<日本の作家(画家)>に関する資料


鎌倉時代・以前

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室町時代

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江戸時代

大首絵とは
 浮世絵版画の中で半身,あるいはそれより上の部位,特に顔を大きく描いたものを大首絵という。その中でも特に顔の部分を大きく構図に取り入れたものを大顔絵と呼ぶこともある。享保・元文期(1716〜1741)の細判漆絵にその萌芽がみられ,役者以外,美人,若衆,武者を描いた作品が刊行されたが,しばらく途絶え,その後1770から復活する。
 寛政期には歌麿,栄之一門,長喜らが美人大首絵を,春英,写楽,豊国,国政らが役者大首絵を次々と刊行し,大首絵の黄金期を迎えることになる。それ以後,浮世絵の主要様式として定着した。

狩野家の系図<                     
                ┌──狩野光信──貞信・・・・・・安信(中橋狩野)
                │
                │
                │            (鍛冶橋狩野)    
狩野松栄__狩野永徳─┼──狩野孝信─┬─狩野守信(探幽)─────┬探信
       |        │            │                             ├探雪
       |           │                         │                          ├・・・桃田柳栄
                │            ├  尚信  ──  常信        ├・・・久隅守景
                │            │(木挽町狩野)                     │  
                │            └  安信  ─┬─  時信      ├  洞雲益信
                │                        └・・・・・・英一蝶   │(駿河台狩野)
                │                               └  鶴沢探山
                │                                  (鶴沢派)  
                └・・・・・・狩野山楽・・・・・・山雪__永納(京狩野)
 
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狩野松柏__  照政__  洞晴__    __  察信  __6_晴皐_芳崖
               (長府狩野家)  

浮世絵について

浮世絵とは





北斎の画号の遍歴 (週刊アーティストジャパンより)
 春朗    安永8(20)〜寛政6(35)
 群馬亭   天明5(26)〜寛政6
       寛政5(34)〜寛政6
 宋理    寛政7(36)〜寛政10(39)
 北斎宋理  寛政8(37)〜寛政10
 俵屋宋理  寛政8
 百淋宋理  寛政8〜寛政9
 可候    寛政10〜享和3(44)
 完知    寛政10
 北斎    寛政10(39)〜文化12(56)
 不染居北斎 寛政11(40)
 北斎辰政  寛政11〜文化7(51)
 時太郎可候 寛政12〜文化元
 時太郎   文化8
 画凶人   享和元(42)〜文化5(49),文化14(58)
 葛飾北斎  文化2(46)〜文政元(59)
 戴斗    文化7(51)〜文政3(61)
 雷震    文化9(53),文化8(52)〜文政2(60)
 前北斎   文化12(56)〜嘉永2(90)
 北斎戴斗  文化12〜文政2(60)
 為一    文政3(61)〜天保6(76)
 前北斎為一 文政3(61)〜天保6(76)
 不染居為一 文政5(63)
 画凶老人  天保5(75)〜嘉永2(90),文化元(45),文化2(46)
 卍     天保5(75)〜嘉永2(90)
 八右衛門  天保14(84)〜弘化3(87)


明治時代・以降

東京と京都の画壇について
  日本画の近代化は岡倉天心やフェノロサらによってすすめられた。特に西洋絵画における光線と色彩の導入,そして色彩改良を行った。墨を使った光の表現に始まり,光と色彩のみの沈線主体の朦朧体へとすすんだ。水墨画や琳派の様式を高めた河合玉堂や菱田春草らの活躍が一つの形を生み出しつつあった。そこには観念的で思想性の強い主題傾向が好まれた。一方京都では,空間の奥行き表現と色彩表現は丸山応挙以来の伝統の中にしっかり根づいていたが,光源を直接的に描くことはさけていた。印象の強い歴史画よりも,花鳥画や風景画,風俗画の雅な趣が好まれていた。
 京都府画学校は1880年に創立。府立であり,政府の政策との関係はなかった。
 それに対して東京美術学校は1887年に創立。官立学校であったため,政府の強力な主導が色濃く出ていた。教授陣も円山四条系,狩野系,南画,洋画とさまざまな派閥が含まれていたのに対し,東京では日本画新派がその手中を握っていた。

会場芸術主義とは
 当時の床の間芸術的作品,つまり繊細で上品な作品を展覧会場で発表するという発想から転換し,展覧会場でこそ真価を発揮する作品−広く大衆に訴えかける力を持つ作品−をその会場で発表するものとして考え出された。「画業−展覧会−時代−観衆−会場芸術」といったスタイルで芸術と大衆を結びつけるものとして考え出された。そして両方は車輪の両輪にたとえられ,ともに進展するものであると考えた。それを具体化したのが川端龍子の旗揚げした青龍社であった。

 「会場芸術とはいうまでもなく展覧会芸術であることです。つまり,展覧会を目的として,否,事故の芸術を,展覧会という機構に依って,発表する目的を持った作品です。もちろん,他のどの展覧会の作品にしろ,だいたいは展覧会に出品する目的で制作したものには相違ないことですが,しかし,その作家たちの真意をたたいてみれば,要するに展覧会とは,絵画をならべる壁面を有する会場−そこへ自分の作品をならべるというそれだけのことであって,その本願には,会場芸術としての,確固としての目的などは更にないところと思われます。」・・・川端龍子のことばより。

青龍社とは
 1929(昭和4年)6月28日に川端龍子が創立し,会場芸術主義を掲げて精力的に活動する。大衆と芸術を結びつけるこの主張は,一つには大画面主義,二つ目には健剛なる芸術の創造にあった。はじめ龍子とその門下生十余名の少人数で始まった。その年の秋には早くも第1回展を開催,3回展からは招待出品性をとり,第5回展からは一般公募制となり,一代で院展,官展と並ぶ存在にまで至らしめた。1945(昭和20年)4月にはすべての公募展が中止された中にもかかわらず第13回展を開催している。龍子の存在が色濃い団体であったこともあり,自分の死に際して青龍社を解散させた。

六潮会とは
 1930(昭和5年)に日本画壇と洋画壇で活躍していた6人の実力者によって構成された。洋画からは牧野虎雄,木村荘八,中川紀元。日本画からは中村岳陵,山口蓬春,そして平八郎である。それに評論家の外狩素心庵,横川殻一郎も加わった研究団体である。1928(昭和3年)に中外商業新聞の記者であった外狩素心庵のよびかけでできた木村,中川,横川,外狩の4人による画事放談の蛙声会(あせいかい)がその母胎となっている。それぞれが異なる立場であるにもかかわらず,非常に仲がよく,合評会を開いて親睦をはかると共に展覧会も開催した。自らが楽しみ,他も楽しませようとする遊びの気分が漂った悠々とした芸術家の集まりだった。互いに接触することによって時代に対する認識を生み出し,また「現在と作家の生活態度」や「時代に対する芸術の表現形式」のように課題を設定して誌上座談会を行うこともあった。

朦朧体とは

 

国画創作協会とは
1910年(明治43年)12月,日本画と洋画の枠を越えた絵画運動を行うために,小野竹喬は土田麦僊や美術評論家の田中喜作らと「黒猫会(シャ・ノアール)を結成する。実質的な活動をしないまま翌年には「仮面会(ル・マスク)」となり,展覧会を2度開催した。この運動自体はすぐ終わったが,日本画の素材を元に西洋の手法を取り入れた新しい絵画を想像するための創作意欲は加熱していった。1913年(大正2年),文展とは決別した新しい団体を作ろうという動きが土田麦僊を中心にして起こり始める。文展の評価は常に2分し,自分たちの満たされない気持ちを払拭するため,ついに1918年(大正7年)1月20日,村上華岳,榊原紫峰,野長瀬晩花の5人で国画創作協会を創立する。設立宣言書の中には個性の尊重を謳い,この団体は(中断時期も含めて)1928年(昭和3年)まで活動を続け,日本画の近代化に大きな足跡を残した。


画題の背景・その他

寒山(かんざん)と拾得(じっとく)という人物は
 作品の題材として描かれるこの寒山(かんざん)と,拾得(じっとく)とは,唐の時代の終わり頃に天台山国清寺に住んでいた2人の隠者をいう。着衣にこだわらず,髪も伸ばしたままの姿は,禅宗において究極の理想の姿とされた。一般には,寒山は経巻を持ち,拾得はほうきを手にして描かれる。それぞれ文殊菩薩,普賢菩薩の化身だとして信じられていた。中国の宋の時代にはいると,画材として登場するようになり,禅宗系の人たちによって描かれた。江戸時代には流派を問わず,土佐光起や尾形光琳の作品にも登場する。

マニエール・ノワールについて
  1642年にドイツのルードヴィッヒ・フォン・ジーゲンによって発明された。18世紀にはフランスやイギリスで肖像画や風俗画,装飾的静物画,その他絵画の複製のために盛んに用いられる。19世紀に入り,写真は発明されてからは急速の衰え,やがてその技法や道具類は忘れ去られていった。