|           [ 
          脱出そして帰投   陽が暮れかかっていた。 
     もう一時の猶予もならない。 
     早くここから脱出しなくては。 
      
    香坂はやきもきしながらパラミアスの後ろ姿を見つめていた。 
     パラミアスは乱れた衣服を正し、取り外していた装飾品を改めてつけ直していた。 
      
    そのうちパラミアスは装飾刀を手に取ると香坂に歩み寄ってきた。 
    「明、これを」 
     パラミアスは香坂に秘剣を手渡した。 
    「やはりあなたに持っていて頂きたいのです。私の我がままを、最後に一つだけ聞いてください」 
      
    もはや香坂は拒否しなかった。かえって逆にそれを快く譲り受けることが出来た。 
     これだけ慕われているのだ。 
     嫌っては罰が当たる。 
    「私はいつもあなたの側にいます。ここから無事に帰っても、決して私のことを忘れないでください。これは私の心とあなたをつなぐものです。必要があれはこの剣に語りかけてください。少しはあなたの役に立てる助言が出来ることもあるでしょう」 
    「ありがとう。大切にするよ」 
     それから幾らかの装飾品をパラミアスは香坂に手渡そうとしたが、香坂はそれを拒否した。 
     香坂にとっては、パラミアス自身と言われる秘剣を預かり受けられたことだけでもう充分満足だった。既に誰も手に入れたことのないミネーリアンの心を得られたのだ。 
     この剣が、たとえ時価に換算して数十億の値うちのあるものだとしても、そんな値うちなど箸にも棒にもかからない低次元の代物でしかない。 
     これ以上は何も要らないのだ。 
     二人は別れの挨拶を交わすとボートを係留している波止場に向かった。 
      ゆっくりと、辺りを警戒することなく歩いていた。 
     もう香坂には、何も恐いものはなかった。 
     森羅万象、巡り来る全てのものを受け止めて処理できるパワーすら、自らの体内に感じるのだ。 
     これもパラミアスに感化されたせいなのだろうか。それとも自分の内に秘められている力なのだろうか。いや、そんなことはどうでもいいことだ。 
     香坂は秘剣をしっかり抱きしめたまま、パラミアスの後について歩みを早めた。 
     先程から少々坂道が続いているが、それから幾らも歩かぬうちに、香坂の頬を爽やかな潮風が撫でているのに気がついた。 
      香坂の眼にみずみずしい力が蘇ってきた。 
     ジャングルは途端に開けて、香坂の眼前に青々とした海原の広がりが眼に入った。 
     これまで夢に見た太平洋だ。 
      香坂は先に立ったパラミアスと並んで海を見つめていた。 
     眼下にはボートを係留してある朽ちた木造の桟橋が小さく見えた。 
     ここは断崖になっており、目的地に達するにはこの急斜面を下らなくてはならない。上陸した時のコースではなかったが、このほうが他の者に見つかりにくいとパラミアスが考えたのだ。 
     斜面を降りるのは並み大抵の体力では無理だった。確かに獣道のような細い岩の裂け目が走っていて、ロッククライミングよりは簡単だろうが、下から吹き上げる潮風と全体重をかけると崩れ落ちてしまいそうな程脆い岩盤、そして薄闇に包まれた足元は、神経を極度に擦り減らせた。 
     度々剣を落としそうになってそのまま海に飛び込もうかとも考えたが、波の打ちよせる崖っ淵は内側に彫り削られているものである。そんな所に呑込まれでもしたら、まず生きては帰れない。 
     ようやく急斜面の絶壁から解放されて、香坂は一息ついた。 
     樹木で再びボートが隠されていたが、見えないことに対する不安はなかった。 
     目と鼻の先に目的地があるという確証があるからだ。 
     そこで香坂はパラミアスの様子がおかしいのに気がついた。 
     パラミアスがしっかりと剣を構えていた。 
     茂みの中に何かがいるのだ。 
    「ニナ・ミ・サラでしょ。出てきなさい」 
     パラミアスの言葉に促されるように、がさがさと音がした。 
    「明、さあ走って。行くのよ」 
     その直後から香坂は全力で走った。 
     誰かが金属音に似た声で甲走ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。 
     もう、すぐそこだ。 
     そう感じた矢先に、香坂の行く手に立ち塞がるものがいた。 
     アイギナだった。 
     今まで香坂が目にした妖絶な女体ではなく、一部の隙を見せない戦士に変貌していた。 
     香坂は立ち留まってパラミアスの秘剣を構えた。 
    「何故パラミアスを誘惑したの」   
      アイギナは香坂へにじり寄った。 
    「別に誘惑した訳じゃない」 
      
    香坂は、いつ襲いかかって来るかも知れないアイギナを牽制しながら本音を伝えた。 
    「パラミアスはただ人類との共存を望んだだけだったはずだわ。それをあなたが恋愛感情にまで引きづって行ったのよ。あなたがディキスに似ているばかりに……」 
      
    そこまで言うとアイギナは、問答無用とばかりに香坂に切りかかった。 
    「それだけの理由で俺を殺すのか」 
      香坂はアイギナの太刀を受け止めて叫んだ。 
     ぎりぎりと、金属同士の擦れ合う不快な音が響きわたった。 
    「あなたがパラミアスの剣を持っていたって構いやしないわ」 
    「俺が本当にディキスの生れ変りだとしてもかっ」 
     その言葉にアイギナは一瞬ためらいを見せた。 
     二人は素早く体を離した。 
    「俺には記憶があるんだぜ」 
    「なにを血迷ったことを」 
    「俺には二人の侍女がいた。一人は可愛らしい少女で、もう一人はいつも厳しい格好をした、これも何処か愛らしさをたたえた少女だ」 
    「アルマネアと、カレミナスの二人を……何故あなたが……誰に訊いたのよ」 
    「俺が落馬して、そこに駆け寄ってきたのを覚えているんだよ。確か、パーミスとの結婚式の日、と云っていたな。パーミス…そうだ、それがパラミアスなんだろう」 
     香坂が言い終わる前から、アイギナは身体を震わせていた。 
     あの夢は事実だったのだ。 
     香坂は夢に見た光景に、真実である裏付けを得た。 
     あの悪夢は、自分の身体に焼き付けられた過去の記憶なのかも知れない。 
    「ディキス様の生れ変りなどであるはずがない」 
     アイギナは自分の疑惑を打ち消すように再び香坂に挑みかかった。 
     だが、その剣さばきに最初程のスピードはなかった。 
     この時アイギナははっきりと認識した。動きを妨げているのは己の心の動揺からではない。圧力だ。これはディキスに似て否なる者。遠からずパラミアスを破滅に導く悪しき力。 
     これは…… 
     その動きを好機と感じた香坂は、力一杯アイギナの頭上に剣を振り降ろした。 
     鈍い音と共に飛び散る金属片。 
     折れたのは香坂の手にした秘剣だった。 
     馬鹿な…… 
      
    呆然と折れ飛ぶ刀身を目で追った、その一瞬の間隙をぬって、アイギナが香坂を投げ飛ばすとそのまま左腕をねじ上げると、背中に膝を突き立てた。 
     まるで遠慮と言うものがなかった。 
     その途端、香坂の肩に激痛が走った。 
     脱臼したのだ。 
    「これで終りね」 
      アイギナが勝ち誇って言った。 
      香坂は剣が振り上げられるのを感じた。 
     全身の筋肉が硬直する。 
     堅く閉じられた瞼。 
     そして飛び散る血潮。 
      頬にかかる生温かい血しぶき。 
     香坂は観念して自分の首が落ちるのを待っていた。 
      
    切り落とされた首は、大地に落ちてもまだしばらくは何かを感じることが出来ると言う。 
     だが首はいっこうに離れる気配がない。 
      香坂は恐る恐る瞳を開けた。 
    「早く行きなさい」 
     背中にパラミアスの厳しいしったを受けた。 
     香坂は何が起こったか悟って身体を起こした。 
    「ミア……」 
    「早く行って。お願いだから」 
      パラミアスの目にはうっすらと涙がにじんでいた。 
      泣いている。気高いパラミアスが。 
     香坂はかける言葉を失って、ただボートへ駆け出した。 
      既にボートは見えていた。 
     パラミアスは香坂が走り去るのを見て、肩の力を抜いた。 
     剣はアイギナの身体に突き立てたままだった。 
     アイギナは口から朱黒い血を吐き出しながら、最期にパラミアスへ香坂のことを伝えようと懸命に声を絞り出した。 
    「パラミアス様、彼は…彼は危険です。彼は…ディキスの……いえ……あ…くま……」 
      ここまで言って言葉が途切れた。 
    「ごめんなさい。それでも私は明について行きます」 
      
    パラミアスは息絶えたアイギナから剣を抜くと、静かに地面へ寝かせた。 
      とうとう仲間を殺してしまった。 
      
    そこまでして何故に、香坂を助けるのか。ついて行く価値があると言うのだろうか。 
      仲間を殺してまで…… 
      いや、殺す気はなかったのだ。 
      ただ、香坂を殺させまいとして無我夢中だっただけなのだ。 
      無我夢中で…… 
      それが我を忘れるようなことなのだろうか。 
     香坂がディキスに似ていると言うだけで。 
     それだけで…… 
     アイギナを殺してしまった。 
     パラミアスは拭いきれない罪を犯したことに、半ば放心状態に陥ってしまった。 
     すでに常軌を逸していた。 
     空間を歪め,幾千年の時を越えてきた女神の,一瞬の動揺を見逃さない者もいた。 
    「パーミス!」 
     パラミアスはまるで子供のように、叱られるのを恐れるかのように、その罵声におびえた。 
    「パーミス。貴様、とうとう……」 
     ミネアは取り繕おうとするパラミアスに、疾風迅雷の勢いで一瞬早く切りかかった。 
    「わが身に代えても貴様にこの罪、償わせてやる」 
      
    その言葉通り、身を守ろうと振りかざしたパラミアスの剣をはねのけて、見事に左の二の腕を刺し貫いた。 
      
    ミネアの剣は滑るようにパラミアスの肌に吸い込まれると、即座に突き抜け、鮮血を噴き出させた。 
     秘術を駆使するパラミアスが自らの体に傷を負うのは,ここしばらくあり得ないことだった。それだけに激痛はパラミアスの運動神経を奪った。 
      
    苦悶するパラミアスに再び、ミネアはためらいも見せずに切りつけた。 
      
    一撃で使いものにならなくなった腕では身をかばうことも間々ならず、パラミアスは避け切れずに右耳を切り飛ばされた。 
    「これで最期だ」 
      ミネアが叫ぶと同時に香坂も叫んだ。 
    「ミア、伏せろっ」 
      振り向くミネアを後目に、パラミアスはとっさに伏せた。 
    「殺らせるかよっ」 
      香坂の低いうなり声と共に小さな破裂音がこだました。 
     ボートに積んであった信号弾だった。 
     破壊力はないが目眩ましにはなる。 
      信号弾はうねりながらミネアに向かって飛んだ。 
    「こんなもの……」 
     ミネアは信号弾に向かって剣を振るった。 
     オレンジ色の発光は二つに割れた。が、その一つがミネアの右の目を直撃したのである。 
     悲鳴をあげて倒れるミネアの周りを、白炎がたちこめ始めた。 
     チャンスはいましかない。 
     香坂は姿勢を低くしてパラミアスに駆け寄った。 
     声をかけるが返事がない。 
     パラミアスは気を失っていた。 
     香坂はアイギナに脱臼させられた左肩の激痛と闘いながらパラミアスを右肩に担ぎ上げると、よろめきながらその場を離れた。 
     ボートはすぐに目に入った。 
     エンジンは既にスタートさせている。 
     香坂はパラミアスをそろりとボートに寝かせると、早速アクセルを開いて簡易桟橋を後にした。 
      もう後戻りは出来ない。 
     パラミアスをあの場に残すことは[見殺し]と言う殺人を犯すことになる。そもそもパラミアスが仲間を殺してまであの場に留まることは許されるはずがないのだ。 
     仲間同志の殺し合いになるのは目に見えていた。 
     ここでパラミアスを助けなければ、自分の存在価値を問われても仕方がない。 
     おまえは一方的に助けられて、そして一方的に逃げ帰ってきたのか。 
     おまえはそこで何をしてきたんだ。 
     彼女らをかき回しておいて後は放ったらかしなのか。 
     情けない奴だ。 
     そんな潮笑を受けることだろう。 
     これでいいのだ。 
     パラミアスは自分を助けたばかりに、必要のない気苦労と心痛を一身に背負って、この身を守ってくれたのだ。 
     今度は俺が助ける番だ。 
     香坂は心を決めた。 
      絶対にミネーリアンを人間社会に公表などするものか。 
     それがパラミアスの身を守る唯一の手段なのだ。 
      ミネーリアンの掟など知ったことか。 
     くそくらえだ。 
      
    ボートを反転させたところで船腹に数本の矢が刺さったが、まったく気にもとめなかった。 
      
    ここで矢に当たるようでは、よほど運がなかったことになる。 
     ここから無事に逃げ出せるのも運だ。 
      香坂は賭けをしていた。 
      水平線の微かな影がいくつかこちらに向かっている。 
     これも運だ。 
     奴らはこのボートだけを捜しに来たのだろう。 
      一端、香坂は島の沖合いにボートをとめた。 
     パラミアスはボートの底で、四肢を投げ出したまま横たわっていた。  
      船底にはおびただしい血で溢れ返っていた。 
     これが一人の身体から出た血とは思えないほど大量の血に、香坂は医者の卵ながら改めて驚いた。 
      急いで止血するが、見事に急所を貫いている。 
      
    恐らく、無事に生命を取り留めたとしても左腕は再起不能になるのは間違いないだろう。 
      
    土気色の肌は、香坂がいままで見たパラミアスのもっとも動物的な様相を呈していた。 
      早くまともな治療を施さなければ…… 
      
    香坂は再びボートを走らせた。ここから全力で走らせても一時間以上はかかるのだ。 
     この先どうなるか、まったく見当もつかない。 
      とにかくパラミアスに生きてほしい。 
     なんとしても助けなければ。 
     必ず元気にしてみせる。 
                
      
    これから必然的に持ち上がる問題を解決するすべも知らないまま、香坂は喧騒の待ち受ける人間社会に向かって舵をとった。  |