セレナーデシンフォニー
武本 浩
「ハフナー交響曲」として知られる交響曲第35番ニ長調KV385は、元来ザルツブルク市長の息子ジークムント・ハフナーの爵位授与のお祝いの音楽として1782年7月に作曲されたのは、よく知られている。モーツァルトは翌年、行進曲を削除し、第1楽章と第4楽章にフルートとクラリネットを追加して3月23日、ヴィーンのブルク劇場で行った御前演奏会で、「新曲交響曲」としてデビューさせた。3月29日、モーツァルトが父に宛てた手紙に、第1曲目として「新ハフナー・シンフォニー」、第10曲目に「最初のハフナー・シンフォニーの終楽章」を演奏したと記している。この演奏会の第5曲目には「ぼくの最近のフィナール・ムジークから、小コンチェルタント・シンフォニー」が演奏されているが、これは「ポストホルンセレナーデ」KV.320からの管楽器のためのコンチェルタンテであると考えられている。このように、モーツァルトは自作のセレナーデの一部をある時には交響曲として、またある時には独立した協奏曲として演奏会で使用していたことがわかる。フィナール・ムジーク(最後の音楽)は、専門課程に進む前の2年間、教養課程で理論学(哲学)科と物理学を履修したザルツブルク大学の学生が、8月の同課程の修了試験後、教授たちに感謝するために演奏された。
きのうの日曜日の聖セシリアの祝日に、お姉さんは、チェッカレッリ、フィアーラと彼の奥さんを食事に招待しました。おまえのマンハイムからの手紙が着いた19日以来、私は夜眠ることができず、いつもおまえのことを思っていたのと、21日は、おまえの死んだ立派なお母さん(1778年7月3日モーツァルトと訪れていたパリで亡くなった)の生前、31年も一緒に暮らしていた結婚記念日だったから、お姉さんはこの私を元気づけようとしたのでした。食後にはブリンガーさん、主計官さん、オーボエ奏者のファイナーさん、ギロフスキー家のカテルルが射的にやってきました。それからコーヒーを飲みました。4時にはみんなでお芝居に行き、7時には宮殿に行って、フィアーラはコンチェルトを1曲吹きましたが、はじめのシンフォニーはおまえのフィナール・ジークのシンフォニーで、オーボエのソロつきのアンダンテとトリオを持っています。ブルネッティは必要なものを全部シュタードラーに頼み、宮廷に宛てて書かせました。彼らはかなりうまく演奏しました。(1778年11月23日ザルツブルクの父からマンハイム滞在中のモーツァルトに宛てた手紙より)
ここで父レーオポルトが言及している「フィナール・ジークのシンフォニー」は本日演奏する交響曲ニ長調KV203(189b)である。原曲のセレナーデと交響曲との関係は以下のようになっている。
MARCIA
KV237(189c) (行進曲)
Allegro maestoso –
Allegro assai 交響曲の第一楽章
(Andante) (バイオリン協奏曲)
MENUETTO mit Trio (バイオリン協奏曲)
(Allegro) (バイオリン協奏曲)
MENUETTO mit Trio (舞曲)
(Andante) 交響曲の第二楽章
MENUETTO mit Trio 交響曲の第三楽章
Prestissimo 交響曲の第四楽章