97/09/30
秋風とススキ

 いつのまにやら9月も最終日。東京でも、気持ちのいい秋風が吹いています。

 先週MTBで多摩川縁を走ったときは彼岸花が土手のあちこちで火を灯したように咲いていたのですが、それも姿を消して、ススキがなびいています。

 とくに暑さに弱いもので、こうして日も短くなって、日に日に風が冷たくなっていくと、逆に元気が増していく私です。

 先日、徹夜開けの時差ぼけ解消にとメラトニンを飲んで寝たのですが、翌日は、肌がツルツルして気味が悪いほどでした。最近、「若返りの薬」などともてはやされているメラトニンですが、この日は、ほんとにそんな効果があったような気がしました。その晩に深酒して、翌日二日酔いで、元の木阿弥ですが……。

 この薬は、アメリカではビタミン剤なんかと同じ健康補助食品として売られていて、誰でも気軽に買えるものですけど、日本では、薬事法で規制されているようです。なんとなく、その名からしてドラッグくさい印象ですが、どうなんでしょうかね。

 ドーパミンをドバッと出すセロトニンなんて薬も、アメリカでは気軽に買えるみたいですけど、これは、なんだかヤバそうに感じます。

 暑ささえなくなれば、疲れもとれて、ケミカルの力を借りなくても、前向きに行けそうです。 今年の冬は、バックカントリースキーに本腰入れようと思っているので、秋は、しっかりメニューを決めてトレーニングに励みます。

――― uchida

 

 
 

97/09/29
ポストモダンなんてたんなるフランス知識人のマスターベーション

 コリン・ウィルソンの『知の果てへの旅』(青土社)を読んでいます。

 『アウトサイダー』で、歴史に名を残した作家、思想家たちの創造の原動力となったものは、社会からの疎外感と月並みなことに対する憎悪であると看破したウィルソンが、さらに『アウトサイダー』で漏れたり、その後に登場した文学者、思想家たちの思想の源流を研究したものです。

 中に、フーコーやデリダといったポストモダンの思想家たちが取り上げられているので、興味を持って読み始めました。

 ぼくは今36歳ですが、ちょうど同じくらいの世代の人たちにとって、いちばんものを考える20代前半の思想的風土というのは、ポストモダン全盛期でした。浅田彰が『構造と力』で華々しく登場し、広松渉の『存在と意味』が一般の読書界にも登場するような状況で、その源流となったフランス現代思想がもてはやされた時代。

 じつは、ぼくも、大学のゼミでフーコーに始めて出会い、『監獄の誕生』をテクストとして読み解いていく中で、新しいパラダイムが、この世には存在するんだと、胸をときめかせていたりしたわけです。

 その後、同じフーコーの著作やデリダ、アルチュセール、それにレヴィ・ストロースといった定食コースをかじって、なんとなく、自分のスタンスができていったような気がしてました。

 そんなわけで、相当に辛口の批評をするコリン・ウィルソンが、このあたりの思想家たちをどのように料理しているのか、興味があったわけです。

 で、その内容はというと、一言で言ってケチョンケチョン。フーコーは、自分のアブノーマルを受け入れさせるためだけに、虚飾にみちた言辞のテクストを書いただけだし、デリダもただ自分の頭の良さをひけらかすためだけに、内容のないことを書き連ねただけ……といった具合。「ああ、俺の20代をいったいどうしてくれるんだぁ〜」と叫びたくなるような酷評でした。

 もっとも、じつをいえば、ウィルソンを読んで、いちいち、ごもっともということも多かったんですけどね。例えば、「デコンストラクシオン」=「脱構築」という言葉をデリダなんかはよく使ってましたけど、これなんか、どうためつすがめつしても意味がよくわからない。「デストラクション」=「解体」とどう違うのかという問いに対して、両者は本質的に違うのだと、アジるばかりだったりするわけです。

 よくよく考えると、ぼく自身は、ポストモダンの本質は、単純なアナーキズムだととらえていました。フーコーのメッセージは「権力はすべて権威という意識が生み出す。だから、何に対しても権威はいっさい認めるな」、デリダの「デンコンストラクシオン」は「デストラクション」そのもの、レヴィ・ストロースの「野生の思考」は、「唯物論だけでは割り切れない世界がある。それは、意識の世界だ」と、それぞれのテクストを自分勝手に単純化して取り入れていただけなんですね。

 だから、ウィルソンを読んで、「ああ、俺の20代をいったいどうしてくれるんだぁ〜」と叫びたくなるというより、何か、安心したところがあったりしたわけです。

 ウィルソンは、ポストモダンなんてたんなるフランス知識人のマスターベーションに過ぎなかったと弾劾してます。でも、ぼくは、ポストモダンの思想が、封建主義からファシス゜ム、デモクラシーからナショナリズム、あらゆる思想体系に対して疑問符をぶつけて、「何も鵜呑みにはしないぞ!」と、強い決意を表わしたものだとすれば、それはそれで価値がある思想だと思います。

 そして、何が言いたいかというと、インターネットは、まさにそういうアナーキズムを体現した場所であるということです。

 政府が何かを規制しようがしまいが、ウェブの網の目すべてをチェックすることはできないし、「これは価値があって、これには価値がない」といった権威による格付けも通用しません。そこがウェブのいいところだと思うわけです。これは一種のパンドラの箱で、こついが一度開かれたからには、もう、後戻りはできません。

 ということで、ウェブというツールを使って、面白いことをどんどん仕掛けていこうと思っています。

――― uchida

 

 
 

97/09/27
50歳の日本一周

 16年前、オートバイで日本一周しているときに、北海道で知り合った三浦さんが、50歳になった今年、また旅に出ています。

 その彼から連絡がありました。大雪では、もう紅葉も終わり、冬の色が日に日に濃くなっていってるそうです。また、糠平あたりでは、車に接触して興奮したヒグマが徘徊しているそうです。

 今年の北海道は、天候が不順だったせいか、ヒグマが多く里にまで降りてきているそうです。三浦さんは、10月いっぱいは北海道で過ごして、徐々に南下してくる予定とか。

 旅はいいですね。仕事のことで悩んで、一時期消沈していた彼が、仕事に見切りをつけて気ままな旅に出てからは、度々、はつらつとした電話がかかってきます。ぼくより一回りも上の人ですが、目先のことで引き回されているぼくより、ずっと若々しく、張りに満ちた声をしています。

 今日は徹夜開けで戻ってきて、昼間に眠ったせいか、時差ぼけのような状態です。これから、メラトニンでも飲んでまた寝ようかと思ってます。

 明日、晴れたら、多摩川河畔でMTBを漕ごうかな。

――― uchida

 

 
 

97/09/25
美とか愛とか、情動よりももっと深いところに訴えかけてくるもの

 掲示板のCGIをページに載せようと思っているのですが、今使っているFTPエディタが、ホルダごとサーバにアップロードできなかったりで、頓挫しております。HTMLに関しては、まだまだ未熟な私でございます。

 今日、少し時間ができたので、『コンタクト』を観てきました。

 ジョディ・フォスターが、女優としてますます成長して(もうかなりのベテランだから、今さら成長というのもおかしいですけど)、息をのむ演技を見せています。彼女ほど、「知性」の高さを感じさせる女優も、そうはいないですよね。それにしても、宇宙の美しさを表現する彼女の感動を表現する演技は見事でした。お勧めですよ。

 『コンタクト』のカール・セーガンといえば、最後の著作となった『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社)を読みはじめています。

 疑似科学や魔術的思考に陥りやすい人間心理を分析したものですが、彼が科学者としての視点から疑似科学を断罪するのではなく、今の科学の限界もよく知っていて、さらに未知なるものに大きな興味を抱いていたことがわかります。

 科学の最先端を行く物理学者や天文学者、分子生物学者、システム工学、コンピュータサイエンスの研究者、それに数学者(数学者は、もともと神秘に非常に近いところにありましたが)などは、現在の科学の頂点に立って、さらなる高みを極めようとするパイオニアですから、逆に、宇宙の神秘をダイレクトに感じるようです。

 そういえば、『ジュラシックパーク』のテーマになっていたカオスや複雑系といったパラダイムも、宇宙の神秘に一歩近づくものであるようです。

 美とか愛とか、情動よりももっと深いところに訴えかけてくるものの中に、なにか秘密があるような気がします。

――― uchida

 

 
 

97/09/22
永田町の論理?

 世情は、なんだか昏迷してきてますね。……今にはじまったわけでもないですけど。

 それにしても、日本の政治屋さんたちは、「永田町の論理が国民の意識から乖離してました。ごめんなさい」なんて無責任な言葉ひとつで済まされると思っているんでしょうか? 

 そうだとしたら、国民の意識どころか、まともな人間としての意識からもそうとうズレでますね。

 言い換えれば、「永田町では自分たちのことしか考えてないんだよ。国民なんてどうでもいいんだ」と公言しているわけですよね。国民のための永田町が、国民のことなんかどうでもいいと思っているのなら、永田町なんて必要ありませんね。

 今の私たちには、ウェッブという新しい政治システムができたのですから、自分勝手な政治屋なんかいらないと思いませんか? もう、この世界ではNATIONの意味もほとんどないし……。

 国民のことを忘れた永田町なんか無視して、ウェッブ共和国で生きていきましょう! 明日は、天気が悪いようなので、溜まってしまった本でも読んで過ごします。

――― uchida

 

 
 

97/09/21
命の洗濯

 すっかり秋めいた陽気になってきましたね。「暑さ寒さも彼岸まで」、まさに彼岸を迎えて、季節がはっきり変わったという気がします。

 アウトドアには、まさに最高のシーズンですね。毎年、秋になると必ずキャンプに行くところがあります。

 奥秩父の名峰金峰山と小川山に挟まれた標高1800mの谷間に位置する『廻り目平』。ここは、白樺の林と花崗岩の織り成す景色が日本離れしていて、空気も爽やか、そしてキャンプ地もドライで快適です。

 ここにベースを張って、金峰山や小川山方面への登山、近場の屋根岩やハイキングコースのトレッキングなどして気ままにすごします。今年も、10月に入ったらさっそくでかけて、命の洗濯(ちょっと大袈裟かな)をしてこようと思ってます。

 それから、二輪の雑誌の仕事で、東北の前沢に行く予定です。前沢牛を食べて、温泉に浸かって、ついでに、栗駒山に登ってきます。

 この東北の名峰は、中腹の駐車場から1時間あまりの行程のわりに、頂上からは、太平洋と日本海両方が見渡せるすごい眺望が楽しめます。10月早々なら、もうナナカマドが赤く色づいているでしょう。

 早く気持ちのいい秋晴れが続くようになるといいですね。

――― uchida

 

 
 

97/09/20
『樹想』

 最近、デスクワークが続き、いささかフラストレーションがたまり気味です。

 先月、二輪の雑誌の取材で、3000kmあまりも悪天候の中をツーリングして、久しぶりにカタルシスを味わえたと思ったら、そのつけが回ってきて仕事が山積してしまった結果です。

 ぼくは、10代の半ばから20代半ばまで山行に明け暮れる生活をしていて、それで人格形成されてしまったせいか、都市文明の中にどっぷりつかった生活が一ヶ月にも及ぶと、心身ともに大幅に変調をきたしてしまいます。そろそろ、また、自然の中に戻って行こうかと思っています。

 ぼくの大好きな写真家、宮崎学さんの『樹想』という写真展が、銀座のニコンサロンで開かれています。南アルプスの前衛山脈の麓にある樹齢85歳の柿の木の四季を、定点撮影でとらえた宮崎さんらしい、とてもわかりやすい写真展です。

 野で死んだシカが腐り、朽ち果て、土に帰るまでのプロセスの中で、肉食獣、鳥、昆虫、バクテリア、そして植物という他の生命を生かす糧となる様子を克明に追った『死』という前作と、その後に発表された『アニマル黙示録』と合わせて、生命賛歌の三部作といえるような気がします。

 伊那谷を見下ろして、ひっそり生きる柿の木は、移り変わる季節の中で、風景の一部としての樹木ではなく、そこに確かに生きてあるものなんだと実感できます。あわただしい時間の中で生活していると、この柿の木のようにスケールの大きなタイムスパンで俯瞰してものを観ることをつい忘れてしまいがちですが、そういう視点がたしかに大切なんだと思い出させてくれます。

 来週には、手持ちの写真などの中から、徐々に画像をアップロードしていこうと思います。そのために、フィルムスキャナを購入しました。ボード類と合わせると8万円あまりの出費。wwwに嵌まると、お金かかりますね。もっとも、自費出版することを考えたら、微々たるものですけど。

――― uchida

 

 
 

97/09/18
『地球交響曲ガイアシンフォニー第三部』

 『地球交響曲ガイアシンフォニー第三部』の試写を観てきました。

 これは、昨年カムチャッカでヒグマに襲われて亡くなった、星野道夫さんの生涯を縦糸に、地球とともに生きる私たちの魂の行く先はどこにあるのかを考えさせる秀作です。

 ニューサイエンスやカルトのようにファナティックにならず、淡々と、自分の人生をかけて、ありうべき魂の姿をつかみとっていった人々にインタビューして、その人の暮らす風景とともに語りついでいきます。

 アイヌは、イヨマンテ(熊送り)で、カムイの元に、使者としての熊を帰し、自分たちの感謝の気持ちを彼岸に伝えてもらいます。星野さんも、人の世から魂の世への使者として、旅立って行ったのでしょう。

 この作品に、助監督として参加した上田壮一さんが、ぼくの友人で、それだけに興味を持って観てきました。

 だけど、この作品の良さは、上田さんが、この作品の制作を通して、一回りも二回りも、人として成長したという実感がいちばん物語っていると思います。10/10〜11/14まで、シネマライズにて先行ロードショー公開されるそうです。お勧めします!

 『月光新聞』は、これもぼくの友人で、アドベンチャーレースのカメラマンとして、また、ネイティブアメリカンなどのスピリチュアルな文化のルポルタージュでも有名な、山田秀靖さんが開設されているホームページです。ぼくも、一部参加しています。雰囲気いいですよ。

 『天幕研究所』は、やっぱりぼくの友人の村上竹富さんが運営しているページで、自作のティピやパオ(モンゴルの族移動住居)の作り方が、図面付きで出ています。

 浅草橋で、でっかい綿帆布を買ってきて、それを裁断して縫いあわせ、表に防水樹脂を塗って、ポールは、伸縮式のステンレス製物干し竿を代用。これが、立派な持ち運び可能(といっても、車じゃないとダメですけど)ティピになっちゃうんですね。ちなみに、これも、手伝わされました。

――― uchida

 

 

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