99/12/03
どうせエベレストに登るなら、インド洋の浜辺から徒歩でてくてくと
あっというまに師走ですね。去年の今ごろは、事務所を開設するのに、あっちこっち駆けずり回り、手作りのデスクにオイルステンを塗って、へろへろのシンナー中毒になったりしてましたが、今年は、それに比べると落ち着いている…といえば、落ち着いています。
神宮前なんて、およそチンピラライターにはそぐわないところに、仕事場を置いて、半年で言い出しっぺの一人が離脱したり、ゲーム業界から離れて、出版界に舞い戻り、それがどうも景気悪くて、今度はデジタル業界にまたまた鞍替えして、ドサクサにまぎれてサイトを本にしたり……けっこう、激動の一年間でした。
2000年という年は、いったいどうなるのか、先行き不透明ですが、今を精一杯生きることが明るい未来に繋がると信じて、がんばっていこうと思ってます。
今月は、DDIポケットのテキストアドベンチャーゲームの第二弾が公開になります。こちらは、今、第三弾の執筆中です。それから、ショートストーリーの3DCGの企画などもあって、ちょっと忙しくなりそうな気配です。……デスクワークばかりしてないで、アウトドアへ飛び出したいです。
今日、オウム二法が可決されましたが、このところ、カルト絡みの事件が多くなってますね。
大洗のホテルに居座って贅沢三昧しているライフスペースとやらのなんとか言うオヤジとか、法の華だかの福永なんとかとか、麻原もそうでしたが、見るからにいかがわしいこの手の奴に、何故ひっかかるんでしょうか?
重病で藁にもすがりたい思いという人の気持ちは、わからないでもありませんが、べつに差し迫った何かに追われているわけでもないのに、カルトに引かれてしまうのは、この世紀末に、よるべき価値観が失われているせいでしょうか?
それにしても、拝むだけで救われるとか、金持ちになれるとか、人を出し抜けるとか、出世できるとか、そんなに都合いいことがこの世にあるわけないことは、普通の大人ならわかることだと思いますけど……。
山の頂きに立つためには、一歩一歩自分の足で着実に登っていく以外に道はないですよね。ヘリコプターを使ってエベレストの頂上に立ったって(ヘリじゃ、そんな高度までは無理かな(~_~;))、なんの喜びも得るものもありませんよね。
禅の世界では、しばらく修行して、世の中の原理を悟ってしまったように思える時期を『生悟り』というそうです。「私は、真理をこの手に掴んだ。これを世の人たちに知らしめ、苦悩を解いてやらなければ」と、メシア思想に駆られる。
そして、「自分は、世のために、自分が悟ったことを伝えるんだ」と活動をはじめるが、なかなかそれが受け入れられないと、「結局、この世に生きる者どもは、生きる価値のない下等な者なのだ。こいつらをみんなポアすることが、こいつら自身のためでもあり、世のためであるんだ」と、逆恨みに行き着く。
オウムなんて、まさにそのものでしたね。ちなみに、禅では、『生悟り』の段階は初歩の初歩で、それを乗り越えてから、ようやく本当の修行が始まるそうです。
超能力、UFO、リインカーネション、スピリチュアリズム、アルタードステーツ、トランスパーソナル……なんでも信じるのは自由ですが、それで、現実世界を忘れて、いつも夢見がちになってしまったら、気の抜けたただの「アホ」です。
そんな「アホ」こそ、生きる価値がありません。
最近、具体的なことがなにもなくて、大説ばかり打つ人が大勢いますね。それこそ、ヘリコプターでエベレストの頂上に立とうとしているようなものです。ぼくは、どうせエベレストに登るなら、インド洋の浜辺から徒歩でてくてくとスタートして、自然環境や民俗の移ろい、そして、苦しみや楽しみを肌と心でじっくりと感じ、味わいながら極めたいと思います。
ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』読み直しています。テンプル騎士団にまつわる陰謀史観を風刺しつつも、その奥にある本当の神秘を匂わせるエーコの力量には、惚れ惚れします。具体的なことをこれでもかこれでもかと突き詰めていったとき、「この世には、理屈では片付けられない、大いなる神秘があるんだ」と認識できる。それが、本物だと思います。
――― uchida
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