雪のおもひで

 暖冬は東日本で雪が多いというが、年が明けてからほんとによく降る。雪に弱い東京の交通網はひどいありさまだ。そのあおりを食って、『どんどん』新春初夢ツアーまでおじゃんになってしまった。まったく、憎っくき雪メ、おまえのせいで、伊豆の豪華海の幸が幻となってしまったではないか! なんて、空に向かって吠えていても仕方ないから、今月はこたつの中でみかんでもむきながら雪にちなんだツーリングの思い出でもたどってみるとするか。

その一、『嗚呼、霧氷』

 あれは、俺がフリーのライターとなって、初のオートバイ関係の取材のとき、もう14年も前のことだ。
 O誌の姉妹誌でもあるゴーグル誌の依頼を受けて向かった先は、八ヶ岳の稜線にちかい本沢温泉。いちおう登山専門誌で仕事ししていたアウトドアライターとして、それっぽい取材をしてほしいというオーダーだ。
 登山シーズンには山小屋へに運びするジープしか入れない林道を、オフシーズンということで、特別の許可をもらって小屋までXL250Rで走った。
 八ヶ岳の中腹を取り巻く通称鉢巻き道路から、稜線へ向かって一気に登り始めると、積雪はまだたいしたことないが、空気まで凍てつくほどの寒さで、あたりの森は霧氷で真っ白だ。
 霧氷とは、空気中に漂う水分が、木の枝などにくっついて、そこで結氷する現象。雪がくっつく樹氷も美しいが、霧氷は、木々の細かい枝振りなどはそのままに、産毛のような繊細な部分まで形を残して白い氷のオブジェとなり、その繊細な美しさは、もう神の技としか形容できない。その中をオートバイで走る感覚は、言葉では言い表し難い。後にも先にも、あのときだけだ、あんな幻想的な風景の中を走った経験は。なに? そのときの写真はないかって。残念、あまりの美しさに気を取られて、写真をとることなんてすっかり忘れていたのだ。
 冬の八ヶ岳といえば、山のベテランだけに許された厳しい世界だ。自然条件が過酷なら過酷なほど、その織り成す造形は感動的だ。それは、人間にも言えるような気がする。逆境をいくつも潜り抜けてきた人間は、とても人に優しいものな。
 俺は、ジェットヘルに目出帽、しかもその口のまわりも霧氷という異様な我が身のことはさておいて、感動的な風景に心洗われながら、本沢温泉に到着した。
 ちなみに、この本沢温泉は、標高2500mの高所にある。日本でも一二を争う高さにある温泉なのだ。そして、2500mというと、下界でもだいぶ酸素が薄く、人によっては高山病を起こすほどの高さである。ちなみに、下界からオートバイで登ってきて、いい調子で温泉に浸かって、大酒を飲めば、けっこうな確立で高山病症状を呈するのは宜なるかなである。
 翌日、宜なるかなの俺は、ピッケルにアイゼンといういでたちで、よたつきながら天狗岳を目指した。ちなみに、そういう状態で冬山に登るなんてことは、良識ある大人は、絶対にしない。
 八ヶ岳の東側は、季節風の影になっているので、雪も少なく歩きやすい。ところが稜線に出ると、強烈なブリザードだ。体感温度は氷点下30度〜40度、とにかく露出している顔面がちぎれそうなほど寒い。いっぺんで宜なるかなは吹っ飛んだ。
 で、根性入れて天狗岳まで往復した俺は、再び温泉に浸かって凍えきった体を解かすと、帰路についた。
 本格的な冬山を制覇し、「それっぽい取材」というオーダーも見事に果たし、俺は満足感に包まれて、また霧氷のトンネルを抜けて下界へ向かう。
 その帰り道の国道141号清里付近。気持ちよくコーナーを抜けると、満面の笑みを浮かべた日本官憲が手招きしていた。
「はい、20kmオーバー、○万円ね。まいどありぃ」
 嗚呼、霧氷……もとい、嗚呼、無情。俺の二輪業界での仕事は、赤字で幕を開けたのだった。

その二、『オデンシャーベット』

 ほんとは、この話しは道路交通法違反だからまずいんだけど、もう時効は過ぎたはずだから、ばらしてしまおう。
 俺のオートバイ仲間は、昔一世を風靡したロックミュージシャンとか、昔ゲバ棒振るっていた鍼灸接骨の先生とか、いわゆるアウトローが多いんだが、そんな連中との酒飲み話しから、雪の山王林道越えをしようということになった。
 山王林道は、日光と奥鬼怒を結ぶ林道で、冬は積雪のため通行止めとなる。ここにノーマルのオートバイを持ち込んでもどうにもならんので、ATVで挑戦しようということになった。三輪や四輪のATVなら、多少の雪なら問題ないだろうというわけだ。
 雪深い光徳牧場駐車場に集結した俺達は、2ストのモトクロッサーのエンジンを搭載したスズキのクアドレーサー、ホンダの4WDの四輪ATV、三輪のATC90、ヤマハTW200という、ATVといっても、まったく性格の違うテンデンバラバラなマシンにまたがって突撃していった。これらは、どれもナンバーがついているモデルではないから、当然道路交通法違反である。
 ピーキーなエンジン特性で、どこへ行ってしまうかわからないクアド、コーナーでブレーキ掛けると、オートバイと人間が逆さまになって滑って行くTW、足手まといのATC、そして牛車のごとく鈍重だが堅実な4WDと、たちまち、俺達は離れ離れになる。
 4WDをチョイスした編集者は、みんなより1時間も前に山王峠に到着して、半分雪だるまになっていた。TWをチョイスした鍼灸接骨医はあちこちでコケまくり、脱臼した肩を自分で応急手当てしてたどり着いた。ATCをチョイスしたミュージシャンは、途中で頭にきて、自分の足で歩いてきた。そして、クアドをチョイスした俺は、行方定まらないマシンに振り回されて、汗だくで到着した。
 さて、なんとか生きて峠までたどり着いた我々は、おもむろに、編集者が担いできた『温めるだけオデンセット』を俺が担いできたガスコンロにかけた。30cm×40cm、深さ7cmの平らな缶に入ったオデンは、「温めるだけで六人分のあつあつオデンがすぐ出来上がり」という冬のアウトドア宴会定番商品である。
 吹雪の中、オデン缶を取り巻いた俺達は、激しく足踏みしながら、あつあつオデンの出来上がりを待った。横殴りの雪の中、じっとしていると凍えてしまうのだ。
「なあ、いくらなんでももう食えるだろ」
 30分もたった頃、待ちきれなくなったミュージシャンが、フォーク片手に蓋を持ち上げた。そして、おもむろにぶっといチクワにフォークを突き刺すと、口に入れた。
 シャリッっと、小気味いい音がした。
「うひだふん、ほれ、ひべたふって、はにひひる……」
 彼は、そう言うと、ぶるぶるっと身震いして、チクワを飲み下した。
「え、なんだって?」
「ダメだ、こりゃオデンシャーベットだよ。歯にしみる」
 でも、雪の中の悪戦苦闘で、猛烈に腹の減っていた俺達は、そのオデンシャーベットをシャリシャリとかみ砕いて、胃の腑に収めた。
 外と内から冷え切った俺達は、「こんなバカなこといったい誰が考えついたんだ?」と、憎悪むき出しの目で、まわりの連中を睨みつけた。
 そして、温泉のある光徳牧場まで転げ落ちるように下っていった。
 あの歯に染みるオデンの味は、今でも忘れられない。

その三、『賀曽利さん玉砕』 

 CCR、クレイジー・クルージング・ラリーといえば、今はなきオフ天で一世を風靡した、キレた企画シリーズだった。その記念すべき第一回は、冬のさなかに、東京を発って、山梨と静岡を結ぶ丸山林道を越えて名古屋まで至り、浜松の中田島砂丘で初泳ぎをしてくるという机上にしてすでに無謀な計画であった。
 これに参加したのは、賀曽利さんを親玉に、アウトドアスペースの小川氏、ライターの岡村氏、カメラマンの盛長氏、そして俺という、過酷でアホな取材の常連であった。そして、例によって、企画の立案者であるポン太は、土壇場で風邪を理由にばっくれたのである。
 さて、初日。中央道を走り始めていきなり寒風を浴びたわれわれは、早くも志気がダウンしていた。一人元気なのは、そう、元祖『野(たれ)宿ライダー』の賀曽利さんだけである。
 丸山林道に入ると、見るまに雪が深くなっていく。
 我々のマシン構成は、DT,CRMの2ストオフロードと、4ストオフロードのXLR250R、DR250。賀曽利さんは、XLRにまたがり、DRの盛長氏とともに急傾斜の雪道でもさほど苦労せずに登っていく。一方2スト勢の小川氏と俺(岡村氏は翌日に合流)は、コーナーの度にリアが流れ、一度止まってしまうと、なかなか再スタートが効かない。そのうち、日も暮れて、地獄の雪中行軍の様相を呈してきた。
 と、先に行った賀曽利さんが戻ってくる。
「どうしたんですか、内田さん」
「2ストだと、ピーキーで、うまくトラクションしないんですよ」
 と、俺。
 すると、賀曽利さんは、チッチッチッ、と指を振って、したり顔をする。
「雪道ではねぇ、2速スタートですよ」
「それぐらい、わかってますよ」
「それで、ゆーっくり半クラ使ってつながなきゃ。ちょっと、貸してみて」
 渡りに舟と、俺はCRMを賀曽利さんに委ねた。
 賀曽利さんは、半クラで、ゆっくりスタートしたのはよかったが、その後リアが流れて迷走状態である。
 俺はXLRに乗り換え、先に行けという賀曽利さんの指示におとなしくしたがって、キャンプ地まで登った。小川氏は、盛長カメラマンの手を借りて、なんとかキャンプ地までたどり着く。
 先についた俺達は、テントを張ったり、夕食の支度を進めた。
 それから小一時間して、ヘルメットを脱ぎ捨て、全身から湯気を上げながら、CRMを押しながら賀曽利さんがたどり着いた。
「やっぱり、雪道に2ストはダメですね」
 と、ひとこと言うと、その場にへたりこんだ。
 元気じゃない賀曽利さんを見たのは、それが初めてだった。
 だが、それもつかの間、彼は自分のザックから太巻きを一本取り出すと、バナナを食うように端からバクバクと平らげ、胃の腑に収めると、吠えるように言った。
「いやあ、雪のツーリング、最高ですねー!!」
 翌朝、テントから顔を出すと、賀曽利さんが、たき火でブーツをあぶっていた。
「何してるんですか?」
「ブーツが凍っちゃって、足が入らないんですよ。だから溶かしてるの」
 表に出しっぱなしだった俺のブーツもカチンカチンだった。
 その朝第一の大仕事は、ブーツに足を突っ込むことだった。
 雪にふりこめられて、つらつらといろんなことを思い出していたら、自分のアホな行状をほかにもいろいろ思い出してしまった。それにしても、脳天気なツーリング人生だと、思わず反省の新年であった。

 

[訃報]

 ツーリングライダーの先輩、西野始さんが亡くなった。
 西野始さんは、20代の前半に、日本を飛び出し、ヤマハのXT500を相棒に、世界中を4年半、15万kmにもわたって走り回りまわった。14年前、俺が駆け出しのライターとして、世界中を股にかけたツーリングライダーたちを取材してまとめた『オフロードライダー』(晶文社)に登場していただいた一人だ。
 静岡の農家に生まれ、小さい時から広い世界への憧れを抱きつづけ、学業の傍ら働き詰めに働いて資金を稼ぎ、大学卒業と同時に、その資金を基に世界へと飛び出していった。
 不安定な世界の中で、数々の危難に遭遇しながらも、思い通りの旅を続けた彼は、印象深い話をたくさん聞かせてくれた。「自然条件の厳しさは、首をすくめてそれが過ぎ去るのを待てばやり過ごすことができます。でも、政治の問題だけは、じっとしていれば向こうが通り過ぎて行ってしまうわけではない。これは、恐いですよ。日本人としての常識なんか何も通用しないんですから。でも、旅の魅力は、現地で出会う人との交流がいちばんなんですけどね……」。アフリカでスパイ容疑者として摘発され、危うく命を落としかけた彼は、その時のことを「この世って、カフカ的状況にあふれているんです」と、楽しそうに語っていた。
 俺がインタビューにたずねた静岡の喫茶店にギブスをした足を引き摺りながら現れた彼は、「長いツーリングをしたやつは、帰って一年以内にケガをすることが多いんだ。帰ったら気をつけろよって、アフリカで会ったイギリス人に言われたんですよ。なかなか気の利いた文句だなと思って、ぼくも旅先で出会う奴に、同じことを言ってきたんですけどね。自分で事故起こしてれば世話ないや」と、豪快に笑っていた。
 その後彼は、日本という狭い世界に、自分の間尺が合わないと感じたのだろう。薬剤師の資格を武器に、シンガポールへ渡り、薬局を開いた。そして10年あまり、ビジネスというツーリングに積極果敢にチャレンジした彼は、東南アジア各地に支店を出し、忙しく飛び回るようになった。
 その彼が、先月19日にインドネシアのスマトラ島で墜落したシルク航空機事故で亡くなったと知らせてくれたのは、やはり彼を良く知り、『オフロードライダー』にも登場していただいた賀曽利さんだった。「亡くなった日本人二人のうちの片方が西野さんだったんですよ。彼が、そんな形で亡くなるとは……」と、賀曽利さんは、電話口で声を詰まらせた。西野さんは、海外ツーリングに旅立つに当たって、その道のパイオニアである賀曽利さんに相談に行き、爾来、賀曽利さんを師のように慕っていたのだ。
 それは、まったく突然で、理不尽な死だ。
 でも、常に前向きに生きた西野始の魂は、彼を知るみんなの心の中でずっと生き続けるだろう。
 生きているわれわれは、前向きに生きた様々なひとたちの魂を受け継いで、より前進していかなければならない。彼らの魂に恥じないように……。

 合掌

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