2000年2月上旬


2月1日(火)

■ 風邪気味は変わらず。会社で闇の仕事を進めようとするが、風邪薬のせいか、あるいは夕食の時のアルコール(舐めた程度)なのか、眠くてしょうがない。本業の合間に仮眠ばかりとる結果になった。闇の仕事は、ワンフェス返上で週末かな。

■ いつも思うのは、受け手には駄作を傑作にする力はない、ということ。興行的な成績(売れた、売れない)にも、駄作を駆逐する力はほとんどないのは周知の通り。とすると、「ここがつまらない」あるいは一歩進んで、プロデューサー・マンガ編集者的に「ここがこうなっていればもう少し売れたのに」といったことを外部の人間がいっても、それは無力な批評でしかない。もちろん、興業分析という批評方法はあるのだけれど、それは「作品のクオリティ」そのものをあげる方法を探るのでなく、「作品としての商品性を際だたせることで、結果としてクオリオティもあがる」というふうに間にクッションが一つ入る格好になる。(しかし、日本映画はこのあたりの戦略が下手だと思うので、こういう批評が増えれば、もしかすると多少は駄作を駆逐する効果があるかもしれない。が、それも多少だろうけれど)。
 どんな駄作も、生まれてしまった以上、その存在を否定できない。もちろん無視すればいいのだけれど、何らかの方法で自分の言葉で捕まえてみたいと思う、というのが最近の僕の考え方だったりする。
 こんなことを書いた理由は『ゴジラ2000 ミレニアム』を見たから(ウソ)。 これを「シナリオがアレだったら」とか「設定をこうすれば」と言ったって無駄でしょ。(いいたいことはいっぱいあるけど)。

■ 日記は書くことの訓練になるか? というのが2月1日付けの「ちはるの多次元尺度構成法」書かれていた。ちはるさんは、個人の経験に照らし合わせて考えていたけれど、ちょっと一般化してみる。以下、何の裏付けもない推測です。
・書き慣れていない人は、日記を書くことで文章は一定のところまで上達する。(感情や出来事をどのように記述すれば分かりやすいかが、或る程度ノウハウとして蓄積されるため)。→手紙などの文章については効果が期待できる。また、ビジネス文書にも、一定の効果が得られるかもしれない。
・一定の練度に達すると、続けても上達しない。(ここから上達するために一番重要なのは、推敲・演出の技術だが、それは日記というスタイルでは日々続けるのが難しいし、この技術は上達が自分で把握しづらい)→これは、なんらかの動機付け(つまり日記猿人の得票が増えるなど)があれば、それを目指して努力することも考えられる。がそれはあまり直接的に結びつけられないだろう。

ここから発想をすすめて、逆に文章を書くことの訓練としてのWEB日記の活用方法を考えてみた。
・内容に即したタイトルをつける(自分が書きたいことをはっきりさせる)
・初めて読む人を想定する(自分が分かっていることと、他人の常識のすりあわせ)
・因果関係を意識して書く。(余分な接続詞をつかうと混乱する)
・感情と客観的な事実を峻別できるように書く。
・辞書をひく
こんなところでしょうか。

ああ、この日記でなおざりにしていることばかりですな。ただ、WEB日記よりは、荒れている掲示板の渦中に入れば、それなりに文章を意識して書くようになる人が多いのではないでしょうか。あ、そうじゃない人がいるから、荒れるのか。

■ 『ビリーバーズII』(山本直樹、小学館 857円)、 『犬狼伝説 完結篇』(押井守・藤原カムイ 角川書店 660円)、 『畏怖する人間』(柄谷行人、講談社 1200円)。以上を購入。

2月2日(水)

■ いろいろと打ち合わせ(?)があって、明け方帰宅。今日覚えたことは、スクリーン上のヘリコプターがいかに魅力的なことか、年上の女性を不用意におねえさんよばわりしてはいけないこととか。

■ そんなこんなで帰宅すると、明け方に、携帯電話番号変更のメールが。しかし、風呂に携帯を落とすとは。本人をしっている人はイメージで納得できても、具体的なプロセスは想像しづらいなあ。

■ 眠いのでまた明日。

2月3日(木)

■ いろいろ資料を漁るけれど、記憶にある肝心な資料が見つからないのはなぜ? などとおもいつつ闇の仕事をちょこちょこと進める。喉の腫れ具合は、最高潮という感じでフィニッシュコーワが手放せない。熱が出ないのは幸いだ。こちらの日記は、投票ボタンが不調だったのだが、古川志朗さん@お気軽日記のおかげで正常に動くようになった模様。

■ 最近、買った本。『ONE PIECE 12』(尾田栄一郎、集英社 390円)、『ヒカルの碁 5』(ほったゆみ・小畑l健、集英社 390円)、『しわあせ』(山田芳裕、美術出版社 1300円)、『どすこい(仮)』(京極夏彦、集英社 1900円)、『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』(酒井健、講談社 680円)←これを買おうと思ったのは、こちらの方ファクターDによる。 

小説■死亡遊技(藤沢周、河出書房新社 500円)
 緻密な暴力を描くと、どうして人は「リアル」な印象を持つのだろう。この小説も刊行当時は、歌舞伎町を舞台としたこととともに、そのハードさを漂わせた暴力描写が話題になったと記憶している。でも、今この作品を読んでみると、その暴力は、直接的にハードとかリアルと例えるよりも、「悪夢のようにリアルである」というほうが正しいような気がした。
 この短編集に収録された2作には共通して、暴力やその変型であるセックスとともに、自分が何者かが分からなくなるという現実感の喪失が描かれている。本来、暴力やセックスが持つ本質と、現実感の喪失は対照的な関係にある。緻密な暴力描写に「リアル」と枕詞をつけたくなるのは、感覚やイメージの世界と、暴力は遠いところにあると、多くの人が思っているからに違いない。だが、この小説の主人公は暴力やセックスを入り口として、現実感を失っていく。ここでの暴力は、相反するはず非リアルな世界への入り口となっている。あやふやな現実の中で、暴力だけが本物らしいく感じられる。これは悪夢そのものではないだろうか。
 過酷な長距離走の最中に人がランナーズ・ハイになることもある。安易に「身体感覚」の復活を唱える人は、この事実をどう考えるのだろうか? 徹底的に過酷な現実に対応すれば、そこには、通常では得られない非現実的な風景が待っている。この小説は、そんな悪夢のような風景を描いている。
 先に読んだ『境界』は、おそらくこの「暴力」をはずそうと試みて、それに失敗したのだろう。
NF■知の編集術(松岡正剛、講談社 680円)
 世のさまざまな情報は、編集されている。その編集方法を、分類し、実例を挙げて、編集的なイマジネーションの活用法を解説する。おそらく、書評や映画の感想に、整理されながらも一定の深みを与えるにはこうした方法が有効、のような気もする。通り一遍ではなく、背後(あるいは一階層上に)にも情報が潜んでいるような文章を書くには、こうした情報の関連づけの技術(思想?)が必要なのはよくわかる。
 ただ、これは実践してみないとなんともいえない。当たり前だけれど、この本を読んだだけで、スキルが身に付くようなそんなことはない。とりあえずは手を動かさないと、この本の本当の魅力にはたどり着けないのだろう。
NF■ブレア・ウィッチMANIACS(朝日出版社、1800円))
 今年の正月映画一番の話題作『B.W.P』を巡って、さまざまな人が考察し、批評し、分析した一冊。そもそも、この映画自体は、ずば抜けた傑作というよりも、ワンアイデアをうまくやり遂げた一発屋的な作品だ。だから、この映画をめぐるさまざまな発言も、作品そのものを切り刻むのではなく、その周辺をぐるりぐるりと回ることになる。あるいは、言葉をもって映画の姿を切り込もうとしても、切り刻んでいる手応えがない、とも言えるだろう。いくら執筆陣の原稿が面白くても、それはどこか映画とはちがうところへと着地させられているようなのだ。この映画そのものが、ブレアの魔女伝説のように、断片ばかりで実体がない。この映画について考えることは、ちょうど森の中でどこにもいけずにグルグル回っているようなものなのだ
 この本を読んで感じるのは、人間は理由のない不条理さには耐えられないということ。それが、魔女の正体であろうと、ヒットの秘密であろうと、その隙間を言葉で埋め尽くさなければ安心できないのだ。
 隙間をうめる想像力を愉しむという意味なら、既に準備された設定本『ブレアウイッチ完全調書』よりもはるかにスリリングではある。
2月4日(金)

■ 土曜朝まで仕事。なんだか疲れ気味なので、ちょこちょこ仮眠したり。そういえばどうやらこの仮眠癖のおかげで、私の頭は会社でいつも寝癖がついているらしい。やれやれ。

■ 今日買った本。『キネマ旬報2月下旬号』(キネマ旬報社)。例年ベストテン号だけ読んでいる。『リラックス』(マガジンハウス)。ロボットのページだけ読んだけれど……。『超人ロック メヌエット』(聖悠紀、青磁ビブロス 571円)。カール・ダームなんて懐かしい名前だけど、もう覚えてないな。『神足裕司のこれは事件だ』(神足裕司、K.K.ゼスト 1400円)。扶桑社から出ないのは事件じゃないの? 

NF■メディア空間の変容と多文化社会(青弓社、1600円)
 同名のタイトルで、5人の研究者が行った講演を集めた内容。一般の聴衆に語りかける講演がベースとあって、読みやすく分かりやすい。その分、話題も問題の提起、新たな視点の紹介程度に終わってしまうものもないわけではないが。
 そんな中で印象的だったのは、小森陽一氏による『ポストコロニアルな状況と文学』と、山中速人氏の『メディアと観光文化の多様化』。
 小森氏は、いわゆる文学主義に沿って理解されている中島敦の『山月記』を取り上げ、その理解の方法に異議を唱える。『山月記』とセットになっている他の3作『狐憑』『木乃伊』『文字禍』と共に『山月記』を読めば、そこにあるのは「知識人の自意識への拘泥」ではなく、人間と言葉、人間と歴史をめぐる政治力学を解き明かし、記そうとしている姿勢だ。この観点に立つことが、ポストコロニアルな状況から、日本の近代小説を読み直すことにであるとであるというわけだ。これは普通に読んでいるつもりでも、いかに僕たちが従来の国語教育の中から抜け出ていないか、ということを教えてくれる。こうやって振り返ると、国語で教えられた教材の中に「近代人の自意識」について書かれていると言われた作品がいかに多かったことか。今はいったいどうだろうか? そもそも、国語の先生に「近代の自意識」という問題設定が好きな人が多いのも一因だと思うが。
 山中氏の講演は、歴史を追いながら、メディアで流通するハワイ像がいかに形成されたかを追った。マンガやアニメなど、作品が描かれた時代のさまざまな事象をステロタイプに取り込んでいくメディアは多い。この講演は、そういうステロタイプがいかに発生するかについて興味のある人ならば、十分面白く読めると思う。僕たちは、ものごとを大ざっぱに理解するためにいかにステロタイプなイメージに頼っていることか! そして、つまるところハワイは、イメージの中に生まれた土地であり、現地住民の異議申し立てもまた、そうしたイメージへとなされているのである。
 そのほかの筆者は吉見俊哉、大澤真幸、田嶋淳子。
2月5日(土)

■ 先週の風邪を完全に癒すために、ゆっくり寝倒す。午後は仕事をしようかな? と思いつつもあまりはかどらず。夕食はかねてから足を運んでみたかった居酒屋『ゆめき』へ。料理は京風のものが多く、それぞれもすごく上品な味付け。お値段もそれなりでしたが。帰宅して、テレビをザッピングしながら、水割りを飲むうちに眠くなって沈没。

コミック■ビリーバーズI、II(山本直樹、小学館 857円)
 山本直樹の個性をその「どこにもいけなさ」にある、と書いたのは誰だったか。その批評さえあれば、この作品を理解するのに何もいらない。これは徹頭徹尾、どこにもいけない物語である。そして、そこにわざとイレギュラーな「どこかにいける」要素がさりげなく潜ませてある。山本直樹の、手の上で踊らされているような一作。
2月6日(日)

■ 昨日の反省を生かして、今日は午後から闇の仕事をすすめる。機械的な作業の割には、時間がかかってしまったので、予定通りには仕事は進行していないのだが。

■ 昨日母親から手紙。苦しい検査はせずにそのまま治療に入ることになった模様。とりあえず熱も落ち着き、元気な様子に一安心。やはり推理小説を差し入れたのはアタリだったみたいだ。

■ 昨晩ビデオに撮った、『ヒトラーが夢見たミッキーマウス ナチス支配下のアニメ製作』を見る。初期のドイツアニメは、動画枚数だけ多いけれど、原画が下手という印象。そのあたりが、ディズニーの真似をヘタにしているという感じ。また、初めて本格製作された作品が「籠の中の鳥が、外へ出るけどいろいろツライ目にあって、やっぱり籠の中が一番と思う」というのは、いかにも当時のドイツらしい、と思ったりもする。やはり、戦時下の作品にはどこか病んだような印象がある作品が多い。ドキュメンタリーとしては普通の作りだけど、テーマがなかなか面白いモノだったので、なかなか楽しめた。

2月7日(月)

■ いろいろと仕事。肩こりが抜けず、帰宅前にマツキヨでピップエレキバンを買う。道中のおともは、会社の同僚から借りた『心が脳を感じるとき』(茂木健一郎、講談社 1800円)。丁寧に説明してあって、少々まどろっこしい感じもするが、それを上回って分かりやすい。章が進むごとにテーマが深まっていくのがなかなかスリリング。

■ 思いつきで『月刊言語 2月号』(大修館書店 890円)買う。「特集 ことば遊びを作る」ということなので、ダジャレ愛好家としてはこういう学問的裏付けは押さえておかねばならぬ。ダジャレだけでなく、アナグラム、回文の作り方なども掲載されているのだが、回文のつくりかたについては初めてその論理的な方法を知った。これなら、この本を読むだけで何か一つ作り出せそう(ここがポイント)である。

2月8日(火)

■ 今日も、なんだか仕事仕事で1日が過ぎていく。エレキバンの効果は抜群で、肩から背中にかけて軽くなった。今朝方、母から手紙が届いていた。病院での気分転換にちょくちょく筆をとっている様子だ。ステロイド剤を使った治療の方針も、いろいろあったけど無事決まったとのことなので、原則的に心配はしていないが、手紙を見るとやはり安心はする。一度も読んだことがないのに選んだ『すべてがFになる』は、あれだけいろんな人がハマっているんだからきっと母の好みに違いないと予想したが、その通りジャストミートだった様子。母は一時期、クリスティに凝って適当に読み散らかしていた時期があるのだ。僕は、比較的、人に本を送ることが好きなので、こういうヨミが当たると楽しくなる。まあ、かつて長谷川集平の絵本を知人に上げたときは、結構文句を言われたものだが。こちらとしては、渾身の力で内角ギリギリに投げたつもりだったが、相手にはビーンボールだった模様。

■ 『心が脳を感じるとき』を読みながら、アニメキャラと3DCGキャラ、それに実写の人間の関係について考える。同時に、以前に森山さんが雑誌『DOS/Vmagazineカスタム』で書いたエッセイの内容も思い出したり。このあたりって、話題が違うようで、「なぜアニメキャラを生身の人間のように感じるのか」というテーマとけっこうシンクロしているように思うのだ。と思うと、某週刊誌で3DCG美女の特集が。うーん、あるCG愛好家氏(?)のいうことにはすごく説得力があるのだが、やはりまだ3DCG美女に慣れない僕ではある。果たしてこれは単なる慣れの問題なのだろうか?

■ 『なるたる』も読み終わったのだが、まあ、感想などはちょっと余裕ができてから。

2月9日(水)

■ 「時空こえて 宇宙のかなたに 吾をまねく すばるより見し 青き星雲」。
今更の話題で恐縮だが、紀宮が今回の歌会始で詠んだ歌だそうだ。やばいでしょう、これは。なんつーか、世間が持つ同人女性的センスが結晶化しているんじゃないでしょうか。まあ、偏見かもしれないが。しかも、年齢はむにゃむにゃだし。(←菊の御紋云々と言うより、女性の成長を年齢で判断するような態度を避けているようにみせる政治的に正しい戦略、なわけないか)。

■ バタバタとして、なんだか必要なことがあまり手を着けられずに過ぎていく一週間。ウルトラランキングのアクセスログ解析で、やはり日々の更新が大切だなと思うが、同時に、自分のところよりも人気のあるWEB日記に登場すると手っ取り早いな、とかも思ったりして。

NF■『心が脳を感じるとき』(茂木健一郎、講談社 1800円) 
 我々の脳の中の現象であるはずの「心」の動きを捉えようとしている著者の自説を解説する。
 文章は実直で、説明はまどろっこしくなるほど丁寧なのだが、それが結果的に読みやすさにつながっていると思う。題材が題材故に、もともと抽象的な話題になりがちなわけだが、ちょっと戸惑っても、少し遡るだけですぐ話題に追いつくことができる。それは、さまざまな概念などを、それぞれの文脈の中で丁寧に繰り返しているからだ。ただその実直さとの裏返しで、もうちょっと読者をノセるような書き方をすれば、もっと読者は増えるだろう(心の問題に関心を持つ一般の人は多いはず)と感じる部分も多い。筆力のあるインタビュアーが、取材・再構成したバージョンというのをしばしば夢想したのも事実ではある。

 それはさておき、この本で再三登場する用語に、クオリアとポインタ、がある。クオリアとは、心の中に見える時の生じる色や質感や味の総称。ポインタとは、クオリアの分布に対する抽象的な感覚である。例えば、白壁に灰色のシミがあるとする。これは、白地に灰色があるとは本来言語化できないが、その二つの質感の組合わさった状況として心の中に浮かび上がる。これがクオリアの段階。しかし、そのシミが猫の顔に見えたとしたら、それはシミの形状の上に、抽象的なネコ(これには生々しい質感は伴わない)のポインタが重ね合わされた、ということになる。あるいは普通に人の顔を見るにしても、肌色の凹凸のある立体を、顔として感じるというクオリアとポインタの段階がある。
 本書では触れられていないが、これはシニフィエ(意味内容)とシニフィアン(意味記号)の関係に近しいのではないのだろうか。
 本書で、エスキモーと日本人では、雪の白さを表す語彙に差がある、という例が紹介される著者はそこで、それぞれの心に映っている雪のクオリアに差があるということではないという。それは、ポインタの差であるといいうわけだ。このくだりなどは完全に、言語名称目録観(事物と言葉が一対一対応しているという考え方)を否定し、シニフィアンとシニフィエの概念を考え出したソシュールの姿勢と重なってくるものがあると思う。ソシュールの考えが、大脳生理学(でいいのかジャンルは?)的な裏付けを得ようとしているのではないだろうか。

 ここでさらに妄想は膨らむ。マンガが写実に見えても実は高度に記号化された表現であるのはご存じの通り。アニメも人物の造形など一部でその記号化を活用している。これはつまり、顔を描くときに、ポインタあるいはシニフィアンの構成として描いているとは考えられないだろうか。それは本物の顔のクオリアを欠いているために、どんなに「リアル」に描いても、ポインタとして受け取られ違和感は生じない。ところが、3DCGになった場合、クオリアが発生する。しかし、要素(特に目と口)は、ポインタの要素がしめる比重が高い。だから、見慣れないうちは一種の違和感が生じるのではないだろうか。ちなみにいうと年輩の人がマンガやアニメの人物を読めないのも、これと同じ違和感が正体なのではないか。例えば、セル画のクオリアが、顔というポインタの発生を阻害するのである。

と、つらつら書いてみたが、なにしろ入門書片手の感想なので、学問的な誤り、誤解、あるいは私の無知などに気付かれたかたは、メールをもらえるとうれしいなり。どっかでこの妄想、原稿に書かせてくれないかなー。
2月10日(木)

■ 明け方に帰宅したが、よく考えたら早めの出勤が必要なことが発覚し、3時間ほど寝て、また会社へ向かう。途中で、アニメ雑誌など購入。『噂の真相』の整形関係者雑談会に爆笑。「MAXは同じ医者が執刀しているから、顔が似ている」ってのはネタにしても面白すぎ。