ごあいさつ

 

大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩

 

 本日は、私ども大阪モーツァルトアンサンブルの創立20周年記念第40回定期演奏会にご来場賜り、誠にありがとうございます。大学院の学生を中心に結成した当初から一貫して「モーツァルトの音楽の理解を深め、できる限りモーツァルトが意図したとおりに演奏する」ことを目標に掲げており、自発的なアンサンブルを実現するため指揮者をおかずに演奏活動を続けて参りました。リハーサルでは常に熱い議論が繰り広げられ、演奏会のための5回のリハーサルのうち1回がほとんど楽器を使わずに討論に充てられることも、夜を徹して議論されることもありました。しかし、音楽を職業としない者の集団では技術の向上や理論構築に費やせる時間には限りがあり、前述した理想目標の実現には程遠いことを思い知らされたこの20年でした。ここで、20年前第1回演奏会を開催した折に、創立者の一人である伊東信宏(現大阪大学大学院文学研究科助教授)がご挨拶で述べたものを再掲いたします。

 

 何世紀も前に死んだ男の残した楽譜をもとに、ほとんど地球の裏側とも言えるような遠い国で、音楽を生業とするわけでもない学生が集まって演奏する――こんなふうに考えてみればわかるように、学生オーケストラというものの活動は、実に奇妙なものです。我々、大阪モーツァルトアンサンブルの十数人も、やはり学生オーケストラのメンバーであるのですが、百数十人の部員を抱える団体の中では、この奇妙さを実感するのは稀なことです。毎年似たような時期にある演奏会とそのための練習や合宿。いったい何が楽しくて我々は、この考えてみれば奇妙なことをしているのか。何のために、とは問わないにしても。

 ともすれば見失われがちなその答えを、我々はもう一度手許に引き寄せたいと考えました。モーツァルトを弾くということ、それも何人かで弾くということ、しかも他人の前で披露するということ、それらの喜びと厳しさをもう一度取り戻したかったのです。十数人という少人数や、指揮者なしで演奏するという形態も、当世はやりの「真正なるモーツァルトの響き」を再現しようなどという大それた目的によるのではなく、上のようなもくろみの帰結なのだとお考えください。

 最後になりましたが、今日我々の演奏を聞くという形で、あるいは印刷その他の面で、我々の奇妙な活動を支えてくださった皆様方に、深く感謝します。

 

 この20年間、様々な出会いがありました。もちろんモーツァルトとの出会いもそうですが、友情出演していただいたソリストの皆様、特に、スベトラ・プロティッチ先生にはエンドレスのリハーサルで「音楽」をご教授いただきました。関西モーツァルト協会例会に出演させていただいた浄守志郎先生、阪神淡路大震災以降、多大なご支援をいただいた高橋英郎先生。別れもありました。初代コンサートマスターだった伊東信宏はプロフェッショナルの音楽学者になるために、またヴァイオリンの小堀恵美さんとフルートの盛智恵子さんとの永遠の別れ。

 本日20年をかけましてモーツァルト交響曲全曲演奏を完了するに至りましたのも、本日ご足労頂きました皆様を始め多くの方々のご理解、ご支援の賜物と深く感謝いたします。この場で20年前のご挨拶を再掲させていただきましたが、初心に戻って次の10年後に向けた演奏活動を行ってまいります。今後ともご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。

 

モーツァルトの音楽

 

 モーツァルトの音楽をベートーベンやシューベルトの時代の前に位置付けられるというよりも、むしろヘンデルやバッハの時代の後に位置付けられると考える方が理解しやすいと思います。ですから、モーツァルトの音楽を理解するためにはバロック音楽や非常に影響を受けた同時代の他の作曲家、たとえばハイドンの音楽を理解することもきわめて重要です。そのため、演奏会にはモーツァルトの作品だけでなく、ヘンデルやバッハ、ハイドンなども取り上げてまいりました。多くの方より「モーツァルトアンサンブルなのだからモーツァルト以外の曲を取り上げないでほしい」というご意見を頂戴いたしますが、モーツァルト自身1787年10月、プラハで『ドン・ジョヴァンニ』が初演された晩、リハーサルを指揮していたクシャルツに次のような言葉を残しています。

 

「ぼくの音楽が簡単にこの頭に浮かんでくると思うなら、それは誤解だ。実際、ぼくほど熱心に作曲を勉強した者はいないよ。有名な音楽の大家で、ぼくがその作品を懸命に、しばしば何度も、研究しなかった人はほとんどいないくらいだ。」(ニーメチェックの『モーツァルトの生涯』より)

 

 モーツァルトがJ.C.バッハ、アーベル、ハイドン兄弟、ヘンデルなどの大家が残した曲を写譜したり編曲した事実がこれを証明しています。また、「モーツァルトは楽譜に細かい指示をしていないので解釈が難しい」と、しばしば耳にいたしますが、他の同時代の作曲家と比較するとモーツァルトほど事細かく指示している作曲家はないように思います。この時代の音楽様式、演奏スタイルを理解すればするほど、モーツァルトの細かな指示は明確に浮かび上がってくるのです。

 一つの例を紹介しましょう。ピアノ協奏曲第23番イ長調KV488の第二楽章のテンポ表示は「アダージョ」となっています。しかし、この曲がメランコリックな嬰へ短調で、「アダージョ」のテンポ表示であることから来る印象だけでこの曲をとてつもなく遅いテンポで弾いてしまってはいけないのです。モーツァルトが何故この曲のテンポを「アンダンテ」でなく「アダージョ」としたかを考えるとき、この曲がシチリアーノという舞曲形式だということを認識することは極めて重要なことなのです。モーツァルトは、「この曲はシチリアーノだけれど速くせず表情たっぷりに弾いてね」、と言っているだけなのです。スコダが「モーツァルト演奏法と解釈」で述べているように、モーツァルトが後の世代の人々が緩徐楽章をセンチメンタルにひきずる傾向があるということを知っていたら、「アンダンテ」と記載したことでしょう。テンポはそれで曲が変わってしまうほど音楽の性格を決めてしまう重要な要素です。

 

モーツァルトのテンポ

 

 モーツァルトも1777年10月24日、アウグスブルクから父に宛てた手紙の中で、「音楽でもっとも必要不可欠のもの、いちばんむつかしいもの、とくに大事なもの、それはテンポです。」と語っています。そうしますと、モーツァルトが意図したとおりに演奏するためにはモーツァルトが意図したテンポで演奏することが重要であると言うことになります。ではテンポをどのように決めればよいのでしょうか。17世紀には既にクロノメータという一種のメトロノームが発明されていましたが、モーツァルトの時代にはまだ一般的ではありませんでした。フリードリッヒ大王の音楽教師ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツが1752年に著したフルート奏法試論には、「アレグロ・アッサイ」、「アレグレット」、「アダージョ・カンタービレ」、「アダージョ・アッサイ」の4つの基本テンポは、それぞれ順に半分の速さであると記されています。「アレグロ・アッサイ」のテンポは、一般的な偶数拍子の場合は一脈拍の間に半小節、アラ・ブレーベ(二分の二拍子)の場合は一脈拍の間に一小節とあり、ここで一脈拍とは個人差があって曖昧なので、一分間に約80回打つ脈拍を基準とするとあります。昔の人の脈は速かったんだなあというのは少し横においておいておきましょう。ちなみにモーツァルトの交響曲第40番ト短調KV550のフィナーレはアラ・ブレーベで「アレグロ・アッサイ」ですから、二分音符=160というテンポになります。

 少年時代にモーツァルトに2年間師事したヨハン・ネポムク・フンメルが、モーツァルトの交響曲第40番ト短調KV550をフルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための四重奏曲に編曲した楽譜にはメトロノーム記号が記載されていて、当時の演奏のテンポを正確に知ることができます。それによりますと、第一楽章(モルト・アレグロ)は二分音符=108、第二楽章(アンダンテ)は八分音符=116、第三楽章(メヌエット)は付点二分音符=76、フィナーレ(アレグロ・アッサイ)は二分音符=152になっています。フンメルのこのメトロノーム記号はどれ位信憑性があるのでしょうか。メアリー・ノヴェロが行なったピアノメーカー・シュタイン社を経営していたシュトライヒアとのインタビューにフンメルとモーツァルトの親密な師弟関係が出てきます。『フンメルは5年間モーツァルトの家に住み込みで勉強しました。よくモーツァルトが家に帰って来て、何か一緒に弾こうと思った時、眠っているフンメルを叩き起こして弾かせることになったそうです。少年が眠い目をこすって気乗りしない様子だと、先生は水を一杯飲ませて、「さあ、いい子だからね」となだめ、それから二人で弾くのでした。』 (1829年ノヴェロ夫妻の旅日記より、フンメルは7歳で既に天才ピアニストであったが、5年間というのはシュトライヒアの思い違いで、9歳の1785年からの2年間、モーツァルトに師事した。)この記述だけでメトロノーム記号の信憑性を議論するわけにはいきませんが、モーツァルトはフンメルに特別な思いで接していた事がわかりますし、フンメルもモーツァルトの後期交響曲やピアノ協奏曲を室内楽に編曲したり伝記を編纂するなど、終生師匠を敬愛していました。

 このテンポ表示の中でメヌエットのテンポは、現代私達が知るメヌエットのテンポと違い非常に速いことに気がつきます。(トリオについては特にテンポを遅くするという指示はありません。)当時、メヌエットのテンポは速かったのでしょうか。1789年から1793年の間にエステルハージで製作された機械仕掛けのオルガンにはハイドン作曲の二つのメヌエットが残されていて、それらテンポもやはり速い(付点二分音符=63と76)のです。こういった基本的な情報と、モーツァルトが残した楽譜からもモーツァルトが意図したテンポが炙り出されてきます。

 いくつか例を紹介しましょう。オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』KV588序曲の最初の14小節からなる序奏部は「アンダンテ」の速度表示ですが、8小節目の3拍目からの6小節と半分のフレーズが、続く「プレスト」の228小節からの13小節で再現されます。『ポストホルンセレナーデ』KV320の第一楽章も最初の6小節のからなる序奏部は「アダージョ」の速度表示ですが、続く「アレグロ」の152小節からの12小節で再現されます。これは、何を意味しているでしょうか。前述のクヴァンツの考え方と同様、「アンダンテ」は「プレスト」の半分の速さ、「アダージョ」は「アレグロ」の半分の速さで演奏すれば、序奏部と主部に継続性を持たせることができるだけでなく、曲の後半で序奏部がまったくそのまま再現されるのです。モーツァルトが作曲した序奏付きの曲を調べていくと、序奏と主部共にアラ・ブレーベもしくは四分の四拍子の場合は、基本的に「アンダンテ」から「プレスト」、「アレグロ・アッサイ」もしくは「アレグロ・モルト」へ、「アダージョ」から「アレグロ」へ移行することが判明します。モーツァルトは極めて几帳面な人で、このルールはかなり厳格です。ただし、いつも序奏と主部が同じ拍子とは限りません。例えば、『ハフナーセレナーデ』KV250のフィナーレは四分の四の「アダージョ」の序奏と八分の三拍子の「アレグロ・アッサイ」の主部から成り立っていますが、この場合でも八分音符=付点八分音符の速度になり、継続性があるのです。セレナーデKV204の第六楽章では、四分の二拍子の「アンダンティーノ」と八分の三拍子の「アレグロ」が交互に現れますが、この場合も四分音符=付点四分音符で曲がスムースに進行します。このように、モーツァルトの音楽において、テンポの継続性は重要な要素であり、曲のテンポを決める手がかりになっています。注意しなければならないのは、速度表示がモーツァルト自身によるものでない楽譜があるということです。また、これまで見てきたように同じ速度表示でも拍子によって速度は異なるということです。それは、前述のクヴァンツのフルート奏法試論でも拍子とパッセージに含まれる音符(八分音符だけなのか、三十二分音符も含まれるのか、三連符なのか)によって速度が変わると述べていることと一致します。

 序奏つきの交響曲をいくつか見てみましょう。KV.318は四分の四拍子の「アレグロ・スピリトーソ」から八分の三拍子の「アンダンテ」、これは四分音符=八分音符、KV.425は四分の三拍子の「アダージョ」から四分の四拍子の「アレグロ」、これは八分音符=四分音符、KV.504は四分の四拍子の「アダージョ」から四分の四拍子の「アレグロ」、これは八分音符=四分音符、KV.543はアラ・ブレーベの「アダージョ」から四分の三拍子の「アレグロ」、これは四分音符=付点二分音符とすることで序奏から主部へスムースにつなぐことができます。ジャン・ピエール・マーティのモーツァルトのテンポに関する研究において、個人的には彼の主張を完全に受け入れることはできないのですが、モーツァルトが使用したテンポ表示を網羅的に解析し、拍子ごとに分類して具体的な速度案を提示しています。彼は指揮者なのですが、KV.543の「アダージョ」を多くの指揮者がいまだに8つで振ることを批判しています。私もこの意見には賛成で、これらの交響曲の序奏は一般的に演奏されているテンポより速いテンポで演奏されるべきなのです。

 初期の作品になってくるとそれほど単純ではなくなってきます。KV.74のテンポ表示はモーツァルトによるものではありませんが、四分の四拍子の第一楽章(アレグロ)から八分の三拍子の第二楽章(アンダンテ)への移行する際、第二楽章の最初の二小節は第一楽章の最後の二小節と同じ音型を利用することで継続性を出しています。この場合は、八分音符=八分音符です。KV.141aは、アラ・ブレーベの「アレグロ・モデラート」から四分の三拍子の(アンダンテ)、八分の三拍子の「プレスト」へと続きますが、二分音符=四分音符=付点八分音符の関係にあります。KV.161aも、四分の四拍子の「モルト・プレスト」から四分の二拍子の「アンダンテ」、八分の三拍子の「アレグロ」と続き、四分音符=八分音符=付点八分音符の関係です。KV.213cでは、八分の六拍子の第二楽章「アンダンティーノ」から四分の二拍子の第三楽章「プレスト・アッサイ」に移行する部分も連続性があり、八分音符=四分音符になっています。これまで述べてきた事はあくまで原則論であって、前述のクヴァンツも「協奏曲やシンフォニアのアレグロのような速い曲の場合、聴衆を睡くさせないためにその曲を二回目には一回目より幾分早く演奏することを推奨していますし、L.モーツァルトも名著バイオリン奏法の中で、『(メトロノームが一般的でなかった当時の)作曲家がいかに言葉をたくさん使っても、求める速度を正確に言い表すことは不可能で、演奏者は曲そのものから演繹し、判断しなければなりません。この時にこそ音楽家の本当の価値が間違いなくわかるのです』と述べています。

 

『ドン・ジョヴァンニ』のテンポ

 

 さて、本日演奏する『ドン・ジョヴァンニ』の序曲のテンポについて考えてみましょう。モーツァルトが作曲したオペラの序曲を調べて見ますと、前述の『コシ・ファン・トゥッテ』KV588はアラ・ブレーベ(二分の二拍子)の「アンダンテ」から「プレスト」、『魔笛』KV620はアラ・ブレーベの「アダージョ」から「アレグロ」、『ドン・ジョヴァンニ』KV527ではアラ・ブレーベの「アンダンテ」から「モルト・アレグロ」となっています。これまで述べてきた原則論からいくと全て四分音符=二分音符の関係になります。コシ・ファン・トゥッテ』と『ドン・ジョヴァンニ』を比べると、「プレスト」、「モルト・アレグロ」と主部のテンポに違いがあることがわかります。アラ・ブレーベの「モルト・アレグロ」といえば、前述した交響曲第40番ト短調KV550の第一楽章と同じで、フンメルの速度表示にもありますように、「プレスト」、「アレグロ・アッサイ」より少し遅いテンポです。ですから、『ドン・ジョヴァンニ』の「アンダンテ」は『コシ・ファン・トゥッテ』の「アンダンテ」よりそれに応じて少し遅めのテンポということになります。このように同じ「アンダンテ」でも微妙にテンポが違っていることに気づきます。

 ところが、『ドン・ジョヴァンニ』はこの微妙な違いを通り越して、なぜかアラ・ブレーベ(二分の二拍子)の「アンダンテ」ではなく、四分の四拍子の「アダージョ」で演奏されることが一般的です。これは何故でしょう?『ドン・ジョヴァンニ』の序曲の冒頭部分は、騎士長の石像が突然登場する第2幕第15場のクライマックスでも再現されます。モーツァルトはここでもアラ・ブレーベの「アンダンテ」で開始し、騎士長がドン・ジョヴァンニの手を握る瞬間、複縦線に加えて「ピュウ・ストレット」と記し、「悔い改めよ、生き方を変えるのだ!」と迫ります。ドン・ジョヴァンニの「いやだ!」で一切を断ち切ったあと、騎士長の「もう、時間がない」と静かな5小節のつなぎを経て、方々から火が燃え上がって大地がゆれ、地下の亡霊の合唱が始まるところで「アレグロ」になります。この部分は、四分の四拍子の「アダージョ」で始まり、「ピュウ・ストレット」でなぜか急に楽譜通りの二拍子の「アンダンテ」になり、二拍子の「アレグロ」へ移行するのが一般的な演奏のようです。私はこのやり方を非常に疑問視しています。まず、「ピュウ・ストレット」ですが、これは〈いっそうせきこんで〉と訳され、少しテンポアップします。ちなみに「ストレット」自身の意味は「緊迫した、差し迫った」で、この場面ではぴったりです。この場合、二拍子の「アンダンテ」から二拍子の「アレグロ」へ移行するためのテンポと考えればよいと思いますが、冒頭を四分の四拍子の「アダージョ」で始めてしまうと、この部分でかなり速度を速めて帳尻を合わさなければならなくなっているのです。そんなに速度を速めなければならないのなら、「ピュウ・ストレット」とするよりも新しい別のテンポ表示をすべきではないでしょうか。恐ろしい騎士長の亡霊が現れた時に、ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロが恐ろしさのあまり震えが止まらないシーンがあります。モーツァルトは震えているレポレッロを短休止符(ソスピーロ、溜息をつくという意味)から始まる三連符で表していますが、四分の四拍子の「アダージョ」のテンポではのらりくらりしていて全く緊張感が無く、そこからレポレッロが恐ろしさのあまり震えている状態を感じることはできません。どうしてこのようにモーツァルトの指示と異なるテンポで演奏されるようになったのでしょうか。前述のメヌエットのテンポ同様、200年という年月の間に人々の感性が変化してきたからと考えるのが合理的と思われます。ジューヴが書いた『モーツァルトのドン・ジュアン』と言う名著があります。そこには、弦楽器が奏でるリズムを「石像が大地を歩く足音の模倣」と表現しています。L.モーツァルトの言葉を思い出してみましょう。『作曲家がいかに言葉をたくさん使っても、求める速度を正確に言い表すことは不可能で、演奏者は曲そのものから演繹し、判断しなければなりません。』曲そのものから石像が大地をゆっくりと歩くことを連想し、テンポを判断してしまったのです。もし、これが、「緊張のあまり心臓が飛び出すくらい周囲に聞こえる鼓動」と連想すれば、テンポは別のものになったかもしれません。もちろん、演奏者は曲そのものから演繹し、判断しなければなりませんが、作曲家が言い表している速度表示を無視しては話になりません。

 

新モーツァルト全集と交響曲全曲演奏について

 

 新モーツァルト全集が編纂され、自筆譜を元にした原典版がベーレンライター社などから入手できるようになってモーツァルトの意図が非常に明確になってきました。しかし、自筆譜を拠り所にした原典版が唯一真正な楽譜であると考えるのはあまりに早計です。と、言いますのも、自筆総譜から作成されたパート譜に、作者自身の最終的な指示が書き込まれていることがあるからです。この場合、最終的な変更を自筆総譜に戻って修正するということはなされませんから、パート譜がモーツァルトの意図に最も近い版ということになります。もちろん、自筆譜とパート譜で違いがある場合、そのパート譜がモーツァルトの意図するものの場合もありますし、そうでない場合もあるでしょう。この判断は非常に難しいものがあります。また、演奏現場でしばしば問題になるのは、提示部と再現部のアーティキュレーションに統一感がないことがよくあるということです。モーツァルトが再現部で意図的に変化させたのか、次から次へと湧き出る曲想に見直すという作業が時間の無駄に感じられたのか、全くわからないのです。こういった問題箇所をどのように演奏するか延々ディスカッションするわけですが、正解があるわけではありません。また、通常トランペットとティンパニはセットになっているものですが、モーツァルトの初期の作品ではトランペットのパートは総譜にあってもティンパニのパートが記載されていないことがあるのです。これは作曲に使用した五線紙の段数が少ないため全ての楽器に充てられないという事情もありましたが、当時、ティンパニ奏者は第二トランペットの楽譜を代用するか、それを元に別途作成するのが習慣だったのです。私達がこれまで補筆したティンパニのパートがモーツァルトの意図したものに沿っていたと信じたいところです。装飾法やリズムの変更など当時の演奏スタイル(お約束事)は、前述のクヴァンツのフルート奏法試論、父レオポルト・モーツァルトのヴァイオリン奏法、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハのピアノ奏法が大いに参考になりました。また、フレデリック・ニューマンの装飾法に関する研究は大変優れたもので、演奏の際にしばしば参考にさせていただきました。

 1862年、植物学者であり鉱物学者であったルードヴィッヒ・リヒター・フォン・ケッヘルが編纂したモーツァルト全作品のカタログが出版されて以来、1905年(第2版)、1937年(第3版)、1964年(第6版)と改訂が重ねられてきました(第4版、第7版、第8版は増刷しただけで中身はそれぞれ第3版、第6版と同じ)が、最新版においても必ずしも真正なモーツァルトの楽曲が作曲年順に並べられているわけではない事が最近の研究成果で明らかになってきています。そのため、コーネル大学のニール・ザスロウ教授らは、最近の研究成果を考慮した「ノイエ・ケッヘル」を2005年に出版する計画にしています。それまでの間、何をもってモーツァルト交響曲を全曲演奏したとするかについては議論の余地がありますが、セレナーデから抜粋した交響曲、オペラから転用した交響曲など、基本的にはザスロウ教授のリストに従いました。C.F.アーベルの交響曲の編曲、M.ハイドンの交響曲に追加した序奏などもモーツァルトの手が入っているので演奏曲目に含めました。複数の版がある場合はそれも追加しました。ただし、前述しました通り、一曲の交響曲に対して、パート譜の書き込みまで加えると非常に多くの版が存在する可能性がありますので、完全に全て対応しているとは言い切れません。ケッヘルカタログ第6版で真正なモーツァルトの作品とされている交響曲の中にも偽作と判断されている曲(KV16a)、疑問視されている曲(KV42a、KV73lなど)もありますが、それも演奏曲目に含めました。

 

交響曲イ短調KV16a

 

 今回、取り上げました交響曲イ短調KV16aですが、1983年に世界各国の新聞がモーツァルトの交響曲発見と報じた曲なので、ご存知の方もおられるかも知れません。ライプツィッヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社がモーツアルトの死後、彼の曲を妻や姉、写譜屋、音楽家などから集めた時に、冒頭の4小節を用いたカタログを作りました。その中にこの曲が含まれていたのです。しかし、楽譜そのものはその後失われてしまいました。ケッヘルはモーツァルトの全作品目録を作成した時に、4小節のみ判明しているこの交響曲を疑わしい作品として、Anh.220という番号を付与しました。その後、ケッヘルカタログ第3版を編纂したアルフレート・アインシュタイン(彼は特殊相対性原理で有名なアルバート・アインシュタインの従弟にあたります)が、4小節からのインスピレーションで、C.F.アーベルやJ.C.バッハの影響を読み取り、交響曲第1番変ホ長調KV16の直後にかかれたものであると推定し、KV16aという番号を付与しました。その後、1982年に、デンマークのオーデンセオーケストラの図書館員により、ケッヘルカタログに掲載されていた4小節のモチーフで始まる交響曲の楽譜が発見されたのです。デンマークの音楽学者ラールセン教授はこの曲を本物と断定し、シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の性格を帯びていることから、1760年代から1770年代の作曲と推定しました。その後、ベーレンライター社よりレンタルの楽譜が出版されましたが、ザスロウ教授などはモーツァルトの曲ではないと断定しています。私達がこのレンタル楽譜を手にしたのは10月のある日。私達も冒頭の第1小節のオーケストレーションを見ただけでモーツァルトの曲ではないと直感しました。

 

父の死

 

――死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。――ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。――でも、ぼくを知っている人はだれひとり、付き合っていて、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。――そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。――

 

 1787年4月4日、モーツァルトが父に宛てた手紙(これが父への最後の手紙になってしまいました)に、死に向かっている父に対する深い愛情を読み取ることができます。父は5月28日早朝に息を引き取りました。享年68歳。その12日前の5月16日、アンリ・ゲオンが《死の五重奏曲》と名づけた弦楽五重奏曲ト短調KV516が作曲されています。5月末日には、ゴットフリート・フォン・ジャカンに宛てた手紙の中で、深い悲しみを伝えています。

 

お知らせするが、きょう帰宅したとき、ぼくの最上の父が亡くなったという悲しい知らせを受け取った。――ぼくの心のうちを察してくれたまえ!――

 

 また、6月2日に姉に宛てた手紙に、現在、ヴィーンを留守にするわけには行かないことを伝えています。何故なら、モーツァルトは10月の「ドン・ジョヴァンニ」公演に向けて、3月頃から作曲を始めていたからなのです。

 

ぼくらの最愛のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、ぼくにとってどんなに辛かったか、容易に想像してもらえるでしょう。この喪失は、ぼくら二人にとって同じものなのですから。――いま差しあたって、ヴィーンを留守にするわけにはいかないし(お姉さんを抱擁する喜びのためには、むしろ発ちたいのですが)、それに亡きお父さんの遺産相続については苦労するほどのこともないでしょうから、正直なところ、競売に付すということで、あなたとまったく同意見です。

 

 6月4日には「死んだむくどりを悼む詩」が書かれます。

 

ここに眠るいとしの道化、 一羽のむくどり。

いまだ盛りの歳ながら 味わうは 死の辛い苦しみ。

その死を思うとこの胸はいたむ。

おお読者よ! きみもまた 流したまえ一筋の涙を。

憎めないやつだった。 ちょいと陽気なお喋り屋。

ときにはふざけるいたずら者。 でも阿呆鳥じゃなかったね。

いまごろあいつは天国で ぼくを讃えているだろう、無償なる友情の詩を。

突如血を吐き、召された時に、

まさか主人がこんなにも 見事な韻文詩人だと ついぞ思ってもみなかった。

1787年6月4日          モーツァルト

 

 父レオポルド・モーツァルトの作品には茶目っ気たっぷりの楽しい曲がたくさんあるのは、ご存知でしょう。誰もが知っている「おもちゃのシンフォニー」(カッサシオ)を始めとして、「音楽のそりすべり」、「田舎の結婚式」、「田園交響曲」など。玩具や鈴、バグパイプにハーディガーディ、ピストル、アルペンホルンと様々な楽器が登場します。大阪モーツァルトアンサンブルでもたびたび演奏会に取り上げて参りました。

 

「音楽の冗談」ヘ長調KV522

 

 「死んだむくどりを悼む詩」が書かれた10日後、自作作品目録に

 

6月14日

音楽の冗談、アレグロ、メヌエットとトリオ、アダージョ、フィナーレから成る。

――ヴァイオリン2、ヴィオラ、ホルン2とバス

 

と記載されます。この奇妙な曲はこれまで父の死を悼んで父のトリオソナタから題材を利用して作曲されたと言われてきました。1802年にヨハン・アンドレから出版された楽譜の表紙の挿絵には、2人のヴァイオリン奏者、ヴィオラ奏者、2人のホルン奏者、コントラバス奏者の6人が描かれており、モーツァルトが約10年前にザルツブルクで作曲した5曲のディベルティメントの編成を連想させるものです。ヴィーンの音楽家に比べればはるかに演奏技術が劣るザルツブルクの音楽家、当時の作曲家の稚拙な作曲技法をパロディにした、そう考えられてきました。ところが、アラン・タイソンが、自筆譜に使用されている五線紙を慎重に調査したところ、1784年から1785年に使用された五線紙、1784年と1786年に使用された五線紙、1787年夏までに使用された五線紙の三種類が使用されていることが判明したのです。これらから、第一楽章のパート譜は1785年末以前より書き始められ、遅くとも翌1786年末以前にはこの楽章が完成されていた可能性を指摘しています。もしこれが事実であるなら、父の死がこの曲を作曲する動機になったと考えるのは無理があるようです。とかく親子の葛藤がクローズアップされ、このような曲をモーツァルトが父に捧げたというストーリに仕立てたいという伝記作家の気持ちはわからないでもありませんが、上述したような父に対する愛情を考えれば、父の死後2ヵ月後の1787年8月10日に完成した、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』KV525を父に捧げたというのが本当のところかもしれません。

 奇妙なことに第一楽章の第二ヴァイオリンは二種類の自筆パート譜が残されています。新モーツァルト全集の編集者アルバート・ダニングは、この二つのパート譜は少し異なっていて、互いに補完しているので第二ヴァイオリンを2人で演奏したと推定しています。しかし、アンドレが出版の際、採用した第二ヴァイオリンのパート譜は前述しました1787年夏までに使用された五線紙が使用されて作曲された方であり、二つの自筆パート譜を比較すると、後で作成されたパート譜の方が整然と書かれていますので、単に改訂版を作成しただけかもしれません。ちなみに本日の演奏では、アンドレが採用した第二ヴァイオリンのパート譜を使用します。第二ヴァイオリンが2人でなかったとしても、1802年に出版された楽譜の表紙の挿絵にあるように本当に6人で演奏するのかという問題も議論されています。しかし、2ヵ月後に作曲された、5楽章(第二楽章のメヌエットは行方不明になっている)からなる弦楽セレナーデ『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』KV525の楽器編成は、自作全作品目録には低音部を「バッシ」と複数形で記載しているのに対して、『音楽の冗談』KV522では「バッソ」と単数形であることから、『音楽の冗談』の低音部はアンドレの挿絵どおりコントラバスだけで演奏されることを意図していると思われます。自筆譜はアンドレからフランツ・シューベルトに渡り、シューベルトからアンゼルム・ヒュッテンブレナー(1794-1868)の手に渡りました。『村の音楽家の六重奏』という別名はヒュッテンブレナーにより名づけられたと言われていますが、1856年モーツァルトの生誕100年を記念してベルリンのシュレジンガー社から総譜が出版された時には『村の音楽家』というタイトルがつけられていました。

 

「罪を受けた放蕩者 あるいは ドン・ジョヴァンニ」KV527

 

 父の死から4ヵ月後、父親の死というショッキングな場面から始まるオペラがプラハで上演されることになります。1787年9月29日付けの義兄宛ての手紙で、モーツァルトは月曜日の早朝にプラハへ旅立つので、父の遺産配分1000グルデンの為替手形をミヒャエル・プフベルク宛てに送るよう、述べています。プフベルクはたびたびモーツァルトが借金をすることになる織物商で、当時、後にレクイエムの作曲を依頼するヴァルゼック伯爵が所有する建物に住んでいました。10月1日、妻コンスタンツェとヴィーンを発ったモーツァルトは10月4日にプラハに到着します。台本作家のローレンツ・ダ・ポンテ師も10月8日に到着。10月14日に、ザクセンの公子アントン・クレメンスとその花嫁、ヨーゼフ2世の姪である大公女マリア・テレージアに対する表敬祝賀として、新作のオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を上演するためです。ところが、ヴィーンの親友ジャカンに手紙で以下のように伝えています。

 

10月15日

きみはたぶんもうぼくのオペラが終わったと思っているだろうけれど――それはちょいと早とちり。第一にここの劇場の人たちは、ヴィーンの連中のように器用じゃないから、こんなオペラをそう短期間に練習して覚え込むなんてできないだよ。・・・(中略)・・・そこできのうは、煌々と飾られた劇場でぼくの『フィガロ』が上演され、ぼく自身がその指揮をした。・・・(中略)・・・『ドン・ジョヴァンニ』は、いま、24日に決まったよ。

21日

初演は、24日に決まっていたけど、女の歌手がひとり病気になって、さらに延期されることになった。――一座は少人数なので、興行主はいつも心配して暮らし、できるだけ座員を大事に労わらなくてはならない。さもないと、思いがけない病気などで、オペラがまったく上演できないような最悪の状態に陥ることになる!――そんなわけで、当地ではなんでも長びく。というのは歌い手たちが(怠け者)でオペラの稽古日に練習しようとしないし、興行主は(恐れと不安から)彼らに強いて稽古させようとしないからだ。しかし、一体どういうことなんだろう?こんなことって、あってよいものだろうか?

 

モーツァルトがかなり苛立っている様子がうかがえます。皇子と大公女のために作曲した新作オペラですが、結局準備が間に合わず、プラハで大人気だった『フィガロの結婚』が代わりに上演されることになりました。『ドン・ジョヴァンニ』が初演されたのは、両殿下がドレスデンに旅立った後の10月29日だったのです。モーツァルトの自作全作品目録には、

 

10月28日、プラハにて

罰せられた放蕩者、またの名、ドン・ジョヴァンニ、二幕のオペラ・ブッファ。――楽曲、24曲。役者。女性。テレーザ・サポリーティ、ボンディーニ、ミッチェリ。男性。パッシ、ポンツィアーニ、バリオーニ、ロッリ。――

 

と記載されています。

 ここで、一つの逸話を紹介しないわけにはいかないでしょう。妻コンスタンツェがモーツァルトの死後、再婚したゲオルグ・ニコラウス・フォン・ニッセンに語ったところによりますと、「10月27日にゲネラルプローベ(総稽古)を終えたモーツァルトは、徹夜で序曲を書かなければならないので、コンスタツェにポンチを作って傍で一夜を明かしてくれるよう頼んだ。コンスタンツェはアラビアン・ナイトの一節や、シンデレラの物語などを話し続けなければならなかった。やがてポンチは彼に眠気を催させ、妻の話が途切れると居眠りをし、話が始まると気がついて、また仕事に取りかかった。いっこうに仕事がはかどらないので、コンスタンツェは一時間後に起こしますからとモーツァルトをその場に眠らせた。モーツァルトがあまりよく眠入ってしまったので起こす気になれず、そのまま二時間が過ぎて、彼が眼を覚ましたのは、朝の5時だった。やがて写譜屋が約束通り7時に取りに来た時、この序曲は出来上がっていた。」ということです。

 初演が何度も延期になり、いらいらしていたモーツァルトが本当に初演の前日まで序曲を作曲せずにいたのでしょうか?この逸話の真贋はともかく、1829年7月にコンスタンツェから聞いた話(つまり42年前の思い出)としてメアリー・ノヴェロは日記に次のように記しています。

 

彼が『ドン・ジョヴァンニ』の序曲を書いている間、夫人も一緒に徹夜で起きていたことを、夫人は認めました。彼はしばしば午前2時まで作曲をし、4時に起きたものです。この無理が彼の生命を縮めるのに手を貸したのです。

 

モーツァルトはどんな気持ちでこの父親の死で始まるオペラを書いたのでしょう。フランシス・カーは「モーツァルトとコンスタンツェ」の中で次のように述べています。

 

モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」の中に、今は世にない父親への、紛れもなく彼自身の感情と思われそうなものを投入している。ドン・ジョヴァンニはドンナ・アンナの父親を殺してしまうが、あとで父親はドン・ジョヴァンニの所業を罰するために霊界から戻ってくる。石像となって再びこの世に戻った舞台の父親の姿は、モーツァルトに人間の肉体を与え、彼を職業音楽家に仕上げた彼自身の父親とみることができる。モーツァルトは、父親が、彼の結婚、ザルツブルクの聖なる雇主へのエゴイスティックな反抗、知的に独立したいというこれみよがしの態度、公職に依然として付けない事実、そうしたことにいたく失望したことを知っていた。モーツァルトは父レーオポルトに負った借りを常に意識していた。慎重で忠誠心に厚かったレーオポルトは、息子の自信過剰な態度をつねに意識し、おそらくはそのことに苦しみ悩んでいたことだろう。

 

ピアノ協奏曲第26番二長調「戴冠式」KV537

 

 モーツァルト夫妻がプラハでの滞在を終えヴィーンに戻った頃、1787年11月15日、グルックが世を去ります。彼の後任としてモーツァルトには皇王室宮廷音楽家の称号と年棒800グルデンが与えられ、舞踏会で使用する舞曲を数多く書くことになります。ちなみに当時の宮廷楽長はジュゼッペ・ボンノ(1788年没)とアントーニョ・サリエーリ(1788年就任)でした。こうして1787年が終わるのですが、父レーオポルトを始め、C.F.アーベル(6月20日)、親友で同い年のフォン・ハッツフェルト伯爵とジークムント・ハフナー(6月24日)、姉ナンネルの義理の息子ヴォルフガンクとモーツァルトの身近な人が相次いで亡くなり精神的に大打撃を受けた年でした。

 年が明け、1788年2月24日、ピアノ協奏曲第26番二長調KV537が完成します。この曲は「戴冠式」という名で知られていますが、これは、モーツァルトの死後の1794年、オッフェンバックのヨハン・アンドレがピアノ協奏曲第19番ヘ長調KV459とこの曲を出版した時の楽譜の表紙に「レオポルトU世の戴冠式の折にフランクフルト・アン・マインで作曲家自身によって演奏された」という但し書きがあることから、そう呼ばれるようになりました。この演奏会は、作曲から2年半後の1990年10月15日のことです。1790年2月20日にヨーゼフU世が崩御して弟のレオポルトU世が新皇帝に即位しましたが、フランス革命後、世の中の不安定感が増す中、新皇帝は色々な諸問題に取り組まなければならなかったのです。そんな忙しいレオポルトU世がモーツァルトに見向きもしてくれないので、モーツァルトは自分の存在感をアピールするために色々策略をめぐらさなくてはなりませんでした。宮廷作曲家に任命されていたにもかかわらず、この戴冠式のために派遣されたヴィーンの宮廷楽団員の一行に加えてもらえなかったモーツァルトは、義兄のフランツ・ホーファーと、銀製品を質に入れて借りた金を持って、馬車でフランクフルトに赴くのです。そしてそこで催した演奏会のプログラムには、こう記載されています。

 

慈悲深き許しを得て1790年10月15日金曜日、楽長モーツァルト氏は市立大劇場で自己のための大演奏会を催す。

第一部    モーツァルト氏の新しい大交響曲。シック夫人の歌うアリア。楽長モーツァルト氏の作曲、演奏によるフォルテピアノのための協奏曲。チェカレリ氏の歌うアリア。

第二部    楽長 モーツァルト氏自身の作曲による協奏曲。シック夫人とチェカレリ氏による二重唱。交響曲。

棧敷席と平土間席は一人2フローリン45クロイツァー。最上階棧敷席は24クロイツァー。入場券はモーツァルト氏、住所、カールベッヒャー通り167、木曜午後から金曜午前中まで、出納係シャイトヴァイラー氏気付。及び切符売り場で。開演は午前11時。

 

 この演奏を聞いたルートヴィヒ・フォン・ベントハイム=シュタインフルト伯爵の旅行記には、「最初はずっと以前に聞いたことのある美しい1、交響曲。次が2、誰だか知らないがイタリア女性のシェーナ、シック夫人は限りなく表情豊かに歌った。3、モーツァルトは自らの作曲による協奏曲を弾いた。比類なく優美で心地良かった。・・・(中略)・・・もう一曲モーツァルトの協奏曲。しかしこれは最初のもの程私には満足できなかった。・・・モーツァルトの非常に美しい幻想曲。(楽譜なしの)演奏で彼は自分の全才能を輝かせて見せた。・・・」と記されています。モーツァルトは背は低いが風采は非常に優雅で美しい飾りのついた褐色に輝くばかりの衣装を着けていたそうです。終演が2時になったので、皆が食を求めたため、この日の最後の交響曲は演奏されませんでした。ここで二曲の協奏曲の順番が議論されています。先に演奏されたのはピアノ協奏曲第26番二長調KV537だったのでしょうか、それともピアノ協奏曲第19番ヘ長調KV459だったのでしょうか。

 父親との書簡のやり取りは、モーツァルトの音楽活動を正確に浮き上がらせるものでしたが、父親の死後そうした情報がかなり少なくなり、この協奏曲がどういった経緯で作曲されたのかは全く不明です。ヴォルフガンク・レームは、1786年の待降節に行なった4回の予約音楽会と同じようなものを1788年の四旬節に行なうことを目論み、この曲を作曲したが、結局そのような予約演奏会は行なわれなかったとしています。しかし、この時期に全く演奏会がおこなわれなかったわけではありません。ツィンツェンドルフ伯爵の日記によると、「2月10日、ヴェネツィア大使邸でコンサートがありモーツァルトがピアノフォルテを演奏した」と記載されており、2月26日と3月4日にはヨハン・エステルハージー伯爵邸で、3月7日には帝室王室宮廷国民劇場において、C.P.E.バッハのカンタータ『キリストの復活の昇天』が演奏されましたが、86人のオーケストラ、30人の合唱団を指揮したのはモーツァルトだったのです。

 この協奏曲が初演されたのは、1789年4月14日であったとされています。ドレスデンに滞在中のモーツァルトが1789年4月16日夜11時半にヴァルゼック館のフォン・プフベルク気付でコンスタンツェに宛てた手紙に、「宮廷でぼくは新しい『二長調協奏曲』を演奏した。」とあるからです。モーツァルトは自作全作品目録に以下のようにこの協奏曲を1788年2月24日に完成したと記載していますが、1年以上も演奏せずに放置したという説を何の疑いもなく受け入れられるでしょうか。

 

1788年2月24日

クラヴィーア協奏曲二長調 ―― ヴァイオリン2、ヴィオラとバス。

フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2とティンパニ アド・リビトゥム(任意)

 

 さて、このアド・リビトゥムという記載ですが、それが、トランペットとティンパニを差すのか、管楽器全体をさすのか議論されています。アルフレート・アインシュタインは戴冠式コンサートで祝祭的な性格を出すためにトランペットとティンパニをあとで総譜に追加したとしていますが、この説は完全に否定されています。自作全作品目録の記述を見ても作曲当初から総譜に含まれていたのです。12段の五線紙に書かれた総譜の第一頁を見ますと、トランペット、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、ピアノ右手、ピアノ左手、バス、ティンパニという奇妙な順になっていることに気付きます。トランペットとティンパニは常にセットで、単独で使用されることはほとんどありません。ちなみに、ピアノ協奏曲第21番ハ長調KV467の自筆総譜も同じ12段の五線紙が使用されていますが、上から順に、ヴァイオリン(2段)、ヴィオラ、フルート、オーボエ、ホルン、ファゴット、トランペット、ティンパニ、ピアノ(2段)、バスとなっています。この奇妙な楽器の順番が第三楽章の173小節目から、突然、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニ、ピアノ右手、ピアノ左手、バスの順になります。これは何を意味しているでしょう。アラン・タイスンの使用五線紙の研究からも、第一楽章の前半と第二楽章は1787年5月までにモーツァルトが使用した五線紙が使用され、第一楽章と第三楽章は1788年の五線紙が使用されたことが判明しています。さらに、前田育徳財団所蔵の第二楽章のスケッチも1787年初頭に使用された五線紙で、下の段には1787年5月16日に完成した弦楽五重奏曲ト短調KV516のフィナーレが記されているのです。これらのことより、モーツァルトはトランペット、ティンパニを使用せずに、弦楽五重奏曲ト短調KV516と同時進行で作曲は進められましたが、1787年5月に中断し、1788年になって再開、第三楽章の途中で、これにトランペットとティンパニを加えることにしたと推測されるわけです。そうしますと、1787年の夏に何らかの演奏会が企画されたので、そのために作曲を始めたのですが、何らかの理由で途中で断念した、と考えるのが合理的です。1784年2月には、毎月曜日と毎金曜日がエステルハージー邸、毎水曜日はトラットナー邸、毎木曜日がガリツィン邸、毎土曜日がリヒター邸でサロンコンサートが行なわれていましたし、後述しますように、1788年6月にはトラットナー邸の新しいカジノでの演奏会が催されたというモーツァルトの手紙が残っていますので、記録には残っていませんが、1787年の夏にも同じような演奏会が企画されていたのかもしれません。1787年5月といえば、モーツァルトの父が亡くなった時期でもありますが、作曲を中断せざるを得なかった理由がそこにあったのかもしれません。

 横道にそれてしまいましたが、アド・リビトゥムの問題に戻りましょう。このアド・リビトゥムが何をさしているかという問題です。一説はトランペットとティンパニのみ、もう一つの説はトランペットとティンパニを含む全管打楽器という説です。これまでご紹介しました作曲の過程を考えますと、作曲当初はトランペットとティンパニを使用するつもりがなかったのですから、前者の説は妥当性があります。しかし、自作全作品目録には、上記のようにクラヴィーア協奏曲という部分とヴァイオリン2、ヴィオラとバスの部分にアンダーラインが引かれています。このアンダーラインは何を意味するでしょうか。1784年にピアノ協奏曲第14番変ホ長調KV449が作曲された時に自作全作品目録に記載されたものをみてみますと、以下のようになっています。

 

1784年2月9日

クラヴィーア協奏曲伴奏、ヴァイオリン2、ヴィオラ、バス、−(オーボエ2、ホルン2、アド・リビトゥム)

 

 管楽器を括弧でかこっているため、アド・リビトゥムが、管楽器を指していることは明らかです。また弦楽器だけでも伴奏できることを父親に手紙で知らせています。実際このようなピアノ協奏曲は他にもあり、1782〜1783年に作曲された第12番イ長調KV414(385p)、第11番ヘ長調KV413(387a)、第13番ハ長調KV415(387b)がそれに当たります。1783年4月26日、モーツァルトがパリの音楽出版者ジャン・ジョルジュ・シベールにあてた手紙で「私は三つのクラヴィーア協奏曲を完成しております。これはフル・オーケストラで演奏できますし、オーボエ、ホルンをつけても ―― あるいはたんに四重奏でも演奏可能です。」と、伝えています。ここで、ピアノ協奏曲第13番ハ長調KV415(387b)に注目してみましょう。この曲の管楽器の編成は、当初オーボエ2、ホルン2、ファゴット2でしたが、1783年、3月23日にヨーゼフU世の臨席のもとに行なわれたモーツァルトの演奏会の際に、「帝王らしさ」の装いを添えるために、トランペットとティンパニと追加しているのです。従って、この協奏曲は、当初、フル・オーケストラでも四重奏でも伴奏可能な、オーボエ2、ホルン2、ファゴット2、アド・リビトゥムで作曲しましたが、途中でトランペットとティンパニを追加したということですから、戴冠式協奏曲と成立の過程と非常に似通っているのです。以上、述べてきましたように、アド・リビトゥムがトランペットとティンパニを含む全管打楽器を指しているという可能性も否定することはできないのです。

 この協奏曲にはもう一つ問題点があります。それは、ピアノの左手パートの伴奏がほとんど記入されていないということです。右手についても、第二楽章ではアウトラインしか記入されていない部分もあります。モーツァルトが作曲した他のピアノ協奏曲でもアウトラインしか残されていない曲はたくさんありますが、この協奏曲に至っては、左手パートの伴奏が空白のままなのです。前述しましたように、1794年、アンドレからこの曲の初版が出版されましたが、そのときには、ヨハン・アンドレが左手パートを補筆したと考えられています。アラン・タイソンもこの現在私達が目にしている左手パートがモーツァルトに由来している証拠はないと断言しています。ところで、モーツァルトは自分でこの協奏曲の独奏を受け持ったので、空白のままでも演奏に支障はなかったかもしれませんが、それにしてもどうしてこんな不完全な形で、1788年2月24日の日付で自作全作品目録に記載したのでしょうか。私は何か急いで完成させなければならない理由があったのでないかと思います。2月頃にこの曲が演奏されたという記録は残っていませんが、「2月10日、ヴェネツィア大使邸でコンサートがありモーツァルトがピアノフォルテを演奏した」ということですから、同様のサロンコンサートは開催された可能性はあります。そういったコンサートにおいて、弦楽四重奏の伴奏で演奏するために急いで写譜屋に渡してパート譜を作らせたという可能性はないでしょうか。本日の演奏会では一つお断りしておかなければならないことがあります。それは、第一楽章の404小節目で第二オーボエのみ下降音形にスラーがかかっていますが、その理由がわからないのです。自筆譜のファクシミリを見てもはっきり第二オーボエだけスラーがかかっていますので、皆で非常に悩みましたが、本日の演奏では他の楽器との調和を整えるために、スラーをはずさせていただくことにしました。

 

度重なる借金

 

最愛の同士よ!

あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大の御好意をお願いします。――あなたには、まだ8ドゥカーテン借りています。――いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(そのときにはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。

 

 日付は確定されていないのですが、1788年6月と推定されています。フリーメーソンの盟友であった、ミヒャエル・プフベルクにあてた切実な借金依頼の手紙は20通にのぼり、その依頼合計は4000グルデンに達しました。100%モーツァルトの希望は叶えられなかったので、実際には計1415グルデン、約360万円の借金をすることになります。数日後には、また1年か2年、1000もしくは2000グルデンを然るべき利子で貸してくれるよう、せめて明朝までに2-300グルデンだけでも貸してくれるよう懇願しています。その手紙の追伸には、

 

追伸 お宅での小音楽会を

いつかまた開きましょうか?――

新しい三重奏曲を書きましたよ!――

 

と、あります。この三重奏曲はプフベルクに書かれたといわれている、ピアノ三重奏曲ホ長調KV542 (自作全作品目録には622日の日付で記載)です。またその数日後の627日にも、プフベルク宛てに窮状を訴える手紙を書きます。

 

正直に申し上げて、お借りしたものをすぐにお返しすることがどうしてもできないので、御寛大な猶予をお願いせざるをえないからです!・・・(中略)・・・私の現状は、どうしても借金せずにはいられないほど困窮しています。

 

この手紙の中で、モーツァルトはこの10日間に2か月分の仕事をしたと述べています。実際、彼の自作全作品目録には、

 

6月22日、ピアノ三重奏曲ホ長調KV542

6月26日、交響曲第39番変ホ長調KV543

6月26日、行進曲二長調KV544

6月26日、ピアノソナタハ長調KV545

6月26日、アダージョとフーガハ短調KV546

 

との記載があり、この時期に精力的に作曲が進められたことが裏付けられています。作曲のスピードは落ちることなく以下のように続きます。

 

7月10日、ヴァイオリンソナタヘ長調KV547

7月14日、ピアノ三重奏曲ハ長調KV548

7月16日、三重唱曲KV549

7月25日、交響曲第40番ト短調KV550

8月10日、交響曲第41番ハ長調KV551

 

 どうしてモーツァルトはこれほどまで借金せずにはいられないほど困窮していたのでしょうか。多額の借金は体が弱かったコンスタンツェの療養費に充てられたと考えられていますが、モーツァルトが1788年8月2日、ザンクト・ギルゲンに住む姉に宛てた手紙によりますと、

 

ぼくの宮廷務めの件についてお答えすれば、皇帝はぼくを御自身皇室にお抱えになられた、つまり正式に法令で布告されたのです。でも、差しあたってたったの800フローリンです。――とはいえ、だれも皇室でこれだけ多くもらっている人はいません。

 

と、伝えているのです。とてもプフベルクに宛てた手紙と同じ時期の手紙とは思えません。また、ヨアヒム・ダニエル・プライスラーの『フランス、ドイツ旅行記』によりますと、

 

1788年8月24日、日曜日・・・午後ユンガー、ランゲ、ヴェルナーが楽長モーツァルトを訪ねるために我々を迎えに来た。・・・(中略)・・・彼の妻が楽譜書きのための鷲ペンを削った。弟子が作曲した。4才の子供が庭の中を走り回り、レツィタティーフを歌った。

 

 確かに、ヴィーン市内から家賃の安い郊外に引越しを余儀なくされましたが、とても貧困で惨めな生活をしているようには思えません。確かに、モーツァルトは、宮廷から支給される800グルデンの年棒の他に、作曲料や、演奏料、レッスン料や出版で得た収入を合わせますと、当時のヴィーン総合病院の院長(年棒3000グルデン)まではいかないとしても、外科医長(同1200グルデン)をはるかに超える高給をとっていたらしいのです。(1グルデン=1フローリン銀貨、1ドゥカーテン金貨=4.5フローリン銀貨、1フローリン銀貨=60クロイツァー銅貨)

 

交響曲第40番ト短調KV550

 

 モーツァルトの最後の三大交響曲、第39番変ホ長調KV543、第40番ト短調KV550、第41番ハ長調KV551は貧困のどん底から誕生し、モーツァルトの存命中には一度も演奏されなかったと、まことしやかに語り継がれてきました。しかし、当初フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2および弦の編成で作曲された交響曲第40番ト短調KV550は、第二楽章の29小節目からの4小節と100小節目からの4小節で、管楽器に現れる旋律を弦楽器に移す修正が施されているのです。ロビンス・ランドンは、感情のきめこまやかなこの部分にわざわざモーツァルトが修正を施したのは、音色の理由よりも、実際的な理由、すなわち、当時のヴィーンの木管楽器奏者にとっては演奏が難しかったからではないかと推定しています。また、クラリネットを追加してオーボエパートを変更した修正版も作曲しています。これらの修正は実際に演奏が行なわれたことを証明するものであると考えられます。さらに、一連の交響曲は、モーツァルトの死後早くも2年後の1793年にはハ長調KV551が、1794年にはト短調KV550が、1797年には変ホ長調KV543がヨハン・アンドレから出版されているのです。これは当時これらの交響曲が広く知られていたことを示すものではないでしょうか。1789年5月12日、ライプツィヒで催された演奏会では、第一部の最初と最後に、第二部の最後にモーツァルトが作曲した交響曲が演奏されています。また、1790年10月15日に行なわれたフランクフルトでの演奏会を思い出してください。演奏会の最初に「モーツァルト氏の新しい大交響曲」が演奏されています。この演奏を聞いたルートヴィヒ・フォン・ベントハイム=シュタインフルト伯爵は、この「モーツァルト氏の新しい大交響曲」はずっと以前に聞いたことのある美しい交響曲であった」と旅行記に記しています。この演奏会で演奏されなかった最後の交響曲を含めて、これらの演奏会で用意された交響曲は三大交響曲のいずれかであったのではないかと考えられています。また、1991年4月16日と17日にブルク劇場で行なわれた演奏会でも最初にモーツァルトの交響曲がアントーニョ・サリエーリの指揮で演奏されていますが、この演奏会では、クラリネット奏者のアントーンおよびヨハン・シュタードラー兄弟が出演していたことから、交響曲第40番ト短調KV550の第二版が演奏されたのではないかと考えられています。(2004/11/19, 武本 浩)

 

【参考文献】

 

1.    海老沢敏,高橋英郎:モーツァルト書簡全集VI、白水社 (2001)

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3.    ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(ハンス・レニチェック,吉田雅夫 監修、石原利矩,井本晌二 訳):フルート奏法試論、シンフォニア (1976)

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5.    エヴァ+パウル・バドゥーラ=スコダ(渡辺護 訳):モーツァルト 演奏法と解釈、音楽の友社 (1963)

6.    アンリ・ゲオン(高橋英郎 訳):モーツァルトの散歩、白水社 (1964)

7.    P.J.ジューヴ(高橋英郎 訳):モーツァルトのドン・ジュアン、白水社 (1970)

8.    木村重雄:モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲、音楽の友社 (1954)

9.    アッティラ・チャンパイ,ディートマル・ホラント編(海老沢敏,竹内ふみ子,藤本一子 訳):モーツァルト ドン・ジョヴァンニ、音楽の友社 (1981)

10.フランシス・カー(横山一雄 訳):モーツァルトとコンスタンツェ、音楽の友社 (1985)

11.オットー・エーリヒ・ドイチュ,ヨーゼフ・ハインツ・アイブル編(井本晌二 訳)ドキュメンタリー モーツァルトの生涯、シンフォニア (1989)

12.大宮眞琴:モーツァルトの「戴冠式協奏曲」をめぐる4つの問題、音楽芸術、49, p46 (1991)

13.Jean-Pierre Marty: The Tempo Indications of Mozart, Yale University Press (1988)

14.Frederick Neumann: Ornamentation and Improvisation in Mozart, Princeton University Press (1986)

15.Neal Zaslaw: Mozart’s Symphonies – Context, Performance Practice, Reception, Clarendon Press Oxford (1989)

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17.Hans F. Redlich: Mozart, Ein Musikalischer Spass KV522, Edition Eulenburg (1955)

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20.Alan Tyson: Mozart, Piano Concerto No.26 in D Major (“Coronation”)K.537 The Autograph Score, Dover Publications, Inc (1991)

21.H. C. Robbins Landon: Mozart, Sinfonie in g KV550, Barenreiter (1958)

22.Alfred Einstein (A. Mendel, N. Broder translation): Mozart, his character, his work, Cassell (1946)

23.H. C. Robbins Landon: Mozart, The golden years, Thames and Hudson (1989)