ニ短調協奏曲

武本 浩

 

 

モーツァルトの死後も引き続いて演奏された数少ない協奏曲の一つであるニ短調協奏曲に関する記述は、以下の父レーオポルト・モーツァルトがザンクト・ギルゲンに嫁いだ娘に宛てた1785122日付の手紙に初めて現れる。

 

たったいま、おまえの弟から十行ほどの手紙をもらいました。そこには、あれの最初の予約演奏会が211日に始まり、毎金曜日に続けられると書いてあります。それに四旬節第三週には、ハインリヒのために劇場コンサートを一つ、いつか確実にやること、私に早く来てくれなければ困る、――それにこの前の土曜日には、アルターリアに100ドゥカーテンで売った自分の六曲の四重奏曲を、彼の親友のハイドン、それに他の親しい友人たちに聞いてもらうことになっているとも書いてあります。最後はこうです。「さて、取りかかっているぼくの協奏曲の仕事にまたかかります。さようなら!」

 

この予約演奏会は、ノイエ・マルクトにある市営のカジノ《ツア・メールグルーベ》で、211日、13日、25日、34日、11日、18日に行なわれたが、モーツァルトは自分の晴れ舞台の初日に間に合うよう、父親に早くヴィーンに来るよう催促した。レーオポルトは128日午前7時にヴァイオリンの弟子であるハインリヒ・マルシャンとザルツブルクを出発して、午後7時にヴァッサーブルクに到着、翌29日午前5時半にヴァッサーブルクを出発して午後1時にミュンヘンに到着した。ミュンヘンで26日まで過ごした後、27日午前8時に出発し、アルトエッティングで一泊。翌8日午前5時か5時半頃に出発して、ブラウンアウ・アム・インで通関検査を受け、昼食後リートに向かった。午後4時半にリートに到着、そこで3台目の替え馬をしてハークに出発。大雪で馬車が溝にはまって立ち往生した際、体半分が雪に埋もれてしまい、御者に引き出してもらわなければならなかった。4時間後にハークに到着。翌9日午前9時にハークを出発してランバッハに午後130分到着。昼食抜きで旅行を続け、午後2時にエンス、10日はペルシュリングに到着。そして、雪、氷、穴ぼこだらけの道路を通って11日金曜日の午後1時に、シューラーシュトラーセ846番地の2階に着いた。当時、モーツァルトが住んでいたところはヴィーンの中心、聖シュテファン大聖堂の近くにある、後年「フィガロハウス」と呼ばれるようになる住居である。2階に4室と2つの小部屋があり、家賃は460フローリン(レーオポルトがザルツブルクで借りていた「タンツマイスターハウス」は90フローリンだった)であった。モーツァルトはヴィーンの一等地にある超高級住宅に暮らしていたのだから、父親が驚いたのは無理もない。こうして、父親と対立していたモーツァルトが最後の親孝行をする、2ヶ月半が始まったのである。

モーツァルトは父親がヴィーンに到着する前日、210日に「自作全作品目録」に次のように記入している。

 

クラヴィーア協奏曲。伴奏、ヴァイオリン2、ヴィオラ2、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニとバス。

 

このニ短調協奏曲は、翌日、211日(金)にメールグルーベの市営カジノで初演されたが、レーオポルトからザルツブルクの留守宅を預かっている娘に宛てた216日付の手紙に初演の様子が記されている。

 

当日の晩には、私たちはあの子の最初の予約演奏会に出かけましたが、身分の高い人たちがたくさん集まっていました。・・・(中略)・・・演奏会はまことに素晴らしいものでしたし、オーケストラも見事でした。いくつかの交響曲のほかに、イタリア語劇場の女歌手がアリアを二曲歌いました。それからヴォルフガンクの素晴らしい新作のクラヴィーア協奏曲がありましたが、私たちが着いたときには、写譜屋はまだそれを書き写しているところだったし、お前の弟はロンドをまだいちども弾き通してみる時間がなかったのです。彼には筆写譜に目を通す必要があったからです。

 

ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」KV537では、ピアノの左手パートの伴奏はほとんど記入されておらず、右手についても第二楽章ではアウトラインしか記入されていないが、ニ短調協奏曲の第二楽章でも同様である。この楽章を記譜された通りに演奏すると、何か物足りないものを感じてしまう。モーツァルトは11日から始まる予約演奏会の初日に新作の協奏曲を間に合わせなければならなかったが、自分でこの協奏曲の独奏を受け持つので、細かい音符まで記譜しておく必要がなかったのである。実際、モーツァルトは、178469日父に宛てた手紙の中で、ピアノ協奏曲第16番ニ長調KV451の第二楽章、5663小節目の部分について以下のように述べていることから考えても、モーツァルトの上品さを損なわない程度にいくつかの音符を補うべきであると考える。

 

でも、どうかお姉さんに伝えてください、どの協奏曲にもアダージョがなくて、アンダンテばかりだって。――ニ長調協奏曲のアンダンテの、ハ長調のソロの部分にも、書き加えるべきものがあることは、まさに確かです。――できるだけ早くそれを書いて、カデンツァと一緒にお姉さんに送りましょう。

 

ニ短調協奏曲のモーツァルトオリジナルのカデンツァは現存しておらず、後年、ベートーヴェンやブラームスによって、それぞれ非常にベートーヴェン的な、あるいはブラームス的なカデンツァが作曲された。これらのカデンツァは突然の様式の変化にもかかわらず、現在でも多くの演奏家に愛用されている。ベートーヴェンはこのニ短調協奏曲を好んで演奏したが、モーツァルトの演奏について次のようにカール・チェルニーに語っており、モーツァルトの演奏スタイルを知る上で非常に興味深い。

 

ベートーヴェンは晩年私に次のように語った。彼はモーツァルトの演奏をしばしばきいたが、当時はまだフォルテピアノの考案が初期の段階で、モーツァルトはその頃、流行のフリューゲルで演奏するのが常であった。しかも、彼の演奏は決してフォルテピアノには適さなかった。・・・モーツァルトの演奏は「繊細ではあるが、細かく切り刻む演奏で、レガートではなかった。」

 

モーツァルトが残したカデンツァを分析したスコダは、次のように述べている。カデンツァは三部分から成っており、(1)カデンツァの開始は(a)楽章の主題の一つで始められるか、(b)一部は新しく着想され、一部はすでに知られたヴィルトゥオーゾふうな走句で始められるかであり、(2)中間部分は第一楽章の重要な主題が動機をゼクエンツふうに発展させ、多くは長く保持された低音が和音に導かれる。これからさらにいくつかのヴィルトゥオーゾふうの走句や分散和音がつづいたのち、(3)カデンツァの終結に到り、ふつうは一つのトリルで終わる。しばしばカデンツァと混同されるアインガンクは、カデンツァとは異なり楽章の主題とは関係ないことが多く、走句、跳躍、自由な経過、装飾などから成り立っており、二つの部分を橋渡しする役目を果たしている。スコダはベートーヴェンが作曲したニ短調協奏曲のカデンツァを「ベートーヴェンの書いたカデンツァは彼の最上のものとはいえない。緊密さがかけており、あまりに多く新しい気分に移りすぎる」と評し、自ら『モーツァルトの要求を顧慮した』とするカデンツァを提案している。しかしながら、そのカデンツァもモーツァルトの様式とはかけ離れたものであり、モーツァルトが作曲したオリジナルのカデンツァの発見が待ち望まれる。モーツァルトが作曲したカデンツァであるが、演奏会直後には楽譜にされていたことが確認されている。

 

私は写譜屋に家に来てもらいましたが、この男は実際にいま、おまえのために三種の変奏曲を写しています。これは私が支払います。そのあと、カデンツァを手に入れるよう頼みます。それにまた、版刻されているものも買いましょう。(325日付の父から娘宛の手紙)

 

私は二曲の新作の協奏曲、それにカデンツァを全部、そしていろいろな変奏曲を持っていくことでしょう。全部もう手に入れています。(48日付の父から娘宛の手紙)

 

父親の帰郷後、息子から送られてきた協奏曲の楽譜を娘に転送しているが、そのときの手紙にモーツァルトが述べたと思われる演奏に関する指示が認められる。

 

協奏曲を一曲同封します。アダージョ楽章はロマンスです。テンポは速く取って、速い三連符でもって、激しい響きを引き出せるくらい速くするのです。これはロマンスの第三ページに出てきますが、正確に練習しなければなりません。そうすれば主題は生気を失うことはありません。同様に最初のアレグロ楽章でも、速いパッセージのあとはイン・テンポを取る必要があります。別の協奏曲を送ったら、この曲はまた私に送り返してください。そうすれば、楽譜に数字を書くことができます。(178614日付の父から娘宛の手紙)

 

また、1786322日、ザルツブルクで開いた音楽会でヴィーンに同伴させた弟子のハインリヒ・マルシャンにこの協奏曲を演奏させた模様を、323日付の父から娘宛の手紙からうかがい知ることができる。

 

マルシャンは短三度を伴うニ調の協奏曲を弾きましたが、これはこのあいだおまえに送ったものです。おまえがクラヴィーア独奏譜を持っているので、かれは総譜から弾いて、ハイドンが譜めくりをし、技巧上の作りや絡み合い、それにこの協奏曲のむずかしさを理解してくれたのは嬉しいことでした。・・・(中略)・・・午前中に練習があり、ロンドは三回やりましたが、オーケストラがきちんと合うまででした。というのも、彼はこの楽章をかなり速く弾いたからです。

 

さて、ニ短調協奏曲のスコアを見ていると第一楽章の第88小節から第90小節にかけて奇妙な5つの音符が記されていることに気づく。どうがんばっても左手では届かない音である。これらの音符に関して、当時の記録をもとに考察してみよう。

 

310日にブルク劇場で行なわれた演奏会の広告に以下の記載がある。

 

1785310日、木曜日、楽長モーツァルト氏は帝室王室国民宮廷劇場において自己のための大演奏会を催す。彼は完成したばかりのフォルテ・ピアノ協奏曲を演奏する。特に大型のフォルテ・ピアノ・ペダルが即興演奏に用いられる。その他の作品は当日の大ポスターで見られたい。

 

この前日39日にピアノ協奏曲第21番ハ長調KV467が完成している。また、滞在中の父親からザンクト・ギルゲンに住む娘に宛てた312日付の手紙に、

 

おまえの弟のフォルテピアノのフリューゲルは、私がこちらに来てからというもの、すくなくとも12回は、家から運び出しては劇場に、それとも別の邸に運ばれているのです。あの子は大きなフォルテピアノ用ペダルを作らせましたが、これはフリューゲルの本体の下にあり、60センチほどの長さで、びっくりするくらい重いのです。毎金曜日にはメールグルーベに運ばれ、またツィヒー伯爵やカウニッツ伯爵の邸にも持って行ったのでした。

 

これらのことよりこれらの5つの音符はペダルで演奏していたことがわかる。この部分は、ペダルの音をピアノ譜に書き込んだ唯一の場所である。スコダはこの重要な音を省かねばならないのは非常に残念で、レコード録音やラジオの放送では聴く人からの印象を得ないので、場合によってはこれらのわずかの音をピアノのすぐそばにいるヴァイオリニストに弾いてもらうこともできる、と非常にユニークな提案をしている。この提案を受け入れる前に、モーツァルトがペダルで弾いたのはこれらの5つの音だけなのかと疑問になる。オーケストラによる序奏の後に第77小節で独奏ピアノが始まるが、第88小節までペダルの音は登場しない。その後フィナーレの最後まで、ペダルの音は記載されていない。しかし、よく響くように改良された現代のグランドピアノとは異なり、当時のピアノフォルテでは、非常に効果的に思えるこれらの低音を他の箇所で使わなかったとは考えにくい。また、作曲の途中で気が変わり、フォルテ・ピアノ・ペダルを使用するのをやめたとも考えにくい。演奏会で独奏するのはモーツァルト自身なので、書く必要がなかったと考えるのが合理的である。何しろ、演奏会当日、写譜屋がパート譜を写譜するのをチェックするのに忙しく、ロンドを弾き通してみる時間すらなかったのであるから。どの部分でモーツァルトは低音部を補強したのか、さらに、度々ヴァイオリニストが横から低音を弾いている姿を想像するのは結構楽しい。是非、今日の演奏会では試してみたいものである。

 

【参考文献】

 

1.   海老沢敏,高橋英郎, モーツァルト書簡全集VI,白水社 (2001)

2.   エヴァ+バウル・バドゥーラ=スコダ (渡辺護訳), モーツアルト演奏法と解釈,音楽の友社 (1963)

3.   ウリ・モルゼン編 (芹澤尚子訳), 文献に見るピアノ演奏の歴史,シンフォニア (1986)

4.   オットー・エーリヒ・ドイチュ,ヨーゼフ・ハインツ・アイブル編 (井本晌二訳),ドキュメンタリー モーツァルトの生涯,シンフォニア (1989)

5.   Frederick Neumann, Ornamentation and Improvisation in Mozart, Princeton University Press (1986)

6.   Paul Badura-Skoda, Kadenzen zu den Klavierkonzerten, Bärenreiter (1967)

7.   Hans Engel und Horst Heussner, Konzert in d für Klavier und Orchester KV466, Bärenreiter (1961)

8.   Christoph Wolff und Christian Zacharias, Konzert für Klavier und Orchester d-moll Nr.20 / KV 466, C. F. Peters (1992)