最初のシンフォニー

武本 浩

 

父を死の入り口まで連れてきた危険な喉の病気を治すために、(1764年)85日、ロンドン郊外チェルシーの家を借りなければなりませんでした。・・・父が重病で臥せっていたので、私達は鍵盤楽器に触れることを許されませんでした。そのため弟は暇つぶしに、オーケストラの全ての楽器、特にトランペットとティンパニを含んだ、最初のシンフォニーを作曲することになったのです。私は弟の横に座ってそれを写譜していかなければなりませんでした。弟が作曲し、私が写譜している間、弟は私にこう言いました。「ホルンが何か価値あることを出来るように僕に注意してね!」・・・それから2ヵ月後、父はすっかり良くなって私達はロンドンに戻りました。

これは、モーツァルトの姉マリア・アンナが1799年(当時48歳)に35年前の亡き弟を回想した記録である。なにぶん有名になった弟の35年前の話であるため正確さに問題があると思われるが、幼いモーツァルトの創作過程を窺い知る上で興味深い。モーツァルトが作曲した初期の交響曲のパート譜はマリア・アンナや父レーオポルトの筆跡で残されているが、姉が写譜した交響曲変ホ長調K.16のパート譜は現存していない。モーツァルトの自筆総譜は残されており、表紙にはレーオポルトの筆跡で「ヴォルフガンク・モーツァルト氏の交響曲、ロンドンにて、1764」と記されている。トランペットとティンパニを含んでいないのでマリア・アンナの回想録と異なり、モーツァルトの最初の交響曲であるか否かという議論は依然あるものの、8歳のモーツァルトが作曲した交響曲であることに違いは無い。この自筆譜を見ていると、他の現存する自筆譜と異なり、非常に多くの修正があることに気づく。中にはレーオポルトによる修正もある。斜線が入っている箇所、真っ黒に塗りつぶしている箇所、音符では修正できず、agと音名で記入している箇所などなど。そのなかで、大きな斜線で削除されているところがある。第一楽章の中間部4小節である。この部分は、第一楽章と第二楽章との間に書かれた10小節に置き換えるように指示されている。この修正に姉や父の助言があったのかどうか知る由も無いが、削除された4小節は8歳の少年が初めに考えたフレーズである。本日の演奏では交響曲第一番変ホ長調「初稿」としてこの4小節を復元する。

 

 

ミヒャエル・ハイドンとモーツァルト

武本 浩

 

17837月、モーツァルトは妻コンスタンツェを伴って父と姉が住む故郷ザルツブルクを訪れ、1026日、聖ペテロ大聖堂で「ハ短調ミサ」を演奏して翌日ザルツブルクを後にした。フェッツクラブルク、ランバッハを経由し30日にリンツに到着したモーツァルトは114日に劇場で演奏会を開くことになる。1031日トゥーン伯爵邸に滞在しているモーツァルトが父にあてた手紙には次のように記されている。

114日、火曜日、ぼくはここの劇場で演奏会を開きます。―――そして、ぼくは1曲もシンフォニーを持参していないので、大至急、新しい曲を書きます。その日までに完成しなくてはなりません。―――さて、終わりにしないといけません、もちろん仕事をしなくてはならないので。

このとき作曲されたシンフォニーが交響曲第36番「リンツ」K.425とされている。リンツに到着した1030日はエーベスブルクの行政官シュトイラー氏の邸でオペラを鑑賞し、31日はトゥーン伯爵邸で「とてもお伝えできないほど」歓待を受けた。おそらくそこで114日の演奏会の話が持ち上がったのであろう。そうすると114日の演奏会まで残された時間はたった3日である。その間に、作曲はもちろんのこと、パート譜の作成、オーケストラのリハーサルを行わなければならない。いくら神童モーツァルトと言えど、そのような神業が本当に可能であろうか。交響曲第36番ハ長調「リンツ」K.425は後に178441日ヴィーンのブルク劇場で演奏されているが、確かにトゥーン老伯爵のためにリンツで作曲されたことが、1784515日、父にあてた手紙で明らかになっている。さてここにもうひとつのシンフォニーがある。アダージョの序奏とアレグロ、アンダンテの前半はモーツァルトの自筆で、残りの部分は他人の筆跡という奇妙な楽譜である。この曲は1907年までモーツァルトの交響曲第37番ト長調K.444として知られていた。しかし、モーツァルトが作曲したのは序奏のみでアレグロ以降はミヒャエル・ハイドン(1737-1806)により1783523日、ニコラウス II ホフマンの献堂式に付随した祝祭のために作曲されことが判明し、ケッヘルカタログ第6版ではK. Anh. A53と番号が振られた。ヨハン・アンドレ以降オットー・ヤーンやルードヴィッヒ・ケッヘルもリンツでの短期間に作曲した交響曲が、このK. Anh. A53と推定してきた。序奏を追加するだけであれば、3日で新しいシンフォニーを完成させることは可能に思われたからである。しかしこの楽譜はアラン・タイソンの研究で、モーツァルトがザルツブルクからリンツを経て178312月、ヴィーンに戻った後にのみ、主に翌年2月から4月にかけて使用された五線紙であったことが明らかにされ、リンツで作曲されたという説は否定された。ではやはり交響曲第36番ハ長調「リンツ」K.4253日間で作曲されたのであろうか。これはまだなぞのままである。

ザルツブルクの宮廷、教会で活躍したミヒャエル・ハイドンは宗教音楽だけでなく、40曲以上の交響曲、ディベルティメント、セレナーデ、様々な楽器の組み合わせによる室内楽と多くの曲を残しており、モーツァルトも生涯を通して少なからず影響を受けた。1783年、ミヒャエル・ハイドンはコロレド大司教からバイオリンとビオラのための二重奏曲全6曲の作曲を依頼されたが、そのとき病を患っていたので、完成できないでいた。折りしもザルツブルクに滞在していたモーツァルトが、K423K424を作曲して急場を救ったのである。ミヒャエル・ハイドンは、モーツァルトの自筆譜を友情の記念として大切にしたと伝えられている。一方モーツァルトも1784515日に父に宛てた手紙の中で、ミヒャエル・ハイドンの新作交響曲3曲の総譜を持っていることを報告している。このK. Anh. A53の原曲Perger 16ト長調もモーツァルトが交響曲第39番変ホ長調K.543のモデルとしたPerger 17変ホ長調(1783814日作曲)もそこに含まれていたであろう。ザルツブルク帰郷の折にこれらを入手したのかもしれない。アダージョの序奏をつけてモーツァルト作曲として演奏会で使用したであろうことは容易に推測できる。なぜなら1984年、数多くの演奏会を行ったモーツァルトは数多くのシンフォニーを必要としたからである。ちなみにモーツァルトの妻コンスタンツェのいとこであるカール・マリア・フォン・ヴェーバーはミヒャエル・ハイドンの弟子であった。