1月23日(日)


■ 起床して、ビデオを見て過ごした後、目黒で映画。『目黒シネマ』は2番館で、けっこう2本立てのメニューの組み合わせが面白くて、たまに足を運ぶ。ちなみに昨年は『恋に落ちたシェイクスピア』と『ハムナプトラ』を見た。こんなふうに、テーマによる縛りというより、彩りの取り合わせみたいな感じで組み合わされていて、見飽きることのない2本立てになっているのが、年寄りにとってはありがたい。ただ昨年の時は、『恋に落ちた……』の感動が、『ハムナプトラ』のあまりのノリの良さに、上書きされてしまったのだが。
 さて、映画見終わると、同行した知人が眉間にしわを寄せている。どうやら『リトルボイス』の、細部が気に入らないらしい。その後、しばし意見交換。どうやら、細かい描写が整理されていないところが気に入らないということらしい。僕はそれほどに辛口ではない感想。池袋の居酒屋で焼き魚などを食べて帰宅。

映画■運動靴と赤い金魚

 兄と妹の会話は、多くの場合カットを切り替える。一方、家族団らんのシーンは、一家4人をワンフレームに入れて進行する。
 兄と妹で切り返すのは、二人が靴をめぐってささやかな諍いを演じているから。でも諍いをしているとしても、貧しい一家は、協力して生きているからワンフレームで捉える。演出的には凡庸に見えないこともないが、むしろここではオーソドックスと言っておこう。靴をなくしたために、苦心する貧しいイランの兄妹という、いくらでも扇情的になれる素材を、そうしたカット割は日記のような簡潔な散文のように綴っていく。
 ただ、ラストシーンは違う。靴づれした兄が池に足を浸すと、それを癒すように集まってくる金魚。何の絵解きでもなく、ほかの言葉にも置き換え不可能な、ただ単なる金魚と足の映像。散文のように進行してきたこの映画のそこだけが、詩なのだ。 
映画■リトル・ヴォイス

 LV(リトル・ヴォイスの頭文字)と呼ばれていた彼女は、ローラという名前と自分の言葉を取り戻す。それはささやかだけれど、希望に溢れた変化だ。だが、僕が気になったのはむしろ彼女を追いつめていた周囲の人物だ。
 強欲で自己中心的な母親。彼女はLVを抑圧し続けてきた。あるいは、女好きのドサ回りのプロモーター。彼の芸能界への野心がLVを締め付ける。
 だが、この二人のなんと魅力的なことか。二人は、単にダメな個人としているのではなく、むしろ人間とはもともとこのようにダメなものだという一種の諦念に基づいて描かれた一種のアーキタイプなのだ。そこには、全て正/誤で分類してしまう明晰な作劇では描けない世界がある。
 世の中にはLVのように変わっていく人もいれば、二人のように変わりきれない人もいる。その両面を悲劇にも喜劇にも逃げずに見据えているタフさは魅力的だ。
映画■発狂する唇

 ポルノというのは深みを目指すのでなく、表層をひたすら流れていくもの、というのは作家、高橋源一郎のお言葉。この映画は、ポルノではないけれどその言葉の通りの作品だ。この映画は、映画としての深みや物語としての奥行きなんてまるで無視して、ひたすらに表層を滑り続けていく。一部ギャグがスベッてるとこもあるけれど、それもまた自覚的に見えるぐらいだ。そんな具合で、この滑り続ける映画をどれか一つのジャンルに止めておくなんて不可能だ。スタッフもそれを自覚している。だから、サイコ・サスペンスにはじまり、ポルノ、スパイ映画、オカルト、カンフーアクション、ラブストーリーとあらゆるジャンルの要素が顔を覗かせる。でも、それが別に映画論になったり、エンターテインメントとしてより総合的なモノを目指そうかというそぶりもない。それはどれも、猛スピードで走る自動車の車窓に浮かんでは消える風景に過ぎない。登場人物もまた、人間と言うよりはモノであり、自動車の衝突実験用ダミーのように、衝突や破壊のためだけにそこに座らされている。そもそも彼らもシートに座らされているが、車(物語)をコントロールしているわけではないのだ。
 そう、この作品は映画という枠組みの衝突実験みたいなものなのだ。そこで試されるのは、映画ではなく観客のほうなのだが。だから、ゆっくりとドライブして、風景を愉しみたい人にはこの映画をすすめない。 
1月24日(月)


■ 神保町のボンディでビーフカレー。某カレー本には、あまり好意的な評価がされていなかった が、決してそんなことはなかった。それなりにこってりしているので、作者のツボから外れたのだろ う。ともあれ、もう何度か通ってみるつもり。

■ そろそろ仕事の下準備をしなくてはならないことを思い出す。さて、どうしよう。

映画■アイアン・ジャイアント
 映画やアニメに登場するロボットの魅力を一言でいうなら、人間に似ているその風貌に尽きる。正確に言うと、人間ではないにも関わらず、人間に似ていること。そのために、彼らは人間的なるものと非人間的なるものに引き裂かれている。もちろん作品によってその分裂の度合いは違ってくるが、この映画のタイトルロールであるアイアン・ジャイアントは、そんな矛盾にあまりに深く引き裂かれているが故に、とても魅力的なキャラクターとなった。
 その矛盾を一番端的に表現しているのは彼の瞼だ。普段、まるで人間のように上下に閉じるが、攻撃を受けてバーサーカーとなった瞬間に瞼はシャッターのような非人間的な形状となる。人間的なまばたきは、彼を見つけた少年、ホーガースとのやりとりをユーモラスに見せる一方で、シャッターを絞り込んだ目は無表情で、目というよりも兵士のゴーグルに近くなる。瞼だけで、このキャラクターの持つ個性を表してしまったデザインと演出は特筆に値する。
 実は、このロボットの秘めた矛盾は男のコが持つ二つの願望の表れでもある。一つは自分を常に受け入れてくれる友達としての役割。もう一つは、圧倒的な力としての存在だ。だからアイアンジャイアントの抱えた矛盾が深くなれば深くなるほど、彼は男のコ(かつての、も含む)にとってより魅力的な存在となっていく。だから、アイアンジャイアントはクライマックスで軍隊と戦い、圧倒的な力を見せなければならない。ここが本作の本歌取りの対象の一つであろう『E.T』とは決定的に違うところでもある。そして、その戦闘に喝采を叫べば叫ぶほどに、観客たる男のコはホーガースともども、一方で自分の友達が友達らしくなくなってしまうことにおびえる。この振幅が大きいからこそこの映画のクライマックスは、ドキドキする。
 鉄腕アトムと鉄人28号を始祖に持つ日本のロボット文化は独自の発展を遂げてきた。その中で、ロボットの矛盾もさまざまに描かれてきたはずだ。しかし、エンターテインメントとして人々の記憶に残るような間口の広い作品があったかというと、それは疑問である。日本人のメディア関係者はは楽しみながらも、なぜ彼我の差が生じたかを考えてみるのも重要かもしれない。
(補足)
1、CGIとセルシェーディングで描かれたアイアンジャイアントの動きは魅力的。特に、股関節や足の動きがとても魅力的だった。
2、好意的に感想を書いたが、不満もある。というか、もっとこうしてくれたら俺的な評価はもっと上がったのにという感じ。なんというか俺の中のロボット的なガジェットが好きな心としてはオッケーなのだが、映画ファンとしてのゴーストは、さまざまな気になるところを指摘するのである。 例えば、少年との交流劇が物足りない。ETで、ETが傷を直してくれるシーンと、ピーターパンの朗読が重なるシーンのような仕掛けがないのが残念。ロボットが少年に何を見て、ロボットは少年に何を見たのかが、わかるような象徴的なショットあるいは具体的なエピソードが欲しかった。それから、せっかくのシネスコをもっと生かしてほしかったような。
 減点材料ばかり書いたが、見る価値のある佳作であることには変わりない。
1月25日(火)


■ 某仕事に意外な反響が来る。といってもハガキが届いただけなのだが、こういうのは嬉しいものである。周囲の人にちょっと自慢してまわる。

■ 夜、ガンダム系サイトをつらつらと見る。改めて感じるのは、モビルスーツというガジェットの人気の高さだ。僕の心の中で、モビルスーツの占める割合は年々低下傾向にある。そもそも作ったことのあるガンプラも、SDを入れて10個以下だしな。じゃあ、メカがキライかというとそうでもないのだけれど。
 巡回しているときに、ある掲示板で「商業誌/同人誌」の対比について触れた文章を読んだ。特にその発言を問題にしようとしてはいないので、リンクはしない。その発言は、『G20』を語るときに、商業誌と同人誌という対比を持って語っていたのだ。
 そこで、商業誌と同人誌をどのように捉え、対比しているか気にしながらモビルスーツが好きなガンダム系サイトを見ると、そこには何となく「データベース的に濃い本は商業出版的に優れているモノ」「筆者の意図が出る批評、解説というのは同人誌的な行為」という二項対立の価値基準があるように感じられた。 まあ、そんなものかもしれない。アイドル論よりも、アイドルの写真集のほうが遙かに売れるのと同じ構図が根っこにあると見た。

■ 仕事が予想以上におして、明け方に帰宅。ここ数日妙に空腹で、妙に眠たいがなぜだろう。これでは体重が減らないぞ。

1月26日(水)

■ というわけで、久しぶりの更新です。まだ、変更中のところも多いけれど、暫定的に更新します。まあ、変えたのはトップページだけなんですが。

■ またもやボンディで食事をしてから会社へ。やはりライスの上の乳製品がちょっとおもたいかも。美味しいけれど、毎日食べると、えらいことになりそうだ。神保町では話題の『現代のエスプリ 日記コミュニケーション』(至文堂、1381円)、『∀ガンダム 3.百年の恋』(佐藤茂、角川書店 381円)など購入。また、『2000年間で最大の発明は何か』(ジョン・ブロックマン編、高橋健次訳 草思社 1500円)を読了。というわけで、この本の趣旨にちなんで僕としては2000年間の最大の発明として、ロマンチック・ラブを挙げておこう。これが存在するという前提で、さまざまな物語が語られ、大量のお金が動き、あきれるほどの自殺者が出た。それから、一握りの幸福な人々も。
 夜は、居酒屋で買ったばかりの『∀ガンダム』の小説を読みながら過ごす。1巻のころより、文章がこなれてきた。また、TVシリーズのエピソード(ボツとなったモノも含む)の換骨奪胎ぶりも巧みで、なかなか読ませる。萩尾望都のロランとキエル&ディアナは流麗。そういえば、ロランのカチューシャの元ネタが『11人いる』らしいというのはここだけの話。さて、『亡国のイージス』の福井晴敏氏によるハルキ文庫版のほうはどうなるのであろうか。続けて読みかけだった『くだんのはは』(小松左京 角川春樹事務所、952円)をほとんど最後まで読み進める。

1月27日(木)

■ 昨晩、寝付く前に『くだんのはは』読了。なんてことはない地の文章のリズムのよさを堪能する。寝て起きて、江戸川橋方面で仕事。道中は、昨日購入した『現代のエスプリ 日記コミュニケーション』を読み進める。夜は、表参道方面にでばり、道すがらのラーメン店『醍醐』でピリカラの赤醍醐ラーメンなど。最近はやりの無化調だからか、味が丸いような気がする。食事のおともは『人生論ノート』(三木清、新潮社 362円)。だが、レトリックにひっかかってしまって、あまりピンとこない。この調子ではたぶんこのまま読み進めることはないだろう。『佐武と市捕り物控』(石森章太郎、メディアファクトリー)の1〜4巻、『漫画学のススメ』(日下翠、白帝社 2400円)購入。

■ 時折思い出したように『エクセルサーガ』を見ている。といっても本編はもはやどうでもよく(つまらない、と断言するほどつまらなくはないが)、結局、僕は予告編の三石琴乃の猛烈なしゃべりだけを聞きたくて見ている。人の声にはやはり、そこで伝えられる意味を超えたところの魅力というのがある。言葉が理解できるとどうしても意味に縛られてしまうけれど、たとえば英語のナレーションはまるで音楽のように聞こえることがある。日本語でも、内容がナンセンスでなおかつ聞き取れるかどうか微妙なほど速い速度で展開されれば、それはまるで音楽のように楽しめる。これは別に、『エクセル』の予告編だけでなく、例えば自動車ファンガーゴのCMだってそうだ。さらに訓練を積めば、こうして音楽のように聞くつもりになれば、意味があってゆっくりしたセリフでも音楽のように聴けるようになるだろう。そうしてその耳で、もう一度作品を見たとき、テーマ主義ではない(わかりやすくいうと、説教臭いとかそういう類)の陥穽に陥らず、その作品自体が持っている官能性の一部に触れられるのではないだろうか。内容的にはどうでもいい、劇場版『アキハバラ電脳組』を心地よく感じるのは、ひとえにそんな理由なのだ。そしてもちろん、僕はもう一本別の映画を念頭に置いてこの文章を書いたのだが。

■ 日記について。『現代のエスプリ 日記コミュニケーション』でドナルド・キーン氏の書く「どんな日記でも、どこか心の片隅に、誰かに読んで欲しいという気持ちがあるにちがいない」(要旨)というくだりが印象的。WEB日記がメディア(笑)で取りあげられる場合、「日記という人に見せない前提のものをなぜ」という切り口でスタートすることが多いし、WEB日記を知らない人にもそういう見方をする人が多い。でも、日記というメディアそのものが公開したいというモーメントを秘めているとしたら? キーン氏の意見はあまり実証的な根拠ではないのだが、やはり同書中の押見輝男氏による「自己との対話 日記における自己フォーカスの効果」がそのヒントになっているのではないだろうか。僕なりに結論を書いてしまうと、日記は自分に読ませるために書いているのだ。そこで読み手として登場する自分は、自らの体験を文章を通じてはじめて理解する。その意味で、読み手たる自分はその時点で、体験者たる自分とは他人なわけだ。読み手たる自分を多かれ少なかれ意識する、となればそこから日記をWEBで公開するまでは案外と近いのではないだろうか。

■ あと、日記を書く人には自らを「ラジオのディスクジョッキー」になぞらえることが多い、というのはもっと分析されてもいいと思う。

1月28日(木)

■ とりたてて予定のない日。『くだんのはは』を読んだせいか、珍しく小説が読みたくなり長らくツンドクだった『境界』(藤沢周、新潮社)をバッグに入れる。藤沢作品は、『ブエノスアイレス午前零字』を読んで以来2冊目。もう1,2冊文庫を買ったような気もするが、どこに置いたかなぁ。書店で資料を買い込み(まあ、結局余り使わなかったけれど)、会社へ向かう。

■ 特殊歌人、枡野浩一氏が出ているというので『月刊オール川柳 3月号』(葉文館、860円)買う。表紙、巻頭のグラビアと35ミリのポケットカメラで撮影したとおぼしき短歌教教祖のご尊顔が掲載。アッカンベーする直前のような舌ベラは何故なんでしょ?
 インタビューの内容はなかなか分量もあって読み応えあり。枡野氏の短歌、川柳に対するスタンスがわかると同時に、創作の秘密までのぞけてしまうというのはなかなかお得な感じである。インタビュアーが一つ一つ丁寧に聞いて枡野氏も丁寧に答えているので、次第に話が深まっていく感じがなかなか心地よい。
 内容について一言書くと、僕は枡野氏とちがって誤読の可能性はけっこう好きではある。送り手が「S/N比」のいいものを提供しようとする姿勢はもちろん重要とは思う。でも、作者にできるのは、誤読の可能性を極力低くすることまでで、誤読の発生そのものは防ぎようがないとも思う。そして、その誤解が面白くて説得力があれば、それはそれで一つの鑑賞としてありだと思う。
 そう、肝心なのは説得力(強度と例えることも可能か)なのである。読み手が誤読を含めたする場合、一番大切なのはどれだけ説得力を持っているかを、送り手並に吟味することだ。ここを忘れて誤読の自由をいうのもまた間違いではある。「自分にはそう思えた」も結構だけれど、その「誤読」は他の人には通じなければ、解釈にはならないでしょ。自分だけの真実を大手を振って歩かせようとするのは、貨幣経済の中で物々交換を主張してるようなもんだからね。などというようなことをつらつらと考える。

■ インタビューを読んだので、インタビューについても少々。僕はインタビューには2種類あると思っている。
 一つは、インタビューイと作品(業績、成績)の関係について尋ねるもの。アーティストに新譜の内容を聞いたりするやつだ。ここでの質問の基本は「なぜそんなことをしたのか」になる。
 もう一つは、インタビューイの自意識を問うもの。これは「あなたはなにものか?」 と問いかけて、その人となりを探るというヤツで、主眼はヒューマン・インタレストだ。ルポ形式だが『AERA』の「現代の肖像」なんてのはこの類になる。
 この二つはもちろん簡単に分けられるものではない。例えば、作品を使ってその人の立ち位置や価値観に迫るということはありえる。けれど、インタビュアーは自分がどちらのつもりで話を尋ねているのかはっきり自覚しないとまずい。つまらないインタビューの何割かは、このあたりを峻別しないままのんべんだらりと話を聞いてしまっているんだよね。わかりやすくいうと、インタビューにテーマがないんだな。

映画■ストレイト・ストーリー
 デイヴィッド・リンチのイメージを一言でいうなら、赤だ。それも、動脈血のような鮮烈な。この赤は、『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』『ワイルドアットハート』などでいつも重要な位置に配されてきた。モノクロの『イレイザー・ヘッド』にだって、この鮮やかな赤を探すことはたやすい。
 ところが本作には、赤は登場しない。いや、赤は確かに存在している。だがそのあり方がだいぶ違うのだ。この映画を彩る赤はもっとくすんで、茶がかった暖かい色をしている。それは、家の壁のレンガであり、ポンコツのトラクターの色であり、主人公の着るネルシャツの色としてさりげなく描かれる。
 本作の主人公は73歳の老人。物語は、彼が兄に許しをもとめて旅するロードムービーの体裁をとっている。このリンチらしからぬ設定を書けば、リンチの赤がいつもと違ったトーンになっているのも頷けるはずだ。これまでのリンチの赤が血潮だとすれば、本作の赤はいわば紅葉の赤、夕日の赤なのだ。主人公は若者に「年を取って最悪なことは何か」尋ねられ、こう答える。「若い頃のことを覚えていることさ」。 この人生の苦みが、いわば赤にくすみをあたえているものの正体だ。
 彼は自分の言葉を証明するかのように旅で出会った人に、まるで告悔のようにその若い頃のことを、言葉少なにだが語る。彼は年を取っても忘れることのできない思い出とともに旅をしているのだ。 lそこで僕たちは、この映画の重要な色、グリーンの存在に思い当たる。これもまた、赤とついになって登場するリンチの青の変奏とみることは可能だろう。彼は故障してしまった赤いトラクターをあきらめ、シックなグリーンのトラクターに、グリーンのほろをはった荷台で旅に出る。このグリーンと彼の若い頃の記憶の存在を重ね合わせたくなるのは僕だけではないはずだ。
 赤と緑の彩りは、主人公の人生を変哲もないトウモロコシ畑の中の一本道に凝縮してみせるのだ。 
1月29日(土)

■ 未明に帰宅したため、昼過ぎに起床。ぴょん太スペシャル@うどんを食べて、帰省の支度。新幹線に乗る前に、入院中の母への手みやげ(?)として『すべてがFになる』(森博嗣、講談社 880円)『スズキさんの休息と遍歴 または、かくも誇らかなるドーシーボーの騎行』(矢作俊彦、新潮社 629円)を購入。入院患者のための本選びは難しい。最初は東野圭吾の『秘密』にしようと思ったのだが、さすがに「妻が先立つ話」を、入院中の母親に送るわけにはいかないと考え直した次第。めずらしくひかりに乗ったので、2時間かからずに自宅に到着
 夜は、珍しく父親と二人だけで酒盛り。中国出張の話などでワイン1本半。その合間に、仕事の電話2本。日記更新しようとするが、眠くて断念。

小説■境界(藤沢周、新潮社)

 一人の男の視点で、彼の周囲の現実が喪われていく様子を描く。読み始めてすぐに、読者を幻惑しようとする作者の意図が了解できるので、場面場面の神経症的な描写は面白いものの、全体像としては物足りない。ラストまで読み終えて、みると「やっぱりこんな風に終わるのね」と、こちらの想像の範囲を超えなかったことだけが印象として残ってしまった。別に、ラストで驚かせてほしいわけではなく、もともと描写、イメージが大切なタイプの小説なのだから、こちらの想像を絶するようなイメージを見せてほしかったといことなのだ。
 この「想像の範囲を超えない」理由の一つは、タイトルのつけかたにもある。このタイトルでは、「境界が曖昧になる話」だと半分以上ネタばれしているようなものだ。これだとどんなイメージを描いても、読者もそういう話だと構えているから驚かないのである。
1月30日(日)

■ 寝て起きて、父親と二人でソバ屋で昼食の後、日記更新。そうこうしているうちに温泉に行っていた祖母も帰宅する。午後3時過ぎに、3人で病院へ。妹夫婦も少し遅れて合流することに。
 母親は熱が下がらないが、予想以上に元気な様子で一安心。気管支鏡でサンプルをとる検査をもう一度やらなければないらしいのだが、やはりあれはなかなかつらいらしい。
 ひかりで帰宅すると、昨晩の飲み過ぎのせいでもないが、なんだかどっと疲れた感じ。それでも、このページの不都合などを修正する。

1月31日(月)

■ どうやら微妙に風邪気味みたい。会社にいって精算作業の合間に、仮眠をとるなど、体内電池が尽きないように工夫。それから新年会へ。2次会まで参加して、遅くなりすぎないように早めに帰宅する。それでも、酒を飲むと調子が良くなったように感じるのは気のせいだろうか?(気のせい、気のせい)

■ ネットダイレクトで注文した『図説 金枝篇』(サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザーほか、東京書籍 4660円)が今朝届いた。実は注文した翌日には、神保町の三省堂で同書を発見したりしていたので、注文から約1週間での到着というのは、速いのか遅いのか判断が難しいところ。在庫があればはやいのだろうし、在庫がないのは注文時に確認済みだったから、まあ予期したとおりの時間ではあるのだが。本の内容は、予想通り岩波文庫の『金枝篇』より読みやすそうだ。
 今日は『死亡遊戯』(藤沢周、河出書房新社 500円)を読み始める。さすがに『境界』よりは面白い、ように思える。

■ いろんな人が買っている『罪と罰』(椎名林檎)をやはり先日買った。ジャケを見て『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』('67年、大映)を思い出したのは、オレだけではないと思うのだが、どうか? アレは左右が逆だったかな?

■ ここのところマンガを読みたくて、『なるたる』『大日本天狗党絵詞』『BLAME!』をそれぞれまとめて買った。でも一向に手を着けず、シュリンク包装されたままだったりする。