わたしの想い

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パキスタンとアフガニスタン難民の憂うつ   (2000/7/2)  
不登校を考える会に出席して          (2002/7/3)  
   
   
   



パキスタンとアフガニスタン難民の憂うつ   (2000/7/2)


パキスタンにアフガニスタン難民が200万人いるそうです。
20年前ぐらいから住み始め,タリバン政権から避難していました。
そのタリバン政権が崩壊して,いま,アフガニスタンは復興を始めています。
パキスタンから2万人以上が戻ったそうです。

パキスタンは空き家になったところを壊して新興住宅地にする計画です。
学校や公園をつくり,大規模に都市計画を進めています。

ところが問題になっていることがあります。
それは,お墓です。

これまで長い間その場所で生活をしてきました。
水や食べ物だけでなく,住む場所などで苦労していましたが,
当然亡くなった人たちもいることを,私たちは忘れがちです。
経済的な理由で遺骨を持ち帰れない人がほとんどです。

パキスタン側もお墓を残す方向で検討しているそうです。

… … … … …

このニュースの直前に,アメリカ軍が結婚式場を誤爆したと報じていました。
80人以上が亡くなったそうです。
祝砲を撃ったのを攻撃だと思ったそうです。
(後の報道では調査中となっていました。死者も40人とか60人とか錯綜しています)

新しい政権が発足し,ようやく平和が訪れた矢先のことです。
新しい人生の門出を祝福するために集っていた人たちは
何を思い,何を望んでいたのでしょう。
新たな未来を作り出すはずだった人々。
虐げられ,身を細めて過ごしていた人たち。
今となっては還らぬ人たちとなってしまった未来を
「誤爆」の2文字で片づけては,あまりに情けない生き方のように思います。
(後の報道で,着飾った6歳の少女が病院で横たわる姿を目にしました。)

ずいぶん対照的な出来事が同じ場所で起こったようですが,
みなさんどうお感じになりますか。

<2002/7/2 AM8:00頃 NHK総合アジアンワールドを観て>


不登校を考える会に出席して     (2002/7/3)


不登校を考える会に出席しました。
さまざまな悩みを抱えて不登校になった事例を,
教員と不登校だった元生徒から発表がありました。
生徒と,保護者と,教員の3者が集まっていました。
以下はそのときにわたしが感じたことです。
(随想録風に書いています。)

たくさんの疑問に出会った。

ある保護者が
「学校は運動会や修学旅行のようなイベントに参加させようとするが何か意図はあるのか」
と質問した。応対した教師の回答は,
「イベントも一つの選択肢として選ばせたいし,学校に参加して欲しい」
といった意味だった。
(子どもが,学校には)行きたくないと言えば行かせない方針だ」と主張する保護者もいた。
学校に対する批判と学校側の釈明の図がちらりと見えた。

・・・ちょっとまって。
教育の義務って誰にある? 国民の義務って何?
未成年である生徒はなんら義務を負っていない。あるのは教育を受ける権利だ。
義務を負っているのはその保護者。
「学校に行かせる行かせない」の前に,未来ある子どもを育成する大人の責任はどこ?
2者とも,もっと大切な,基本的なことを忘れて議論していないか?

生徒の発表があった。
現在高校3年の女性と,卒業して働いている男性。
どうして不登校になったかは判らない。今でも原因はわからない,とのこと。
共通していたことは,心の安定する場所を見つけて,
少しずつ自分が変わったということ。
もがいたときもあった,自然体を保とうとしたときもあったということ。

ある退職教員から「もし小・中と卒業できなかったら学校へ行ったか」と言う質問があった。
「その時はどちらでも良かったと思う。卒業できなくても行かなかった」との回答。
何気なく,それでいて,いろいろな意味のある質問だ。
私は予想される回答を判っていた。きっとこの先生も判っていながら,あえて聞いたのだ。
元生徒に対して言いたかったことも含め,
本当は誰に聞き,誰に聞かせたいことばか,見当がついた。

ちょうどその前日の新聞に「懐が深かった母の愛情」というタイトルで
「いつまで乳飲んみょんな」の副題と共にコラムが載っていた。
5歳になって乳を飲んでいる筆者
(ご年配の方)が登場していた。
妹が生まれて母親が自分から遠ざかる不安の代償行為としてだったと思う,
と書かれていた。豊かな愛情ということばで締めくくったこの記事を,
会に出席していて,思い出した。

この会は「語り合おう」と副題が付いていた。
語り合う前にすべきことをせずに語り合えば,落書きのような議論だ。
では,何をして望めばいいのか?
それをみんな忘れてしまっていないだろうか?

「○○の立場になってみなければわかるはずがない」と主張する人もいるが,
自己理解と他者理解は,心の中で深く関連し合っている。
想像で答えを導き出すしかないことの方が,世の中には多いのだ。
明快な答えなどないから,人は悩む。宗教が生まれる。

・・・話がそれた。

… … それたついでに,といってはなんだが … …

学校の先生はエリートだとか,社会に出られないから(社会に適応できないから)
先生になったなどと中傷する人がいる。ひとつの面ではそうかも知れない。
しかし,批判が非難で終わっては,とても自分と向き合えない。
自分と向き合うのが怖いから,人は人を攻撃するという要素もある。

・・・中学時代,私はどちらかといえばいじめられっ子だった。
学校に行きたくない日は多かった。
兄が超一流大学に合格した年,
たくさんの祝福のことばと共にプレゼントをもらう姿の脇で,
ごく普通の高校に入学した。
私には何もなかった。(そう思った。)
母から「なにか欲しいものはある?」と聞かれ,充電式の鉛筆削りを買ってもらった。
2年ほどで壊れたが,社会人になるまで,大切にとっておいた。
父からその年の秋に,当時趣味だった写真の現像機を買おうといわれ
必要な道具をカタログ片手に1ヶ月以上も研究したことを,ふと思い出した。
趣味に生きた高校時代,大学受験できる学力はなかった。
だから,高校卒業時には行き先がなかった。
工学部でロボットをつくる夢を持っていたが,果たせなかった。
(これが元で,大学4年間はパソコンに触れていない)
さまざまな科に夢を託そうとしたが,できなかった。
模型づくりや粘土遊びが好きだったというだけで,教育学部の美術を最後に決めた。
卒業した高校へ行った。美術の女性教員にろくに説明されずに描かされて,
「おまえのデッサンは豆腐みたいだ。今から美術を受ける?受かるはずがない!」
と,罵られた。
元担任がもう一人,美術科の先生を紹介してくれた。
1枚,親戚に家にあったミロのビーナスの頭像を書いて持っていった。
「美術部でも,専門でもないのによく描けたな」とほめてくれた。それから2週間・・・
・・・以下省略。
現在はその大学を卒業し,美術の教員をやっている。
この話を生徒にして・・・「なにか」を感じてくれれば,と願っている。
こんな先生も,世の中にいる。

たくさんの挫折の中で,たくさんの心を味わった。
人は心でつながっている。そう思った。
温かい心があれば人は救われる。  …ホントに?
では,今は解放されたのか?
自問の中で得る回答は,「まだ捕らわれている」だ。

先月,小児病院を研修で訪れたとき,
「家に帰れない,帰っても外へ出してもらえない。近所ではいない子になっている」
という看護士さんのことばが胸に痛かった。
その方から,子を持つ母親としての,聞こえない叫びを感じた気がした。
ある病棟で「みんな子どものように見えますけど,55歳の女性もいるんですよ」と言われた。
この狭い病棟から出ることなく,一生を終えるのだ。
脳死状態の子どもたちの病室も,訪問させて頂いた。
のどにチューブが入り,まぶたを閉じることもできない。顔は腫れ上がっている。
ある子の横に母親らしい女性がじっと座っていた。体を優しく撫でていた。
3人目の子が生まれたばかりの自分にとってはショッキングな光景だった。
帰り道,バケツをひっくり返したような雨に遭った。
ワイパーが役目を果たさない。
進みたいけど,先が見えない。まるでなにかを象徴するような ・・・ドラマか?
危なくて,車を止めたいが,狭い道だ。後続車両の追突もあり得る。
ゆっくり走らせていると,病院の光景が浮かんできた。
心が重かった。

… … 閑話休題 … …

みんな居場所が必要だ。最初は母親の乳からの始まりだろうが,
居場所は成長に合わせて変化する。
起きている時間の内,7:30から18:30
(通学時間含む)までを中学校生活と考えれば
起きている2/3程は学校にいることになる。
友だちと,先輩・後輩と,そして教師と。
家庭では寝る時間も含めると,一番長い時間を過ごす場所だ。
そこでは誰と過ごす? 誰と向き合う? 何を思う? 誰を責める? 誰を認める? …略

結婚し,家庭を持って,居場所が変わった。
親としての立場が自分に加わった。
ココに集まった親たちは,子どもに安心できる居場所を与えてきたのだろうか。
これから与えようとしているのだろうか。
で,どんな悩みを?
教師は何を言いたくて,聞きたくて,ココに集まったのだろう。
元生徒は・・・
そして,それを眺めている自分がいる。

帰り道,近くのケーキ屋で妻と子どものためにプチケーキを買った。
なんだか,帰るのが楽しみになった。

・・・最後に。
青少年赤十字指導者会で知り合ったF先生(退職された方ですが)が,とある会合の中で
「こどもに否定の言葉を使ってはいけない。必ず事故や事件が起きてしまうものだ」
ということを,自分の体験談を交えて語って下さいました。
端的に言えば「あれはだめ,これはだめ。は,だめ!」ということです。

どんな心で相手に接したいと考え,この時間,ここに集まったのでしょうか。
残念なことに,この会に際して奉仕の精神を持ってきたのは,(自分も含めて)
元生徒だけかも知れないと思いました。

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