あれから二時間ばかり走っただろうか。
 小枝の張り出したジャングルは走り回るものではない。香坂は傷だらけになっていた。パラミアスはそれでもかすり傷一つ負っていない。
 気が付けば、メルスナの岩場に戻っていた。
 場所的には、ちょうど先程の裏側に当たる。二人が最初に出会った思い出の場所だった。青いテントもそのまま放置されていた。
 そろそろ太陽が南中する時刻だ。
 だが、空は灰色の雲に覆われていた。嵐の前触れを予感させる雲行きである。
「なんでここに戻ってきたんだ」
 香坂はパラミアスを詰問した。
 岩場は、どう考えてもボートの方角ではない。
「心配しなくて大丈夫よ。ここは今迷宮状態になっていますから、誰も入って来れません。でも,メイがここに閉じこもっても何の解決にもならない。そこで少しばかり訊いておきたいことがあるのです」
  パラミアスは担いだ長剣を二本とも地面に降ろした。
 香坂は仕方なく側の岩に腰掛けた。
 確かに、ここはパラミアスが作り出した、歪んだ空間である。
 香坂もそれは知っている。だが今,香坂がたどり着きたいのはボートを係留している小さな桟橋なのだ。
「本当はエコナを連れて帰りたかったのでしょう。誰から見ても,あの子はとても扱い易いから」
  パラミアスは小首を傾げ,左手を頬に当てそう言った。仕草は可愛らしいが瞳の奥にはきらりと冷たく光るものがあった。
 香坂はどきっとしてパラミアスを見た。
「ずばり訊きます。私とエコナと,どちらを選ぶの」
 パラミアスは香坂に,少し強い口調で詰め寄った。
 ディキスに似た香坂が自分を選んでくれず,エコナを選んだのが本当は悔しかった。
  エコナはパラミアスから見ても魅惑的だった。完璧な人格を保てるパラミアスにとって,天真爛漫を振舞えと言われれば出来ないこともないが自分の趣味ではなかった。
 才色兼備が身上だったからだ。
「私では,明には不足なの」
  香坂は今までに聞いたことのない鋭い口調に驚いていた。
 いつもとは全く様子が違う、思い詰めた表情をしている。幽寂な面影はなく、ただ恋愛問題に悩む、一人の少女の面もちに似ていた。
「とんでもない。不足どころか良すぎるんだ。俺にはもったいない女性さ」
 香坂はパラミアスの目を見た。
 じっと見据えたまま微動だにしない。
「本心を言うよ」
 香坂はあらいざらいぶちまける決心した。
 実は香坂にも分からなかった。確かにあの時はエコナを選んだ。だがカリュプソに見つかって、今度はパラミアスを求めた。
 平和な時にエコナを、争いの時にパラミアスを,である。
 都合の良い話しだった。
 結局はどっちでも良かったのか。
 ミネーリアンであれば誰でも。
「ただ一つの問題と言えば、少なくとも自分が手のひらで踊らされていると感じてしまう相手には……俺自信の気持ちを満足させられないんだよ」
「でも,充分尊敬に値する人格者だと思うよ。闘いの中で,ミアのような強くて美しい戦士がいるなら,俺は喜んでお供するさ。だけど一対一でつき合うには,ミアの強烈な個性が俺の中の独占欲と衝突するんだ。ミアにとって,俺は一つの時代を駆け抜けたかすかな思い出としてしか残らないんじゃないだろうかってね」
「そうよね。私には男性を好きになる資格なんてないのかも知れないわ」
「何言ってるんだ。好き嫌いに資格なんてあるものか」
 香坂はうつむきがちに、だが強く迫った。
「難しいこと話し始めたらミアにはかなわないけど,男っていうのは我だけで生きているような生き物なんだ。特に俺は独占欲が強く,意地の悪い,下品な男だよ。その我を充足させてくれる女性に対して,初めて優しくなれると,俺は……俺だけかも知れないけど,そう思っている」
  そう言うとパラミアスを見つめ直した。
「そうなのよね。私は男の人に対しては不器用だから」
  パラミアスは寂しそうに目を伏せた。
「私はあなたがほしかった。なんとしてでも自分の側にいてほしかった。今でも…… どうすればいてもらえるの」
 パラミアスがか細い声で訴えた。弱々しい乙女のような雰囲気を全身から発散させていた。
 しかし香坂は何も答えなかった。
 それを見極めたパラミアスは,数瞬の後に表情がこわばり,いつもの冷静さを取り戻していた。
「私がどのように振る舞っても,きっとあなたには演技と思えるでしょうし,私もそんな自分はいやです。でも,私も男性に愛されたい。過去,たくさんの人間の男性と出会っては別れてきました。強い私に憧れるものもいれば,独占したいと詰め寄るものもいた。あなたは私を独占したいのでしょう。でも,私は従属物になるのはいや。誰のものにもならない。でも,マスターと定めた誰かのためなら命を惜しむこともない。それが私の選ぶマスターよ。だから,私はこれまでミネーリアンとしての掟であるマスターの選出法をとったこともないし,実際私にかなう男なんて,そうはいなかった。」
「包み隠さず何もかも教えてくれ。それから考えるよ。そうじゃなければ俺だって、自分を納得させられないよ」
「本当に…ディキスとそっくりなことを言うのね」
「ミアの婚約者だった人だろ」
「…ど、どうしてそれを」
 パラミアスは意外な言葉に驚き、目を丸くした。
「カリュプソに聞いたよ。ミネアの兄でもあったってね」
 パラミアスはそれ以来押し黙ってしまった。
 香坂はしばらくの沈黙の後、意を決してパラミアスに対する不満をうちあけ始めた。
「ディキスって、一体どんな人だったんだ。まず、それから教えてくれよ。ここにいる全てのミネーリアンに関わりがあるらしいじゃないか。相当立派な人物だったらしいな。偉大な人物だったんだろ。俺がそれに似ているなんて、光栄なことなんだろうな」
 いつしか香坂の言葉は,パラミアスに対する非難の言葉に変わってきていた。
「興味を引いて、楽しく愉快に生活したことだけで、この先どうやって一緒に暮らせたっていうのさ。他の仲間との確執があるって言うのに、俺は何処で暮らせばいいんだよ。自分の身を守ることもできず,ミアに囲われて暮らすなんてまっぴらだ。俺だって誰の従属物にもなりたくない。だけど俺だって,自分が守りたいと思う女性のためなら命を投げ出してもやりたいことだってあるさ。どうせなら,ミネーリアンの生態や掟をちゃんと聞かせてくれた上で俺に選択をさせてくれるように,柔軟な姿勢で接してくれよ。身勝手だということも承知しているさ。でも,そのくらいの要求を聞いてもらってもいいんじゃないのか。
 ひょっとして、自分の優位性を過信してたんじゃないのか。いざとなれば力でねじ伏せられると。俺はミアが生き続ける間の一時の慰みものじゃないんだ。俺は俺の少ない人生を精一杯生きる権利がある」
「その通りね」
  パラミアスが顔を上げた。
「結局はあなたがディキスに似ていたからよ。ディキスというのは私と結婚の約束を交わした相手です。もう何千年も昔のことよ。最初はそんなこと気づきもせずに,ミネーリアン全体のことだけを考えて,あなたの利用価値を探していた。でもあなたと過ごしたあの十日間,私はだんだんとあなたに惹かれていくのが分かったの。努めてミネーリアン全体の利益になることばかり考え,人間の進歩度を推し量ることばかりに専念しようとした。そもそも幾千幾万の時を生き続ける運命を背負わされた私たちと,限られた寿命を全うしようと懸命に生きる人間とでは時間的な制約が決定的に違うのよ。だけどだめだった。懐かしい想いと共に,あなたに心を奪われて行く自分が恐かった。ようやくあなたがディキスに似ていると自覚したのは三日前,ミネアとの口論の場だったわ」
  パラミアスは立ち上がって装飾の入った長剣を手にとった。
 それをわが子のようにいとおしく胸に抱くと、香坂にそれを差し出した。
「これはミネーリアン最高の秘宝であり、神将剣(ペクリオス)と呼ばれるものです。この剣の名前は[パラミアス]……つまり私なのです。この子がどんな力を蓄えているのか、この私にもよくは分かりません。ですがこれは私自身なのです」
  香坂はパラミアスの行動が理解できなかった。
「私は誰かの従属物になるのはいやだけど守りたい人だっています。だから私を明に差し上げます。私には以前お話したように,主か従しかありません。厳しい掟を守ることが私達の理想であり,運命なのです。私の力は今や人に従うことより人を従えることに,より優位に働くほどにまでに達してしまいました。でも,私は誰も従えたくはありません。最高位の名誉も私にとっては重荷なのです。何千年も生きていながら不器用だと感じられるでしょうが,自分の気持ちを表すにはこれしか方法がありません。わたしにあなたを守らせて…」
「結構強引だね」 
  いきなりくれると言われても、もらえないものだってあるのだ。
「俺はミアに何も望んじゃいないよ。ただ、ここから助けだしてもらえるだけで充分なんだ。そりゃ最初は連れて帰りたかったさ。一緒に暮らしたいと思ったよ。なにしろ伝説だけの人種なんだから。それになにより医者として、長寿には最も興味を引かれるものがあるし」
「それだけですか。私が珍しい生き物だから、仙人のような身体を持つから。それだけの好奇心ですか。私の魅力はそれだけしかないのですか」
  ちょうどその時、パラミアスの額にある貴石が蒼い光を放った。
 その光は弱々しいものだったが、香坂の顔を照らして二人をびっくりさせた。
「え……まさか」
「な、なんなんだよ」
  香坂は眼を見張った。
 パラミアスが慌てて額を抑えたが、その光は点滅しながらだんだんと光量を増して、両手では覆い隠せなくなっていた。
 パラミアスは[起身]の初期状態を迎えてしまったことに驚きを隠せなかった。今は自分で何も望んではいなかった。起身は自分の顕在意識の上で準備期間をおき,一定期間をおいてはじめて可能な肉体活動である。
 肉体を極端に変化させる起身という変化は相当の体力を消耗する。そして香坂の生命をも奪う結果になる。起身とはそれほどリスクの高い生態変化なのだ。だからパラミアスですら無意識で起きることは今まで一度も経験していない。
「ど、どうしたんだよ。これはいったい……」
 香坂の不安な眼差しをよそに、パラミアスは香坂の足元に崩れ落ちるとそのままうずくまり,必死で苦痛を耐えていた。
 パラミアスの唇が見る見るうちに紫に変色していった。
 香坂はぶるぶると震えだしたパラミアスの身体に手を触れた。
  冷たい。まるで氷のようだった。
 香坂は慌てて手を引っ込めた。
 辺りは熱帯である。香坂は今でも常に汗をにじませているのだ。
  そんな中で,パラミアスの体温はどんどん奪われていく。
  それと反比例するかのように額の石からは鮮やかな閃光を放ち始めた。まるでそこだけ新たな生命が宿ったかのように規則正しい息遣いを感じさせる光りかただった。
「だめ,だめなのよ……」
  パラミアスは小さい声で自分に言い聞かせるように光の流出を抑えようと格闘していた。
 香坂の目には,自分の中にいるもう一つの人格と戦っているように映った。
 このままどうして良いのか分からず,とりあえずパラミアスの身体を抱いた。
 普段なら身体に触れられることを嫌うパラミアスだが,今は香坂のなすがままになっていた。
 このまま体温が下がり続ければ,普通の生き物ではまず生きてはいけない。
「やめて,いや……」
パラミアスが香坂に気づいて身体をよじるが,抵抗するだけの気力はない。そこには気高く,幽寂で,深遠な女神の姿はなく,ただ弱々しく身体をくねらせている赤裸々な少女が悶えているようにしか見えなかった。
 香坂の肩にぽつぽつと雨滴が落ちてきた。
 とうとう降り出したのだ。
 香坂は急いで青いテントを樹木の間に張り巡らせた。そして破れたシュラフでパラミアスの身体を包み込んだ。
 これはただの発作ではない。
 それは判っているのだが,今まで体験したことのない症状であり香坂には対処法も思いつかない。
 なんと知識のないことか。
 同じ姿形をしていても,人間の医学ではミネーリアンを診ることなんて出来ないのか。
 香坂は強い劣等感を感じた。
 所詮人間のような低次元の生き物は,ミネーリアンの謎を解明する許容力を持たないのだ。
 香坂は何も教えてくれなかったパラミアスに対して,今はその気持ちが理解できそうな気がしてきた。好奇心だけでは何の解決にもならない。この謎をたとえ教えてもらっても,俺に理解出来ないだろう。一度に何もかも理解できれば,苦労はないのだ。
「助けて…」
  紫色の唇を震わせて,まるで子どものように訴えた。
「俺はどうすればいいんだ」
 香坂の問に対しても,ただ同じ言葉を繰り返すだけで明確な答えは得られなかった。
 そのうちに,額の石から放たれる光がまるで意志あるもののように香坂の身体を取り囲み始めた。
「な…」
 香坂が声を出そうとしたが,その声は既に香坂の耳には届かなかった。
 起身の段階に取り込まれてしまったのだ。
 甘い香りが香坂を取り巻き,本能的な部分を引き出しにかかっていた。
 その瞬間に意識を失っているにも関わらず,虚ろな眼差しはパラミアスに向けられていた。
 そしてパラミアスに抱きついた。香坂の両手が彼女の乳房をわしづかみにしたとき,その痛みのために一瞬パラミアスの意識が戻った。
 その微かに残った意識が香坂の身の危険を感じた。
 このままでは明の身体が消滅してしまう。
 人間の肉体では持ちこたえられないのだ。
 これが本物のディキスなら,たとえ起身が起こったとしても何も心配することがないのに……
 だが,お互いが意識してその過程から逃れることは既に出来ない状態に陥っていた。
  香坂は夢心地の中でパラミアスの豊かな肉体を求めていた。
 先程まで冷えきっていたパラミアスの身体が妙に生温かく感じられる。
 香坂の全身に,なにか抑圧するものを解放したがる,耐えがたいうずきが駆け巡っていた。
 堪えきれないほどにパラミアスの身体がほしい。
 香坂はパラミアスの衣装の裾に手をかけた。
 パラミアスはそれを必死で拒もうとするのだが,身体は別の意識に取りつかれたように香坂の身体を受け入れようとしていた。
  この起身とは,ミネーリアンが幾千年にも渡って生き続けていくための儀式のひとつだった。いくらミネーリアンと言えども肉体的な老化は免れ得ない。
 完璧な延命手段でもなく,完全な不死身でもないため,ミネーリアン自体の総人口は今でもどんどんと絶滅に近づいている。何故ならこの器能のおかげで大半のミネーリアンは子を産めぬ身体となっていたのである。
「だめ,よ,明…」
 パラミアスは心の奥底で絶叫した。
 こんなのはいやっ!
 その叫びがパラミアスの強い顕在意識を呼び戻した。
 一瞬にして香坂に取りついた光は消滅した。
 縛り付けていたたがが外れて、ようやくパラミアスは解放されたが、香坂はまだ意識を失ったまま、しゃにむに身体を押し付けてきた。
「しっかりして、明。しっかりなさい」
 パラミアスはそれをはねのけると上半身を起こした。
 それでもむしゃぶりついて来る香坂を思いきり、何度もひっぱたいた。
 香坂の頬が赤く腫れ上がるくらいたたいて,ようやく香坂は意識を取り戻した。
 一時はこのまま夢遊病者のようになってしまうのではないかと心配したパラミアスも,香坂の意識の強さに内心ほっとした。
 普通の人間ならあの段階まで取り込まれると,もう元には戻らない。自分の意識は持たず,ただ快楽を求めてさまよう欲望だけの人間になる。
 ひょっとすると本当に,ディキスの生れ変りかも知れない。
「お、俺は……」
 香坂はひりひりする両の頬をさすりながら二,三度頭を振った。
「よかった。無事でなによりだわ」
 パラミアスは肩の力を抜いて小首を傾げ,ほっとした笑顔を見せた。
 香坂はまだ自分の身に起きたことが理解できていなかった。
 ほんの一瞬,まばたきをした程度にしか時間の経過を感じていない。その間に,うづくまり悶えていたパラミアスが元気に復活しているのだ。
「今のは一体」
「あれが私の長寿の秘密なの。あなたがた人間の精気を吸い取って自分の肉体を活性化する、[起身](プテディナソア)と呼ばれる生態変化の能力なの。だから人間がこの能力を欲しても決して手に入れることの出来ない力です」
「恐ろしい力だね。まだ他にもこんな力が隠されているのかい」
 香坂は嫌みたっぷりに言い放った。
「何も好きでこんな力を持っているわけではありません。出来れば変わってほしいくらいです。でも限られた時間しか生きられないあなたにとっては贅沢な悩みなのでしょうけどね」
  パラミアスは悲しそうに目を伏せた。
 初めて見せた切実な悩みだった。
「すまない。悪かった」
 香坂はパラミアスの肩に手を掛けた。
 パラミアスはそれを拒もうとはしなかった。
 結ばれたい。それもお互いの意志を尊重し合って。
 しおらしい態度のパラミアスに,香坂は自分の中から沸き起こる熱い衝動を抑えきれなかった。
「ミア……」
 抱き寄せる香坂にされるがままになったパラミアスは,ゆっくりと瞼を閉じた。
 香坂の腕の中には今,一人の若い女性がいた。
 気高く誰の助けもいらない,強い女性が見せたたった一度の弱さに香坂は強く惹かれることになったのだ。
 そこには香坂が嫌っていた完全無欠の人格者としてのパラミアスではなく,彼女が語った通りの,守りたい,守られたいというようなお互いが助け合って生きて行こうとする,けなげな若い女性に変貌していた。
  だが,香坂にとって女神的な存在であることには代わりない。
  女神であっても構いはしないではないか。
 俺はこの女神を愛して,そして別れるたのだ。
 美しい思い出と共に一生を送るのも良い。いや,短い一生をミアと過ごすのも良い。いずれ身辺整理をしてここを訪ねても良いではないか。
  香坂はパラミアスの柔らかい唇に唇を重ね合わせた。
 その瞬間,色々なことを考えていた頭の中がすうっと爽やかになって行くのを感じながら,二人は大地に身を横たえた。
 香坂は自分の身体の中に力を感じた。
 全てが無事に解決する。そんな気持ちを抱かせるのだ。
 大丈夫さ。
 そして二人は熱く抱き合った。