ハ短調ミサ曲

大阪モーツァルトアンサンブル 代表 武本浩


 1782年8月4日、ヴィーン・聖シュテファン大聖堂において、「高貴な生まれにして独身の楽長ヴォルフガング・モーツァルト氏を花婿とし、高貴な生まれにして帝室王室楽団員であったフリードリーン・ヴェーバーとその存命する配偶者、高貴な生まれのチェチーリア・ヴェーベリンとの間の嫡出の若年の娘、高貴なる生まれの処女コンスタンティア・ヴェーベリンを花嫁として、下記の依頼人の同席の下で」結婚契約が同意され、締結されました。しかしながら、この結婚契約書中の「下記の依頼人」には、ザルツブルクに住む父レーオポルトの名はありませんでした。

 8月7日に父に宛てた手紙で、父の同意が得られないまま、コンスタンツェと結婚したことを報告し、この時にコンスタンツェとザルツブルクへ旅する計画を打ち明け、「お父さんが彼女のことを知るようになれば---ぼくの仕合わせをきっと喜んでくれるにちがいありません」と記しています。

 それから5ヶ月後、1783年1月4日父へ宛てた手紙で、時間がなかったり、状況が悪かったりで新妻を紹介するためのザルツブルクへの旅行はまだできないが、「ミサ曲の半分の楽譜は、ぼくが本当に(結婚を)誓約したまぎれもない証拠であり、完成を待っていまここにあります。」と伝えます。その後、6月17日長男ライムント・レーオポルトが誕生し、新生児を保母に預けて、夫妻は7月25日ヴィーンを出発し28日にはザルツブルクに到着しました。10月26日に聖ペテロ教会で、「奉納ミサ」のために作曲したハ短調ミサを初演し、翌27日にザルツブルクを後にしました。

 

 ハ短調ミサの「クリステ・エレイソン」や「エト・インカルナートゥス・エスト」に見られる美しいソプラノソロ、「ラウダムス・テ」に見られるコロラトゥーラの華やかなソロ、これらは、モーツァルトにより新妻コンスタンツェのために作曲され、初演の折りにコンスタンツェによって歌われたと考えられています。今から3年前、私が高橋英郎先生のお宅をお伺いした際に、「ハ短調ミサのソプラノのソロをコンスタンツェが歌ったことは事実だけれど、第一ソプラノではなく第二だったのではないか」との先生のご指摘は、これまでコンスタンツェが第一ソプラノを歌ったと信じて疑わなかった私にとって、ショッキングな話でした。確かに先生のご指摘のように、コンスタンツェがハ短調ミサのソロが歌える位のヴィルトゥオーゾであれば、モーツァルトはソプラノ歌手として名高かった姉のアロイジアに対してそうであったように、妹のコンスタンツェに対しても多くの歌曲を残したであろうし、コンスタンツェの第二の夫となったニッセンが著したモーツァルトの伝記にもコンスタンツェの声楽や音楽の才能についての記述があってもおかしくない。にもかかわらず、モーツァルトがコンスタンツェに捧げた曲は未完成のアリア一曲と、3つの練習曲を数えるのみなのです。そして、残された資料などをじっくり考えていくと、「歌ったのはキリエのソロだけだったのでは?」とまで思うようになりました。そこで、このことについて、この紙面をお借りして少し述べさせていただこうかと思います。

 

 ハ短調ミサに関する資料については、以下のものがあげられます。

1)モーツァルトの手紙

2)モーツァルトが遺した、未完の自筆譜

3)初演の時のオルガンのパート譜と3つのトロンボーンのパート譜

4)マリア・アンナの日記

5)ヴィンセント・ノヴェロの日記

6)コンスタンツェのためのソルフェッジョ

 

 前述しましたとおり、モーツァルトが1783年1月4日に父に宛てた手紙から、このミサ曲が、コンスタンツェとの「結婚の誓約をしたまぎれもない証拠として」作曲が始められたことが明らかになっています。しかしながら、現存する自筆譜などから、キリエ、グローリアは完成されているものの、サンクトゥスとベネディクトゥスは未完成のまま、クレドは途中まで、アニュスデイは作曲されなかったことがわかっています。モーツァルトは1783年夏、21才のコンスタンツェと共に、未完成のミサ曲を携えて、ザルツブルクへ帰郷することになりましたが、結局この曲は完成することなく、不完全なままザルツブルク滞在最後の日曜日(10月26日)のミサで演奏されました。このときに使用されたパート譜が残っていますが、構成は、キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみとなっています。このときの模様を姉マリア・アンナが日記で次のように伝えています。

 

 「23日。8時にミサ。聖歌隊員養成所で、弟のミサ曲の練習。このミサ曲で義妹がソロを歌う。」

 「26日。聖ペテロ教会でミサ聖祭。弟が自分のミサをあげた。宮廷楽団員がみんな参加した。」

 

 さらに、1829年ヴィンセント・ノヴェロが、67才になったコンスタンツェを訪ねて、インタビューをした時の内容が、彼の日記に残されています。

 「『悔悟するダビデ』は元来大ミサ曲で、夫婦の最初の子供のお産で妻が元気に回復したら作曲しますという誓約を果たすために書いたものだった。このミサはザルツブルク大聖堂で演奏され、モーツァルト夫人が主要なソロを全部歌った。モーツァルトはこの作曲がひどく気に入ったので、後にいくつか追加し、別の歌詞をつけて完全なカンタータにした。」

 

 モーツァルトの熱烈な崇拝者であったヴィンセント・ノヴェロの記述には、史実と異なっていることも多く、美化され過ぎていて、信憑性に乏しいとも言われています。コンスタンツェへのインタビューも、50年前にもなろうかという遠い昔のことですから、作曲に至った経緯や、演奏した場所を間違うなどコンスタンツェ自身の記憶が怪しくなっているのもやむを得ないことでしょう。また、モーツァルトが亡くなってから、既に40年近くが経過し、モーツァルト未亡人が天才に関する思い出を、意識せずに美化してしまうこともありえましょう。しかし、この記述がこのミサ曲についての唯一コンスタンツェの生の声であることは事実です。10月23日のリハーサルではなく26日の本番にコンスタンツェがソロを歌ったとはマリア・アンナの日記に記載されていないのですが、これらの証拠からコンスタンツェが、聖ペテロ教会でのミサ聖祭でソロを歌ったのは、ほぼまちがいないでしょう。それでは不完全にしか残されていないハ短調ミサはどのような形で演奏されたのでしょうか。

 まず、幸運にも現存する初演時のパート譜などから見て、キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみモーツァルトの作曲したものが演奏され、そのほかはグレゴリアンが歌われたと考えるのが自然だと思われます。アロイス・シュミットが試みたようなモーツァルトの他のミサ曲からの転用は、作曲様式から考えても不自然で、もともと作曲されない典文はグレゴリアンで歌われるのが習慣だからです。

 次に、教会付属のオーケストラとコーラスの規模は、ザルツブルク大聖堂でさえ、通常のミサには、6〜8名の男声の聖歌隊とヴァイオリン3、ヴィオラ1、コントラバス1、トロンボーン3とオルガンで演奏されていたとの記録がありますから、このような8声の二重コーラスを必要とする大ミサ曲を演奏するには、マリア・アンナが言うように「宮廷楽団員がみんな参加」してもらう必要があったのです。宮廷楽団の規模は、1757年の資料によると、器楽奏者は、ヴァイオリン8、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス2、ファゴット4(うち2名はオーボエ兼任)、オーボエ3(フルート兼任)、ホルン2、トランペット10、ティンパニ2、オルガン(ハープシコード)3。歌手は、8名のソリスト(カストラート3を含む)、21名の男声合唱(アルト3、テナー9、バス9)、8名の聖歌隊、15名の少年聖歌隊。そして合唱団付属のトロンボーン3。楽団員全てが男性でした。

 さて、ハ短調ミサには「ドミネ・デウス」のように二人のソプラノのソリストが歌うところがあります。ここで疑問になりますのは、一つのパートをコンスタンツェが歌ったとして、もう一つのパートは誰が歌ったのだろうか、ということです。フランシス・カーは、当時レオポルトの弟子で歌のレッスンを受けるためにモーツァルト家に同居していた、マルガレーテ・マルシャンが担当したとしています。しかし、マリア・アンナは日記で「このミサ曲で義妹とマルガレーテがソロを歌う。」とは書いていません。マリア・アンナの日記には、ほぼ毎日ミサのことが書かれていますが、誰それがソロを歌ったと言う記述はここだけです。毎日のミサでは、いつも聖歌隊あるいはカストラートのソリストが歌っているのですが、その日のミサはゲストが歌ったということで、いつもとは異なる特別な出来事だったと思われます。もし、マルガレーテと一緒に歌ったのなら、マルガレーテのことも日記に書かれていてもよさそうに思うのです。海老澤は、もう一つのソプラノパートは当時、宮廷ソプラノ歌手として活動していたカストラート、フランチェスコ・チェッカレッリないしはミケランジェロ・ボローニャが歌ったと推定しています。しかしながら、当時、名手として知られていたカストラート歌手と、「震える声の持ち主であった」(ギロヴェッツの自伝による)素人のコンスタンツェが、本当に「ドミネ・デウス」のデュエットをしたのでしょうか。「ドミネ・デウス」は同じ音質で同じ技量の持ち主の2人の歌手でないと台無しになってしまいます。従ってこの曲は、2人のカストラート名手のために作曲されたと私は思うのです。また、「ラウダムス・テ」の華やかなコロラトゥーラは、ハ短調ミサより10年前に書かれた、モテット「エクサルターテ・ユビラーテ」KV165(158a)や「レジナ・チェリ」KV127と同様に、カストラートのために書かれた音楽である可能性が高く、カストラートの名手をそばにおいて、コンスタンツェがこのソロを歌ったとは考えにくい。というのも、このザルツブルク訪問の目的が、父の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚したモーツァルトが、新妻を父に認めてもらうためのものだったことを考えますと、関係がこじれてしまった父の前でぶざまなことすれば、単に父がコンスタンツェに対して抱いていた考えを確認するだけで終わってしまうからです。

 モーツァルトはハ短調ミサの初演に先立ちほぼ一年前、コンスタンツェと結婚した頃に、「わが愛するコンスタンツェのために」練習曲ソルフェッジョKV393(385b)を作曲します。この第2曲目は、ハ短調ミサのキリエの「クリステ・エレイソン」の部分と全くと言ってよいほど同じです。歌い手の自由にまかされるアインガンクは、通常フェルマータ記号だけで表記されますが、これをきちんと音符に直して丁寧に書き込んでいることからも、音楽的才能の不足したコンスタンツェが一人前に歌えるように配慮していることがうかがえます。そして、コンスタンツェが音楽的教養にも申し分なく、自分の結婚相手にふさわしい人物であると父に認めさせるためにも、この曲だけはコンスタンツェが歌えるようにしておきたいという思いが伝わってきます。(このソルフェッジョは全部で6曲から成り立っていますが、このうち第3曲目はザルツブルクで入手した10段の五線紙に書かれていることから、アラン・タイソンはこの曲をザルツブルク滞在中にコンスタンツェの声楽練習用に作曲した可能性を指摘しています。)

 

 ところで、「コンスタンツェのためのソルフェッジョ」のテンポ表示はアダージョで、ヘ長調でかかれています。ところが、興味深いことに、ハ短調ミサのキリエはアンダンテ・モデラートで中間部の「クリステ・エレイソン」は平行調の変ホ長調なのです。ミサはアンダンテ・モデラートですが、ソルフェッジョの倍のリズムで書かれていますので、テンポはソルフェッジョよりゆっくりになっています。また、初演時に用いられた楽譜はモーツァルトの書き込みが残るオルガンのパート譜と、3つのトロンボーンのパート譜だけが残っていますが、これらは全て、フラットが5つの変ロ短調(平行調は変二長調となります)でかかれています。どうして、この3種で調が異なるのでしょうか。ロビンス・ランドンは、コンスタンツェが高音が歌えなかったので、初演時に1音下げたのではないかと推定しています。しかし、練習用に作曲したソルフェッジョは1音高いのです。それにそもそも、モーツァルトが変ロ短調という調を用いるでしょうか。私は、こうせざるを得なかった原因は、聖ペテロ教会のオルガンのピッチがかなり高かったせいではないかと思います(証拠はないのですが)。モーツァルトが1780年当時自分のピアノの調律に使用していた音叉は422でした。各地のオルガンのピッチは様々で、347から567にわたったといいます。これはモーツァルトのピアノのピッチからすると1音半低音から2音高音の違いになるのです。モーツァルトは聖ペテロ教会のオルガンのピッチが自分のピアノのピッチより1音高いことは承知していた。そこで、コンスタンツェのために1音高いヘ長調で練習させておいた。そうしておけば、聖ペテロ教会でハ短調のパート譜をそのまま使えば、1音高いので演奏されるのはニ短調になり、コンスタンツェのソロはヘ長調になる。ところが、このもくろみは失敗に終わりました。演奏に聖ペテロ教会付属の奏者だけでなく、宮廷楽団員のみんなに参加してもらったからです。聖ペテロ教会に備え付けのオルガンとトロンボーンの1音高いピッチに、友情出演した「宮廷楽団員」が合わせられなかったのです。1音も異なるとオーケストラの全ての楽器を調律で合わすことは不可能です。楽譜を書き換えるしかないのです。オルガンとトロンボーンの楽譜を1音下げるか、そのほかの全てのパート譜の楽譜を1音上げるか。その結果、教会に備え付けのオルガンと、教会付属のトロンボーンのパート譜は、フラット5つの変ロ短調の楽譜になり、現存していない他のパート譜はハ短調の楽譜になったのだと思います。もちろん、現存していないパート譜が本当にハ短調の楽譜だったかどうかはわからないのですが、なぜトロンボーンとオルガンのパート譜は残っているのに、同時に作成された他の全てのパート譜は散逸してしまったのかを考えますと、これらのパート譜が他で必要になったからと考えるのが自然ではないでしょうか。このミサ曲は2年後ヴィーンで『悔悟するダビデ』に生まれ変わります。その時にハ短調で書かれたパート譜は『悔悟するダビデ』の演奏にも再利用できますが、変ロ短調のパート譜は役に立たないのです。それで、役に立たない変ロ短調のオルガンとトロンボーンのパート譜だけ長年人目にふれないところで眠っていたのでしょう。『悔悟するダビデ』の初演の記録から、モーツァルトが理想としたハ短調ミサ曲の演奏に必要な奏者の数が想像できます。モーツァルトの指揮でブルク劇場で初演された『悔悟するダビデ』は90名のオーケストラと60名の合唱団によりなされました。その時のソリストは第一ソプラノはカテリーナ・カヴァリエーリで第二ソプラノはエリザベート・ディストラーでした。そう、そこにはコンスタンツェの名前はありませんでした。

 さて、ハ短調ミサのどの部分をコンスタンツェが歌ったのかという最初の命題にもどり、以上述べてきましたことから考えますと、コンスタンツェが歌ったのは、どうもキリエの「クリステ・エレイソン」だけだったのではないかと思われてくるのです。ハ短調ミサのクレドの一節「エト・インカルナートゥス・エスト」は、未完のままミサにも使用されず、『悔悟するダビデ』にも利用されることもなく、今日に至りました。なぜ、モーツァルトが続く「クルチフィクス」を7小節書きかけてクレドの作曲を中止し、アニュス・デイをスケッチで終わらせてしまったのか、今なお謎のままです。このハ短調ミサ曲を作曲するにいたらしめた動機を考えますと、コンスタンツェのためにこの上なく美しい「エト・インカルナートゥス・エスト」の作曲を始めたものの、作曲を中断したのは、コンスタンツェにこれを歌える技術

が備わっていないことに気づき、妻をソプラノ歌手として紹介することを断念したからとも考えられます。ハ短調ミサを初演後、モーツァルト夫妻は次の日には逃げるようにザルツブルクを後にします。

 

 コンスタンツェは、1800年にハ短調ミサの自筆譜などモーツァルトの自筆楽譜の一切をオッフェンバッハのヨハン・アントン・アンドレへ3150グルデンで売りました。しかし、この中にはキリエとグロリアしか含まれていなかったので、アンドレは残りの部分を、アウグスブルクのハイリッヒクロイツ修道院のフィッシャー神父が、ザルツブルクでの演奏に使用されたパート譜から作成したスコアを用いて、未完成の部分は補筆せずにそのままの形で1840年に出版しました。その後、1901年にアロイス・シュミットによって、モーツァルトの他のミサ曲を利用して補完した演奏可能な形での版が出版されましたが、「ラウダムス・テ」や「エト・インカルナートゥス・エスト」では部分的に削除されたものだったのです。モーツァルトの意図を正確に反映した演奏用の版が出版されたのは、1956年のことでした。ロビンス・ランドンは、未完成だった「クレド」、「エト・インカルナートゥス・エスト」の補筆を行い、8声の二重コーラスを復活させ、オリジナルへ回帰を試みましたが、不幸にも自筆譜は第二次世界大戦中の戦火から免れるためにポーランドの修道院に疎開したまま行方不明になってしまっていたのです。ですから、この版の拠り所になっているのはフィッシャー神父のスコアになっていますが、ランドンの優れた洞察力で、初めてモーツァルトらしい演奏用楽譜としてよみがえったのです。1977年には自筆譜がポーランドのヤギエロン図書館で再発見され、それに基づいて1986年にヘルムート・エダー、1988年にリチャード・モンダー、1989年にフランツ・バイヤーによりそれぞれ補筆完成した版が出版されましたが、ランドンの補筆が手本になっていることは言うまでもありません。それぞれ、未完に終わったクレドの楽器編成を問題にしていますが、私の考えはいずれとも異なります。アラン・タイソンの自筆楽譜の研究によれば、ハ短調ミサの「グロリア」と「サンクトゥス」はヴィーンで入手した12段の五線紙に書かれていますが、エキストラな管楽器はスコアの巻末に綴じられた10段の五線紙に記入されているということです。ザルツブルクでは12段の五線紙が入手できなかったことから、タイソンはこれらの楽譜がザルツブルク滞在の3ヶ月の間に作成されたと推測しています。これは、ハ短調ミサに限ったことではなく、モーツァルトはしばしばトランペットやティンパニのパートをあとで別紙に書きました。

 さて、「キリエ」の12段の使い方をみると、上段から順に、第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラ、オーボエ、ホルン、ファゴット、トランペット、4声の合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)、通奏低音となっています。3声のトロンボーンは、合唱のアルト、テナー、バスの段を共用しています。ところが、「クレド」では5声(第一ソプラノ、第二ソプラノ、アルト、テナー、バス)になるため、トランペットの楽譜を12段の五線紙に記入することが出来なくなってしまったのです。モーツァルトがトランペットとティンパニを意図的にはずしたのではなく、いつもと同じように、後で別書きするつもりだっただけなのです。モーツァルトの他のミサ曲同様、力強くて華麗な「クレド」にはトランペットとティンパニは不可欠と考えられます。トランペットとティンパニを追加しているのはモンダーのみで、ランドン、エダーはトロンボーンも追加しておりません。

 次に「エト・インカルナートゥス・エスト」の自筆楽譜は12段五線紙の上下1段ずつを空けて、上段から順に、第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラ、フルートソロ、オーボエソロ、ファゴットソロ、空欄が2段、ソプラノソロ、通奏低音となっています。この空欄の2段がどの楽器にあてられたものかが議論の対象になっています。エダーとモンダーはこれを一対のホルンとしています。一方、バイヤーは楽器編成が全く同じである魔笛のパミーナのアリア「消え去ったのかしら、わが愛の幸せは永遠に!」の記譜の仕方が、「エト・インカルナートゥス・エスト」と全く同じで、しかも2段の空欄があることを指摘し、パミーナのアリアにホルンが必要ないのと同じで、「エト・インカルナートゥス・エスト」にホルンの追加は全く考えられないとしています。これには私も全く同感です。

 今回の演奏では、基本的に1956年のランドン版を使用いたしますが、再発見された自筆譜から得られた知見や近年の研究成果を考慮して行うつもりです。特に「クレド」は合唱の3声をなぞるトロンボーンと、私の補筆によるトランペット、ティンパニを追加していることをお断りしておきます。