デジャヴュ

 旅をしていると、デジャヴュ(既視感)にとらわれることがよくある。
 初めて訪れた土地なのに、以前に来たことがあるような気がする。分かれ道に差し掛かって、「さて、どっちに行こうか」と考えたときに、「そういえば、前にもまったく同じようにここで、どっちに行こうか思案したことがある」と、その光景とともに、ふいに思い出す。
 そんな経験をしたことがないだろうか?
 俺の場合、旅に出ると精神が開放されるためか、いろいろ不思議なことに出くわしたり、勘が冴えたりするが、とくにデジャヴュに出くわすことが多い。
 ある夏の昼下がり、三陸沿岸の港町。熱い太陽が照りつけ、人通りのない時間が止まったような通りを歩いていた。ある角まで来たとき、ふと、この路地を入ると、道端で煮干しを干しているおばあさんがいて、挨拶をすると、「どっから来なさった」と声をかけてくるんだよなと、はっきり意識した。そして、路地を曲がると、あらかじめ決められた芝居の舞台のように、すでに見知っている老婆がいて、「どっから来なさった」と、声をかけてきた。その場で立ち止まって、少し話しをする。その話しも、すでに一度経験したことを改めてトレースしているという意識がある。そういえば、デジャヴュの中でも、『これは以前に経験したことなんだ』というはっきりしたデジャヴュの意識がある。無限に続く入れ子のように、あるいは合わせ鏡の中の鏡の中の鏡のそのまた中の鏡……といったチェーンリアクション。
 シルクロードを旅していたときも、タクラマカン砂漠のど真ん中のオアシスで、以前にここに来たことがあるという強烈なデジャヴュを味わったことがある。
 よく考えれば不思議なことなのだが、その場ではごく自然に納得してしまっているのがデジャヴュの特徴だ。
 どうしてこういう現象が起こるのか? 
 じつは以前に訪れたことがあることを忘れていて、現場に再度訪れて記憶が甦るからという説がある。でも、それは風景だけならそういうことがないとも言えないが、俺が経験したような間違いなく初めて訪れた異国の場合や、人と出会うことまですでに予測してしまうといったケースにはあてはまらない。
 ほんとうは、その場での経験が先行しているのに、精神的な錯覚で、それが過去の記憶として追体験されてしまうのだという説がある。俺の例で言えば、老婆と出会って話しているのと同時に、それがビデオテープをまき戻して見るようにリフレインされてしまうということ。でも、どこか釈然としない。
 神秘主義の世界では、『アカシャレコード』という、この世の始まりから終わりまでの森羅万象あらゆる記録がパラレルに存在する異次元にあって、ふとしたきっかけでそれに触れると、過去の出来事を追体験したり、未来を体験したりすることになるという。デジャヴュは、『アカシャレコード』との一瞬の接触体験なのか?
 ユングの言うシンクロニシティとかライアル=ワトソンの唱えるコンティンジェントシステムとか、偶然の一致の中にある法則性を見つけようとする理論がいくつかあるが、そんなものにもどこか近いような気がする。
 いずれにせよ、日常生活の中ではあまり出会うことのないデジャヴュにでくわしたり、そんな体験を通して自分の中の何かが変わっていくようなことを体験できるのが、旅のいいところだと思う。

 

土地の記憶

 デジャヴュというのとはまたちょっと違うが、旅をしていると、土地と自分との相性のようなものを感じることも多い。
 理屈では説明できないが、「ここは、なんだか居心地が悪い」と思う場所がある。逆に、そこに立ったとたんに、暖かい雰囲気に包まれ、身も心も落ち着くスポットがある。
 九州の某所、俺は例によってソロツーリングだった。氷雨に打たれ、腹はペコペコで、早くどこかにテントを張って夕飯にしようと、山深い林道を走っていた。そのうち日が暮れ、もうどこでもいいやという気になり、道端の鬱蒼と葉を茂らせた大木の影にテントを張って、中に潜り込んだ。
 じつは、オートバイを止めたそのときから、どうも気分が良くなかった。なんだか、気持ちがゾワゾワして落着かないのだ。飯の支度をしていても、だんだんそのゾワゾワが大きくなってくる。そのうち、心の底から、「ここにいてはいけない」というささやきが聞こえてきた。人里からずっと離れているのに、何か得体の知れないものに取り囲まれている気配が、闇の深まりとともに濃厚になってくる。ほんとにヤバイと思った。ここにこのままいたら、絶対に良くない事が起こる。そんな確信に囚われて、あわてて荷物をまとめてその場から逃げ出した。その場所でとある因縁があると聞いたのは、しばらく後になってからだった。スティーブン・キングの小説ではないが、ホラーめいた嫌な因縁話しだ。
 そこまでいかなくても、一刻も早くここから離れたほうがいいと思う場所がある。
 2年ほど前の話しだ。
 オフロードやアウトドア好きな仲間数人で、信州のとある山の中でキャンプを張った。
 夜、たき火を囲んで酒を飲み、翌日、近くの岩場でロッククライミングの真似事をして遊んだ。ある大岩にとりついてさんざん遊んだ後、その岩の上で昼飯を食べて、雑談しているうちに、なんともいえない良い気分になって眠ってしまった。いい年こいた男が6人、トドの日向ぼっこよろしく平らな花崗岩の岩だなの上で、見事に熟睡してしまったのだ。2時間も眠っただろうか、目覚めると、みんな一様に、日常の諸々の疲れを吹き飛ばしたようなすっきりした気分になっていた。
 中国の風水やイギリスのレイラインという考え方には、人間の体に経絡という気の流れる道があるように、地にも気の流れる地脈というものがあって、その流れのいいスポットでは、生命力が満ち溢れ、逆に気の流れのよどむところでは生命に悪影響を及ぼすという。その地脈に体が反応するのだろうか?
 旅をしていると、ほんとに面白いことがたくさんある。だから、旅は止められない。
 この号が出る頃には、俺は中国にいる。またデジャヴュや、土地との相性といったことを経験するかもしれない。とにかく、どこかへ出かけるのは、楽しみだ。

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