バセットクラリネット協奏曲

武本 浩

 

 

モーツァルトが晩年に作曲した白鳥の歌「クラリネット協奏曲」は、管楽器のために作曲された協奏曲の最高傑作の一つとして広く親しまれている。モーツァルトの死後10年ほどたった、1801〜2年のほぼ同時期にBreitkopf und Härtel(ライプツィヒ)、André(オッフェンバック)、Sieber(パリ)から「クラリネット協奏曲」のパート譜が出版された。さらに、1801年にはA.E.ミュラーにより「フルート協奏曲」に編曲された版(イ長調からト長調に変更されており、伴奏ではフルートの代わりにオーボエが使用されている)が、1802年には「ヴィオラ協奏曲」に編曲された版が出版されている。また、C.P.E.バッハの弟子であったC.F.G.シュベンケは、「クラリネット協奏曲」を「ピアノ五重奏曲」に編曲し、ハンブルクのJohan August Böhmから1805年頃に出版していることから、当時この曲が大変な人気だったことを窺い知ることができる。それ以来、アンドレなどから出版された楽譜がモーツァルトの「クラリネット協奏曲」として何の疑いもなく今日まで継承されてきたのである。ところが、George Dazeley(1948年)や、プラハの音楽学者であるJiři KratochvílとMilan Kostohryz(1956年)は、今日我々が目にしている「クラリネット協奏曲」のソロパートには音楽的に不自然な箇所があることを指摘した。

 

エルンスト・ヘスが、歴史的発見をしたのは1967年のことだった。ライプツィヒの一般音楽新聞(Allgemeine musikalische Zeitung, Leipzig)の18023月号にBreitkopf und Härtel社が1801年に出版したモーツァルト作曲「クラリネット協奏曲」のパート譜の論評(著者は不明であるが、ロホリッツと考えられている)が掲載されていたのだ。それには、「モーツァルトはこの協奏曲を低音のCまで演奏できるクラリネットのために作曲したが、現在ではそのような楽器はほとんど使用されなくなったので、通常のクラリネットでも演奏できるように、出版社が、クラリネットパートの音の改変をしてくれたことに感謝しなければならない。改変によりこの協奏曲がより良くなるということではないにしても。」と記載されており、通常のクラリネットでも演奏することができるよう改変した箇所を引用している。さらに、「出版に際しては、オリジナルの音符と共に小音符で出版社が提案する変更音を付加していれば、なお良かったかもしれない。」と指摘している。事実、モーツァルトの自筆譜が失われてしまった今日では、モーツァルトが作曲したオリジナルの音符はわからなくなってしまったのである。当時シュタードラーのバスクラリネットと呼ばれたこの低音のCまで演奏できるクラリネットは、現代のラージボアでオクターヴ低いバスクラリネットと区別するために1956年に、Jiři Kratochvílによってバセットクラリネットと名づけられた。バセットクラリネットについては、三戸久史先生による「蘇ったバセット・クラリネット“シュタードラーとバセット・クラリネット”」の項を参照されたい。

「クラリネット協奏曲」の自筆譜は失われたが、調性が異なるものの全く同じ旋律の断章が残されている。この断章は、「G管バセットホルンのための協奏曲」KV584b(621b), Fr1787vで、199小節からなる。バセットホルンは、1770年頃にオーストリア・パッサウのマイヤーホーファー兄弟により開発されたとされているクラリネットの仲間で、シャリュモー音域と呼ばれる低音域を担当する。中間部で折れ曲がった形をしており、真鍮製のベルが取り付けられている。この断章と1967年にエルンスト・ヘスが発見した前述の論評で引用されたパッセージ、シュベンケの五重奏曲などを参考にしながら、エルンスト・ヘス(1967年)やアラン・ハッカー(1971年)、フランツ・ギークリンク(1977年)、ヘンリク・ヴィーゼ(2003年)は、Breitkopf und Härtel社が通常のクラリネットでも演奏できるように1オクターヴ高く改変したために結果として不自然な跳躍になってしまった箇所などを元に戻したバセットクラリネット用楽譜の復元を試みた。

 

1楽章の146小節〜147小節を例にとると、現在、広く使用されている版では、通常のクラリネットで出せない低音域は1オクターヴ上げられているため、不連続なアルペジオになっている。モーツァルトのオリジナルの音符は、「バセットホルン協奏曲」断章の同じ部分から推測することができる。すなわち、146小節の9つの音からなるアルペジオは通常のクラリネットでは出せない低音のCから始まり、147小節のアルペジオは同じく低音のCisから始まるのだ。(ただし、「バセットホルン協奏曲」のいずれのアルペジオも前半はヘ音記号で書かれており、見かけは逆に1オクターヴ低く不連続に見えるが、ヘ音記号で記譜された音は実音より1オクターヴ高く演奏される習慣であるので不連続なアルペジオではない。)その結果、不連続だったアルペジオが低音から高音まで連続的につながり、クラリネットの魅力のひとつである低音の独特の響きがこの曲により一層の深みを与えることになった。本日は、フランツ・ギークリンクによる復元版(新モーツァルト全集)で演奏する。

 

ヨーゼフ二世に代わりオーストリア皇帝に即位したレーオポルト二世は、179196日、プラハでボヘミア王として戴冠式を行なった。その際の祝典オペラとして、モーツァルトは「皇帝ティートの慈悲」KV621を作曲し、上演した。上演に際して、シュタードラーも同行し、オペラの第9曲セストのアリア「私は行く、でも、いとしいあなたよ」と第23曲ヴィッテリアのロンド「花の美しいかすがいを編もうと」に現れるクラリネットとバセットホルンのオブリガートを独奏している。前者のクラリネットも低音のCまで出てくるバセットクラリネットである。モーツァルトは「皇帝ティートの慈悲」上演後、920日にヴィーンに戻り、「魔笛」KV620の完成を急いだ。「魔笛」は928日に完成し、930日に初演された。一方、シュタードラーは「皇帝ティートの慈悲」の上演が続いていたためプラハにしばらく滞在していた。107日、モーツァルトはバーデンに湯治療養に出かけた妻のコンスタンツェに宛てた手紙の中で、シュタードラーのための協奏曲について言及している。

 

シュタードラーのためのロンド楽章を、ほぼオーケストレーションをし終えた。その間、シュタードラーから手紙をもらった。・・・(中略)・・・実に奇妙なことだが、僕のオペラがあんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは「ティート」が異常な喝采を受けて最後の幕を下ろした。・・・(中略)・・・シュトードラ(おお、ボヘミアの奇蹟よ! ― と彼は書いているが)は、平土間からも、オーケストラからもブラヴォーを浴びた。(注:シュトードラはシュタードラーのボヘミア訛り、ブラヴォーを浴びたのは「ティート」のバセットクラリネットとバセットホルンのオブリガートソロをシュタードラーが素晴らしい演奏をしたから)

 

モーツァルトは、928日付けで「オペラ、魔笛のために ― 

祭司たちの行進曲と序曲」と「自作全作品目録」に記入したあと、長い横線を引いて、日付欄は空白のまま、以下のように書き入れる。

 

クラリネットのための協奏曲。兄のシュタードラー氏のために。伴奏。ヴァイオリン2、ヴィオラ、フルート2、ファゴット2、ホルン2とバス。

 

その次の段に1115日付けで「フリーメイスン小カンタータ」が記入されたが、これが生涯最後の記入となった。プラハに滞在中のアントーン・シュタードラーは、1016日に国民劇場で催した慈善演奏会で「クラリネット協奏曲」を初演したことから、「クラリネット協奏曲」は、1010日前後に完成し、楽譜はプラハに送られたものと思われる。「皇帝ティートの慈悲」を作曲していた頃からモーツァルトは徐々に体調を崩しており、このオペラもレチタティーヴォ・セッコの作曲を助手のジュースマイヤーに手伝ってもらいながら、やっと初演前日に完成させたくらいである。「魔笛」の作曲を進めていた7月に急に入った「皇帝ティートの慈悲」の作曲依頼、そして同じ頃、「死者のためのミサ曲(レクイエム)」の委嘱もあったので、これらの作曲は同時並行で進められたと考えられている。これだけの仕事の中で「クラリネット協奏曲」はいつ着手されたのであろうか。「皇帝ティートの慈悲」の作曲は突貫工事で行なわれたため、それ以前に作曲を開始したとは考えにくく、また、ヴィーンに戻ってから「魔笛」の初演までは相当忙しかったと思われる。928日に「祭司たちの行進」と「序曲」を作曲して「魔笛」は完成し、二日後の930日の初演に引き続き、101日に再演しているが、この二回の演奏会でモーツァルトは指揮をしている。また、妻への手紙から、少なくとも7日、8日、9日、11日、14日にも「魔笛」が上演され、モーツァルトは客席にいたことがわかっている。7日の公演は超満員で、日ごとに評価が高まっていること、8日の公演では、パパゲーノがグロッケンシュピーゲルでアリアを歌う際に桟敷席から舞台そでに上がっていたずらをしたこと、9日にはコンスタンツェの母親を連れていくこと、13日には、サリエーリとカヴァリエーリ夫人を招待し、義母と長子カールを連れていったことが述べられている。1015日にはバーデンへカールを連れてコンスタンツェ、末子のフランツ・クサーヴァーと義妹ゾフィーを迎えに行っている。不治の病に冒されながらもこの超過密スケジュールの中、「クラリネット協奏曲」は作曲された。108日、コンスタンツェ宛に書かれた手紙によると、

 

きょうは朝早くから打ち込んで書いていたので、1時半までかかってしまった。・・・(中略)・・・食事のあとすぐに、ぼくはまた家に戻り、オペラの時間まで書いた。

 

モーツァルトは、7日のオペラの時間までに「クラリネット協奏曲」の「ロンド楽章を、ほぼオーケストレーションをし終えた。」と手紙で述べていることから、海老沢は打ち込んで書いたのは「レクイエム」としているが、「クラリネット協奏曲」の最後の仕上げをしていたのかもしれない。いずれにしても、早朝からオペラの時間までが創作活動に当てられたことがわかる。このように考えてみると、「クラリネット協奏曲」の作曲に当てられた時間は、モーツァルトが亡くなる2ヶ月前の102日から10日前後のわずか一週間だったということになる。もっとも、「皇帝ティートの慈悲」上演のためにプラハを訪れ、シュタードラーと過ごした頃から作曲の着想はあったと思われるが。そこで問題になるのが、前述した199小節のみ残されているト長調の「バセットホルン協奏曲」の作曲時期である。

 

モーツァルトがヴィーンに定住した1781年頃、弟ヨハン・ネーポムク・フランツ・シュタードラーとともに宮廷劇場管弦楽団や宮廷吹奏楽団に所属していたクラリネット、バセットホルンの名手、アントーン・パウル・シュタードラーと知り合った。アントーンはクラリネットの低音域(シャリュモー音域)を得意とする奏者で第二クラリネット奏者であった。モーツァルトは、それ以来、好んでバセットホルンを使用するようになった。「フィガロの結婚(1789年に追加したロンド)」、「後宮からの誘拐」、「皇帝ティートの慈悲」、「魔笛」などオペラに、「フリーメイスンのための葬送音楽」のようなフリーメイソンのために、「グラン・パルティータ」の機会音楽や「6つのノットゥルノ」などの家庭音楽にバセットホルンが使用されているが、1曲を除いてすべてF管の楽器が使用されている。「レクイエム」で使用されたのもF管である。唯一の例外は、2つのソプラノ、バスの三重唱を2つのA管クラリネット、G管バセットホルンが伴奏するノットゥルノ「黙しながら嘆こう」ト長調KV437で、1787年ごろにジャカン家のホームコンサート用に作曲された。ゴットフリート・フォン・ジャカンはモーツァルトの親友で、ホームコンサートでしばしば、コンスタンツェがソプラノを、モーツァルトがテナーを、ジャカンがバスパートを歌って楽しんだ。「6つのノトゥルノ」で使用された調性はヘ長調が3曲、変ホ長調が2曲、ト長調が1曲となっている。バセットホルンが使用されている他の曲の調性も調べてみると、ヘ長調が15曲、変ロ長調が12曲、ニ短調が6曲、変ホ長調が4曲ほかとなっており、モーツァルトが好んで使用したニ長調は「レクイエム」の中の「感謝の賛歌」1曲のみである。クラリネットやトランペット、ホルンは移調楽器と呼ばれ、曲の調性によって管の長さが異なる楽器で演奏するが、クラリネットの場合は、すべての調性の楽器が用意されていないため、モーツァルトは曲の調性に応じてC管、B管、A管のクラリネットを使い分けている。移調楽器になじみのない方のために、曲の調性と移調楽器を使用したときに記譜される調性を以下にまとめてみた。フラット3つで記譜される変ホ長調の曲をB管クラリネットで演奏する際、パート譜上はヘ長調になりフラット1つであるが、A管クラリネットでは変ト長調になり、フラット6つとなる。G管バセットホルンでは変イ長調でフラット4つ、F管バセットクラリネットでは変ロ長調でフラット2つとなる。

 

 

C管

B管

A管

G管

F管

ハ長調・イ短調

なし

♯2

♭3

♭1

♯1

ト長調・ホ短調

♯1

♯3

♭2

なし

♯2

ニ長調・ロ短調

♯2

♯4

♭1

♯1

♯3

イ長調・嬰へ短調

♯3

♯5

なし

♯2

♯4

ヘ長調・ニ短調

♭1

♯1

♭4

♭2

なし

変ロ長調・ト短調

♭2

なし

♭5

♭3

1

変ホ長調・ハ短調

♭3

♭1

♭6

♭4

♭2

 

ここで、お気づきのように、バセットホルンのために書かれた曲はそのほとんどが表下半分のフラット系の調性であることがわかる。その調性を反映してか、オペラでもゆったりしたロマンチックな場面でバセットホルンが使用されることが多い。モーツァルトは協奏曲を作曲するに当たり、華やかな響きがする、シャープ系の調性を選んだのは、容易に想像できる。そのため、これまであまり使うことがなかったG管のバセットホルンを使用することになったのであろう。

 

「バセットホルン協奏曲ト長調」断章の自筆譜は現在スイスのStadtbibliothek Winterthur に保管されている。12段の五線紙が使用され、上2段と下2段は空白で中8段に上から独奏G管バセットホルン、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、第一フルート、第二フルート、第一及び第二G管ホルン、バスの順に記譜されている(ファゴットは含まれていない)。独奏声部は199小節まで完全な形で記入されているが、伴奏声部は、第一ヴァイオリンとバスがアウトラインを示しているのみで、ところどころ第二ヴァイオリンとヴィオラの重要な動きが記入されているにとどまっている。非常に奇妙なことに、180小節から伴奏声部は突然一音上に記譜されイ長調に転調しているのである。移調楽器であるバセットホルンに変化は認められない。180小節以降は、それまでと異なり、少しとがったペンを使って濃いインクで書かれている。そして200小節以降は失われている。

 

アラン・タイソンの使用五線紙(すかし模様)の研究によると、この「バセットホルン協奏曲」は「クラリネット協奏曲」の1年から2年前、早くて4年前の1787年に作曲したと結論付けている。五線紙は、約46cm×約64cmの大きな紙(Bogen)を半分に切って約23cm×約64cmにし、それを半分に折って1頁が約23cm×約32cm4頁からなるフォリオ(Doppelblätter)が作られる。1224頁からなるこの断章は、タイソンの分類によるすかし模様#553枚のフォリオ、1葉から6葉、1頁から12頁、1小節から105小節)とすかし模様#823枚のフォリオ、7葉から12葉、13頁から24頁、106小節から199小節)の二種類の五線紙が使用されている。前者の五線紙は、1780年〜1781年にザルツブルクあるいはミュンヘンで製作されたもので、モーツァルトはこの五線紙を前述したノットゥルノ「黙しながら嘆こう」ト長調KV4371787年?)、「クラリネット、バセットホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための五重奏曲」断章KV580b1787年)「ホルン協奏曲第3番」KV4471787年?)、「音楽の冗談」KV5221785年〜1787年)、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」KV5251787年)、「ドン・ジョバンニ」KV5271787年)、「戴冠式協奏曲」KV5371788年)などに使用している。後者の五線紙は、1785年ヴィーンで製作されたもので、「フィガロの結婚」KV4921786年)、「ピアノトリオ」KV4961786年)、「プラハ交響曲」KV5041786年)、「6つのドイツ舞曲」KV5091787年)、「戴冠式協奏曲」KV5371788年)などに使用されている。モーツァルトは比較的少量ずつ五線紙を購入し、使い切ってから新しい五線紙を購入していたと考えられ、五線紙の種類に基づく楽譜の年代推定については、信憑性が高いとされている。以上のことから、G管バセットホルンが伴奏するノットゥルノが書かれた1787年頃にノットゥルノに使用した同じ五線紙を使用して「バセットホルン協奏曲ト長調」の作曲は開始された。ところが、199小節を書いたところで、何らかの理由で途中放棄されることになった。その後、「皇帝ティートの慈悲」公演の際、シュタードラーに「あの曲どうなったんや!」と言われて、4年前に書き始めて放置していた曲を「クラリネット協奏曲」に仕上げなおしたと考えられている。このように作曲を一度中断して再開することはよくあることだったのだろうか。アラン・タイソンは、モーツァルトの自筆譜研究の中でそういった例をいくつか挙げている。例えば、178632日付けで「自作全作品目録」に記入されているピアノ協奏曲第23番イ長調KV488である。第一楽章の最初の8枚のフォリオで使用されている五線紙は17843月から17852月頃のもので、クラリネットが記譜されている5段目と6段目は、三つのシャープが削除されているにもかかわらず、9-18小節と62-66小節は実音で記譜されている。また、その部分は四角く縁取られた上に×印が付いており、第一楽章の後の空白頁にA管クラリネット用に移調して再録されている。これは、当初、クラリネットではなく、オーボエの伴奏で作曲が始められたが、12年放置した後、オーボエパートを変ホ長調協奏曲KV48217851216日)、ハ短調協奏曲KV4911786324日)で使用したクラリネットへと変更して作曲を再開したことを示すものである。このように、作品が1年、2年と「断章」として放置されることはありえるのである。

 

ところが、使用五線紙の研究を進めていくと、すかし模様#55の五線紙については、5つのコントラダンスKV6091791年)にも使用されており、すかし模様#82の五線紙は、「魔笛」KV62056葉から59葉(1791年)、未完に終わった「ホルン協奏曲第1番」KV412514386b)(1791年)にも使用されていることがわかり、1787年より前には作曲されなかったということしか、はっきりしたことは言えなくなってしまった。もっとも「コントラダンス」は3枚の単葉(Einzelblätter、フォリオではなく、一枚の紙に2頁のみ)であり、昔作曲した楽譜から抜き取っても構わないところからとってきたのかもしれない(3枚とも同じすかし模様#82の五線紙であるが)し、「ホルン協奏曲」も第1楽章の1葉から4葉で1枚のボーゲンが使われているので、この曲も1787年頃に作曲開始された、と解釈できなくもない。しかし、「魔笛」については1787年頃に作曲開始されたとは考えにくい。そのため、アラン・タイソンも最近では、「バセットホルン協奏曲」が1791年に作曲が始められたという可能性に肯定的になってきている。先にこの「バセットホルン協奏曲」の200小節以降は失われたと述べた。確かに失われたのは事実であるが、次のような仮説は成り立たないであろうか。「皇帝ティートの慈悲」の上演のためにプラハに同行したシュタードラーとG管バセットホルンのための協奏曲を作曲することで合意したが、179小節まで作曲した時点で何らかの理由、例えば演奏困難な箇所がある、音色にムラがある、音程が悪い、出せない音がある(シュタードラーのF管バセットホルンにはCisが出せるようキーが取り付けられていた(KV436KV438に現れる)が、G管のバセットホルンにはそれがなく第一楽章の92小節に現れるCisを出せなかった可能性が考えられる)・・・・などの理由があって、同じシャープ系の調性であるイ長調でA管のバセットクラリネットのための協奏曲を作曲することに方針変換することになった。作曲に当たっては、まず、モーツァルトは独奏声部と第一ヴァイオリンとバスのアウトラインを、他の楽器はところどころ重要な動きのみを記入していき、第一楽章を完成させた。その後、細かいオーケストレーションを書き入れていったが、ト長調とイ長調が混在している最初の部分にあたる6枚のフォリオは利用できないため、最初の部分はイ長調に書き直した。完成後、自筆譜はシュタードラーの手に渡ったが、その後、行方不明になったため、皮肉にも不要になった最初の6枚のフォリオのみが現存することになった。

 

 

【参考文献】

 

1.      Franz Giegling, Konzert für Klarinette und Orchester in A KV622, Bärenreiter (1977)

2.      海老沢敏,高橋英郎, モーツァルト書簡全集VI 白水社 (2001)

3.      Alan Hacker, Klarinettenkonzert in A-Dur, K.662, Ernst Eulenburg (1971)

4.      Henrik Wiese, Klarinettenkonzert A-dur, KV622, G.Henle Verlag (2003)

5.      Christopher Hogwood, Konzert in G für Flöte und Orchester nach dem Klarinettenkonzert K.622, Bärenreiter (2002)

6.      Christopher Hogwood, Konzert in A für Viola und Orchester nach dem Klarinettenkonzert K.622, Bärenreiter (1999)

7.      Ulrich Konrad, Mozart Catalogue of his Works, Bärenreiter (2006)

8.      Alan Tyson, Mozart: Studies of the Autograph Scores, Harvard University Press (1987)

9.      Alan Tyson, Wasserzeichen-Katalog, Bärenreiter (1992)

10.  アラン・タイソン(北村結花訳), 新年代推定法 すかしと紙についての論考, モーツァルトの音と言葉, 岩波書店 1991

11.  Hermann Beck, Konzert für Klavier und Orchester in A KV488, Bärenreiter (1959)

12.  Dennis Pajot, Fragment of Bassetthorn Concerto in G K584b/621bhttp://www.mozartforum.com/Lore/article.php?id=098&pt_sid=17fcfe7f8b591f0ee95e4b801d58ee0a

13.  野口秀夫, 協奏曲楽章 K.584b(621b) バセットホルンとバセットクラリネット (2001) http://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ngc/j/k621b.htm