猫という名の人類
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          第2部   愛憎症候群
                                      滝沢  俊
             @ 新たな始まり
  寒さが身にしみるようになってきた十一月下旬のある日、午後六時。
  杉本哲夫は今か今かと待ちわびていた。
 ここは都内大手企業系列の大規模百貨店にある、関係者以外立入禁止の札がかかった社員専用通路の出口に設けられた守衛室である。
  通常なら営業時間終了の午後八時まで働き、なおかつ残業をこなさなくてはならないのがここのデパートの業務である。ところがここ数ヶ月前から、決まってこの時間に退社する女性がいるのだ。それも新顔の若い女性…金髪の外人で日本語が上手な美人…そのくらいしか分からないが、哲夫には心惹かれるものがあった。
 タイムカードのある守衛室だけに、社員は必ずここに立ち寄る。
  この間、こそっとカードを見た。「香坂 未亜」とあった。日本名だ。
  帰化した人だろうか。両親が日本に住み、昔から日本で生活をしているんだろうか。なぜ、彼女だけが六時に退社できるのだろうか。そこにはどんな事情があるのだろうか。
  片思いが先行している哲夫は、彼女の謎に少しでも触れたいと思っていた。
「あんまり意識しすぎるとろくな事になんねえぞ」
  隣りに腰掛けた初老の大町重蔵が、広げたスポーツ新聞に目を落としたまま、低い声で若さに任せて走り出しそうな哲夫に釘を差した。
「昨日、溝口とか言う若い男から聞いたんだが、あの人は秘書課のエリートさんだそうだ。あの上品な物腰は、われわれの生活からはほど遠い世界で身につけたものだぞ。ここに来てるのもほんの些細な花嫁修業みたいなものだろうて」
「僕には高嶺の花だって事ぐらい分かってますよ。世の中にはああいう人もいるんだって事ですよね。きっと幸せに育ってきたんでしょうね」
  哲夫は大町の方とわざと反対に顔を向けた。
 何気なく答えようとしたつもりたったが、人生経験の豊富な男に自分のくすぶっている男心を隠せなかったことが分かったからだった。
「さてそれはどうかな。あの瞳の奥には何か深い優しさを感じるが」
  大町がまだ言い終わらないうちに通用門の外に、これまた時間通りに現れる真紅のスカイラインGTーRの排気音が、守衛室にも漏れ聞こえてくる。
  通用門の外、ラッシュの続く都会の裏通りで、薄闇が包んだアスファルトの路面に車のライトが眩しく光っている。少し雨が降り始めたようだった。
 哲夫にはその車が社員を迎えに来ているのは分かっているが、その大胆な通用門への横付けに少々腹も立つ。これは香坂未亜という女性の絡んだ嫉妬かもしれない。一度注意しようと出ていったことがあったが、ドライバーズシートに身を沈めた男の姿を目の前にして大町に止められたのだ。細かいことには目をつぶれ。と。わしらの仕事は、デパートの警備であり、社員の安全を守るのであっていざこざを起こすことではないと。
「あの男も上流階級の生き物なんでしょうか」
「世の中にはいろんな価値観を持ったのが、ごまんと転がってるもんだ」
  腹立ち紛れに言う哲夫の気持ちを察してか、大町は新聞をたたみながら静かな口調で答えた。
「その点おまえはいい青年だよ。年寄りをいたわる心を持ってるし、人のために何かをしたいと思っている。障害者のボランティアに参加してることも知っとるしな」
「えっ」
  大町の意外な言葉に、哲夫はどきっとして言葉を失った。
  競馬と酒だけが友だちのような老人が、いったいどこをどう見ているのだろうか。まったく、この大町じいさんにはかなわないな、と感じながら哲夫は頭をかいた。
「わしに娘がいればおまえを息子にしたいくらいだ。だが彼女と仕事仲間以上のつり合いがとれる男は、なかなかお目にかかれるもんじゃないだろうな」
「生きる世界が違う、か」
  哲夫は彼女の顔を思い浮かべた。あの表情は人を和やかにする力が宿っている。美人だ、育ちの良さだともてはやされる表面的なものだけでない、もっと荘厳な、深淵の、愛情に満ちた、あの深い瞳の奥にあるもの。
 あれは強さだ。
 精神的な強さが自信を生み、他者への示威を表している。普通の生活で二十歳そこそこの女性が身につけられるものではない。だからこそ哲夫は、その魅力に惹きつけられるのだ。
「まあ、わしの目から見ても魅力あふれる女性だから、お前が惚れるのも無理はないさ。わしだってもっと若けりゃお茶ぐらい誘うかもなあ」
  大町の口元が少し笑った。滅多に笑顔を見せないが、口元だけは隠せない。哲夫はそれを見て大町の優しい心遣いに感謝しつつも、やり切れない思いに更に包まれるのだった。
  そのとき、守衛室に左奥にある貨物専用のエレベーターの扉が重々しく開いた。薄暗いエレベーターの蛍光灯で金髪が少し蒼く見えた。クリーム色のスーツに身を包み、茶色のポーチを左肩からたすきにかけた女性がそこに立っていた。
 内側の鉄柵の扉は手動なので、哲夫は素早く守衛室から飛び出し、華奢な細腕が扉を開けるより早くその扉を押し開けた。
「いつもありがとうございます」
  少しはにかんだ声が哲夫の耳を通り抜けた。
「お疲れさまでした」
  にこやかに笑みを浮かべて軽く会釈する女性に、哲夫は耳まで真っ赤になるほど緊張しながら声をかけた。
  守衛室の入り口で大町が、香坂未亜を出迎えた。
「このエレベータは扉が重いので大変でしょうに。今日はまたどうしてこちらのエレベーターで」
  タイムカードを押す未亜の後ろ姿に、大町が声をかけた。しゃべりすぎる守衛にも困ったものだと自分に舌打ちしながらではあるが。
「いえ、営業の方が忙しそうに使ってらっしゃったからしばらくは使えないな、と思っただけです。勝手に貨物用のエレベーターを使って申し訳ありません」
「謙虚ですな。」
「いえ、私のわがままで退社させていただいてますから」
「秘書課のみなさんは五時に退社なさっていますが」
「私は秘書課付きですが、すべてが同じ待遇ではありませんので」
 少しはにかんだ顔で未亜は振り返った。
  清楚で気品に満ちた表情には後ろめたさはなかった。これであのかしましい秘書課の女性たちとうまくやっていけるのかと心配になる哲夫だが、それは哲夫の思い過ごしというものである。
「お先に失礼します」
  香坂未亜は金髪を掻き上げ、さらりとたなびかせた。
  この声に大町はかぶった帽子の鍔を軽くつかみ、会釈を返した。
「お、お、お疲れさまでした」
  哲夫がようやく返事を返したときには、未亜はすでにその姿を車の中に滑り込ませていた。
  未亜のつけるかすかな香水の香りを感じる間もなく、GTーRの猛々しい排気ガスがかき消した。むせかえりそうな臭いの中で哲夫は一人呆然と立っていた。
  最後の台詞を姿と共に何度頭の中を巡らせただろうか。ほんの数瞬の回想の後、一人のにぎやかな声で現実に引き戻された。
「しまった。今日もうまく逃げられたか」
 その男は息を切らせながら、通用門の出口で舌打ちをした。
  社内報の新人紹介で見かけて以来、たくさんの男性が彼女にアプローチを仕掛けたが、ことごとく失敗に終わっている。しかし彼は恋愛の対象として未亜を見ているのではなく、効果的な宣伝活動に生かせると思ったのだ。
  なぜなら二十代前半にしてすでに妻子持ち、かわいい三歳の女の子は彼の自慢の種なのだから。
  彼こそ宣伝部に所属する、デパート専属デザイナー、溝口良達である。 
  折しも女性の商品化問題で彼の企画は立ち消えとなったが、彼自身、まだ諦めてはいない。今でもこうして、イメージガールとして宣伝に登場してくれると約束してくれるまで、食いついて離れようとしないのだ。
 彼もまた、香坂未亜の素性を知らない。世間ではメラネシアン・キャットと呼ばれ、その卓抜した知性と武術、そして神秘的な謎を隠し持つことで恐れられている、猫という名の人類であることを。
                 A 才能の限界
  社長は至福の笑みを浮かべていた。
  横にはご満悦の企画部長と脂性の額を拭う総務部長を従え、海外企業からの賓客を精一杯の笑顔で送り出した直後だった。
  その脇には通訳という立場をわきまえて、静かにそれでいて貴賓の漂う姿勢を崩さない香坂未亜の姿があった。
「いやあ、君のおかげだよ」
  四十過ぎの経営者としては、過分な若さと自信に満ちあふれた社長が未亜の手を取り、これ以上ないほどの敬意でもって感謝の意を表した。
「私は単なる通訳です。社長の先見の明と実行力がこの商談を成功させたのですから、どうか過分な栄誉はお許しください」
 普通の通訳なら言い過ぎであるはずの言葉も、社長の耳にはかえって心地よかった。
「遠慮することはない。君の卓越した語学力と感性と、その天使のような笑顔があればこそこの商談は成立したんだから。自信を持ってくれていいんだよ」
「私は、君が「この商談は私が成したんだ」と威張っても怒らないよ。いや怒れないな、実際そうなんだから」
 壮年を迎えた二人の部長にも同様の賛辞を受け、いつになく未亜も嬉しくなった。
「やめてください。このままでは本当にお調子者になってしまいそうです」
  久しぶりに心から照れて、未亜は赤くなりそうな頬を右手で交互に覆った。
「いやあ、君のおてんば姿が見れるのなら私の方が調子に乗ってやり過ぎそうだよ」
  企画部長がちょっぴり意地悪そうな笑顔を浮かべた。とはいえ、さすがに一流企業の上司だけあって、下品な表情は見せない。
「皆さんの暖かいご厚意に甘えさせていただき、その上有意義な仕事を与えてくださったことに感謝します。本当にありがとうございます。これからも私を高く評価していただける社長の元でがんばりますのでよろしくお願いいたします」
 新入社員が見せるような素振りでぺこりと頭を下げる未亜に、3人の男性は再び笑い声をあげた
「おいおい、そんなに丁寧にならないでくれよ。私が冗談も言えなくなるじゃないか」
  社長はそういいながら時計を見た。次の仕事が待っているのだ。雑談に興じているほど暇ではない。しかしこの場を離れがたいと感じていた。それも未亜の魅力がなせる技なのだろう。
「それにしてもすばらしい語学力だね。いったいその若さで何をどうすればそんなにたくさんの言葉を巧みに操ることができるのかな。英語をはじめ、仏語や独語はもちろん、ロシア語やラテン語までも。更に方言まで熟知している。私なんか、到底及ぶところではないな。」
  企画部長はそういうと軽く肩をすぼめた。
  それに続けて、総務部長がハンカチをポケットに片づけながら、未亜に対する些細な疑問を口にした。
「本当のところいったい何カ国語くらいを理解できるんだね」
「そのくらいですわ」
 とだけ、未亜は答えた。まさか正直に数百の言語に精通し、今では失われた民族の言葉や慣習の貴重な伝承者としての価値もある、などと答える必要はない。人ひとりの人生の期間を過ごした地方も少なくないのだ。覚える気がなくとも、方言まで熟知していて当然であろう。
「ところで、まだあの男にはつきまとわれているのかい」
 総務部長が不意に話題を切り替えた。
「イヤならはっきり言ってやればいいんだよ。何なら私の方から話を伝えておこうかね」
「いえ、あの方の熱意は大好きなんです。ただ、最近はゲーム化してきているんです。私がいかに上手に逃げ、彼がいかに知恵を絞るかというゲームです」
「なるほど、何でも楽しむ心を失わないんだね。君は強い女性だ。本物の強さを持っているんだね」
「お誉め頂けて光栄です」
  未亜がそう答えたのと同時に、他の秘書が社長に新たな来客を告げた。
  ほっとした表情をかけらも見せず、未亜は3人に別れを告げると、階下の売場へと足をのばすことにした。
  最近は外国客が多い。営業は英語が話せることが必須だが、中には日本人同様、意地の悪い客もいる。そんな客を相手に一歩も退かず相手の母国語で話ができるのは未亜だけしかいないのだ。
 いつしか営業課からも依頼が回ってくるようになった。
  それだけ私を必要としてくれているのだ。この状況に感謝しなければ。
 そう心に思う未亜だった。
  哲夫は今日も疲れた顔で帰路に着いた。
 始発電車を乗り継ぎ、安普請のアパートにたどり着いたのは午前六時。近所の会社員などは、そろそろ通勤の時間となる。
  ポーチの中をまさぐり、哲夫は一つの鍵を取り出した。古びたシリンダーが軽く抵抗するが、お構いなしに差し込んで回した。
 がちゃりと仰々しい音を立てて施錠が解ける。人気のない荒涼とした空気にその音はやけに重く、寂しさを伴って響くので哲夫は大嫌いだった。
  何度も塗り直した鉄製の重い玄関扉がだるそうに開く。誰も哲夫を迎えることがない。もう一ヶ月になるだろうか。この瞬間に深い吐息を漏らすのが、一日の締めくくりとしての日課になりつつあった。
  人間なんてこんなものかもしれないな。
 幸福だと信じたいものが無惨に崩れていくのを何度体験しただろうか。
 両親の死、妹の交通事故…哲夫が大事にしたいものは今、手元にはない。
  未だ闇に包まれた部屋のスイッチを入れた。玄関先の明かりで3DKの室内はそれなりに明るくなった。
  それでも気分は沈んだままだった。
 水道の蛇口をひねり、やかんに水を注ぐと、レンジにかけて火をつけた。
 青い炎がやかんの底を勢いよく舐めながら、その触手を揺らめかせている。
  ほんの少しその青い炎に目を奪われていたが、気を取り直して部屋の奥に入った。奥の部屋にある簡素な仏壇に手を合わす。両親を失ってから八年、そのとき哲夫は高校一年、妹の晴美が小学六年生だった。
 犯罪者は、酒気帯びの運転手が操っていた白いベンツだった。嫌な感じの男だった。後から聞くと、土建業の社長だったというが、人を二人殺しておいて淡々と話を進める様が哲夫は大嫌いだった。自分が直接の犯人ではないが、その車に乗っていたことに変わりはない。
 補償は十分だったが、それで両親が帰ってくるわけではない。暖かい家庭の団らんを、そいつは自分たちから永久に奪い去ったのだ。
  それ以来、二人の兄妹はますます金持ちに憎悪するようになった。
  両親の保険金にはほとんど手をつけず、哲夫はアルバイトに精を出した。できることは何でもした。土建業以外は。
 新聞配達から運送業、店員。驚異ともいえる働きぶりで、妹とのささやかな生活費ぐらいはなんとか確保できた。自分の学費まではさすがに稼ぎ切れず、親戚の世話になったこともある。実際、借家暮らしだったため、その保証人も引き受けてもらっていたのだ。
  そして去年、その家も引き払い、新しいアパートに引っ越したと同時に妹に彼ができた。
  哲夫は複雑な心境だったが、嬉しくもあった。しかしその彼が交通事故で半身不随となり、晴美はどれだけ苦しんだろうか。彼の両親の承諾を得ての献身的な介護で、リハビリも中盤を迎えている。
 そして今度は晴美までが交通事故に巻き込まれた。交差点で派手にクラッシュをした車の部品が原付に乗る晴美の頭を直撃したのだ。
  ここまで車にいたぶられる一家も珍しい。などど冗談も言う気になれない。
  哲夫は極端に車を憎んだ。仕事上、どうしても運転しなくてはいけない以外は助手席にも乗らなくなった。ここまで嫌いになったのも、この事件が最後のだめ押しになったからだ。
  甲高い笛の音が更に音量を増し始めたことに気づいた哲夫は、もそもそと台所に移動した。
  自分がこの先好きになった女性も、車の事故に巻き込まれることがあるのだろうか。車社会の今では、事故に巻き込まれないほうが低い確率かもしれない。それどころか、いつ自分が命を落とすことになるかもしれないのだ。
  それを考えると、恋愛にも極度に慎重にならざるを得ない自分がまた歯がゆくも思うのだった。
  満員電車の中で、溝口良達は自分のかわいい一人娘の誕生日プレゼントを抱えて、家路についていた。
  混み合う車両の中でさほど高くもない身長の若者が、包み紙に包まれたぬいぐるみをつぶされまいと格闘する姿は端から見て滑稽かもしれないが、そんな姿も良達にとって見ればそれすら自慢の種だった。
  駅に着き、ドアから吐き出される人ごみと押し入る人ごみ。この車両だけではない。連なったすべての車両が同じ光景なのだ。
 この環状線上に稼働しているすべての車両が、駅に着いたときには同じ動きを繰り返している。今も駅のホームには、あふれ返る人の群が階段を行き来しているのだろう。
  いや、環状線内だけにとどまらず、この時間に動いている東京都内、さらには全国の電車やバスがたくさんの人間を運んでいるのだ。そう考えると驚異であり、恐ろしくもある。
  だが良達にとって、それさえ自分をアピールする材料に他ならない。
  人がいるから宣伝をする。たくさんの人がいるからこそ、この車内に掲示される広告が非常に重要な意味を持つのだ。たくさんの人が自分のデザインした広告を目にし、デパートに足を運ぶ。
 こんな爽快な仕事は他の誰にも渡せない。満員電車に乗るたび、それを実感させられるのだ。自然と仕事に熱が入って当然だろう。
 ドアが閉まり、軽い金属音を含んだモーター音と共に静かに滑り出す。
「 あと二駅だ」
 良達は口の中でつぶやいた。幼い愛娘の顔が浮かぶ。玄関のドアを開ける前に、必ずチャイムを二回押してから入らないと機嫌の悪い磨那絵。チャイムの音を聞き、父を玄関先に迎えに出るのが楽しくて仕方がないらしい。
 かわいいじゃないか。これだけで磨那絵の笑顔が見れるのならお安いご用だ。
  今日はまた特別な日だ。娘がお気に入りの、人参を抱えたウサギのぬいぐるみ。このプレゼントをどんな表情で受け取るのだろうか。
 プレゼントの意味もろくに分からず、誕生日の意味がただ何となく分かっているだけの三歳の女の子に高度な社交儀礼はない。嬉しければ笑い、悲しければなき、時には困った顔をする。その一喜一憂が父にとって毎日の励みになる。
 幸せな日々だ。このままずーっと続いてくれることを願いたい。
 良達がぼんやりと娘の将来に思いを馳せたその時、急に車両が悲鳴を上げた。
鋭い金属の擦り合う音とともに、乗客が一斉に前方に引き寄せられた。
 女性の悲鳴が響いた。男性の押し殺した苦痛の声があがる。
  急ブレーキだ。それが分かったとき、良達は数人の乗客の下敷きになっていた。自分の下にも人がいる。若い女性らしいうめき声が、耳元で小さく聞こえていた。
 よたよたと起きあがる人が出始め、周りの人々が動き始めた。混雑した車両だったためか、倒れて踏みつけにされた人はいない。良達も斜めになった体をようやく起こせた。
 身体の限界を超えた圧力のために、むせて咳き込むものもいる。ひょっとすると骨折者もいるかもしれない。いったい何があったというのだろう。まだ車内に緊急放送が流れてこない。
 原因は車か人か。踏切でのトラックの立ち往生か、自殺者だろうか。
 良達はふと、あることを思いだした。
 大事に抱えていたはずの包みが手元にないのだ。あわてて手元を動かそうとするが、まだまだ窮屈な状況下での両腕はそう簡単に動かせるものではない。
 良達は自分をなじった。
  あれだけぬいぐるみがつぶれないようにと気をつけていたのに。ほんの一瞬で、そのことすら忘れてしまうなんて。
  磨那絵の悲しそうな顔を思い浮かべると、じりじりと耐えられない衝動が良達の胸の中を襲い、ムキになって探し始めた。
  もがくように手を動かしていて、横の若い女性のお尻をなで上げてスカートをめくりあげるような仕草になり、良達はどきっとした。
「すみません」
 反射的に良達は謝った。しかし返ってきた返事は意外だった。
「いえ、ありがとうございます」
「はあっ?」
「これで助かりました」
  その女性は、ばつが悪そうに包みを差し出した。
「このおかげで床に転がらなくて済みました」
 まだ二十歳に達していないあどけなさを残した女性は、そう言って所々破けた包みを顔の前に持ち、ぬいぐるみを挟むようにして良達と向き合った。
  このときの良達の表情は、近来見せたことのない情けない顔をしていた。中ば口を開き、呆然とした目。両肩がすとんと落ち込んだ猫背の姿勢。そんな姿をこの女性は自分の罪のように感じた顔をしていた。
「痛っ」
 ズキッとした痛みに襲われた女性は、思わず顔をしかめた。
 先ほどの衝撃で、ハイヒールの踵が折れたのだ。そのときに足首を捻挫したようだった。
「大丈夫ですか」
 良達は受け取った包みの中身が「非常に」気になりながらも、女性の身体を心配して声をかけた。
  女性は申し訳なさそうな表情で、痛みをこらえていた。
「ちょっと痛いですけど、このくらいで済んだんだから、まだましですよね」
  そう言いながら微笑もうとする女性の姿勢に、良達は久々に心の中のランプに炎が灯るのを感じた。
 相手に対する思いやり、いたわりが信念としてこの女性にはある。軽薄短小で男言葉を使う、大多数の若い女性とは違う何かがこの女性にはあった。他人のぬいぐるみがクッションになったからといって、礼を言う人などはいない。
言う必要もない。声を発するならせいぜいが、ラッキー、ぐらいなものだ。
 ましてや事故があったからといって、自分のスカートをまくり上げる男に礼を言わなければいけないなら、どんなにか損をした気分になるのが普通の女性だと思っている良達にとって、この少女のリアクションは十分に新鮮だった。
  よく見ると実にかわいい。
  しかしこの表情にはどこかで見覚えがある。
「ぶしつけですが、どこかでお会いしましたか」
  目元のしわまでが確認できそうな距離なので、目が悪い人のように目をすぼめる必要はないのだが、良達はそうすることで記憶の糸をたぐっている姿勢を見せようとした。
「いえ、初対面だと思いますが」
  少し不安顔の女性は、防御の声で素っ気なく答えた。
  若く、感性が強く、こういった誘惑の声をかけられる機会が多いこの女性には、目の前の男性が変な人じゃないことは分かるが、それ以上は分からない。
 これを口実に、変な言いがかりをつける人ならどうしようかしら。
  そんな女性の心理を無視して、良達はもう少し距離を縮めたかった。
「よろしければお名前をお聞かせ願えませんか。こんなところで名乗るのも奇妙ですが、私は仙越百貨店の広報課勤務の溝口といいます」
 うら若き娘は「二神沙貴です」とだけ、答えを返した。
  これでも彼女にとっては精一杯の気遣いだったが、心の中で舌打ちをした。別に名乗る必要なんてなかったのに、と。
「こんなところで何ですが、二神さん。我が社のイメージガールになって頂けませんか」
  良達は一つの確信にも似た思いで、思わず語尾に力が入った。雰囲気がそっくりなのだ。我が社の謎多き美女、香坂未亜に。
 こちらはまだあどけなさが残り、田舎臭さもあるが宣伝効果にさほどの違いはない。それどころか、完璧に近い香坂よりもこの女性のほうが大衆受けする魅力があるはずだ。
「はあっ?」
  状況をわきまえぬ良達の言葉に、今度は二神と名乗った短大生が目を丸くしたのだった。