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興味があれば,作家の作品を収蔵してある美術館を訪ねてみると良いでしょう。
(もちろんネット上で閲覧できるところもあります)
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時代背景・用語集の編集中!

○ 靉光(あいみつ)
      1907〜1946(明治40〜昭和21)
 本名は石村日郎。はじめ印刷会社で版下を製作していたが,絵描きになる夢を持ち靉川光郎と名乗り,広島から上京して太平洋画会研究所に学ぶ。戦争色が色濃くなる中,シュルレアリスムの傾向を帯びてきた。世の中をかみしめるような精神世界は暗うつとした色彩表現に現れる。戦争に対する批判を絵に表そうとしたが,1944年に召集令状がきて中国大陸へ出兵。終戦後,上海の病院で39歳の若い生涯を閉じた。
<主な作品及び資料>
※ 広島出身の靉光は原爆投下の火災によって多くの作品を失う。また,自ら焼却処分した作品も多いため多くは残っていない。
「ライオン」1936 「馬」1938 「眼のある風景」1938 「自画像」1944 東京国立近代美術館
「鳥」1940 宮城県美術館
「静物(雉)」1941 東京都現代美術館
「帽子をかむる自画像」1943 広島県立美術館

○ 青木 繁(あおきしげる)
      1882〜1911(明治15〜44)
 28歳の短い生涯の中に,華やかで装飾性豊かな西洋絵画の世界を築き上げた。黒田清輝に学び,古事記や日本書紀などの神話を題材にして独特の想像力を加え,幻想的な世界を創り上げる。
<主な作品及び資料>
石橋美術館 (詳細情報あり)
  「ランプ」(1901) 「夕焼けの海」(1910) 河村美術館
  「自画像」(1904) 東京芸術大学
  「享楽」(1903)(1904) 「天草風景」(1909) 大原美術館
  「佐賀風景」(1910) 佐賀県立美術館
  「筑後風景」(1908) 「日本武尊」(1906〜1907) 東京国立博物館
  「秋声」(1908) 福岡市美術館

・ 浅井 忠(あさいちゅう)
      1856〜1907
<主な作品及び資料>
  「春畝」(1888)東京国立博物館
  「グレーの橋」(1902) 石橋財団ブリヂストン美術館
  「小丹波村」三重県立美術館

・ 飛鳥部常則(あすかべのつねのり)
      954〜964(活躍時期)
<主な作品及び資料>

○ 有島生馬(ありしまいくま)
     1882〜1974
<主な作品及び資料>
  有島生馬記念館

・ 安藤忠雄(あんどうただお)
<主な作品及び資料>

○ 池大雅(いけたいが)
    1723〜1776(享保8〜安永5)
 7歳にして神童と称賛される。書は学んだが,絵については独学であったらしい。15才で画扇と印刻を商う店を出す。中国の画風を基本に,指墨(しぼく)にも才を発揮したが,西洋画を見てからは写実的要素を取り入れるなど,旺盛な意欲と,創造への情熱が独自の芸術を大成させた。旅を好み,こだわりのない画風とその才能は,教養ある武士から町人に至るまで幅広い人々に愛された。
<主な作品及び資料>
 「杲堂元昶の詩書」(1729) 「池大雅墓碑銘」(1777) 「薫石図」 「柳下童子図屏風」 池大雅美術館
 「楽志論図巻」(1750) 梅沢記念館
 「三岳紀行図屏風」(1760) 京都国立博物館
 「八種画譜」 国立公文書館
 「渭城柳色図」(1744) 敦井美術館

 「十便十宜図 眺便」(1771) 川端康成記念会
 「五百羅漢図」 万福寺
 「龍山勝会図屏風」(1763) 静岡県立美術館
 「山亭雅会図襖絵」 遍照光院
 「富士十二景図」 東京芸術大学,滴翠美術館
 「岳陽楼図屏風」 東京国立博物館
 「金碧山水画帖」(1763) サントリー美術館

 「指墨人物図」(1748) 「陸奥奇勝図巻」(1749) 「浅間山真景図」 「富士白糸滝図」(1762) 「箕面瀑布図」(1744)

・ 池田満寿夫(いけだますお)
<主な作品及び資料>

・ 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
      1394〜1481
<主な作品及び資料>

・ 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)
     1716〜1800( )
狩野派に学んだ。動植物の写生を取り入れ,特に鶏の絵に特徴がある。そこには鮮烈な色彩と明快な形体,精細な筆使いで画面全体を作り出す。デフォルメされた美しさがある。

・ 伊東深水(いとうしんすい)
     1898〜1972(明治31〜昭和47)
 浮世絵の流れを汲む美人画で最後の画人。モダンで切れ味の良い線描を駆使して表現した。初期のロマン的香りの漂う日本髪の美人から,現代の女性風俗を艶やかに表し,幅広い人気を得る。
<主な作品及び資料>

○ 猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)
      1902〜199
<主な作品及び資料>
猪熊弦一郎現代美術館 (詳細情報あり)

○ 今村紫紅(いまむらしこう)
      1880〜1916
 本名は寿三郎。家業は輸出向けの灯籠(とうろう)屋だった。歴史画家の松本楓湖に18歳で入門し,紫紅会を結成。安田 彦との出会いにより,会名を紅児会に改め,活動を深める。後に赤曜会を結成した。日本美術界に旋風を巻き起こし,近代日本画のあり方を身をもって実行した。脳溢血で36歳の若い生涯を閉じるまで,全力を傾けて新しい日本画の画境を作り上げた。

赤曜会(赤字に黒で「悪」と書いたバッチが特徴・・・速見御舟,中村岳陵,小茂田青樹(1891〜1933),富取風堂(ふうどう;1892〜?),牛田けい村(うしだけいそん),黒田古響(くろだこきょう),小山大月(こやまたいげつ;1891〜1966)ら9名で結成)
<主な作品及び資料>
 

○ 岩佐又兵衛(いわさまたべえ)[江戸時代]
      1578〜1650(天正6〜慶安3)
 父は摂津伊丹城主荒木摂津守村重。織田信長に反旗を翻し,籠城中に生まれた。落城の際に乳母の手によって本願寺にかくまわれた。京都で絵を学び,大阪夏の陣の後,興宗寺の僧,心願の招きによって福井に移る。松平忠直の庇護を受け独自の絵画を追求した。又兵衛工房は江戸,京都,福井で多くの絵師を抱えて発展した。60才でわずかな弟子とともに江戸へ出て,狩野派をはじめとする派閥が活躍する中で活躍し,73才で死去する。
<主な作品及び資料>
「洛中洛外図屏風(舟木本)」 東京国立博物館
「山中常磐物語絵巻」 「伊勢物語図」 「柿本人磨図・紀貫之図」 「官女図」 「楊貴妃図」 MOA美術館
「団扇形風俗図」 「布袋図」 東京国立博物館
「月見西行図」 群馬県立近代美術館
「和漢故事人物図巻 平家物語」 「和漢故事人物図巻 伊勢物語」 「三十六歌仙画冊 女蔵人右近」 福井県立美術館
「三十六歌仙図 興風(おきかぜ)」
「三十六歌仙図額 中納言兼輔」1640(寛永17年) 仙波東照宮
「三十六歌仙図 俊成卿女」若宮八幡宮(福岡県)
「堀江物語絵巻」 香雪美術館
「源氏物語 車争い図」 日本浮世絵博物館
「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館
「耕作図屏風」 「職人尽図巻」 出光美術館

・ 上村松園(うえむらしょうえん)
      1875〜1949(明治8〜昭和24)
<主な作品及び資料>

・ 歌川国貞(うたがわくにさだ)
      1786〜1865
 歌川豊国の門人で美人画を得意とする。後に三代目豊国となる。
<主な作品及び資料>

○ 歌川国芳(うたがわくによし)[江戸時代]
      1797〜1861(寛政9〜文久元)
 染物屋の三男坊として生まれた。幼い頃から絵が好きで,12歳の時に初代歌川豊国に弟子入りをしたが。兄弟子の国貞は羽振りのいい生活を送っていたが,国芳は師匠との折り合いが悪くあまり仕事が回ってこなかった。31のとき,水滸伝ブームに乗ってシリーズものに着手した。「武者絵の国芳」とよばれるようになり,おもしろいもの,人をあっと驚かせるものにこだわった。娯楽としての浮世絵表現の可能性を追求し,65歳で生涯を閉じるまで精力的に活躍した。
<主な作品及び資料>
 「東都御厩川岸之図」大判錦絵 「弁慶」「たいこもち」 東京国立博物館
 「東都名所」大判錦絵 「近江の国の勇婦於兼」太田記念美術館
 「東都首尾の松之図」大判錦絵 スプリングフィールド美術館 
 「東都三ツ股の図」 大判錦絵 神戸市立博物館 
 「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」大判錦絵 三枚続 「二十四孝童子鑑 董永」 神奈川県立博物館
 「里すずめねぐらの仮宿」三枚続 国立国会図書館
 「魚の心」日本浮世絵博物館
 「高祖御一代略図 佐州塚原雪中」 平木浮世絵財団
 「通俗水滸伝 豪傑百八人之壹人    」 日本浮世絵博物館
 「ひとかたまって人になる」 鈴木宇宙コレクション
 「相馬の古内裏」大判錦絵 三枚続

・ 歌川豊国(うたがわとよくに)

・ 歌川豊広(うたがわとよひろ)

 歌川広重の師。面長な顔立ちで非常に上品な画風を特徴とした。情緒に富み
<主な作品及び資料>
「廻灯籠」享和〜文化 平木浮世絵財団

○ 歌川広重(うたがわひろしげ)・・・(安藤広重)
     1797〜1858(寛政9〜安政5)
 美人画といえば喜多川歌麿,役者絵といえば東洲斎写楽といわれる中,幕末の浮世絵に風景版画というジャンルを確立した絵師。歌川豊広に入門,1831頃から本格的に錦絵で制作した風景版画を世に送り出す。最初にデビューした時は,火消し同心の職を父死去のために家督したままで副業的にしていたが,しばらくして家督を譲り,本格的な制作に入る。当時風景版画家としては葛飾北斎がいた。強烈な個性(頭の中で再構成し,造形美を追求した)で畏敬の対象として描かれた富岳三十六景に対し,広重は自らの足で五十三次を踏破し,ありのままの風景を叙情性豊かに描き上げた。特に雨や雪などの多様な表現方法は見るものにその音までも感じさせるような雰囲気を持っている。一説にはコロリ(コレラ)にかかったといわれ,62歳で黄泉への旅路についた。

広重 → >画号<        一遊斎(〜1830),一幽斎(〜1832),一立斎(1982〜) → >斎号<

<主な作品及び資料>

  「東海道五十三次」
  「東都名所」(1831) 「近江八景之内(唐崎夜雨)」 「橋下屋根舟の女(肉筆画)」 太田記念美術館
  「東都八景」 「東都名所」 日本浮世絵博物館
  「名所江戸百景」(1858) 江戸東京博物館
  「木曾街道六十九次」

  「武陽金沢八勝夜景」(1857) 「武相名所手鑑」(1853) 「江戸近郊八景」 「鴛鴦(花鳥版画)」 平木浮世絵財団
  東京国立博物館・ホノルル美術館・慶應義塾・大倉文化財団,など

・ 浦上玉堂(うらかみぎょくどう)
     1745〜1820(延享2〜文政3)
 江戸時代の文人画家。岡山に生まれ,若い頃に人並み以上にまじめな武士であったが,50になって武士の考えと芸術の両立に疑問を感じて脱藩をする。京都に落ち着くまでは諸国へ琴を担いで放浪の旅に出ている。春琴(息子)とともに花鳥画を描いた。自分を偽ることのない潔癖さが魅力であり,水墨画の世界で独自性を発揮した。
<主な作品及び資料>

・ 浦上春琴
      1779〜1846
<主な作品及び資料>

○ 梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)
      1888〜1986(明治21〜昭和61)
 安井曾太郎とともに日本的油絵様式を展開した,昭和期の代表的作家。20代はじめにフランスに留学し,ルノワールに直接師事し,そこから自らの作風を確立していった。97歳という長い生涯を生き,大胆で絢爛な作風は常に画壇の注目を浴びた。
<主な作品及び資料>

 「浅間山」(1959) 「牡丹図(李朝壺)」(1975) 「自画像」(1908),(1911) 「姑娘とチューリップ」(1942) 「坐裸婦」(1918) 「熱海風景」(1917) 「裸婦脱衣立図」(1921) 「薔薇図」(1940) 「噴煙」(1953) 「黄金の首飾り」(1913) 「ナルシス」(1913) 「桜島(青)」(1935) 「カンヌ」(1962) 東京国立近代美術館
 「下加茂の森」(1904) 「雲中天壇」(1939) 京都国立近代美術館
 「若き羅馬人」(1909) 愛知県美術館
 「朝陽」(1947) 「裸婦扇」(1938) 「竹窓裸婦」(1937) 大原美術館
 「椿」(1915) 神奈川県立近代美術館
 「裸婦鏡」(1930) 「黒薔薇」(1940) メナード美術館
 「ノートルダム寺院」(1921) 清春白樺美術館
 「紫禁城」(1940) 永青文庫

・ 運慶(うんけい)
   ?〜1175〜1223
 鎌倉時代の仏像彫刻家。弟子の快慶らと共に活躍し,写実的で剛健な仏像彫刻を作り出した。
<主な作品及び資料>
  「大日如来像」 円成寺(奈良)
  「阿弥陀如来像」「不動明王像」「二童子像」「毘沙門天像」 願成就院(静岡)
  「 」 浄楽寺(神奈川)

・ 雲谷等顔(うんこくとうがん)
      1547〜1618
<主な作品及び資料>

・ 瑛九(えいきゅう)
   1911〜1960
<主な作品及び資料>

・ 円空(えんくう)
 江戸時代の初期の遍歴僧。諸国修行の間に各地で多くの木彫の仏像をつくった。粗彫りで素朴なものが多い。仏像が木の中から掘り出してくれといっている,というように内在する精神性を重要視した。
<主な作品及び資料>

・ 円珍
   814〜891 
<主な作品及び資料>

・ 円仁
   794〜864
<主な作品及び資料>

・ 尾形乾山(おがたけんざん)
      1663〜1743
 江戸時代の京都で活躍する。仁清の影響を受けて楽焼に新しい世界を開く。絵は光琳に学び装飾的な絵画を描いた。
<主な作品及び資料>

○ 尾形光琳(おがたこうりん)
       1658〜1716(万治元〜正徳5)
 裕福な商家の次男として生まれる。俵屋宗達の影響を受け,独自の意匠的な構成を生み出す。
<主な作品及び資料>
  「中村内蔵助像」(1704) 扇面貼交手箱 大和文華館
  「八ツ橋図屏風 波濤図屏風」 メトロポリタン美術館
  「松島図屏風」  フリア美術館
  「乾山・光琳合作」 サントリー美術館
  「八ツ橋蒔絵硯箱 白地秋草文様小袖(冬木小袖)」 「風神雷神図屏風(俵屋宗達の模写)」 「竹梅図屏風」 東京国立博物館
  「住之江蒔絵硯箱 鵜舟図」 静嘉堂文庫
  「紅白梅図屏風」 MOA美術館
  「燕子花図屏風」 根津美術館
  「太公望図屏風」 京都国立博物館
  「紅白躑躅図」 畠山記念館
  文化庁(小西家資料)

・ 岡倉天心(おかくらてんしん)
      1863〜1913
 フェロノサとともに日本の美術振興に努め,新日本画の創成に貢献した。明治23年には東京美術学校の初代校長となり,後に日本美術院を創設している。
<主な作品及び資料>

・ 岡本太郎(おかもとたろう)
      1911〜19
<主な作品及び資料>

・ 荻原守衛(おぎわらもりえ)
      1879〜1910
<主な作品及び資料>

・ 奥村政信(おくむらまさのぶ)
      1686〜1764
江戸時代の浮世絵師。美人画,役者絵を得意として,特に遠近法を使った浮世絵を考案した。

・ 小野里利信(オノサトトシノブ)
      1912〜1986
<主な作品及び資料>
兵庫県立近代美術館

○ 小野竹喬(おのちっきょう)
      1889〜1979(明治22〜昭和54)
日本画の革新を目指し,新鮮な表現を求め続けた。当時の文展は竹喬の運動を受け入れられず,そこで国画創作協会を設立する。パリを拠点とした留学で西洋絵画に敗北感を覚えたため,日本画の本質を問い直し,自分自身を問い直すことで新たな世界を模索した。
自然の優しい語りかけをとらえた何気ない自然の姿を描く。89歳で死去。
<主な作品及び資料>
「あかあかと日は難面もあきの風」1976 「暑き日を海に入れたり最上川」1976 
「田一枚植えて立ち去る柳かな」 1976 「五月雨をあつめて早し最上川」1976京都国立近代美術館
「落照」1908 「夕映」 1960 「春の袖ふるほとりの絵具皿」1955
「セーヌ河畔」1921 「海島」1920「瀬戸の海」「春耕」1924
「八瀬村頭」1926 「山海行吟帖 嵐峡秋色」1930 「郷土風景(スケッチ)」1917
「島二作 早春・冬の丘」1916 「仲秋の月」1947  「落照」(1908) 笠岡市立竹喬美術館
「冬の海辺」 1928 「冬日帖 故里の郊外」1928 「夕雲」1965 京都市美術館
「奥入瀬の渓流」1951 東京都美術館
「夕茜」1968 岡山県立美術館
「郷土風景」1917 京都国立近代美術館
「波切村」「近江富士」
「雨の海」1952 「池」1967 東京国立近代美術館
「夕空」1953 新歌舞伎座
「残照」1962 国立劇場
「宿雪」1966 ベネッセコーポレーション
「樹雪」1978 上品蓮台寺

・ 小野道風(おののとうふう)
      894〜966
<主な作品及び資料>

 

○ 快慶(かいけい)
    ?〜1189〜1236〜?
 運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師。
<主な作品及び資料>

  「弥勒菩薩像」 醍醐寺三宝院(京都)

○ 葛飾北斎(かつしかほくさい)
       1760〜1849(宝暦10〜嘉永2)
 江戸時代を代表する版画家。時代の流行をとらえ,生涯新しい表現を求める。壮大な空間表現を作り上げる。師匠の勝川春草から破門された後,あらゆる門派の技法を吸収することで独自の画法を編み出した。画号を次々に変えていったことでも有名。


<主な作品及び資料>
    北斎館

    富嶽三十六景
    北斎漫画

○ 狩野永徳(かのうえいとく)
      1543〜1590(天文12〜天正18)
  足利将軍家御用絵師の狩野松栄の長男として生まれる。名は州信(くにのぶ)。狩野派画法を大成する。織田信長の安土城や豊臣秀吉の聚楽第などを手がける。桃山時代の障壁画をリードし,また,政治的な感覚を巧みに活かし,江戸時代から近代にかけて狩野派の地位を盤石不動のものにした。
<主な作品及び資料>
  「花鳥図襖」(1566) 「芦雁図」(1566) 「琴棋書画図襖」(1566) 「松鶴図」(1566) 「梅花禽鳥図」 大徳寺聚光院(京都)
  「唐獅子図屏風」 「源氏物語図屏風」(伝) 宮内庁
  「琴棋書画屏風図」(伝) フリア美術館
  「仙人高士図屏風」(伝)京都国立博物館
  「松鷹図屏風」(伝) 東京芸術大学
  「檜図屏風」(伝) 「許由・巣父図」 東京国立博物館
  「洛中洛外図屏風」 米沢市

>狩野家の系図<     ( ・・・は弟子筋)
                     
狩野元信          ┌──狩野光信──貞信・・・・・・安信(中橋狩野)
  ↓             │
                │
                │            (鍛冶橋狩野)    
狩野松栄─┬狩野永徳─┼─狩野孝信─┬─狩野守信(探幽)────┬探信
          |          │           │                         ├探雪
        |                │                        │                        ├・・・桃田柳栄
                 │            ├  尚信  ──  常信        ├・・・久隅守景
                 │            │(木挽町狩野)            │  
                 │            └  安信  ─┬─  時信    ├  洞雲益信
                 │                         └・・・英一蝶     │(駿河台狩野)
                 │                               └  鶴沢探山
                 │                               (鶴沢派)  
                 └・・・狩野山楽・・・山雪__永納(京狩野)
 
      |


狩野松柏__  照政__  洞晴__    __  察信  __6_晴皐_芳崖
               (長府狩野家)  

・ 狩野山雪(かのうさんせつ)
      1590〜1651
<主な作品及び資料>

○ 狩野山楽(かのうさんらく)
      1559〜1635(永禄2〜寛永12)
 姓は木村,名は光頼(みつより)。父永光は狩野元信に絵を学ぶが,余技であったためか現存するものは少ない。その後浅井長政の家臣となっている。織田信長に浅井家が滅ぼされた後,小谷城に入った秀吉の家臣となる。17歳頃に秀吉によって山楽は永徳に入門することになり,狩野姓を授けられることになる。永徳亡き後,一転して武士を捨て,自分こそが狩野家を引き継ぐものだという自負心にあふれて様々な障壁画に筆を振るった。狩野家の一員でありながら当時の海北友松をはじめ,雪舟や周文を学ぶことによって古典・故実を生かした独自の画風を創出する。
<主な作品及び資料>
 「龍虎図屏風」<重文> 「文王呂尚・商山四晧図屏風」<重文> 「厳子陵・虎渓三笑図屏風」<重文> 妙心寺
 「牡丹図襖」<重文> 「松鷹図襖」 大覚寺
 「山水図襖 西湖図」1605頃 正伝寺
 「犬追物図屏風」 常磐山文庫
 「鍾馗図」 ボストン美術館
 「聖徳太子絵伝」1623(元和元年) 四天王寺
 「山楽書状」 「車争図屏風」<重文> 東京国立博物館
 「花鳥図襖」<重文> 光浄院
 「四季耕作図屏風」 ミネアポリス美術館
 「花鳥図屏風」 フリア美術館
 「繋馬図絵馬」 1625(寛永2年) 海津天神社

○ 狩野探幽(かのうたんゆう)
      1602〜1674(慶長7〜延宝2)
 本名は狩野守信(もりのぶ)。狩野永徳は祖父となる。父孝信は朝廷に対しての御用を務めていた。10才で家康に謁見し,大阪夏の陣後の1617に江戸幕府のご用絵師に任ぜられる。以降,奥絵師として幕府の手厚い保護を受ける。
<主な作品及び資料>
 「桐に鳳凰図屏風」 サントリー美術館
 「竹虎図襖」 南禅寺本坊小方丈
 「拒関賜布図」 東京国立博物館
 「楼閣山水図屏風」 長福寺
 「探幽縮図」永青文庫
 「今枝重直像」(1663) 蓮華寺
 「田園風俗図屏風」 高津古文化会館
 「東照権現像」 輪王寺
 「富士山図」(1665) 板橋区立美術館
 「四季花鳥図屏風」 徳川美術館
 「董奉図屏風」 鹿苑寺
 「波濤水禽図屏風」 静嘉堂文庫美術館
 「松図床張付」(1626) 「松に鷹図襖・壁張付」 「松に孔雀・壁張付」二条城二の丸
 「波濤群燕図」 常磐山文庫
 「鵜飼図屏風」 大倉文化財団
 「雪中梅竹遊禽図」 「露台惜費図」 名古屋城上洛殿
 「四季松屏風」 大徳寺
 「笛吹地蔵図」 バークコレクション
 「東照宮縁起絵巻」(1640) 日光東照宮

・ 狩野友信(かのうとものぶ)
      1843〜1912
浜町狩野家当主の奥絵師。芳崖とともに鑑画会の創立会員で鮮やかな色彩と細密描写,緻密な空間構成と遠泳の濃淡が特徴。
<主な作品及び資料>
 「羅漢」 東京芸術大学


・ 狩野内膳(かのうないぜん)
      1570〜1616
<主な作品及び資料>

・ 狩野尚信(かのうひさのぶ)
      1607〜1650
<主な作品及び資料>

・ 狩納夏雄
      1828〜1898
<主な作品及び資料>

○ 狩野芳崖(かのうほうがい)
      1828〜1888(文政11〜明治21)
 御用絵師の子として生まれる。幸太郎と名付けられ,父の指導で早くから絵の才能に目覚める。19歳で木挽町狩野家に入門。厳格な筆法を学ぶとともに,規範に対する問題意識をも育んだ。10年かかるといわれた過程を4年で終え,1850年に入門してきた橋本雅邦とともに頭角を現していた。多岐にわたるジャンルの作品を描くなかで雪舟の絵に感化し,狩野派の中にあって新しい作風を模索する。勝海雅道(しょうかいただみち)と名乗っていたが芳崖雅道と自ら改名。法外からとったらしく,狩野派の外から自分の個性を発揮しようと改名したとも伝えられる。版籍奉還の後,事業にことごとく失敗して生活が困窮するが,橋本雅邦によって島津家に雇用される。その後フェノロサに評価され,フェノロサは芳崖に日本画の新しいスタイル確立を託して様々な実験を試みた。山水画を原点とし,曲線の多用や階調のある墨隈,渓流による深遠間表現などがそれである。貧困の時代に患った肺病を再発し,61歳で帰らぬ人となった。
<主な作品及び資料>
 「動物百態絵巻」「馬関真景絵巻(1842)」「雨中山水図」「仙人龍図」
 「馬関海峡測量図」(1865) 下関市立長府図書館
 「武内宿禰投珠図」(1864)忌宮神社
 「犬追物図」(1882)宮内庁
 「奈良官遊地取」(1886)
「悲母観音図」1888(明治21年)<重文> 「大鷲図」1888(明治21年) 「暁霧山水図」1887(明治20年) 「達磨図」 「牧童図」 東京芸術大学
 「青砥藤綱滑川拾銭図」山口県立美術館
 「枯木猿猴図」(1881)
 「懸崖山水図」1882(明治15年)頃 下関市立美術館
 「雪山暮渓図」1883(明治16年) 「<悲母観音>原図」1883(明治16年) フリア美術館
 「飛龍昇天図」 ? 「谿間雄飛図」1885(明治18年) ボストン美術館
 「獅子図」 「桜下勇駒図」1884(明治17年)
 「柳下放牛図」1884(明治17年) 福井県立美術館
 「飛龍戯児図」 フィラデルフィア美術館

・ 狩野正信(かのうまさのぶ)
      1434〜1530
<主な作品及び資料>

・ 狩野光信(かのうみつのぶ)
      1561/65〜1608
 父は狩野永徳。
<主な作品及び資料>
 「四季花木図襖」<重文>1600(慶長5年) 勧学院

・ 狩野元信(かのうもとのぶ)
      1476〜1559
<主な作品及び資料>

・ 狩野安信(かのうやすのぶ)
      1613〜1685
<主な作品及び資料>

○ 鏑木清方(かぶらぎきよかた)
      1878〜1972(明治11〜昭和47)
13歳で水野年方に入門し、挿し絵画家の日課を送る。町絵師とさげすまされた浮世絵師から出発し、何人も追随できない永遠の美しさを内に秘めた近代の美人画を確立した。文学性の高い絵画を描く。93歳で天寿を全うする。
<主な作品及び資料>
「隅田河船遊」 1914 「三遊亭円朝像」 1930 東京国立近代美術館
「一葉」 1940 東京芸術大学
「花吹雪・落葉時雨」 1908 永青文庫
「四季美人図 雪しぐれ」1935 目黒雅叙園美術館
「刺青の女」 1919 「妖魚」 1920 「薄雪」 1917 「道成寺(山づくし)・鷺娘」 1920
「銀座金沢亭」 1921 福富太郎コレクション
「築地明石町」 1927 「ためさるゝ日」 1918 「朝涼」 1925
「讃春」 1933 宮内庁
「蟹と童」 1944 尾道市立美術館寄託
「朝夕安居」 1948 (画巻) 
「雨月物語」 1921 霊友会妙一記念館

○ 川合玉堂(かわいぎょくどう)
      1873〜1957(明治6〜昭和32)
 本名は芳三郎。望月玉泉の門に入り,玉舟の号をもらう。その後,幸野楳嶺の大成義会に移る。ここで四条派の画報を徹底的に学ぶ。橋本雅邦の作品に感動し,上京して訪れ,そこでは狩野は様式の修得に励んだ。大観や春草が行う朦朧体とは異なる近代風景画を目指した。34歳にして日本画壇の指導的地位に立ち,近代日本の風景山水に新しい世界を切り開いた画家として知られる。日本の自然をこよなく愛し,そこに住む人々の生活が見える風景画を描いた。四季折々によってその表情を変える自然を前にして,詩情豊かに彩られた自然と人間との交流を描こうとする,精神の世界が漂っている。
 <主な作品及び資料>
「行く春」1916(大正5年)<重文> 「朝もや」1938(昭和13年) 「二日月」1907(明治40年) 東京国立近代美術館
「家鴨」1897(明治30年) 「霧(深山濃霧)」1909(明治42年) 東京国立博物館
「雨後」1924(大正13年) 宮内庁
「宿雪」1934(昭和9年) 日本芸術院
「山雨一過」1943(昭和18年) 「朝晴」1946(昭和21年) 「鵜飼」1895(明治28年) 「早乙女」1945(昭和20年) 山種美術館
「屋根草を刈る」1954(昭和29年) 東京都
「細雨」 山形美術館(主な収蔵作品にあり)
「鵜飼」1931(昭和6年) 「雑木林」1913(大正2年) 東京芸術大学
「鵜飼」1956(昭和31年) 「戦場ヶ原スケッチ」1903(明治36年) 玉堂美術館
「焚火」1903(明治36年) 五島美術館
「深林宿雪」1936(昭和11年) 岐阜県美術館
「出船」1957(昭和32年 絶筆)

・ 河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)
      1831〜1889
<主な作品及び資料>
  「慈母観音図」(1877 ?)日本浮世絵博物館

○ 川端龍子(かわばたりゅうし)
      1885〜1966(明治18〜昭和41)    
 和歌山県に生まれる。名前は昇太郎。下村観山とは同郷。読売新聞の「明治三十年画史」に応募し,2題が入選したことをきっかけに画家を志す。挿し絵で家計を支え,国民新聞社に入社,後に実業之日本社の「少女の友」への挿し絵も担当した。洋画を学ぶために渡米したが留学の後に日本画へ転じる。自己の芸術理念,会場芸術主義(大衆のための芸術活動)を実現するために1929青龍社を創設し,作品がいかに会場において生きた働きかけ・・・<関心>を民衆に与えるかを考えて制作した。西洋の手法を取り入れ,そして常に新しいが橋を開拓しようとした柔軟な発想が,新しい芸術の世界を切り開いた。1929(昭和4年)には青龍社を創立する。1959(昭和34年)には文化勲章を受章し,1963(昭和38年)6月6日には自らの手で龍子記念館を開館させた。(現在は大田区へ移管されている)
<主な作品及び資料>
 「真珠」1931(昭和6年) 「鳴門」1929(昭和4年) 山種美術館
 「草炎」1930(昭和5年) 「金閣炎上」1950(昭和25年) 「慈悲光礼讃(朝・夕二部作)」1918(大正7年) 東京国立近代美術館
 「小鍛冶」1955(昭和30年) 「筏流し」1959(昭和34年) 「花下独酌」1960(昭和35年) 大田区立龍子記念館
 「源頼朝(ジンギスカン)」1938(昭和13年) 「神変大菩薩」1928(昭和3年) 「一天護持」1927(昭和2年) 大田区立龍子記念館
 「龍安泉石」1924(大正13年) 「火生」1921(大正10年) 「香炉峰」1939(昭和14年) 大田区立龍子記念館
 「龍子垣」1961(昭和36年) 「請雨曼陀羅」1929(昭和4年) 「夢」1951(昭和26年) 「渦潮」1956(昭和31年) 大田区立龍子記念館
 「霊泉由来」1916(大正5年) 永青文庫
 「佳人好在」1925(大正14年) 京都国立近代美術館
 「天橋図」1960(昭和35年) 国立劇場

・ 観阿弥(かんあみ)
      1333〜1384
<主な作品及び資料>

・ 観寂(かんじゃく)
      生没年不明
<主な作品及び資料>

○ 岸田劉生(きしだりゅうせい)
      1891〜1929(明治24〜昭和4)
 黒田清輝に油絵を学ぶ。愛娘の麗子像の肖像が有名。精緻な描写のなかに神秘的な緊張感を漂わせている風景画や静物画を残す。38歳で没。
<主な作品及び資料>
  「武者小路実篤像」(1914) 東京都美術館
  「街道(銀座風景)」(1911) 石橋財団ブリヂストン美術館
  「画家の妻」(1915) 「童女舞姿」(1924) 大原美術館
  「村娘之図」(1919) 下関市立美術館
  「麦二三寸」(1920) 三重県立美術館
  「麗子五歳之像」(1918) 「村娘於松立像」(1921) 「自画像」(1913) 「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915) 「川端正光氏の肖像」(1918) 「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」(1916) 「壺の上に林檎が載って在る」(1916) 東京国立近代美術館
  「麗子微笑之立像」(1921)
 

・ 喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
      1753〜1806(宝暦3〜文化3)
 <主な作品及び資料>

○ 木田金次郎(きだきんじろう)
      1893〜1979
<主な作品及び資料>
  木田金次郎美術館(詳細情報あり)
  「茶津の断崖」(1954)北海道立近代美術館

・ 空海(くうかい)弘法大師
      774〜835
<主な作品及び資料>

○ 国吉康雄(くによしやすお)
      1889〜1953
<主な作品及び資料>
  ベネッセコーポレーション本社2F国吉康雄美術館
  国吉康雄(仮想)

○ 黒田清輝(くろだせいき)
      1866〜1924(慶応2〜大正13)
  日本近代洋画の父と言われる。法律学習を目的に9年間フランスへ留学するが,絵を描く楽しみに目覚めて本格的に学ぶ決心をする。日清戦争に従軍画家として参加した後,本格的に活動を始めた。フランスではラファエル・ロランに師事し,外光派(プレナリスム)と呼ばれる外光表現を取り入れた明るい色彩と清新な自然描写で洋画界に名を残す。東京美術学校に洋画科を新設したなかで教育制度や教育内容などを検討し,美術教育や美術行政に果たした役割は大きい。
<主な作品及び資料>
  「湖畔」(1897) 「智・感・情」(1899) 東京国立文化財研究所
  北九州市美術館
  石橋美術館 (詳細情報あり)

  「舞妓」(1893) 「読書」(1890〜91) 東京国立博物館
  「婦人図(厨房)」(1892) 東京芸術大学

○ 小磯良平(こいそりょうへい)
      1903〜1988(明治36〜昭和63)
  その描写力は誰の目にもすばらしく映る。様々な画材を使い分け,同じ題材でも目的の異なったデッサンを幾度となく繰り返した。特に絵の構図を大切にする。「構図とモティーフは画家の永遠の問題である」と言う。楽器の形態に興味を持ち,そこからもたらされる効果や雰囲気は心が和む。
<主な作品及び資料>
兵庫県立近代美術館
  「リュートを持つ婦人」(1980) 「スペインの女」(1928) 「裸婦」(1924) 「洋裁する女達」(1939) 「風景」(1923) 「T嬢の像」(1926) 「肖像」(1940) 「斉唱」(1941) 兵庫県立近代美術館
  「踊り子」(1938) 兵庫県立兵庫高等学校
  「彼の休息」(1927 )東京芸術大学(卒業制作)
  「二人の少女」(1946) 「御影の風景」(1986) 神戸市立博物館
  「マレー戦線における偵察隊の活躍」(1944) 「練習場の踊り子達」(1938) 東京国立近代美術館
  「朝のひととき」(1976) 山梨県立美術館
  「室内B」(1975) メナード美術館
  「絵画」「音楽」(1974) 迎賓館・・・さすがにここは訪ねられないか・・・
  「三人の踊り子」(1970) 株式会社第一ホテル
  「KOBE,THE AMERICAN HARBOUR」(1985) 兵庫県公館

○ 古賀春江(こがはるえ)
<主な作品及び資料>
  石橋美術館

○ 児島善三郎(こじまぜんざぶろう)
<主な作品及び資料>
  石橋美術館

・ 児島虎次郎(こじまとらじろう)
      1881〜1929
<主な作品及び資料>

○ 小林古径(こばやしこけい)
      1883〜1957(明治16〜昭和32)
 時代画から出発し,大正期には南画風大和絵,細密描写などを試みる。知的な意識と近代的な解釈によって,厳格な構図,とぎすまされた線,静かな緊張感をみなぎらせた新古典主義の作風を生み出した。
<主な作品及び資料>
「鶴と七面鳥」 1928 「髪」 1931 「孔雀」 1934 永青文庫
「三宝柑」 1939 「闘草(くさあわせ)」 1907 「静物」 1922 「猫」 1946 「弥勒」 1933 「清姫<絵巻>」 1930 「牛」 1943 「菖蒲(しょうぶ)」 1952 山種美術館

「加賀鳶」 1909 「極楽井」 1912 「唐蜀黍」東京国立近代美術館
「住吉詣」 1913 「異端」 1914 「阿弥陀堂」 1915 「いでゆ」 1918 「罌粟(けし)」 1921 東京国立博物館
「女史箴図」 1923 東北大学附属図書館
「琴」 1927 「竹取物語<絵巻>」 1917 京都国立近代美術館

「犬(庭の一隅)」 1932 歌舞伎座

 

○ 佐伯祐三(さえきゆうぞう)
      1898〜1928(明治31〜昭和3)
<主な作品及び資料>
  石橋美術館 (詳細情報あり)

○ 酒井抱一(さかいほういつ)
      1761〜1828(宝暦11〜文政11)
 俳諧や絵を好んだ抱一は,早くより風雅な生活を送った。江戸の根岸にアトリエを構え,この時代の約百年前に活躍した尾形光琳の雅な画風を取り入れる。伝統的な大和絵の流れを汲み,繊細で華麗な表現を金銀濃彩の豪華な画面に表した。後に江戸琳派の名前が与えられる。
<主な作品及び資料>
 「夏秋草図屏風」(1821) 「四季花鳥図巻」(1818) 「夏秋草図屏風」東京国立博物館
 「群鶴図屏風」 ウースター美術館
 「洋犬図」(1814) 西新井大師総持寺
 「瓶花図」(1815) 大和文華館
 「柿図屏風」(1816) メトロポリタン美術館
 「桜図屏風」 バークコレクション
 「波図屏風」(1813) 静嘉堂文庫
 「風神雷神図屏風」 財団法人エムアールエイハウス
 「雪月花図」(1820) MOA美術館
 「十二か月花鳥図」(1823) 宮内庁
 「四季花鳥図屏風」(1816) 陽明文庫
 「三十六歌仙図張付屏風」 心遠館コレクション
 「美人蛍狩図」(1788) 「住吉太鼓橋夜景図」(1800) 「槙に秋草図屏風」

○ 坂本繁二郎(さかもとはんじろう)
      1882〜1969(明治15〜昭和44)
 福岡県の久留米藩士の次男として生まれる。日本画しか知らなかったが10歳の時に森三美(もりもよし;当時久留米在住の洋画家)から洋画を学んだ。20歳の時,一時帰省していた同郷の青木繁の刺激を受け,共に上京する。フランス留学中には広々とした自然の中で自由に絵を描いた。単純化された構図と色面による画面構成,色調を変えた立体感を出し,師シャルル・ゲランに激賞された。帰国の後,自然に親しむことの楽しみを求めて目やに定住することを決める。あくまでも写実を基本にして政策を進め,絵画を「対象となるものに対する作者の感動を表現するもの」と考えて,生涯を通して新しい写実を追求し続けた。1956年には文化勲章が授与され,1969年,老衰のためにこの世を去った。
<主な作品及び資料> 
  石橋美術館 (詳細情報あり)
  (※ 石橋文化センター内にアトリエが移築されている。)
 「秋の朝日」1899(明治32年) 「放水路の雲」1927(昭和2年) 「八女の月」1969(昭和44年) 京都国立近代美術館
 「ヴィラ・グルネー」1922(大正11年) ひろしま美術館
 「暁明の根子嶽」1953(昭和28年) 国立公園協会
 「能面」1955(昭和30年) 福岡県立美術館
 「大島の一部」1906(明治39年) 福岡市美術館
 「水より上る馬」1937(昭和12年) 東京国立近代美術館
 「箱」1960(昭和35年) 三重県立美術館

○ 司馬江漢(しばこうかん)
      1747〜1818(延享4〜文政元)
 知識欲と表現欲に富み,数々の芸術家や知識人に触れる中で,最も平賀源内に影響を受ける。15歳の頃に鈴木春信(浮世絵師)のもとで版下の製作をしている。そのときに春重(はるしげ)の号を与えられ,師に習った美人画を多く制作した。線遠近法を取り入れた風景や室内画(浮絵)の新しい画風をつくろうと模索した。その後,写実性を重視したり,和漢洋のスタイルを使い分けるなど,強い個性を発揮した。
<主な作品及び資料>
 「梅に金鳩図」(1781〜82) 「東半球図」(1793) 「以顕鏡観虫類図」 「反射式のぞき眼鏡」(1784) 「駿州柏原富士図」(1812) 「異国工場図」(1789〜1801) 「両国橋図」(1787) 「異国風景人物図」 「相州鎌倉七里浜図」(1796) 神戸市立博物館
 「七十六翁司馬無言辞世語」(1813) 天理大学附属天理図書館
 「湖辺遊禽図」(1789〜92) 長崎県立美術博物館
 「広尾親父茶屋図」(1784) 本間美術館
 「海浜漁夫図」(1799) 大和文華館
 「花卉草虫図」(1781) 「西洋樽造図」 「西王母図」 「西洋埠頭図」 「捕鯨図」(1794) 「品川富士遠望図」(1798)

○ 鈴木春信(すずきはるのぶ)
     1725?〜1770(享保10?〜明和7)
 錦絵創始期の第一人者。生涯については謎が多い。平賀源内と親交があったといわれる。このとき紅擦絵の時代から錦絵の時代へと流れていた。当時の風俗を描いても平安時代の雅やかさを感じさせるような格調の高さがあった。西川祐信の絵本から多くの図案を使用しているが当時としてはごく普通のことであったらしい。先人の浮世絵師に学び,作画手段を熟知して図柄を研究し,自らの芸術に取り入れた。
<主な作品及び資料>
「風流やつし七小町 雨こい」宝暦末頃 大英博物館
「坐鋪八景 塗桶暮雪」1766(明和3年)頃 シカゴ美術館
「洗い張り」1767(明和4年) 太田記念美術館
「源重之」1766〜67(明和3〜4年)頃 「藤原敏行朝臣」1767 MOA美術館
「梅の枝折り」1766〜67 山種美術館
「見立夕顔」1766(明和3年) 「雪中相合傘」1767(明和4年頃) ホノルル美術館
「見立尊康」1765(明和2年頃 絵歴) ボストン美術館
「夜の海」1766(明和3年頃) メトロポリタン美術館
「風流やつし七小町 そとは」宝暦末頃 「見立菊慈童」1765〜66 「雨夜の宮詣で(見立蟻通)」1767 東京国立博物館

> ※ 見立絵とは <
 和漢の古典物語や故事を当世風俗に置き換えて表したり,和歌や漢詩を配してそれにあわせた図を創意する場合もある。鑑賞者はその原典を言い当てたり,置き換えの機知に感心して楽しんだ。

> ※ 小袖雛形本とは <
 着物の小袖のデザインを書き留めたもの。浮世絵師が当世の衣装を表現する際にも用いられた。江戸時代において制作の指針とされ,呉服商で注文の控えとして制作される肉筆本と書肆と絵師が連携して刊行した版本がある。後者の方が当時の人たちの流行を知るファッションブックのような役割を果たした。刊行されてすぐに人気がでて,1716〜36年の間に有名な作家による実用性を兼ね備えた優美な意匠が次々に発表された。ところが1751〜64頃になると具象模様の流行にもかげりが出始め,変わって渋い色合いの縦縞模様が最新の装いとして普及した。しかし大量に供給され続けたために,斬新な図案を供給できなくなって定型化の一途をたどり,それと共に衰退していった。

・ 雪舟(せっしゅう)
   1420〜1506頃(応永27〜永正3頃)
<主な作品及び資料>
  「破墨山水図」 京都国立博物館
  「山水長巻」  毛利博物館(山口)
  「恵可断臂図」 斎年寺(愛知)

 曾我蕭白(そがしょうはく)
      1730〜1781(享保15〜安永10)
 京都の商人の家に生まれる。本名は三浦。室町時代の画家,曾我蛇足から名前をとった。池大雅や円山応挙,伊藤若冲らが活躍する時代にあって狂を旨とし,独自の作風を貫いた。他の絵師と同じような絵を描くことをせず,絵に画人の精神が反映されていなくてはいけないと考えた。江戸時代の狩野派や応挙の写生画を認めず,室町時代の水墨画を理想として,独自の怪醜な絵画を確立した。
<主な作品及び資料>
 「林和靖図屏風」1760(宝暦10年) 三重県立美術館
 「折檻故事図屏風」1759(宝暦9年) 円興寺
 「群仙図屏風」1764(明和元年)
 「商山四皓図屏風」 「楼閣山水図屏風」 ボストン美術館
 「月夜山水図屏風」<重文> 近江神社
 「寒山(かんざん)拾得(じっとく)図」<重文> 興聖寺>        ※ 寒山と拾得について
 「美人図」 奈良県立美術館
 「柳下鬼女図屏風」 東京芸術大学

・ 高橋由一(たかはしゆいち)
      1828〜1894
<主な作品及び資料>
  「鮭」(1877?)東京芸術大学
「鮭図」 山形美術館(主な収蔵作品にあり)

・ 高村光雲(たかむらこううん)
      18521934
<主な作品及び資料>
  「老猿」

・ 高村光太郎(たかむらこうたろう)
      1883〜1956
<主な作品及び資料>
  「手」

○ 竹内栖鳳(たけうちせいほう)
      1864〜1942(元治元〜昭和17)
 岡倉天心からの上京の誘いを断り,京都にこだわり続け,京都画壇の頂点を極めた画家。京都の料亭「亀政」の長男として生まれる。店の常連客であった友禅画家北村甚七が墨一色で描いた燕子花が強い印象を与え,画家を志す。四条派に入門し,経済的な不安もなく画業に打ち込めた。幸野楳嶺に学びはじめ,そこで栖鳳の雅号を与ええられる。写実を旨とし,流派にこだわることなく諸派を研究するとともに,西洋絵画の光と色彩の因果関係を学びそれを取り入れた。西の栖鳳,東の大観といわれ,1937年(昭和12年)の第1回文化勲章をそろって受賞した。
<主な作品及び資料>
 「河口」(1918)静嘉堂文庫
 「和蘭春光・伊太利秋色」1902(明治35年)  「大獅子図」1902(明治35年) 藤田美術館
 「絵になる最初」1913(大正2年) 京都市美術館
 「飼われたる猿と兎」1908(明治41年)頃 東京国立近代美術館
 「班猫」1924(大正13年) 「晩鴉」1933(昭和8年) 「城外風薫」1930(昭和5年) 山種美術館
 「鯖」1925(大正14年) 前田育徳会
 「秋興」1927(昭和2年) 京都国立近代美術館

※ 東京と京都の画壇について
  日本画の近代化は岡倉天心やフェノロサらによってすすめられた。特に西洋絵画における光線と色彩の導入,そして色彩改良を行った。墨を使った光の表現に始まり,光と色彩のみの沈線主体の朦朧体へとすすんだ。水墨画や琳派の様式を高めた河合玉堂や菱田春草らの活躍が一つの形を生み出しつつあった。そこには観念的で思想性の強い主題傾向が好まれた。一方京都では,空間の奥行き表現と色彩表現は丸山応挙以来の伝統の中にしっかり根づいていたが,光源を直接的に描くことはさけていた。印象の強い歴史画よりも,花鳥画や風景画,風俗画の雅な趣が好まれていた。
 京都府画学校は1880年に創立。府立であり,政府の政策との関係はなかった。
 それに対して東京美術学校は1887年に創立。官立学校であったため,政府の強力な主導が色濃く出ていた。教授陣も円山四条系,狩野系,南画,洋画とさまざまな派閥が含まれていたのに対し,東京では日本画新派がその手中を握っていた。

○ 竹久夢二(たけひさゆめじ)
       1884〜1934(明治17〜昭和9)
  コマ絵の画家として出発する。
<主な作品及び資料>
  伊香保記念館
  Bunkyo-net
  竹久夢二美術館

  夢二郷土美術館
  昇仙峡影絵美術館(夢二の項目
  河村コレクション

○ 田能村竹田(たのむらちくでん)
      1777〜1835(安永6〜天保6)
 江戸時代後期に九州豊後岡藩に儒官として使えた。しかし政治の在り方に疑問を感じて辞職する。現実に挫折し,正しい答えを求める中で自らの知性に頼り,旅をする中で友との出会いを求め,理想である自由な世界を絵画の中に求めようとした。上品で澄み渡るような表現が特徴。
 岡藩藩候の侍医の子として生まれる。医業を相続するが文芸への関心が高く,医業を廃して学問に打ち込むことになる。「豊後国志」の編さんの後に京都への遊学が許され,そこで浦上玉堂らの文人画家と出会い,中国画を学ぶ。1813に37歳で隠居の後,旅に出ては友と出会い,絵画を見て,描き,学問を講じ,それを書き留めるといった文人画家としての典型的な生活を送る。観念的な山水画から現実のモチーフとして雨と風の表現を行った。旅のスケッチを描き留めた画帖は必要なものを描き,そこに胸の奥の思いを同時に書き留めたものである。
<主な作品及び資料>
 「亦復一楽帖 水天空濶図」1830(天保元年)<重文> 寧楽美術館
 「亦復一楽帖 牡丹図」1831(天保2年)<重文> 寧楽美術館
 「自画像図」1822(文政5年) 「秋江風怒詩意図」文政末期 「恋花帖」1811(文政8年) 出光美術館
 「梅花書屋図」1832(天保3年) 「清谿深遠図」1827(文政10年) 「蘭図」1814(文化11年) 出光美術館
 「考盤図」1832(天保3年) 「桜図」文政年間末期 「残灯図」文政年間末期 出光美術館
 「山陰訪戴図」文政末期 「村居暁起図」1833(天保4年) 「春*骭諮}」1834(天保5年) 出光美術館
 「松巒古寺図」1833(天保4年)<重文> 東京国立博物館
 「春秋山水図屏風」1823(文政6年) 白鶴美術館

○ 俵屋宗達(たわらやそうたつ)
      ?〜1630(寛永7)〜?
 生没年不明。新興の業者から身をおこし,本阿弥光悦らの上層町衆と交流した。宮廷に認められて法橋(絵師などの位)に任ぜられたが,業者時代の自由な表現が生き続けた。後継者の宗雪らが金沢に移ってからは宗達の名は忘れられていく。近代になって再び画家・芸術家として脚光を浴びるようになった。
<主な作品及び資料>
  「雲龍図屏風」 「松島図屏風」 フリア美術館
  「舞楽図屏風」 醍醐寺
  「風神雷神図屏風」 建仁寺
  「白像図杉戸」(1621以降) 養源院
  「唐獅子図杉戸」(1621以降) 養源院
  「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」<画。 書;本阿弥光悦>京都国立博物館

○ 土田麦僊(つちだばくせん)
      1887〜1936(明治20〜昭和11)
佐渡の農家の三男として生まれる。幼い頃から絵が好きで「北陸」と名乗ったり,「玉邦」と名乗ったりした。小学校卒業後僧侶となるが,出奔。画家を目指すために鈴木松年に入門するが,画壇に大きな変化が起きたこの時期,時代の流れを感じ取り,新しい日本画を志して竹内栖鳳に師事する。西洋の美術を研究することによって旧来の日本画から脱却し,近代日本画の創造を目指した。国画創作協会の設立に参加し,独自の想像力による絵画世界を展開する。ヨーロッパ帰国後は,装飾性あふれる,荘厳な品格の漂う芸術作品へと完成度を高めていく。49歳で世を去った。
<主な作品及び資料>
 「髪」(1911)京都市立芸術大学
 「罰」1908 「海女」1913 「大原女」1924 京都国立近代美術館
 「清景」1905 「芥子」1926 新潟県美術博物館
 「島の女」1912 「湯女」1918 「舞妓林泉」1924 東京国立近代美術館
 「平牀」1933 京都市美術館
 「山茶花」1933 「大原女」1915 山種美術館
 「梅ヶ畑村」1915 和歌山県立近代美術館
 「鮭と鰯」1924 足立美術館
 「三人の舞妓」1916 「朝顔」1928 「明粧」1930 「ヴェトイユ風景」1922

○ 東郷青児(とうごうせいじ)
      1897〜1978(明治30〜昭和53)
  美人画家として,独自の女性美の世界を作り上げる。
<主な作品及び資料>
  安田火災東郷青児美術館 (詳細情報あり)
  「帽子をかむった男」(1922)名古屋市美術館
  「サルタンバンク」(1926)東京国立近代美術館
  「夜の波紋」(1971)東京都美術館

○ 東州斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
      ?〜1794〜95〜?(?〜寛政6〜7〜?)
  1年にも満たない期間に144枚もの作品を世に送り出す。その作品は役者の内面まで見抜いた上で,誇張を交えて表現した。当時の役者絵の世界に華々しくデビューしたものの,その正体は未だに謎に包まれたままである。
<主な作品及び資料>
  写楽(詳細情報あり)
  「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」 「初代市川男女蔵の奴一平」 東京国立博物館
  「市川鰕蔵の竹村定之進」 ・・・その他,多数。
  「二代目市川門之助の伊達与作」 ミネアポリス美術館
  「三代目沢村宗十郎の大岸蔵人」 「四代目岩井半四郎の乳人重の井」 「三代目市川高麗蔵の志賀大七」大英博物館
  「とらや虎丸」 ベルギー王立美術歴史博物館
  山種美術館
  太田記念美術館

>※ 大首絵とは? 
 浮世絵版画の中で半身,あるいはそれより上の部位,特に顔を大きく描いたものを大首絵という。その中でも特に顔の部分を大きく構図に取り入れたものを大顔絵と呼ぶこともある。享保・元文期(1716〜1741)の細判漆絵にその萌芽がみられ,役者以外,美人,若衆,武者を描いた作品が刊行されたが,しばらく途絶え,その後1770から復活する。
 寛政期には歌麿,栄之一門,長喜らが美人大首絵を,春英,写楽,豊国,国政らが役者大首絵を次々と刊行し,大首絵の黄金期を迎えることになる。それ以後,浮世絵の主要様式として定着した。

・ 土佐光起(とさみつおき)
      1617〜1691
<主な作品及び資料>

・ 土佐光信(とさみつのぶ)
      ? 〜1522頃
<主な作品及び資料>

・ 土佐光元(とさみつもと)
<主な作品及び資料>

・ 土佐光吉(とさみつよし)
<主な作品及び資料>

○ 富岡鉄斎(とみおかてっさい)
      1836〜1924(天保7〜大正13)
 絵はほとんど独学で,様々な伝統的手法を取り入れた独自の文人画風を確立した。終生「絵描きではない。儒者である」という態度をとり続ける。旅を好み,写意的な山水画,歴史上の聖賢人物を描く。晩年に帝室技芸員に任命され,正五位に任ぜられる。幕末,明治,大正を生き抜いた,最後で最高の文人画家と称される。
<主な作品及び資料>
  「東瀛仙苑図」(1918) 「聚沙為塔図」(1917) 「秋草図(蓮月賛)」 「華之世界図」(1914) 「宇治勝景図屏風」 「寝言書」 「赤壁四面図」 「前赤壁図」 「模土佐之平筆法 遊戯人物図」(1912) 「三津浜漁市図」(1875) 「青緑山水図屏風」(1912) 「朱梅図」(1923) 「扶桑神境図」(1924) 「遠山雪景図」(1917) 「松藤・桜花図」 「富而不驕図」(1924) 「鵞図」(1915) 清荒神清澄寺
  「比叡雪景図」(1864) 「武陵桃源図屏風」(1904) 京都市美術館
  「旧蝦夷風俗図屏風」(1896) 「大江捕魚図」(1916) 東京国立博物館
  「釈迦出山図」(1919) 是住院
  「武陵桃源・瀛洲神境図」(1923) 宮内庁
  「盆踊図」 高島屋史料館
  「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門陰栖図屏風」(1914) 辰馬考古資料館
  「餐水喫霞図」(1920) 金剛峯寺
  「武陵桃源図」(1891) 光明寺

・ 内藤伸
<主な作品及び資料>

・ 中川一政
<主な作品及び資料>

・ 中川紀元
 野獣派(フォービスム)を日本に移入した作家といわれる。マティスから自然の単純化を学び,帰国後の1922年にマティスとピカソを紹介している。フォーブ様式を獲得したと信じて帰国したが,自然の単純化と画面の奥行表現を消化しきれずに悩む。

・ 長沢芦雪
      1754〜1799
<主な作品及び資料>

・ 中村岳陵
<主な作品及び資料>
 「砂浜」1937(昭和12年) 横浜美術館

・ 流政之(ながれまさゆき)
    1923〜
<主な作品及び資料>

○ 中丸精十郎(なかまるせいじゅうろう)
<主な作品及び資料>
  石橋美術館

・ 名取春仙(なとりしゅんせん)
<主な作品及び資料>

・ 能阿弥(のうあみ)
     1397〜1471
<主な作品及び資料>

・ 野田英夫

<主な作品及び資料>

・ 野々村仁清(ののむらにんせい)
     生没年不詳 
<主な作品及び資料>
  「色絵吉野山図茶壺」福岡市美術館

○ 橋本雅邦(はしもとがほう)
      1835〜1908(天保6〜明治41)
 西洋の奥行きのある立体表現をどのように取り入れるかに積極的に取り組んだ一人。狩野派の筆法をもとに室町・桃山時代の古典を学んで新境地を開く。さらにフェノロサや岡倉天心の理論をもとに近代的構想を加えて新しい日本画の創造を果たす。
<主な作品及び資料>
  「月夜山水」(1889) 「白雲紅樹」(1890) 東京芸術大学
  「水雷命中」(1881) 「山水」(1893) 「瀟湘八景図」(1903) 東京国立博物館
  「竹に鳩」(1882) 「春秋山水」(1901) 宮内庁
  「三井寺」(1894)
  「寒山拾得」(1896)
  「維摩居士」(1885) 茨城県立近代美術館
  「秋景山水」(1887) 愛知県美術館
  「牧童」(1885〜1889) 「闘牛」(1885〜1886) 「弁天(騎龍弁天)」(1886) ボストン美術館
  「蘇武」(1898) 下関市立美術館
  「谿間富嶽」(1899) 嘯月美術館
  「昇龍」(1900) 山崎美術館
  「龍虎」(1895) 静嘉堂文庫
  「毘沙門天」(1885) 「観音調停」(1885〜1889)フィラデルフィア美術館
  「乳狼吼月」(1898) 埼玉県立近代美術館
  「風神雷神」(1895) 広島県立美術館
  「林間残照」(1903) 駿府博物館
  「松林山水」(1892) 山種美術館

○ 長谷川潔(はせがわきよし)
      1891〜1980(明治24〜昭和55)
 第1時世界大戦の終結を待ちかね,パリへと旅立つ。以降日本に戻ることなくパリで活動を続けた。白く浮き上がってくる版画のマニエール・ノワールという技法で有名となる。墨刷りの木版画の美しさに通じる画風を追求し,白と黒の差を強調した画境を完成させた。葛飾北斎,藤田嗣治に次ぐ3人目の日本人として肖像を浮き彫りにしたメダルがフランスで鋳造された。89歳の誕生日を迎えてまもなくこの世を去る。
<主な作品及び資料>
「ヴォルクスの村」1930(昭和5年) 「農家と雲」1929(昭和4年) 「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」1930(昭和5年)
「ジャ・ド・ブッファン(ポール・セザンヌの家)」1940(昭和15年) 「ジゴンダ古村の礼拝堂」1938(昭和13年)
「木と月」1954(昭和29年) 「金魚鉢の中の小鳥」1927(昭和2年) 「飼馴らされた小鳥(草花と種子)」1962(昭和37年)
「ジロスコープのある静物」1956(昭和41年) 「薔薇と時」1961(昭和36年) 「窓辺の花瓶」1952(昭和27年)
「砂漠の薔薇と海の星」1964(昭和39年) 「小鳥と胡蝶」1961(昭和36年) 
(( すべて京都市国立近代美術館 ))

○ 長谷川等伯(はせがわとうはく)
      1539〜1610(天文8〜慶長15)
 33歳にして能登より上洛し,画業を磨くことを決心する。桃山時代に豪快な構図で明るく開放的な大画面を多く生み出した狩野派に対して,色と形のコーディネートは他派を寄せ付けない意匠力抜群の感性を備える。波乱に富んだ画境の中で生み出した「松林図屏風」は日本の水墨画が到達した不朽の名作として世に知られる。
<主な作品及び資料>
「松林図屏風」「瀟湘八景図屏風」「牧馬図屏風」東京国立博物館
「龍虎図屏風」1606 ボストン美術館
「竹林七賢図屏風」1607 両足院
「山水図襖」 1589 円徳院
「老松図襖」 金地院
「涅槃図」 1599 「日堯上人像」 1572 本法寺
「龍図天井画」1589 大徳寺
「利休居士像」 1595 不審庵
「恵比寿大黒・花鳥図」京都国立博物館
「十二天像 日天」 1564 正覚院(信春時代)
「枯木猿こう図」龍泉院
「楓図壁貼付」 1593 知積院
「山水図襖」 1599 隣華院
「商山四皓図襖」 1601 真珠庵

○ 長谷川俊行(はせがわとしゆき)

<主な作品及び資料>
  石橋美術館

 英 一蝶(はなぶさいっちょう)
     1652〜1724(承応元〜享保9)
 狩野派に学びながら浮世絵とは一線を画した独自の風俗画の世界を展開した。40から50歳にかけて12年間三宅島に流されるが,そこでも商魂たくましく画業を続けた。大赦を契機に名前を改め,独自の画系を築いた。73年の生涯を閉じる。
<主な作品及び資料>
「吉原風俗絵巻」 1703? 「田園風俗図屏風」サントリー美術館
「柿栗図」「不動尊に悪童の図」 大倉文化財団
「高雄・鞍馬図」 東京芸術大学
「見立四睡図」 茨城県立歴史館
「月次風俗図屏風」 ボストン美術館
「狙公・盃廻図」大手前女子大学
「七福神図」「虚空蔵菩薩像」・・・流人時代のもの
「龍燕図」京都国立博物館
「舞楽図屏風」「地蔵菩薩図」メトロポリタン美術館
「雨宿図屏風」「花鳥図」東京国立博物館
「朝妻舟自画賛」「一休和尚酔臥図」板橋区立美術館
「四季日待図巻」出光美術館
「布晒舞図」遠山記念館
「檜に蝉図」萩野美術館
「田園風俗図屏風」フリア美術館

○ 速見御舟(はやみぎょしゅう)
      1894〜1935(明治27〜昭和10)
 14歳で歴史画の松本楓湖に入門する。フェノロサや岡倉天心らが推し進めた日本画近代化という命題を自らの画業と重ね合わせ,さらなる可能性を模索,追求した。歴史画的画風から大観・春草の朦朧体を取り入れた文学的作風を経て,紫紅の大和絵風南画を継承発展させた新南画ともいわれる様式を確立した。徹底した客観写実によって,日本画表現の限界を探ることで,新しい可能性を見いだすことになる。
 また,興味のある対象は描かずにはいられないほど写生を行った。生涯を通して画風が変化し続ける御舟の生涯において,敬愛した今村紫紅の「何ものにも束縛されず,自由に,快活に事故の絵を描く」という言葉と,中島光村から受けた「絵というものは本当に見て,本当に工夫して描かなくちゃならぬ」という忠告の2つが生き続ける。古典の持つ様々な要素を様々な形で自分の作品に取り込むことで,現代における古典の意味を探った。宗教色の濃い,ある種の神秘感を伴った幻想的作風も生み出す。
<主な作品及び資料>
 「名樹散椿」1929(昭和4年)<重文> 「炎舞」1925(大正14年) 「紅梅白梅」1929(昭和4年) 山種美術館
 「小春」1910(明治43年) 桑山美術館
 「黄昏」1917(大正6年) 霊友会妙一記念館
 「京の舞妓」1920(大正9年) 東京国立博物館
 「池上小戯」1924(大正13年) 大西美術館
 「白日夢・野の花」1934(昭和9年) 敦井美術館
 「寒鳩寒雀」1927(昭和2年) 宮城県美術館
 「菊(写生帳)」1920(大正9年) 滋賀県立近代美術館
 「鍋島の皿に柘榴」1921(大正10年) 「晩蝉」1926(大正15年) 「白鷺紫閃」1934(昭和9年)

・ 平賀源内(ひらがげんない)
      1728〜1779
<主な作品及び資料>

○ 平山郁夫(ひらやまいくお)
      1930〜
<主な作品及び資料>
  朝日生命
  平山郁夫美術館

○ 東山魁夷(ひがしやまかいい)

<主な作品及び資料>
  長野県信濃美術館

○ 平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)

<主な作品及び資料>
  岡山県井原市田中美術館
  東京都小平市

・ 菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
      ? 〜1694
<主な作品及び資料>
  「見返り美人図」東京国立博物館

○ 菱田春草(ひしだしゅんそう)
      1874〜1911(明治7〜44)
東京美術学校第2期生として岡倉天心に学ぶ。本名は菱田三男治(みおじ)。寡黙で理知的な人柄からは想像できないような強い意志を持って制作に取り組んだ。日本美術院の創設に参加。写実描写に作家の主観を込め,新たな日本画の形を提示し,横山大観らとともに個性と主観に彩られた次代の日本画の道を切り開いた。37歳で死去。岡倉天心に「不熟の天才」と称された。描かれる花鳥画は外に向けての主張よりもむしろ内に向かう精神性の現れであり,そこには「音のない世界」を感じさせる。
<主な作品及び資料>
 「紫陽花」(1902) 足立美術館
 「雨後」(1908) 「月四題」(1910) 山種美術館
 「武蔵野」(1898) 富山県立近代美術館

 「サラスワッティ」(1903) 福岡市美術館
 「花あやめ」(1905) 「夜桜」(1904) 「夕の森」(1904) 飯田市立美術博物館
 「拈華微笑」(1897) 東京国立博物館
 「牧牛」(1893) 「羅浮仙」(1901) 長野県信濃美術館
 「寒林」(1898) 「月夜静波」(1907) 「曙色」(1907) 霊友会妙一記念館
 「六歌仙」(1899) 「落葉」(1909)<重文> 「黒き猫」(1910) 永青文庫
 「秋宵」(1905) 茨城県立近代美術館
 「雀に鴉」(1910) 「賢首菩薩」(1907) 「四季山水」(1910) 東京国立近代美術館
 「落葉」(1909) 福井県立美術館
 「落葉」(1909) 滋賀県立近代美術館
 「水鏡」(1897) 東京芸術大学

> ※ 朦朧体とは? <

○ 福田平八郎(ふくだへいはちろう)
      1892〜1974(明治25〜昭和49)
 18歳の時,大分から上洛。美術工芸学校からその上にある絵画専門学校へ進んだ。校内で高い評価を受けるが公募展には落選が続く。先輩の技巧や筆遣いを模倣することに長けていたが,逆にそれを忠告され,自然を客観的に見つめる方向へ進む。持ち前の技量と精緻な観察によって写実に徹した花鳥画を描いた。水を描くことへ執着し,様々な季節の水の姿を追求したりもした。また,1931年には釣りを覚え,釣りをしながら魚の生態や修正を観察し,釣れないときは写生帳を出して描いていた。日本のほとんどを釣り歩いたといわれる。自然を友とし,季節の中で光と戯れながら自分の境地を思う存分楽しんだ。年を重ねるごとに装飾性,意匠性の強い画面構成を行っている。彼の手法は新しい様式と洋画を結ぶのではなく,美しいと感じたものを無垢の色彩感覚を持って,感覚的にとらえ,自らの作風の中に凝縮させていった。
 <主な作品及び資料>
 「鮎」1952(昭和27年) 「綿羊」1918(大正7年) 「海魚」1963(昭和38年) 大分県立芸術会館
 「青柿」1938(昭和13年) 京都市美術館
 「花菖蒲」1934(昭和9年) 京都国立近代美術館
 「鯉」1921(大正10年) 宮内庁
 「雨」1953(昭和28年) 東京国立近代美術館
 「筍」1947(昭和22年) 「彩秋」1943(昭和18年) 山種美術館
 「鯉」1954(昭和29年) 平木浮世絵財団
 「鸚哥」1964(昭和39年) 名都美術館
 「漣」1932(昭和7年) 「鮎」1935(昭和10年) 「竹」1940(昭和15年) 「新雪」1948(昭和23年) 「水」1958(昭和33年)

> ※ 六潮会とは <
 1930(昭和5年)に日本画壇と洋画壇で活躍していた6人の実力者によって構成された。洋画からは牧野虎雄,木村荘八,中川紀元。日本画からは中村岳陵,山口蓬春,そして平八郎である。それに評論家の外狩素心庵,横川殻一郎も加わった研究団体である。1928(昭和3年)に中外商業新聞の記者であった外狩素心庵のよびかけでできた木村,中川,横川,外狩の4人による画事放談の蛙声会(あせいかい)がその母胎となっている。それぞれが異なる立場であるにもかかわらず,非常に仲がよく,合評会を開いて親睦をはかると共に展覧会も開催した。自らが楽しみ,他も楽しませようとする遊びの気分が漂った悠々とした芸術家の集まりだった。互いに接触することによって時代に対する認識を生み出し,また「現在と作家の生活態度」や「時代に対する芸術の表現形式」のように課題を設定して誌上座談会を行うこともあった。

・ 藤田嗣治(ふじたつぐはる)
<主な作品及び資料>
  平野政吉美術館

○ 藤島武二(ふじしまたけじ)
      1867〜1943(慶応3〜昭和18)
 近代日本の中でもっとも正当派な画家と賞される。明治ロマン主義の時代の中でヨーロッパへの留学を果たし,独自の世界を描くための油絵の技法を身につけた。晩年の風景画は大胆なタッチと華麗な色彩で描かれ,日本における洋画の典型的な形と言われる。50年の画業の中で一貫するものは装飾画の追求というテーマだった。
<主な作品及び資料>
  石橋美術館(詳細情報あり)
 
「屋島よりの遠望」(1932)石橋財団ブリヂストン美術館(※屋島山上から女木島の方角を描いたもの)
 「うつつ」(1913) 「港の朝陽」(1934) 「上海黄浦江」(1941) 「静」(1916) 東京国立近代美術館
 「紀州潮岬(花蔭亭壁画)」(1931) 「旭日照六合」(1937) 宮内庁
 「池畔納涼」(1897) 「ヴィラ・デステの池」(1908) 「ヨット」(1908) 東京芸術大学
 「桜狩(習作)」(1892) 鹿児島市立美術館
 「音楽六題」(1905) ひろしま美術館
 「耕到天」(1938) 「西洋婦人像」(1907) メナード美術館
 「裸婦」(1920) 加藤近代美術館

・ 藤原隆信(ふじわらたかのぶ)
      1142〜1205
<主な作品及び資料>

・ 藤原敏行(ふじわらのとしゆき)
      ? 〜901
<主な作品及び資料>

・ 古田織部(ふるたおりべ)
      1544〜1615
<主な作品及び資料>

・ 百武兼行(石橋美術館へ)

 

○ 前田青邨(まえだせいそん)
      1885〜1977(明治18〜昭和52)
 梶田半古の塾長,小林古径から多くの影響を受け,若干17才でデビューを果たし,青邨の画号を得る。歴史画を得意とし,古典や歴史の知識をも吸収していった。写生に基づく風景が増え,大胆奇抜な構図に墨のにじみを生かす作品を多く残した。西洋画に惹かれる思いは1922年の欧州旅行で,東洋の線の美を再確認して帰ってきた。セザンヌに傾倒し,92才で生涯を閉じるまでスケッチ用の筆を手放さなかったという。
<主な作品及び資料>
 「朝鮮之巻」1915(大正4年) 「竹取」1911(明治44年) 「維盛高野之巻」1918(大正7年) 東京国立博物館
 「花売」1924(大正13年) 「先斗町・清水寺(京名所八題)」1916(大正5年) 東京国立博物館
 「観画」1936(昭和11年) 京都市美術館
 「ラ・プランセス」1957(昭和32年)) 岐阜県美術館
 「おぼこ」1944(昭和19年) 「石棺」1962(昭和37年) 「Y氏像」1951(昭和26年) 東京国立近代美術館
 「赤い壁 天檀(中国三部作)」
 「腑分」1970(昭和45年) 山種美術館
 「お水取 」1959(昭和34年) 平木浮世絵財団
 「阿修羅」1940(昭和15年) 東京芸術大学
 「知盛幻生」1971(昭和46年) 「風神雷神」1949(昭和24年)
 「細川ガラシア夫人像」1974(昭和49年) ヴァチカン美術館
 「唐獅子」1935(昭和10年) 宮内庁
 「洞窟の頼朝」1929(昭和4年) 大倉文化財団

○ 松本楓湖(まつもとふうこ)

○ 円山応挙(まるやまおうきょ)
      1733〜1795(享保18〜寛政7)
 伝統をふまえつつ写生を重視し,新しい絵画を確立する。
<主な作品及び資料>
  「瀑布図床貼付」(1794)金刀比羅宮博物館
  「昆虫写生帖」(1776) 「禽虫之図」東京国立博物館
  「山水図襖」(1765) 園城寺法明院
  「雪松図屏風」 「郭子儀祝賀図」(1775) 三井文庫
  「藤花図屏風」(1776) 根津美術館
  「牡丹孔雀図」(1776) 宮内庁
  「双鶏図」(1776) 八坂神社
  「江口君図」(1794) 静嘉堂文庫
  「雨竹風竹図屏風」(1776) 円光寺
  「百蝶図」(1775) 水府明徳会徳川博物館
  「双鶴図」(1765) 八雲本陣記念財団
  「波濤図」 金剛寺

○ 三岸好太郎(みぎしこうたろう)
<主な作品及び資料>
  北海道立三岸好太郎美術館

・ 棟方志功(むなかたしこう)
      1903〜1975(明治36〜昭和50)
<主な作品及び資料>

○ 村上華岳(むらかみかがく)
      1888〜1939(明治21〜昭和14)
 本名は武田震一。京都市立美術工芸学校で四条派を学び,写生を基本とする教育を受けた。官能的なものと精神的なものをいかに調和させるかと言ったことに力を注いだ。みずみずしい感性や慈母の柔和で穏やかなまなざしを思わせる豊かな情感を,よけいなものをそぎ落とすことによって表現しようと試みた。
<主な作品及び資料>
 「裸婦図」1920(大正9年) 山種美術館
 「二月乃頃」1911(明治44年) 京都市立芸術大学芸術資料館
 「夜桜之図」1913(大正2年)京都国立近代美術館
 「阿弥陀之図」1916(大正5年) 京都市美術館
 「日高河清姫図」1919(大正8年) 東京国立近代美術館
 「牡丹之図」1937(昭和12年) メナード美術館
 「太子樹下禅那之図」1937(昭和12年) 「巒峯茂松」1939(昭和14年) 何必館 京都現代美術館
 「小巒旦雪図」1932(昭和7年) 「秋柳図」1937(昭和12年) 「観世音菩薩 半身尊像」1936(昭和11年)
 「紅焔不動」1939(昭和14年) 「黒牡丹之図」1932(昭和7年) 「釈尊 叢林中禅思之図」1937(昭和12年) 「杉の山」1939(昭和14年)

・ 山本 鼎(やまもとかなえ)
      1882〜1946
<主な作品及び資料>

○ 安井曾太郎(やすいそうたろう)
       1888〜1955(明治21〜昭和30)
 浅井忠に師事する。フランス留学し,厳格なデッサンで有名なジャン=ポール・ローランスに教わり,柔らかく繊細な表現を身につける。昭和前期に安井・梅原時代と呼ばれる一時期を画し,ミレーやピサロ,セザンヌなどを参照して,近代的な直感的リアリズム絵画を生み出した。戦後はアメリカの抽象美術が勢力を伸ばす中,具象絵画の大御所としての存在感は大きかった。「写実とは実在のものを絵画的に表現することである」といい,厳密なデッサンの上に鑑賞者と作者の視覚を共有できるような構成を行った。
<主な作品及び資料>
 
「林檎」 1943 出光美術館
 「焼岳」 1941「自画像」 1906 東京国立博物館
 「秋の城山」 1955 「金蓉」 1934 東京国立近代美術館
 「婦人像」 1930 「桃」 1950  「黄色い瓶」 1912 京都国立近代美術館 
 「婦人立像」(デッサン)1907頃 東京芸術大学
 「孔雀と女」 1914 「樹蔭」 1919 「初夏」 1927 「桐の花咲く庭」 1927
 「霞沢岳」 1938頃 「立像」 1952 「ポーズせるモデル」 1931 「薔薇」 1931 「桔梗図」 1945
 「秋の奥入瀬」 1936 「初秋の明神岳」 1939 「裏磐梯の初秋」 1935 「鵜原風景」 1935
 「深井英五氏像」 1937 「福島慶子氏像」 1939 「黒卓の桃」 1952
 「外房風景」 1931 「画室にて」 1951 大原美術館
 「承徳の喇嘛(ラマ)廟」 1937 永青文庫
 「レモンとメロン」 1955 「玉蟲先生像」 1934 「薔薇」 1932 石橋財団ブリヂストン美術館
 「玉蟲先生像」 1934 東北大学記念資料室
 「文藝春秋(表紙)」 1947.9 1952.3 1951.6 文藝春秋
 「婦人之友(表紙)」 1931.5 婦人之友社
 「薔薇」 1934 メナード美術館
 「画室」 1926 ひろしま美術館

○ 安田靫彦(やすだゆきひこ)
       1884〜1978(明治17〜昭和53)
 幼い頃から役者絵や武者絵の好きでだった少年は,小堀鞆音に師事し,若干14歳で研究団体の紫紅会を結成し,歴史画の分野にも写生を重視したドラマを描こうと試みた。日本画の近代化をめざして横山大観や,菱田春草らの活動を継承して歴史画の分野を切り開いた。昭和初期には新古典主義様式を完成させ,その高い理想とみずみずしさは生涯にわたって発揮され続けた。
<主な作品及び資料>
 
「飛鳥の春の額田王」1964 「西廂待月(せいそうたいげつ)」1926(大正15年) 「卑弥呼」1968(昭和43年) 滋賀県立近代美術館
 「伏見茶亭」1956 「日食」1925(大正14年) 鴻門会1955(昭和30年) 「黄瀬川陣」1940(昭和15年)東京国立近代美術館
 「夢殿」1912(大正元年) 「項羽」1916(大正5年) 東京国立博物館
 「御夢」1918(大正7年) 「御産の祈」1914(大正3年) 「二少女」1922(大正11年)東京国立博物館
 「孫子勒姫兵」1938(昭和13年)霊友会妙一記念館
 「大観先生像」1959(昭和34年)東京国立近代美術館
 「朝顔」1931(昭和6年) 「花づと」1937(昭和12年) 「大伴家持」1947(昭和22年) 「斎宮女御」1950(昭和25年)
 「花の酔」1910(明治43年)頃 宮城県美術館
 「赤星母堂像」1943(昭和18年) 平塚市美術館
 「山本元帥像」1944(昭和19年) 東京芸術大学

○ 横山大観(よこやま たいかん)
       1868〜1958(明治元年〜昭和33年)
 水戸に生まれる。東京美術学校の第1回卒業生。日本絵画の近代化を果たした役割は大きい。1937年に第1回文化勲章を受章した。89歳で死去。
<主な作品及び資料>
 野の花(1936)永青文庫(東京)
 流灯(1909)茨城県近代美術館
 楚水の巻(1910) 山路(1911) 富士山(1933) 夏の海(1952) 山種美術館(東京)
 
瀟湘八景(1912) 松並木(1913) 游刃有余地(1914) 竹雨図(1915) 五浦の月図(1935) 東京国立博物館
 生々流転(1923) 或る日の太平洋(1952) 東京国立近代美術館
 春光る(1946)ひろしま美術館
 屈原(1898)厳島神社(広島)
 老子(1921)熊本県立美術館
 夜桜(1929)大倉文化財団
 雨声(1915) 紅葉(1931) 足立美術館(東京)
 海山十題 波騒ぐ(1940)霊友会妙一記念館
 霊峰飛鶴(1953)横山大観記念館

○ 横山 操(よこやまみさお)
      1920〜1973(大正9年〜昭和48年)
 戦後の日本画における風雲児と呼ばれる。はじめ西洋画を学び,師の勧めで日本画に転向,川端画学校日本画部に入学した。二十歳の時に第12回青龍展に入選するが軍隊に召集され,戦後しばらくはシベリアに抑留されていた。30才になり,制作を再開する。力強い奔放な筆は輪郭線を多用したり,抽象的な形態を見せる時期を通り過ぎ,深遠な水墨画の世界へたどり着く。71年に脳卒中で倒れ右半身不随となったが,左手で描く練習を積み,その秋から再開するも73年再び倒れて53才の生涯を閉じた。
<主な作品及び資料>
 「炎々桜島」1956(昭和31年) 「十勝岳」1962(昭和37年) 新潟県美術博物館
 「ウォール街」1962(昭和37年) 東京国立近代美術館
 「雪原」1963(昭和38年) 佐久市立近代美術館
 「瀟湘八景 烟寺晩鐘」1963(昭和38年) 三重県立美術館
 「越路十景 出雲崎晩鐘」1968(昭和43年) 「海」1963(昭和38年) 山種美術館
 「溶鉱炉」1956(昭和31年) 福岡市美術館
 「高速4号線」1964(昭和39年) 「朔原」1959(昭和34年) 新潟県美術博物館
 「闇迫る」1958(昭和33年)福島県立美術館 
 「茜」1973(昭和48年) 

○ 与謝蕪村(よさぶそん)
      1716〜1783(享保元年〜天明3)
 詩画ともに卓絶した技術を持つ。日本人の親しみやすい山水画を描き,俳諧的な機知を軽妙な描写に込めて俳画の質を高め,そしてこの二つの融合により独特の水墨画による傑作を生みだした。(讃岐の国へ1766の秋に渡ってきている。金刀比羅や高松にきた記録が残っている。)
<主な作品及び資料>
  「蘇鉄図屏風」妙法寺
  「新緑杜鵑図」平木浮世絵財団
  「渓山幽居図」(1758)東京国立博物館
  「山水図屏風」(1763) 「寒林孤鹿図」(1779) 出光美術館
  「倣王蒙山水図屏風」(1760) 「倣銭貢山水図」 「山水図屏風」(1764) 京都国立博物館
  「十便十宜図」(宜雨)(宜秋)(1771)川端康成記念会
  「奥の細道図屏風」(1779) 山形美術館(主な収蔵作品にあり)
  「鳶・鴉図」 北村美術館
  「峨嵋露頂(がびろちょう)図巻」 「夜色楼台図」

 

○ 渡辺華山(わたなべかざん)
      1793〜1841(寛政5〜天保12)
 武士であったが,貧困から逃れるために儒教者を志すものの当面の生活にも困り,画家になることを目指す。金子金陵や江戸南画の谷文晁(たにぶんちょう)のもとで浮世絵や洋風画などへも研鑽を積む一方で,滝沢馬琴や,椿椿山などの友人を得た。この時期,藩政にも深く関わることになり,新しい俸禄体制や農政改革を行うことになる。公務が激務であったにもかかわらず古画の練習や写生を行い,洋風表現に取り組んだ。洞察力に優れ,正面的な描写にとどまらず,その個人の内面まで描いた作品が多い。蛮社の獄により捕らえられ,出獄した後様々な形で追いつめられて自刃した。幕藩体制が揺らぎ,鎖国化の日本は危機に直面していたまさにその時期,49歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。
<主な作品及び資料>
     「毛武遊記図」(1831)常葉美術館
     「退役願書稿」 「遺書 自筆墓表」 「牢中縮図」 「渡辺立宛遺書」 「一掃百態」 田原町
     「高野長英像」高野長英記念館
     「佐藤一斎像」 「鷹見泉石像」 東京国立博物館
     「市河米庵像」京都国立博物館
     「三十六歌仙図」浜松市美術館
     「校書図」 「海錯図」 「月下鳴機図」 「」静嘉堂文庫美術館
     「渓澗野雉図」山形美術館(主な収蔵作品にあり)

文責 ; オルシアスファクトリー


★< この項目の制作に活用した参考資料 >★

○ 「日本美術史」 監修 - 辻惟雄   美術出版社
○ 「まんが日本美術史」全3巻  美術出版社
○ 「週刊アーティストジャパン」 同朋舎出版
○ 日本美術館          小学館