Z       画策

 とうとう満月がきた。
  香坂は熱を出したエコナのために、何もしてやれずにいた。
 毒が全身を蝕んでいるのだ。
 ボートまではあと少しだとエコナは言うが、ここで見捨てては行けない。
 なんと言っても生命を助けられたのだ。
 それも二度も。
  苦しむエコナにしてやれることと言えば、かすかな薬草の知識を総動員して、少しばかりの苦痛を取り除いてやれるだけだった。
 香坂は自分の薄学を呪った。
 なにしろ毒の種類さえ分からないのだ。
 香坂は設備の整った施設においては有能な学生だが、ジャングルでは指をくわえているしかないのが恨めしかった。
  情けない話だ。
 普段から恵まれた環境の人間が、真に迫った生と死を議論する資格などない。
 自分の身をせっぱ詰まった状況に追い込まなければ見えないものだってあるのだ。
  唯一、香坂の救いはミネーリアンの強靭な体力だった。非弱に見えるエコナでも発熱したまま二日も耐えていた。
  放っておいても仲間が助けるだろうか。
 いや、パラミアスなら問題ないだろうが、他の仲間ならどうだろうか。
  解らない。
 ここが歪んだ空間だと言っていたパラミアスの言葉を信じてパラミアスに発見されるのを待つしかない。
 エコナを助けられるのはパラミアスしかいないのだ。
 まさに、困ったときの[女神]頼みである。
  そろそろ暑くなる。三日目の猛暑にエコナが耐えられるだろうか。
 香坂は解熱剤となる薬草を手に、エコナの側へ戻ってきた。
 ボートの捜索隊が現れるのは今日かも知れないのだ。
「傷ついたのはエコナの方だったのね」
 薄気味の悪い声が香坂の頭上に降り注がれた。
 愕然として見上げた香坂の頬をかすめて、一本の矢が足元に刺さった。
「二日も放っておいたのは、あなた達の運を試させてもらったのよ」 
  英語だった。声の主は銀髪をなびかせて静かに着地した。
 細長い面立ちに感情の伺い知れない細い瞳……
 香坂は思い出した。
 ミネアよりも冷酷で、淡々とした動作を。
「カリュプソ、か」
「覚えていてくれて、光栄よ」
 カリュプソは冷やかに笑った。その笑みは香坂の背筋を凍り付かせる迫力があった。
「今ごろパラミアスはニーナと共に島の反対側を探しているよ。ミネア様がね、どうしてもおまえとの決着をつけたいと言うのでな、わざわざ一席設けたのさ。それまでここでおとなしくしているんだよ」
  香坂は落胆して、無言でその場所に座り込んだ。相手がパラミアスでない以上、悔しいが助かる見込みはまずない。カリュプソの目には、明かに殺意が満ち満ちているのだ。
 冷たい氷のような瞳で、殺りくをゲームとしか見ていない。そんな不敵な笑みだった。
 かといって、エコナを見捨てて助かるよりも、このほうがずっと気が楽だった。
ここで命運が尽きるのもまた良いかも知れない。
「いくらでも待ってやるさ。それよりエコナを助けろよ。おまえの毒矢で苦しんでいるんだぞ」
「エコナは犯罪者だ。やってはならないことをした。だから助ける必要などない」
 カリュプソは肩に担いだ剣を横の樹に立てかけると、その木にもたれかかって腕組みした。どうやらミネアの到着には、まだ時間がかかるようである。それに気付いた香坂は寿命が伸びたことに少々安堵した。
 まだ希望はある。
 運命の女神は、まだどちらにも現れていないのだから。
「でもパラミアスの侍女だろ。それは彼女が決めるべき事じゃないのか」
 香坂はカリュプソにいままで感じていた疑問をなんでもかんでも尋ねることにした。
 ミネーリアンに対する知識は、結局の所何も得られていない。このまま何も知らされずに殺されるのはしゃくだ。 ひょっとすると何か、土産話になりそうなことが聞き出せるかも知れない。なにしろ相手はもう殺したつもりでいるのだから。
 もっとも聞き出せたところで、本当に殺されてはなんにもならないのだが。
「エコナはパラミアスの物であるおまえを勝手に連れて逃げた。断わりも無しにな。それがやってはならないことなんだよ」
「誰がミアのものだって。俺がいつミアのものになった」
「パラミアスから剣を預かっただろう。あれが[私のもの]と宣言していたからおまえはあの場で殺されずに済んだのさ。だが今はそれがない。つまりここで誰がおまえを殺そうとも大した問題にはならないのさ。エコナだってそうさ。自分の仕える人物の男を勝手に連れだしたんだ。殺されたって、文句が言えないことぐらいエコナだって知ってるはずだよ。パラミアスも殺した人間までも生き還えらせることは出来ない。魔道士ではないからね」
「勝手だな」
「お互い様さ」
 香坂は嘲り笑うカリュプソに対して憎悪よりも失望が先に立った。
 おなじミネーリアンでもこうも違うものなのか。
「それじゃあ見殺しにするのか」
「当然だ」
「だがパラミアスは見殺しにすることを嫌うんじゃないのか。俺だってそのお陰で命拾いをしたんだから」
「なら、もう苦しむ事がないようにしてやろうかね」
  そう言うとカリュプソは矢をつがえた。香坂にはとてもそれがデモンストレーションには見えなかった。
「本気か。それでも仲間か」
  香坂は吐き捨てるように言った。
「やめろ。エコナを殺すなら先に俺を殺せ。俺はエコナには二度も助けてもらってるんだ。助けられない自分が情けない。だからエコナが殺されるのは見たくない」
「果して死ぬ勇気がおまえにあるのかな」
 カリュプソは皮肉たっぷりにせせら笑った。
「殺されるのが目に見えてるなら、死に方やその状況を設定してもいいじゃないか」
「ずいぶん偉そうな言い草じゃないか。おまえはエコナとパラミアスの二人の心を混乱させた悪魔なんだよ。エコナがどんな気持ちでおまえを連れて行ったか、おまえは本当に分かっているのかい」
「それがカリュプソに判るなら、何故エコナを殺そうとする」
「殺した方がいいからだよ」
「理由は」
「おまえがミネーリアンの生理を知っていればすぐに分かることさ」
「知らないよ」
「そのほうが幸せな夢を見られたまま死ねるじゃないか。良いことだ」
「俺を連れ出したのには何か魂胆があったっていうのか」
「だから知らずに死ねば良いことだ」
 香坂は、恋愛感情以外に何が隠されているのか分からなかった。
  自分を好いていてくれただけではないというのか。一体どんな魂胆が隠されていると言うのか。
  香坂はカリュプソの台詞にもどかしさを募らせた。
「隠したって仕方ないじゃないか。俺はもうすぐ殺される運命なんだろ。なら、教えてくれたって構いはしないじゃないか」
「わたしはおまえのためと思って黙っているんだがね。美しいバラにはとげがあると言うことさ。それにおまえがミネア様に勝てば死にはしないだろう。本当にディキスの生れ変りなら勝てるさ」
「なんだよ、そのディキスって言うのは」
 香坂は、次々飛び出して来る新たな内容に唖然とした。
  今まで聞かされていない新たな事実が明らかになるにつれ、香坂はミネーリアンに対する恐怖を再び感じ始めていた。
 多分、まだまだ出て来るだろう。
 パラミアスに対する信頼を打ち砕かれるような内容のことも。
 ただパラミアスは知識を隠しはしたが裏切り行為はしなかった。それだけが唯一の救いだった。
「そのくらいは教えてやるさ。ディキスっていうのは、パラミアスもミネア様もエコナにも関わって来る優秀な剣士だった御方さ。そしてパラミアスの……」
 カリュプソは言葉を切った。
「後はエコナにでも訊くがいい」
  その言葉に香坂は、はっとしてエコナに顔を向けた。
  意識のないと思われていたエコナが、思い身体を引きづって、なんとか身体を樹にもたれかけさせている所だった。
「エコナっ」
 香坂はエコナの容態が気になって、慌てて駆け寄った。
「好きにさせてもらうよ」
 香坂はエコナを抱きながらカリュプソに伝えた。
「勝手にするがいいさ」
  カリュプソは鼻を鳴らすと、疎ましそうに矢を降ろした。
 エコナは高熱のため、苦しそうに肩で息をしている。
「カリュプソはいつも冷たいのよね。常に自分が優秀だと信じているエゴイストなんだから。いじめることに快感を感じている変態だわ」
 エコナは喘ぎながらカリュプソの冷淡さを非難した。
「おや、随分と立派なことが言えるのね」
  カリュプソが軽くあしらう身振りをした。
「そんなことより早く教えて上げなさいよ。あなたが横恋慕したディキスのことを」
「あ、あたしはそんなこと、してません」
「パラミアスの婚約者であり、ミネアの兄にちょっかい出して、あなたは何をしたのかしら」
「ひ、ひどいわ」
 エコナが弱々しく咳込むのを横目でみながら、カリュプソは細長い目を釣り上げ、不敵な笑みを見せた。
 香坂の腕の中のエコナはかなり熱い。湯でのぼせ上がった身体を抱いているようだった。
 蒸し暑いジャングルの中にあっても、吐息はやかんの口から噴き出る湯気のようである。
 手早く採ってきた薬草を擦り潰して、一旦自分の口に含んだ後に、エコナの唇にそっと合わせた。
 エコナは眉をしかめながらも香坂に微笑むとそれを受け入れた。
 どんな時にも笑顔を絶やさぬように振舞う態度に、香坂は自分の出来の悪さが恨めしかった。
 すぐに目先の言動に惑わされる自分が恥ずかしかった。
 エコナはエコナなりに一生懸命なのだ。
 香坂とエコナは無言で、お互いを見つめ合った。
 カリュプソにはそんな二人が疎ましかった。
 紛らわしい。目障りだ。
  弱者の醜いざれごとだ。
  弱いものはすぐに誰かと引っつきたがる。そのくせ自分の醜い我がままを押し通そうとする。
  節操がないのだ。
「これだから滅びなければ救われない者どもと、罵られるのだよ」
 カリュプソは一人呟いた。
  カリュプソにとって愛とは、無縁で必要性を感じない代物だった。ただミネアと決定的に違うのは、親子兄弟の関係も体験していないということである。
  根っからの個人主義だった。
  男とは、自分が[化身]を繰り返すための[道具]に過ぎないのだ。
「今この場で私が始末をつけてやりたいぐらいだ」
  カリュプソはむしずが走る思いを噛み殺していた。
 こんな奴ら、早く地上から抹殺すべきなのだ。
「そんなことさせるわけないでしょ」
 カリュプソの背後から新たな声がした。
 突然の事で、カリュプソの顔が少々こわばった。
「早いお着きですね」
 だが、振り向くこともなく、口調はいささかも乱れずに淡々としていた。
「ニーナに私が騙せるとでも思ってたの」
「時間稼ぎだっただけですよ。ミネア様の到着までのね」
 そう言うと肩をすくめておどけて見せた。
 余裕のあるふてぶてしい態度だった。
「結果は私の方が早かったようね。さあ、早く武器をお捨てなさい」
  パラミアスはカリュプソを手持ちの縄で素早く縛り上げると、念のために樹の幹に固定した。それでもカリュプソは薄笑いを浮かべたままだった。
 今のパラミアスの姿と言えば、例の重々しい装身具を身につけ、腰と背中に一本ずつの長剣を持っているのだが、そこには穏やかな女神と言うより、せっぱ詰まった女戦士と言ったイメージが強かった。
 てっきり殺されるものと覚悟していただけに、香坂は感極まって言葉が出なかった。
 そこに助けにきてくれたのだ。エコナと逃げたこの俺を。
 運命の女神は香坂に微笑んだのだ。
 パラミアスは静かにカリュプソから離れた。
「急ぎましょう。ミネア達がすぐそこに迫ってるのよ」
 そう言って香坂を、エコナから強引に引き離した。
「早く逃げなくては」
「でも、エコナが」
「毒矢に当たったのね」
 パラミアスはエコナの耳元にすっと腰を屈めると、なにやら耳打ちした。
 エコナは黙ってうなずくと、パラミアスから小さな筒状の容器を受け取った。
「エコナは大丈夫なのか」
 香坂は訊いた。
「ええ。解毒剤を渡したわ。さあ早く」
 パラミアスは執拗に香坂をせき立てた。
  それでも香坂はまだエコナが心配で仕方なかった。なにしろ二日も高熱で伏せっていたのだ。解毒剤を渡した程度ですぐに良くなりはしない。
 本当は回復するまで看病していたい。
「さあ、この島から出るのよ。帰りたいんでしょ。こんな所で死にたくないでしょ」
「そりゃそうだけど。」
「だったら、考え込んでる暇なんてないはずだわ」
 パラミアスは周囲を警戒していた。
 香坂はパラミアスから感じる殺気に恐怖させられた。
 カリュプソからも感じなかった、強大で全てをねじ伏せてしまいそうな圧倒感を受けるのだ。
 今にも爆発しそうな、緊張感を張り詰めている。
 香坂が今までパラミアスに感じていた、包括する慈悲深い女神ではなく、逆らうものを皆殺しにしてしまいそうな勢いを持っている。
 それを見せられては、香坂にはパラミアスに逆らってまでここに留まる勇気は出なかった。
  チャンスは何度も訪れはしない。
 パラミアスを横目に、香坂はエコナの側で両膝をつき、
「すまない」
 と、ただ一言だけ言葉をかけた。
 そんな香坂に、エコナは黙ってうなづくと手を伸ばした。
「元気でね」
 そう言うエコナの微笑みの仕草に悲しみを見た香坂は、深慮にさいなまれてさっと立ち上がると、振り返りもせずに掛けだした。
 パラミアスはちらりとエコナの顔を見て、香坂を導いて行った。
 走りながらパラミアスは複雑な思いに捕らわれていた。
 本当は、エコナを縛り付けてやろうと持っていた縄だったのだ。
 それが今、エコナを助ける羽目になってしまった。
 パラミアスはそれが嫉妬だということに気付いていた。
  昔もそうだった。ディキスに、いつもぴったりと寄り添うエコナが羨ましかった。何も考えずに和気あいあいと話せるエコナが憎らしかった。
 今度は渡さない。
 明は私のものだわ。
  エコナはそんなパラミアスの思惑を察していたのか、黙って見送るだけだった。
 カリュプソも決して騒ぎ立てることをしなかった。
 まるでパラミアスとミネアの闘争を楽しんでいる風だった。
「ヘルミオネ様か……本当にそっくりね」
 エコナはぽつりと呟いた。
「だからミネア様がくるしむのだよ」
 カリュプソは素っ気なく応えた。
「ディキスに似てるからよけいにあの忌まわしい過去を振り返る。あの記憶は全ての者に災いをもたらす。[愛]に執着するという災いをな」