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【幕間一】伊豆の夕日 ―― 北条義時少年期 ◇◆◇◆◇ 「なあ、小四郎。日がいつも東から昇るように、この東国から変革が始まる。楽しみだと、思わないか」 ずいぶんと昔の話である。 夕暮れの伊豆の海を望みながら、兄の北条三郎宗時が快活な笑顔を浮かべこう言った。 それは佐殿旗揚げの前の話で、確か自分が元服を迎えて一年経つか経たぬかの頃だったと、小四郎 ―― 北条小四郎義時は記憶している。 (註:佐殿→伊豆時代までの頼朝の呼称) 自分の姉が源家の嫡男に嫁いだという事実が、伊豆豪族の北条にとってどんな意味を持つかを小四郎とてもちろん理解していたつもりだ。しかし、いかんせん今の平家優勢の世で佐殿の立場は一介の流罪人を超えぬ。 そもそも父の時政すら大反対していたこの婚姻を、三郎は政子の駆け落ちを手伝うという形で推し進めたのだが、そこまで佐殿に肩入れする兄と同じように、真っ直ぐに疑いもせず「楽しみだ」と言い切ってしまえるかといえば否である。 ただ、もう随分前になるが小四郎達の母が他界した後。京よりやってきた父の後妻と、北条の兄弟姉妹達とは同腹異腹交えてことごとく折り合いが悪く、いつのまにか長女である政子が幼い妹や弟の母親代わりとなっていた。結果、彼女は地方豪族とはいえそれなりに名のある北条家の姫君というにはいささか 薹(とう)が立ち ―― 早い話が嫁き遅れてしまっていたという事情がある。 小四郎は既に母やら姉やらに甘えるほどの年齢でもなかったが、日々の些事においては意図せずして彼女を母代わりにしてしまっていた部分もあった。 そんな負い目もあるから、少しばかり遅くやってきた姉の幸せを純粋に祝福する気持ちは十二分に存在していた。 存在していたのだが、言い換えればそれだけであり、やはり姉の伴侶となった佐殿自身に対して特にどうという期待を抱いてはいなかったのだ。 だから、あの日。 もともと口が達者なほうでもない小四郎は、兄の問いかけに曖昧に笑うばかりで返事をしそびれた。 それでも、少年だった小四郎は思ったのだ。 北条の家督はこの三郎兄が継ぐ。次男坊の自分は、それを補佐し、支え、助けてゆけばよいのだと。 この大好きな兄が、いつか佐殿の右腕となって東国の武士をまとめる日が来るのなら、それは、確かに楽しみなことかもしれない、と。 兄に倣って目を向けた伊豆の海は、波の頭に落ちかけた日の光の名残がきらきらとして、深く優しかった。 ◇◆◇◆◇ しかし、兄の三郎は彼の望んだ東国からの日の出を見ることなく逝った。海を望んで語った日の数年の後、治承四年。旗揚げ最初の戦いの石橋山で、彼は死んだのである。 小四郎は、そのとき十八だった。 三郎も、小四郎も、物心ついたときから武士(もののふ)であれ、と言われて育った。 己で糧を育てる百姓ともそれに寄生する貴族とも異なり、具足を纏い太刀を持ち、土地や主を守るために戦ってはじめて武士は武士の意味を持ち、糧をも得ることができるのだと。そしてその生き方こそを誇りに思えと、そう教えられてきたのだ。 それが正しいことかどうかを、小四郎は知らぬ。知らぬまま、諾々と従っていた。しかし兄が死んで、小四郎の意思や感情は置き去りのまま周囲は彼に兄の変わりに惣領たることを強いた。この時、最初の何かが彼の中で蠢いたのかもしれない。 兄の死を悼むことを彼は許されず、戦があればそれで身内が死ぬのは当たり前のこと、そのためにお前のように兄弟が沢山いるのだ。だから惜しむな、悼むな、誇りに思え、誇りに思って恥じぬよう惣領を継げ、そう言われた。 言われたから常と変わらぬ落ち着いた態度で、惣領たらんと心がければ、今度は妹やら義母やらが彼を薄情だと嘆いた。 徐々に彼は、楽しさも悲しさも、表情に出すことを躊躇うようになり、なるべく感情を表に出さぬよう心がけるようになった。 傍からは飄々として無感動と見えることは承知していたが、それ以外に彼は己の身の処しようを思いつかなかったのだ。 もっともそれすらも父親の時政には気に食わなかったらしく、惜しむなと言った張本人でありながら、小四郎には三郎のような颯爽とした気概が乏しい、三郎が生きていたなら、などと言いはじめる。 生きていたならと思うのは、小四郎とて同じである。むしろ死んだのが自分であれば良かったものをとすら思っているのに。 実際彼は、自分であればよかたと、幾度となく考えた。 考えて無駄であることを承知していても、思わずにはいられなかった。 石橋山には小四郎も参陣している。平家側の攻撃は激しく、旗揚げはそもそも無謀であったのではと思ってしまうような戦いであった。 最後は多勢に無勢の窮地に追い込まれた末に、二手に分かれるのが得策と、一方は自分と父の時政とその他数名、一方は兄の三郎とその他数名の手勢とに別れた。 あの時それぞれの手勢に北条の血を引くものを交えて別れたのは、片方の手勢が全滅しても、もう片方が残れば血が絶えることはないという算段ゆえだった。 戦場ではごく当たり前にされていることであり、別段、父が冷酷なわけでもない。 ただ、己と兄が反対の手勢に振り分けられていれば、という悔恨を捨てられるわけもなかった。そして、三郎が生きていたなら、と零す父も振り分けを逆にしていれば良かったと後悔しているのだろうと思った。もちろん、父と兄が死に、小四郎だけが生き残るという目も当てられない結果になる可能性を思えば、やはりあの振り分けが妥当であったのは承知の上なのであるが。 ―― いずれにしろ後からうじうじと愚もつかぬ。結局惜しむのであればはじめから、武士であれなどと言わなければいいではないか。誇りに思えなどと言わなければいいではないか。死んでは誇っても何にもならぬ。誇りに命は代えられぬ。武士でなければ、兄上が死ぬることはなかったものを。 そう小四郎は思ったが、彼は父の矛盾を追及する気にならなかった。 もっと気にすべきであろうものが、まったく別の場所に存在していたからだ。姉の、政子のことである。 実を言えば、彼女に取り付いている人ならぬものの存在を、小四郎も三郎も知ってはいた。しかし、それが彼女の表層に出てくることはほとんどなく、一度だけ、佐殿の元へ駆け落ちた際に人知を超えた業を使ったのだと人伝に聞いたのみである。 ところが石橋山の戦のあと、彼女の人格の変貌に、彼は気づいた。 きっかけは、兄の死を報告した時のことである。三郎の訃報を、眉一つ動かさず聞いた姉に違和感を持ったのだ。 他家に嫁いだ女であれば、既に実家の兄よりも夫の安否が優先されて然るべきかも知れぬ。実際あの時点で佐殿の安否は不明なはずであったし、そのあたりの女心というものを青二才の小四郎が察せられるわけもなかった。 しかし、仲の良い、兄弟姉妹であったのだ。自分達は。 さめざめと泣く妹達に囲まれて、毅然と言うには妙に無関心、いや、ばかばかしさを耐えているようにすら見える長女の姿は、あまりに異質だった。 それともはたから見れば、感情を表に出せぬ己も同じように見えているのだろうか。 姉は北条の長女として、源家棟梁の正室として、ただ厳しく己を律しているだけなのだろうか。 疑問は解けぬままに暫くが過ぎた頃、石橋山の戦いで人ならぬ化け物が敵兵を喰らった、いや味方もだ、と。真偽のわからぬ風聞が立ち始めた。 次いで正式に梶原景時が参軍すると、石橋山の化け物は、あの時平家から寝返った彼の操る陰陽の術だったのだという噂がまことしやかに流れ、当の景時が一切子細を語らぬのを良いことに、噂はひそやかでありながら事実のように語られるようになった。 が、小四郎がもっと別の可能性が存在することに、気付かずにいられるはずもない。 ひどく、嫌な予感がした。 やっかみを含んでいるとはいえ、不名誉とも言える噂を立てられているはずの景時が、何故一切の弁明を口にしないのか。その真意はわからなかったが、小四郎には小四郎なりに、真実を確かめる必要性を感じるようになった。 表向きの人当たりの良さとは裏腹に、底にあるものを容易には見せようとしない景時という男。彼に聞いたところで、まっとうな返事が聞けるとも思えなかったから、小四郎は当事者と思しき存在に狙いを定める。 後から思えば無謀とも言える行為だったかもしれない。 ただ、『それ』の本性を暴けるなら、自分ひとりの命など安いものだと、その時は思えた。 『姉上は、どこですか』 彼女が一人でいるときを見計らい、はたから聞けば不可解なことを問うた小四郎に、姉の姿をした別のモノは驚きもせずにまりと嗤った。 『眠っておりますのよ、この中で』 そう言って、悪びれず己の胸を掌で叩く。 『呼んでください。できるのでしょう』 『きっと無駄ですわ。彼女は自分で逃げてしまったのですもの』 楽しいことを話すかのように、やんわりと笑う異国の神。彼は神経を逆撫でされたが、どうにか落ち着きを失わずに次の言葉を続けた。 『逃げた?何故』 『罪の意識に耐えかねて。可哀相ね。うふふ』 『 ―― どのような、罪ですか』 自分で声が震えているのがわかった。恐ろしかったわけではなく、脳裏に浮かんだ考えが、あまりにおぞましかったからだ。 『まあ、嫌だ。わたくし、お喋りが過ぎましたわね。きっと、知らぬほうが良いことも世の中には沢山ありましてよ、あなたは兄想いだったから。ね、小四郎?』 ねちっこい声で呼ばれた己の名に、背筋が凍る。やはり恐怖ではない。怒りにも似た、感情のざわめきだった。 『景時あたりなら面白い話を知っているかもしれませんわね。まあ、あの男が口を割るとは思えないけれど』 ふふふ、という含み笑いを残し彼女はその場を去る。 小四郎は、ただ立ち尽くし、その後姿を見送ることさえできなかった。 ―― 知らぬほうが良いこと 彼は兄の死にざまを詳しくは知らなかった。ただ討ち死にしたと、聞かされていた。だがそれを信じ続けることは、もうできようがない。 兄上は、喰われたのだ。あの、異国の邪神に。 その結論に達した時、彼は何より先に、兄の誇りが汚されたと思った。 思ってしまってから、彼は嗤う。くつくつと、声を出して己を嘲笑う。 誇りに命は代えられぬなどと思いながら、結局自分は兄の死にざまに、幻想を抱いていたことになる。 敵と刃を交えて猛々しく武士として死んだなら、幾ばくかは己の心が救われていたということになる。 化け物に喰われて無残に死のうが、戦で敵に首を討たれようが、死は同じ死だ。残された側とすれば同じであるはずだった。 なのにこれほどまでに、そして今更に。己の内から湧き上がり黒く蠢くものが存在するという事実がどうしようもなく滑稽に思えたのだ。 彼は狂ったように笑い続けた。その笑いがついにぴたりと止まった時、すうと、波が引くように表情が消える。 残ったものは、後に多くの人から『何を考えているのか判じかねる』そう言われることになった、北条家惣領の無表情な顔であった。 ―― 見届けてみせる。かつて兄が楽しみだといった、佐殿の作る新しい国。武士による国家というものが、果たしてこの代償に見合うものであるのかを。 こうして小四郎は。 優しかった兄と、少々気が強いが面倒見の良かった母代わりの姉と。 それなりに純真であった少年期の己とに、静に別れを告げた。 ◇ 幕間二へ ◇ ◇◆◇◆◇ 2007/05/17 |
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