まるシンポではほぼあり得ない。となると、こういう時の面白さは、結論を得ることではなく(勝敗そのものではなく)、それぞれ。がいかに持論を展開し(技を繰り出し)、どのように観客を刺激するか、ということが面白さのポイントになると思う。
 そういう意味で言うと、今日はルールがなさ過ぎで、昨日はちょっと各人の組み合わせが上手くいっていなかった、というところか。

■ というわけで村上氏と富野氏の意見をいろいろウォッチしている私にとっては、それぞれの持ち味が出ている面白いシンポではあった。ただ、これまたいくつか「惜しい」ところもあった。浜野氏は、ロボット(あるいは乗り物)をキライといいながらも、丁寧に演出する富野監督の姿勢について質問したが、あそこはもう少し粘ってもよかったと思う。ここが聞けていると、もうちょっとテーマに沿った内容になったはずだった。富野監督は、戯作者として質問に答える場合が多いので、そこから先にツッコムには、演出家にフォーカスした相応の聴き方が必要だと思う。というわけで、3人に交じって司会をやりたくなってしまったのでした←素人のくせに。

■ というわけで。道中のお供は『心霊写真』(小池壮彦、宝島社 680円)と『神の子どもたちはみな踊る』(村上春樹、新潮社 1300円)。『神の〜』は読了したが、ちょっと凄い連作短編集だった。いくつかの疑問もあるが、『スプートニクの恋人』よりも遙かにに新しい地平に突入した。おそらく次の長編は期待できるだろう。
・なぜ阪神大震災を描かないのか、と問いかけた田中康夫へのアンサーになっている(阪神大震災を背景に置きながらも、登場人物達は地震に無関心である)
・コミットメントを重要な要素に据えた(『スプートニク』よりも直接的に描かれている)
・登場人物が生活者である。(アンダーグラウンドの取材経験の反映)
・オウムというジャンクな物語と小説というジャンクな物語の対比(アンダーグラウンド執筆の時に思考したことの反映)
ちなみに僕は単純に物語そのものに感心したのだが、こうして列挙すると、批評家対策もぬかりがないようだ。

NF■『現代美術ガンダム』(ミナミトシミツ、勢村譲太、リトル・モア 1800円)

 『ガンダム』は僕ぐらいの年の世代にとって、一つのイコンだそうだ。それは確かにそうだ。僕自身そういう言い方で、人を説得したり、自分のアイデアを語ったこともある。『ガンダム』という単語は確かに、何がしかの気分、思い出、考え方を象徴する何かではある。 けれど、その『ガンダム』という単語が持つもやもやとしたものは、例えばMSのシルエットに象徴することはできるのだろうか。逆に言うなら、ガンダムのシルエットだけを取り出して、イコンそのものとして扱うことは可能なのだろうか?僕はもしかするとこの本を楽しむには『ガンダム』を知りすぎているのかも知れない。多くのファンがそうであるように、ガンダム系MSのシルエットを描いた作品では、その機体が何かすぐに特定できる。機体が特定できれば、それはそれぞれの物語が自動的に頭の中に再生される。そうなると、それぞれの機体の違いこそ気になっても、より普遍的なイコンとしての「ガンダム」へとつながっていくものとしては見ることができない。素材としての各番組が、生のまま転がっているように感じられるのだ。
 そういえば最近、ジオンのジーンズを売り出すという記事を見かけた。何がジオンかというと、一つはモスグリーン、ひとつは赤だから、というのが最大の理由らしい。(そのほかにもジオンぽい仕掛けはあるが)。これぐらい咀嚼され、原型を失った方が、むしろ抽象的な「ガンダム」に接近しているのではないだろうか。
 検索したらこんなページを発見。
2月29日(火)

■ 2000年の閏年二題。ある人の携帯電話(じゃなくてピッチでした)の日付が3月1日になっていた。知人の仕事関係者の赤ちゃんが今朝生まれたそうだ。

■ 眠い。会社で仮眠をしたら、もはや仮眠とは呼べないようなかなり深い睡眠に陥り、仮眠室から這い出すのが一苦労。

■ そうですか、「やってTRY」には男のコ版もあるわけですか。しかし、技術/家庭=男/女という区別はそのままなわけですな。個人的には本棚作れる技術よりも、料理できる技術を男は身に付けるべきだと思うので、男にも料理を作らせてそれを嗤う方が公平な感じがしますけど。もちろん、僕は料理ができない男なのでそういうことを思うわけですが。