04/07/31
即身成仏

 今から9年前のちょうど今時分、一人の山岳修験者が熊野の山奥に篭り、孤独な断食行を行っていた。熊野の山は、夏の初めはいつも厚い雲に閉ざされ、人を寄せつけない独特の霊気が山を覆って此岸と彼岸の境目に位置するような幽玄さをたたえている。ところが、その夏は眩しい蒼天の元で果無く続く山襞が輪郭を際立たせ、まるで行者を胸襟を開いて受け入れたかのようだった。

 伊富喜秀明行者は、そんな熊野には珍しい乾いた夏の初めに山に入り、秋を迎える60日後に満願成就を果たして下山する予定だった。

 ところが、満願までもうわずかという55日目、彼は絶命入定する。

 伊富喜行者は、初めから入定するつもりで山に入ったのではない。60日間の満願成就の後には下界に降り、再び俗世に身を置いて普通の暮らしに戻る予定だった。だが、そんな心づもりとともに、自分の修行が命を掛けたものであることをよく理解し、もし「その時」が訪れれば、それに従う覚悟もできていた。だから、彼の入定は、即身成仏といってもいい。

 明治17年、実利上人は、同じ熊野で千日篭りの修行を満願成就した後、那智の滝に捨身入定する。伊富喜行者のもっとも尊敬する修行者は、ほかならぬこの実利上人で、山篭した堂には「実利行尊者」の文字が掲げられ、伊富喜行者を見守っていた。自分が尊敬する実利上人と同じ熊野という土地に魂を捧げて、彼は幸せだったろう。

 奈良、平安の昔から、現代まで、熊野にその身を捧げて仏となった人間は数知れない。
また、熊野から補陀洛舟に乗って大海原へ漕ぎ出していった修行者も数知れない。あの空海が入定した高野山も、熊野に連なる土地だ。

 何故、熊野という土地に人は身を捧げたくなるのか? 

 それは、一度でも熊野に足を踏み入れ、そこのゲニウス・ロキに触れてみればわかることだ。

 

―― uchida

 

 

 

04/07/25
高原めぐり 

 18日から21日まで、信州の高原巡りをしてきました。

 初日は昼近くに東京を抜け出して、諏訪から高遠へ抜け、そのまま伊那谷から山脈を一つ越えて東に並行して走る谷筋を南下。長谷村、大鹿村と過ぎて、急峻な斜面に民家が点在している風景から「日本のチロル」と呼ばれる上村へ。そして、標高1800mあまりの「しらびそ高原」で幕営。

 夜は豊橋から来たというツーリングライダーYさん、Nさんと、東京からみえたOさんと冷え込む空気の中、焚き火を囲んで酒を酌み交わしました。しらびそ峠は長野と愛知の県境近く。愛知側は午前中ずっと雨で、豊橋組はずぶ濡れだったとか。Oさんは前日は河口湖畔で幕営して、やはり雨に遭ったとか。

 ぼくは、本来は14日から北陸方面へ取材に行く予定が、どう考えても悪天続きなのと(ちょうどぼくがのんびり星空を眺めて幕営していたときに、福井は水害に遭っていました)、しつこい夏風邪が抜けず、大幅に予定を変更したおかげで、幸い雨に出会わずに済みました。雨の中をバイクで走ったり幕営することほど憂鬱なことはありませんからね....。

 しらびそ高原から南に2kmほど下ったところに御池山があります。ここは昨年の9月に、日本では初めて隕石によるクレーター地形が確認されたところです。ゆったりと弧を描く御池山の稜線を縁にした直径900mのクレーターは、それと指摘されなければ、気にも止めない景色でしかありません。だけど、ぼくが辿ってきた高遠からここまでの国道152号線は、ちょうど中央構造線が走り、断層が「露頭」といって地表に露出しているところが何箇所もあったり、分杭峠のような重力異常が認められる場所があったりします。

 もしかしたら、地質学的に特徴のある場所がこの近辺に多く存在するのは、御池山に3万年前に墜落した隕石のせいではないかという気もします。

 二日目の幕営は、御嶽山の中腹、「銀河高原」。ここは、その名のとおり、大きく開けた空に天の川をはじめ、気の遠くなるほどたくさんの星が眺められます。連休の最終日となった19日の夜は、他にキャンパーもなく、一人静かに星を眺めて過ごしました。

 星空にシルエットを浮かびあげている御嶽山を正面に、ぼんやり空を眺めていると、10分に一つくらいは流れ星が横切ります。太古、そんな星の一つが燃え尽きずに地上にまで届き御池山の北斜面を抉った....。降り注ぐ星の欠片の多さを思えば、かえって地上に届く隕石の数が少ないことのほうが不思議な気がします。

 天文の世界では太古には地上に到達する隕石の数が今よりずっと多かったことが定説となっています。世界中のアルカイックな民族が共通して持つ大洪水の伝説や空から降ってきた火に街が焼き尽くされたといった話は、全て実際の太古の人々の体験が語り継がれたものではないかと推測されています。

 何万年かに一度、大きな彗星が残した星屑が漂う軌道に地球が突入する。そして、おびただしい数の隕石が、地表にその痕跡をしるす。もしかしたら、それが再び始まるのは今日かもしれません....。

 ツーリング三日目は、国道20号線の塩尻峠でカメラマンのM氏と、今回、タンデムランのモデルをつとめてもらうSさんと合流。そのまま高ボッチへの斜面を駆け上がります。高ボッチからは松本平と北アルプスが一望。高原は、ウドの白い花と平地よりもずっと濃い色のアザミ、可憐なミネウスユキソウ等々、高山植物真っ盛り。蒼い空を背に、緑がまぶしく照り映えます。

 さらに、走行シーンを撮影しながら、ビーナスラインを霧ケ峰から白樺湖まで走り、北八ヶ岳の稜線を麦草峠で越えて佐久盆地へ。そして、もう20年来お馴染みの川上村廻り目平へ。ここでは、昭文社仕事仲間でもあったAさんが合流して、三日目の幕営は賑やかになりました。

 取材最終日は、これまた恒例の屋根岩登山。廻り目平で幕営したら、天気が悪くない限り、必ず、屋根岩には登ります。キャンプサイトから30分あまり、樹林を抜けるとほんのちょっと岩のぼりテイストが味わえるロックセクションがあって、すぐに大展望に飛び出します。二輪のツアラー、とくにオフロードを走る人には、廻り目平が奥秩父の稜線を越える川上牧丘林道(通称峰越林道)の長野県側基点となっていることもあってお馴染みの場所なのですが、ここにキャンプしても屋根岩に登ったことがないというのは、いかにももったいない話。

 Aさんも廻り目平キャンプは何度か経験していながら、屋根岩登山は初めてで、大満足の模様。長年の付き合いがあるカメラマンのMさんは、なんでもない岩場のトラバースで思わずへっぴり腰。立ちすくむ場面も何度かあって、レースやらオフロード取材のプロで歴戦のツワモノも、じつは極度の高所恐怖症であることを露呈してしまいました(笑)。

 廻り目平でMさん、Aさんと別れ、Mカメラマンとぼくはそのまま峰越林道へ。久しぶりに本格的な林道走行を楽しみ、塩山へ。四日間の涼しい高原キャンプ生活の後に待ち受けていたのは、40℃を越す灼熱の甲府盆地の空気と、東京への道中、バケツをひっくり返したような雷雨でした。

 ああ、だけど気持ち良かった....8月末までに、あと10日ほどツーリング取材を予定していますが、また高原ばかり繋ぐことになりそうな予感(笑)。

 

 

―― photo by Y.Morinaga

―― uchida

 

 

 

04/07/07
事故

 俳優のNさんが、住宅街の道で車を運転していて自転車と接触、自転車に乗っていた男性を死亡させてしまいました。

 Nさんは、今年の初めに交通事故に遭って長期入院を余儀なくされた親友を励まし、親身になって相談に乗ったり、いろいろなケアをされていました。「冒険家」の肩書きを持つその人が狭い病室に閉じ込められて鬱々としているのをなんとかしようと、PCを調達して病室からネットに接続できるようにしたり、コンディションがいいときには、病室から連れ出して自ら車椅子を押して各地を回ったり、「励ます会」を計画したり...。

 交通事故の被害者を健気に応援していた当人が、人を交通事故で死なせてしまうとは、なんとも皮肉なものです。

 Nさんは、警察で「自分の不注意だった」と素直に認めているそうです。いまさらながら、車やバイクは動く凶器であることを思い知らされます。それで人を殺めてしまったら、体調が悪かっただの気分が塞いでいただの、魔がさしただのといった言い訳は一切通用しません。

 蒸し暑く、体もだるいし気力も衰えがちなこの時期、車やバイクを運転することは飲酒運転しているのと同じようなことだと自覚したほうがいいでしょう。ぼくは、人を巻き込む事故は幸い起こしたことはありませんが、振り返ってみると、事故で自分の命を失いそうになったのはいつも本格的な夏が始まる直前の時期でした。

 6年前の梅雨、オートバイで渋滞している中央高速をすり抜けしながら走っていたとき、不意に車線変更してきた車を避けきれずに側面に衝突しました。そのときは、右ひじを骨折、全身打撲で、回復するまで2ヶ月かかりました。陽炎の立つような梅雨の合間のひどく蒸し暑い日で、目の前に車が立ちふさがった瞬間、朦朧とした頭は何が起こったのか理解することもできず、そのまま真っ直ぐ衝突しました。宙を飛んでいる間はスローモーションで、むしろ気持ちがいい感覚。地面に叩きつけられる瞬間に突然すべてが早回しになって、世界が炸裂しました。

 4年前のこれもやはり梅雨の時期。深夜、仕事場から自宅へ戻る途中、川沿いの道をオートバイで走っていて事故を起こしました。ずっと気持ちが落ち込んだままの日々を過ごしてきて、翌日は新型のオートバイのインプレッションをする予定で、そのオートバイに跨り、落ち込みの反動からか気分が高揚していました。

 狭い道で、前を行く目障りな大型トレーラーを無理に追い越し、川沿いの土手の繁った藪を見て、「ここから犬でも飛び出してきたら一貫の終わりだな」なんて思った瞬間に、自分の考えが具現化してきたように、犬が目の前に飛び出してきて....。1300ccの大型オートバイとともにスリップダウンして路面を滑っていきながら、そのときは死を覚悟しました。

 これもスローモーションの中で、ふいに我に返って、そのままでは250kgもあるオートバイに巻き込まれて間違いなく死ぬと思い、オートバイの下敷きになっている左足を力任せに引き抜き、滑っていくオートバイから体を引き離して、なんとか巻き込まれずにすみました。オートバイはその先で何度か反転して全損。自分は肋骨を三本折り、左ひざの肉をごっそりと抉ってしまいました(その傷跡は今でもはっきり残っています)。後で、現場検証してきた交通係の警官に、「スリップの跡からみて、120km/hやそこら出していただろ。それにしてもよくその程度の怪我ですんだものだ」とお灸を据えられました。

 他にも、事故には至らなかったものの、肝を潰すような場面が何度もありました。

 ぼくは、雑誌などでオートバイのインプレッションを書くような仕事もしていますが、同じ仕事をしていて、命を落とした人も何人もいます。長く仕事をしていて、事故に遭ったことがない、怪我をしたことがないという人は一人もいません。オートバイの場合は、乗り物自体が不安定だから、ちょっとした外乱が加わっただけで転倒してしまいます。よほど習熟したライダーでも、突然何かに前を遮られたらどうしようもありません。

 四輪の場合、少しぶつけたくらいでは、自分の体で痛みを感じることはありません。最新のハイテク満載の車もドライバーを守るということではじつに洗練されていますが、これが歩行者や自転車、オートバイといった弱者相手のセーフティでは、なにも対策されていません。運転者が安全装置に守られているために、自らが加害者となる危険性について鈍感になっているところがあるでしょう。

 幸い、今まで自分が痛い思いをしたことはありましたが、人を巻き込んだ事故はありません。自分が勝手に死んでしまうのはいい。だけど、今回のNさんのように人を傷つけることだけは、たとえ過失であったとしても、絶対にしたくありません。

 今一度、あらためて自分は凶器を扱っているのだということを肝に銘じて、その取り扱いには注意を払わなければいけないと思います。

 ちなみに、ぼくはたまたまオートバイと出会って、魂を刺激してくれる相棒としてもう何十年も付き合ってきていますが、人にオートバイに乗ることを勧めはしません。また、オートバイの性能評価をしたり、これを旅の道具として使うことをレポートすることはあっても、「オートバイは素晴らしい」と賞賛することはしません。

 先日、自宅に人が訪ねてきて、ようやく伝い歩きを始めた息子を見て、「息子さんにも、将来、オートバイに乗ってもらいたいんでしょうね」と、言いました。

 すぐに妻が反応して、「この子は、絶対にオートバイになんか乗せやしません!」とむきになって答えました。

 オートバイに乗るか乗らないかは、当人が決めることであって、親だからといって、こちらがどうのこうの言うことではありません。だけど、その危険性を身をもって知っているだけに、積極的に勧めたり、自分がオートバイに乗る姿を子供に見せようとは思いません。

左膝を抉ったときの跡

―― uchida

 

 

 

04/07/01
世界遺産

 先月28日から中国の蘇州で開催されているユネスコ世界遺産登録会議で、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されることが正式に決まりました。

 原始巨石信仰、自然信仰から始まった熊野三山、日本独特の山岳修験の最大の聖地である吉野から大峰の奥駈けの道、これも神秘的な高野の神の地に空海が開いた真言密教の聖地高野山、さらに「蟻の熊野詣」と称されたほどの巡礼・行幸の行列が行き交った熊野古道....紀伊半島が丸ごと世界遺産として登録されることになったわけです。

 去年、この欄に、熊野在住の大学時代からの親友のところを訪ねた話を書きましたが、彼は、亡くなったお父さんの代から、熊野古道を世界遺産に登録するための運動をしてきました。

 今日、ニュースが流れてすぐに連絡すると、悲願の登録に漕ぎ付けたというのに、「今日は、教育委員会の仕事で、別な歴史関係のところを人を案内して疲れちゃったよ。登録記念の夜行ハイキングとか花火大会とかやるみたいだけど、俺は帰って寝るわ....」と、なんだか冴えないことを言ってました。

 まだ実感が湧いていないのかもしれません。

 世界遺産といえば、ぼくは昔から鄙びた山村の雰囲気が好きで五箇山や白川郷を何度も訪ねているのですが、世界遺産に指定されてからは、一度少しだけ立ち寄っただけで、足が遠のいてしまいました。

 たしかに文物や景観は守られているのですが、観光客でごった返し、「鄙」とはほど遠い観光地に堕してしまい、もはや魅力は感じなくなってしまいました。

 今回の世界遺産登録でも懸念されるのは観光客の増加ですが、アプローチのしやすい吉野や高野山はともかく、熊野のほうはローカル線か車で行くしかなく、しかも名古屋や大阪からは軽く5、6時間かかるし、和歌山からでも3、4時間と、とにかく日帰りは論外だし、一泊二日だってそうとうな強行軍になってしまうところですから、それなりの覚悟というか関心を持った観光客が「適度に」訪れるのではないかと思っています。

 友人の一見無気力な反応も、世界遺産登録を「適度に」期待していたということなのかもしれません。

 そういえば、ぼくが初めて熊野を訪ねた20数年前のこと。まともに行っても5、6時間かかるところを地元の道路事情も知らず、「どうせなら海沿いを行こう」と酔狂したのが災いして、津から倍以上の12時間もかかってようやく熊野市に到着しました。

 途中、レストランはおろか人家もほとんど見かけず、対向車が来たらすれ違いのためにどちらかが延々と後退しなければならないような狭さに加え、入り組んだ岬と入り江を全部トレースしていく気の遠くなるほどカーブが続く道に、到着したときは疲労困憊な上に餓死しそうでした。

 熊野駅前に着くと、最初に目についたのは「熊野詣」と力強い筆致で書かれた何本もの幟。ぼくは、それが、初めて訪れたこの熊野を象徴するものだと咄嗟に理解しました。

 そして、駅前まで出迎えてくれた友人に開口一番、

 「熊野鮨が食いたい!」

 「なに?? 熊野ずし??」。首を傾げる友人。

 ぼくは幟を指して、「そこに書いてあるだろ。どこか旨いところに案内しろ」。

 一瞬、あっけに取られた友人は、一転、腹を抱えて笑い転げました。

 「熊野もうでだよ。蟻の熊野詣。おまえ、日本史で習わなかったか」

 それ以来、ぼくが熊野を訪ねると、

 「旨い熊野鮨屋に案内しなくちゃな!」。

 そういえば、吉野では、名物の「柿の葉鮨」を硬い柿の葉ごとバリバリと食べていたら、「お客さん、葉っぱは外して食べてください」と笑われました。

 翌年、同じ食道に入ると、テーブルには『柿の葉鮨の葉は外してお食べください』と書かれたプレートが....。

 案外、「熊野鮨」が名物になったりして。

 

―― uchida

 

 

 

04/06/28
振り返るということ

 先週、ようやく7年分のコラムというか日記というか……この雑文のリニューアルを終えました。

 若いときからライターという仕事を続けてきて、記録を残すことは職業的習性のようになっています。人にインタビューするときは、一応レコーダーに話を録音します。他の取材のときも、こまめにメモをとります。でも、それらの記録を参照することはほとんどありません。

 長年のスキルといいましょうか、取材ということで気を張り詰めているときは、かなり細部のことまでしっかり記憶しているので、記事にするときはその記憶だけを頼りにします。メモを見直したり録音を聞きなおしたりするのは、人の名前や地名など固有名詞を確認するときくらいです。

 取材の記録は、記事を書き終えてWEBなり活字なりになってしまえば破棄するか、そうした記録が無秩序に放り込んである押入れの中のダンボール箱に直行です。

 そんな職業病ともいえる自分の記憶への過信があって、日記やらコラム、メモなどせっかく書いたものも、ほとんど読み返したことなどありませんでした。

 前回でも触れましたが、自分の日記を読み直すのはとても新鮮な体験でした。記したときの過去の記憶とともに浮かび上がる当時の感情や感覚を今だからこそ客観的な視点から眺めなおすことができます。そこから、自分がどういう人間なのか、どこが成長して、どこが退化してしまったのか、かなりはっきり見えてきます。

 熱しやすく冷めやすい、でも完全に冷めてしまうことは少なくて、いちど手を出したことは、そのときは離れてしまってもいつかは必ず成就させる……そういう感情の起伏が大きくて、傍目には淡白だけれどじつはしつこい性格だということは、日記を読むまでもなく自覚していました。

 でも、昔は性懲りもなく熱して冷めてを繰り返していたものが、徐々にその頻度や寒暖の差が少なくなっているのがわかりました。人生経験もそこそこ積んで、いつまでも変わらなかったら救いようがないですよね。

 それから、これも熱しやすいことと相似関係ですが、もともと人に入れ込みやすい質で、どんどん自分の思い入れを曝け出して好きになっていくのだけれど、それの度が過ぎて、自分の期待に反する反応があったときに、突然相手を嫌いになってしまうというところが、はっきり欠点としてわかりました。

 この点は、もともと人恋しいのに、コミュニケーションがうまくできないことの裏返しで、こちらを向いてくれた人に過度に反応してしまうことから来るものです。ずっと昔、自分の興味対象が人などではなくて自然や二輪や旅であったときは、人は単なる添え物のようなものでした。その頃は、じつは中途半端なときよりも自分の性格の欠点を自覚していて、人と接することで自分も傷つき人も傷つけてしまうことを避けるために、無理やり自分が何かをしたから反応が返ってきたりしない無機物や自然現象に逃避……というよりも避難していたのでしょう。

 中途半端な時期は、人に思い入れを込めて、どうかして自分の期待と違う反応を人が示すと、単純にその人を憎んでいました。人が穏やかに自分との関係を築いていこうとしてくれているのに、こちらは馬車馬のごとく、その人の世界に飛び込んで行って、エクスキューズがかかると凄いショックを受けて、反動で、その人を憎むようになってしまう……まるっきり、ストーカーの精神構造です。ただ、ぼくの場合は、自分の心の中から相手を抹殺してしまうのです。

 今になって思い返せば、穏やかに人間関係を深めていけば一生いい友人でいられた人もたくさんいました。そういう人を抹殺してしまうのですから、とんでもない愚か者です。

 さらに自分の内側で沸々と様々な感情が湧きあがっているのに、このように文章にしてしまうと、妙に冷静に見えてしまい、それが、ぼくというパーソナリティが冷静で安定感のある人間のように他人には見えていたのかもしれないと気づきました。

 じつはたいした窮状でもないのに、「助けてくれよぅ〜」と訴えて、ちゃっかり人の援助を得てしまう人もいれば、死にたいほど追い詰められているのに、弱音を吐いても余裕があるととられてしまう人もいる。ぼくは明らかに後者のほうで、かつては自分が酷い状況なのに人から頼まれたり泣きつかれたりすると手を差し伸べずにはいられなくて、自分はより酷い状況に落ち込んで、自己嫌悪に苛まれたものでした。

 傍目からはクールに見えてしまうのは、どうやらどうしようもないこと、身に纏ったオーラのようなものなので、それなら、クールを貫き通して死んでやるなんて、逆に居直ってしまったら、気が楽になりました。……そのあたりの自分の心理の切り替え点も日記を読み返すことで見えてきて、なんだか笑えてしまいました。

 今年は年初から、このコラムよりもずっと赤裸々な日記をつけています。以前、ここでも書きましたが、20年前から15年続けていた日記が、みなさんが読んでいるこのコラムを書き始めた頃に途絶えてしまい、それを復活させたものです。

 こちらは、感情剥き出しで、とてもこんな公のところで公表するわけにはいきませんが、また何年か経って、読み返してみるのが楽しみです。

 自分の愚かしさやら可愛らしさやら……いろいろなものが見えてくる後に残る文章を書いておくといいですよ。そして、度々、それを読んで自分を振り返ってみると、不器用だけど健気に生きていればいいのだと、自信が湧いてきます。

 

―― uchida

 

 

 

04/06/21
宿神

 1997年からずっと書き綴ってきたこのコラム。

 この数日間、体裁がバラバラだったこのコラムを読みやすいように整理する作業をしています。

 7年というのは、何も足跡がなければただ過ぎ去ってしまった時間でしかありません。記憶もそのほとんどが風化し、時々、意識の水面にふわふわと漂い上ってくる頼りない泡があるだけでしょう。

 でも、拙いながらも、その時々の記憶を文章として留めておけば、それを辿りなおすことで、過去の記憶がその時々の感情や感覚をともなってありありと浮かび上がってきます。

 はじめのうちは、単にHTMLのタグを書き換えるだけの作業だったこのコラムのリニューアルが、過去の文章に出会いなおすうちに、気がつけばこの7年の記憶を反芻する行為に変わっていました。

 意識は二面あります。

 絶えず変化して、自己の存在を浮草のようにあっちへふらふらこっちへふらふらと揺り動かしてしまう意識と、どこか得体のしれないところにどっしりと根を下ろし、外側でなにがあろうと不動の意識。

 7年分の自分のコラムを読み返しながら、時には前者の頼りない意識がまとまりのつかないことを書かせたかと思うと、落ち着いた後者の意識が自分でもびっくりするような斬新な知見を披露していることに気づきました。

 二つの意識が「ぼく」という一つの肉体に同居しているとも考えられるし、あるいは前者の浮草のような意識が「個=自我」というものであって、後者の不動の意識は「非自己=超自我」であるのかもしれません。

 何かに迷い、何かに苦しみあるいは悲しみ、あるときは異常なほどに高揚して、あるときは意味もなく怒り、人を好きになり、憎み....自我は疲れ、傷つくものです。でも、そんな自我に振り回されることがなければ、その向こうにどっしりと構えている超自我の存在もその無配すら感じることはできないでしょう。

 前回、中沢新一の「精霊の王」について触れましたが、この著作からぼくは、一人の子として一人の親として感情を揺さぶられました。そのことは前回書いた通りです。そして、そんな感情の水面下では、この本で語られている本質的な部分、「超自我」の存在を浮き彫りにするものの輪郭をはっきりと掴んだ気がしました。それが中沢の言う「宿神」です。

「……内容はもちろん興味深いものであり、この本のおかげで、ずっと気にかかっている「超自然」の実相がより明確になりました……」

 そう、ぼくの自我は「超自然=超自我=宿神」の存在を物心ついたころから感じていて、それにフォーカスしようとずっと悪戦苦闘してきたのです。

 といっても、「精霊の王」を読んだことで「宿神=超自我」の本質を掴み、もう自我がから解放されたなんてことではありません。「精霊の王」を書いた中沢新一の自我の発露に強烈なシンパシイを持ち、そして、この著作のおかげで、ぼくの中でバラバラだったパズルのピースが一部分うまく嵌ったというだけのことです。

 そして、自分のこの7年間を振り返ってみながら、自分の悪戦苦闘ぶりがある種、微笑ましく思えると同時に、不動だけれど常に目まぐるしく変遷する宿神をこれからまだまだ感じ続け、追い求め続けていくのだということを再自覚したのでした。

 これも少し前にこのコラムで紹介したものですが、シダレアカシデという世界に一つしかない突然変異種のアカシデを生み出したのも、他ならぬ「宿神」であり、それはそのまま「宿神」の存在証明でもあったことに気づきました。

 そして、このシダレアカシデがある神社は幸神神社と書いて「サジカミ」と読ませますが、この読みの響きに不思議さを感じ取っていたぼくは、「宿神」=シュクジン、シュクジ、サクジン、シャグチ、シャグウジンが、明治の頃まで武蔵野に多く残されていたという「精霊の王」の記述を呼んで、サジカミも「宿神」の変化形であると悟ったのでした。

 幸神神社の祭神は「国常立神=クニトコタチノミコト」。アマテラスやオオクニヌシのように、人格を持つ神とは異なる「あわい」のような原始三神の一柱であることも、まさしく「宿神」を象徴するものとして合点がいったのでした。

 求めても出会えない、でも求めなければ出会えない....そんな宿神=超自我があり、その存在をどこかで感知しているからこそ、生きる力が湧いてくるのかもしれません。

 今、外は台風の風が吹き荒れています。これも、宿神=超自我の一つの表現形。

 今日、こんなことをぼくに書かせているのは、台風に乗ってやってきた宿神=超自我なのかもしれません。

嵐が心地良く魂を揺さぶる夜に記す....

―― uchida

 

 

 

04/06/15
精霊の王

 中沢新一「精霊の王」を読みました。 

 道祖神研究の第一人者であった父親の書斎にあった、たくさんの石神様のほのぼのした記憶をプロローグに、宿神=翁=カオスモスといったアナロジーの中に、輪廻や宿命を超越した「淡い」の存在を、淡々と説いていくそのトーンは、今までの中沢新一の高揚したドラマチックな雰囲気とは異なるものでした。 

 中沢といえば、オ○ムが「虹の階梯」の数ページを教義のすべてとして利用したことで変にニューエイジじみて見られるようになってしまいましたが、ある意味誤解を招く原因だった、自らのアイデンティティの基盤であったチベット仏教をさらりと超越して、神や仏の向こう側にあるものに気負わず穏やかにアプローチしていく様子は、新境地に入ったと実感させるものがあります。 

 三つ子の魂百までもというように、中沢にとっては、地道な研究者であった父親の姿が自分の魂の根幹を成していることをはっきり意識して、今まで羽織っていたエンタテイメント性を自然に脱ぎ捨てたのだと思わせます。そして、彼のスタイルの変化そのものが、ほかならぬ「精霊の王」の厳かで重厚な存在証明を体現しています。

  内容はもちろん興味深いものであり、この本のおかげで、ずっと気にかかっている「超自然」の実相がより明確になりました。そして、学生時代にレヴィ・ストロースの洗礼を受けた身としては、頻発する「野生の思考」という言葉によって、胸の奥底に静まっていたノスタルジーがざわざわと掻き立てられ、この言葉が登場するたびごとに共感が深まっていきます。 

 そして、不覚にも、締めくくりの言葉に、感涙がこぼれてしまいました。 

『最後に一言。中沢厚という人に身近に接することがなかったとしたら、私は宿神やミシャグチの広大な世界に近づくことすらしなかったかもしれないと思うだけで、私の中に深い感謝の気持ちがわいてくる。いまはもういない人なので、私はこの本を父であったその人の思い出に捧げたいと思う』  

 この一文から、ぼくは、今は亡き自分の父親の広い背中を思い出し、さらに自分が父親として、一人の人間に、中沢が締めくくったような思い出を持たせてあげなければいけないと痛切に思ったのでした....。

―― uchida

 

 

 

04/06/08
京都

 先週後半は、祇園のホテルをベースに、京都のあちこちを歩いてきました。ちょうど梅雨入り直前の晴れ間に当たり、3日間すべて快晴。夏を先取りは良かったのですが、炎天下歩き回って、夏バテまで先取りはいただけません(笑)。

 今回は雑誌の取材で、前半は洛北から比叡山方面を重点的に回り、後半は京都市街から長岡京跡方面まで足を伸ばしました。

 東京の感覚で京都を巡ると、洛北などのいわゆる郊外へ出るのにあまりにもあっさり緑濃い中に飛び込んでしまえるので、不思議になります。比叡山もほとんど裏山感覚で、今回改めて気づいたのは、市街からまさに指呼の先に比叡山が拝めることでした。

 この数年、何度か京都を訪れていますが、ほとんどは市街地をかすめて通り過ぎるか、京都市ではなく京都府の他の都市を訪問するばかりで、市内を拠点としてあちこち巡ったのは久しぶりでした。

 今回は、初日の晩にOBTメーリングリストのオフ会と銘打って、地元のじゅりねこさんに馴染みのお店をセッティングしてもらい、食の面でも京都を堪能し、二次会の後で、深夜の八坂神社を探索して今年初のホタル狩りが楽しめたりと、思わぬ収穫もありました。

 取材という点でも、GPS片手にあちこち探索して、京都のディープな風水装置を発見したり、大収穫でした。

 ほんとうは、G-Outfitter恒例の瀬戸内シーカヤックミーティングまで足を伸ばせれば最高だったのですが、これは残念ながら取材日程とバッティングしてしまい諦めました。そのかわり、また夏本番となったら、野遊び屋でシーカヤックを楽しみたいと思います。

 じゅりねこさん、いろいろありがとうございました。今度伺ったときには、また運転おまかせします(^^ゞ。

―― uchida

 

 

BACK NUMBER >>>

HOME