レーオポルト・モーツァルト

武本 浩

 

 

今年はヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルトの生誕250周年に当たり、生地はもとより全世界で記念行事が催されている。本日528日は、偉大な作曲家を育てた父レーオポルトの命日。本日の演奏会では、ヴォルフガンクの生誕2週間前に初演された「音楽の橇乗り」などレーオポルト・モーツァルトの音楽を取り上げ、レーオポルトの冥福を祈ると共にヴォルフガンク生誕250周年を祝いたい。

 

ヴォルフガンクが生まれる少し前に、レーオポルトは故郷アウグスブルクで出版業を営んでいたヨハン・ヤーコプ・ロッターに以下の手紙をしたためている。

 

ザルツブルク、17551229

親愛なる友よ!

新年おめでとう!

 

(中略)

 

「橇乗り」のために、コレギウム・ムジクム ― つつしんで挨拶をお送りします − が、次の説明文を紙に印刷して、聴衆のみなさんに配ってくださるようお勧めします。取り急ぎ書いているので悪しからず。

 

音楽の橇乗り

 

おだやかなアンダンテとはなやかなアレグロからなる導入曲ではじまり、

そのあとただちに、

トランペットとティンパニを伴う導入曲が続く。

これには、

橇鈴やその他あらゆる楽器を伴っての橇乗りがつづく。

橇乗りが終わると

馬が身震いをするのが聞こえる。

そのあと、

トランペットとティンパニが、オーボエ奏者、ヴァルトホルン奏者、それにファゴット奏者の合奏と心地よく奏楽を交わす。というのは、前者はパレードを、後者は行進を交互にきかせるからである。

そのあと、

トランペットとティンパニがもういちど導入曲を奏し、

そして

橇乗りがふたたびはじまる。そのあと、すべてが音もなく沈黙する。それから、橇乗りの仲間たちが降りて、舞踏会場へ赴く。

アダージョが聞こえるが、これは寒さに震えるご婦人方をあらわしている。

メヌエットとトリオで舞踏会がはじめられる。

ドイツ舞曲でもっと体をあたためようとする。最後に踊りおさめの舞曲があり、

終わりに

一同は、トランペットとティンパニの導入曲が響くなかを、橇のところへ戻り、家路につく。

 

曲はザルツブルク大司教宮廷内作曲家レーオポルト・モーツァルト作

 

音楽の橇乗りは翌1756114日、アウグスブルクのZu den Drei Königenというホテルで、当時の演奏団体コレギウム・ムジクムにより交響曲「農夫の結婚式」と共に初演された。レーオポルトは、美しい宗教音楽を数多く残しているが、大衆にも親しみやすい音楽を作曲して音楽を身近なものにする努力を惜しまなかった。ところがそういった彼の啓蒙活動に対して批判的な人も存在した。レーオポルトは「音楽の橇乗り」の初演を聞いた人物から匿名の短い手紙を受け取った。

 

最良のわが友よ!

このような道化芝居では誰も喜ばない。中国やトルコの音楽、ソリ滑りやそれにまず農夫の結婚の曲はなおさらである。それらは人前に多くの不名誉と軽蔑をもたらす。私は専門家としてここにあなたがそれに固執することを残念でしょうがない。

心の友人より

 

それでもレーオポルトが自らの使命を全うしたことは、その後、どういう経緯かわからないが、ハイドン作曲「子どもの交響曲」として親しまれるようになった曲の原曲「カッサシオ」を1760年頃に作曲していることからも窺える。

 

「音楽の橇乗り」の初演から2週間後の127日にヴォルフガンクが生を享けることになる。この様子をレーオポルトの手紙が生々しく伝えている。これもアウグスブルクのロッターにあてた手紙で、ヴォルフガンクの誕生前日に書かれたものである。

 

ザルツブルク、1756年1月26

親愛なる友よ!

ひとつには宮廷のオペラが、ひとつには生徒たちが、ひとつにはべつの事情が邪魔しているので、大急ぎで書きます。妻の出産がもうすぐにはじまるのです。・・・・・

 

そして、29日にもロッターに宛てて次の手紙が書かれる。

 

ザルツブルク、175629

親愛なる友よ

・・・・・ついでにお知らせしますが、127日の夜の8時に、妻は無事に男の子を出産いたしました。でも、後産除去をしてやらなければなりませんでした。そのため、家内はひどく弱りました。けれども、ありがたいことに、今では子供も母親も元気です。よろしくとのことです。子供は、ヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガンク・ゴットリープといいます。・・・・・

 

この1755年から1756年にかけては、36歳のレーオポルトにとって大変重要な年であった。主要作品「狩の交響曲」、「農夫の結婚式」、「音楽の橇乗り」がこの時期に書かれたばかりか、ヴォルフガンクの父親でなくても後世に名を残すことになった不朽の名著「ヴァイオリン奏法」が執筆されたからである。この「ヴァイオリン奏法」は1756726日、アウグスブルクのロッターから出版された。レーオポルトの生前に改訂版が二度出版(アウグスブルク,1769/70年、アウグスブルク,1789年)され、オランダ語訳(ハーレム,1766年)やフランス語訳(パリ,1770年)も出版されたことからわかるように、J.J.クヴァンツの「フルート奏法」(1752年)、C.P.E.バッハの「クラヴィーア奏法」(1753年)、J.F.アゴリーコラの「歌唱芸術の手引き」(1757年)と並んで、初心者向けのヴァイオリン入門書として急速に普及したのである。レーオポルトは「ヴァイオリン奏法」を通して、ヴァイオリン奏法だけでなく一般的な音楽論を大衆に広めようとした。「ヴァイオリン奏法」のはしがきを引用しよう。

 

私はしばしば、生徒が間違って教えられているのを見て悲しく思いました。その生徒たちをはじめからやり直させただけではなく、その教えられ、または見過ごされた欠点を根絶するのに非常に骨折りました。また自分の知識で演奏を飾り、誤ったボウイングによって作曲者の意図を歪曲している大人のヴァイオリン奏者を見ていますと、深い同情の念を感じます。口で説明し、実際に演奏して見せても、彼らが真実と純正を把握することができないのには驚かされました。このため、私は「ヴァイオリン奏法」を出版することを思い立ちました。

 

この「ヴァイオリン奏法」を紐解いていくと、レーオポルトの音楽教育にかける情熱がひしひしと伝わってくる。彼は、自らの音楽論を説くためには、無能な音楽家を非難することになっても、そのために多くの敵を作ることになっても全く厭わない。「優れた巨匠の楽譜から作曲家の意図を正しく読み取り、曲の優れた特性を保持しながら、自分自身をその音楽の情緒の中に投入し表現する」音楽家を一人でも多く育てたいと願う、高い教養を身につけ雄弁で、頑固で几帳面、アグレッシブ、それでいて優しくユーモアに溢れたレーオポルトの人間性が垣間見られる書物である。この性格がそのまま息子に伝えられたと思うと非常に興味深い。この「ヴァイオリン奏法」は、出版の翌年、F.W.マールプルクが執筆した「音楽史に関する歴史的・批判的論考」において、次のような賛辞と感謝の言葉が贈られた。

 

基礎がしっかりし、巧みに演奏することのできるヴィルトゥオーソ、理性的で方法を重んじる教師、教養ある音楽家、これらの資質は、それらのうちひとつだけでも備えていれば有益な人間になれるのだが、ここにはこれらが全て発揮されているのだ。専門のヴァイオリン奏者になる人もここに自らの教訓になることを見つけ、この偉大な師の教えを得、自らの弟子を法外な誤った偏見から救うことにもなるのだ!

 

前述した通り、「ヴァイオリン奏法」はレーオポルト生前中に三回も版を重ね、死後も様々な編集者によって1791年(フランクフルト)、1791年(ライプツィヒ)、1801年(ヴィーン)、1804年(ライプツィヒ)、1806年(ヴィーン)、1817年(ライプツィヒ)と改訂版が出版され続けた。1804年にはロシア語版も出版され、初版から60年以上にわたって世界各国で絶大な信頼を得ることになった。

 

前述したマールプルクによると、「ヴァイオリン奏法」を出版したときには、レーオポルトは既に、「多数の対位法的な作品ならびに教会作品、多数の交響曲、30曲を超えるセレナード、多くの協奏曲、数知れぬ三重奏曲やディヴェルティメント、12曲のオラトリオ、数多くの劇作品、パントマイム、いくつかの機会音楽、軍楽、トルコ風音楽、鋼鉄製クラヴィーアの音楽、橇乗りの音楽、行進曲、夜曲、数百曲のメヌエット、オペラ舞曲など」を作曲していた。しかし、息子に神から授けられた非凡な才能があることに気がついたレーオポルトは、この才能を最大限引き出すことが神に課せられた自分の使命と考え、自らの人生のすべてを息子に捧げることになる。

 

モーツァルト一家と深い親交があり、ヴォルフガンクも13歳のときにミサ曲(ドミーニクスミサKV66)を捧げたドミーニクス師カイエターン・ルーペルト・ハーゲナウアー神父は、1787528日の日誌に次のように記している。

 

聖霊降臨後の日曜日。1787528日早朝、当地副楽長レーオポルト・モーツァルト死す。彼はおよそ20年ほど前、その二人の子供たちとともに、ザルツブルクに格別の名誉をもたらした。彼は童児ヴォルフガンクならびに娘アンナ、前者は7歳、後者は10歳、をクラヴィーアの偉大な名手として、ドイツ全土、フランス、オランダ、英国、スイス、イタリアもローマに至るまで連れて行き、すべての場所で喝采と賞賛を得、かつ豊かな贈り物をそれによって受け取り、持ち帰った。子息は現在ヴィーンにあって、この上なく著名な作曲家の一人であり、娘はザルツブルク領ザンクト・ギルゲンの管理者フォン・ゾンネンブルク氏と結婚している。母親は、彼女が子息とともに二度目にパリに旅した折、同地にて死去。本日逝去した父親は機知と思慮に富む人物であったが、音楽以外でもまた国家に優れた貢献を果たし得たことであろう。生前彼はきわめてバランスのとれたヴァイオリン奏者であったが、これについては二度にわたって版を重ねた彼の「ヴァイオリン奏法」が証明している。彼はアウグスブルクに生まれ、その生涯の大部分を当地の宮廷に仕えて過ごしたが、当地にあたってはつねに迫害を受けるという不幸に遭い、ヨーロッパの他の都会でそうであったようには、長い間さほど寵愛されることはなかった。彼はちょうど68歳になったところであった。

 

529日の夜、亡骸はリンツガッセにある聖ゼバスティアン墓地に埋葬された。ヴィーンで暮らしていた息子のヴォルフガンクはザルツブルク宮廷の軍事会議官であったフランツ・ディッポルトから訃報を受け取ったが、ザルツブルクに駆けつけることもなく、レーオポルトが愛用したロンドンのドロンド社製の最高級顕微鏡や望遠鏡、5オクターヴ全体が黒檀材と象牙からなる二段鍵盤のフリューゲルなど大半の遺品は競売で処分することになってしまった。レーオポルトに嫁として認められることのなかったコンスタンツェは、ヴォルフガンク亡き後ゲオルク・ニッセンと再婚したが、1826年にニッセンが亡くなった際に、レーオポルトが眠る墓所をニッセンと実家のヴェーバー家に提供してしまった。現在では、ニッセンとコンスタンツェのために立てられた立派な十字架の墓石の脇に小さな石版が立てられており、そこには、レーオポルト・モーツァルトの名前が刻まれている。

 

「音楽の橇乗り」のレーオポルトの自筆楽譜はレーゲンスブルクのFürst Thurn und Taxis Hofbibliothekに保管されているが、前述の「トランペットとティンパニを伴う導入曲」は現存しない。本日の演奏では、ドレスデンの宮廷楽長だったJ.D.ゼレンカ(1679-1745)が作曲した「騎手の6つのファンファーレ」の一部を転用する。また、初演の際の予告に記載されている楽器編成は、オーボエ、ヴァイオリン、ホルン、クラリーノ、ファゴット、ヴィオラ、ティンパニ、2つの馭者の鞭、5つの橇の鈴及びバスとなっているが、馭者の鞭は自筆総譜にはない。本日の演奏では、これを復元して演奏する。

 

 

【参考文献】

 

1.      海老沢敏,高橋英郎, モーツァルト書簡全集I 白水社 (1976)

2.      海老沢敏,高橋英郎, モーツァルト書簡全集VI 白水社 (2001)

3.      角谷千代雄訳, AUGSBURG(IX)

4.      Raimund Rüegge, Musikalische Schlittenfahrt, Edition Kunzelmann GmbH (1985)

5.      レオポルド・モーツァルト (塚原晢夫訳), ヴァイオリン奏法, 全音楽譜出版社 (1974)

6.      エーリッヒ・ヴァーレンティン (久保田慶一訳), レーオポルト・モーツァルト, 音楽の友社 (1991)

7.      海老沢敏, 「レーオポルト・モーツァルト序説」, モーツァルト18世紀の旅第1集モーツァルトの起源, 白水社 1983