04/05/22
ソーシャル・ネットワーク

 会員の紹介がないと入れないWEBコミュニティ、いわゆるソーシャル・ネットワークが盛り上がっています。blog(weblog)がこの一年くらいで爆発的に普及し、誰でも気軽にネットで発信(日記やレポートの公開)するようになりましたが、blogに次ぐWEBメディアの新しい波といってもいいでしょう。

 かくいうぼくもソーシャル・ネットワーク(SN)の一つ「mixi」に参加して、新しい人脈を広げています。

 通常のBBSやICQなどのバーチャルなコミュニティが、誰でもオープンなのに対して、SNは必ず既存会員の紹介がないと参加できないので、匿名ではあっても、そこで交流する人は必ず誰かのお墨付きであるという保証があります。少なくとも、参加者は、誰かに誘われて参加するわけですから、最低限のコミュニケーション能力、マナーは心得ている人であるという安心感があります。

 また、主催者が常時ネットワークを監視していて、スパムを流したり、マナー違反を繰り返した参加者は排除されるというケアがあるのも安心です。

 ぼくのようなフリーランサーは、日常的に他者が身近にいて刺激を受けるということがありません。人と関わるのは、取材や打ち合わせが多く、仕事仲間と気軽に食事や酒を飲んだりという機会もなかなかありません。とくに、事務所をたたんでしまってからは、それが顕著で、一種の引きこもり状態にあります。そこへ、仕事はmailのやり取りで済ませてしまうことが多くなって、余計に「他者」との接触が希薄になっていました。

 そこへ登場したのがmixi。互いに友達として登録してある友人がmixiのblogを更新すると、自分のトップページにヘッドラインが出るので、「おっ、今日は面白いことしてるな」と、覗きに行ってコメントを残します。こちらがblogを更新すると、誰かが訪ねてきてコメントを残してくれ、そこから会話が弾んで....。

 さらには、SNの中で独自にコミュニティを開設できる機能を使って「地域ツーリズム研究」というコミュニティを立ち上げました。このOBTのサイトを通じて、地域の環境資源を生かしたエコツーリズム、グリーンツーリズム、アドヴェンチャーツーリズムなどが興せないかという問い合わせを受けますが、そういった志を持った人をコアにして、地域のオーガナイザーや自治体関係者、ぼくのようなフィールドワーカーなどを集めて、何か具体的なムーヴメントに繋げようという趣旨です。

 ちょうど、冒険家の風間深志さんが主催する「地球元気村」の企画に関わることになったりして、そんなことも含めて、コミュニティが生かしていければと考えています。

――― uchida

 

 
 

04/05/18
言霊=コトダマ

 言葉といものは怖いものです。語る意味は同じでも、トーンや言い回し、それから言葉を発するタイミングによって善意にも悪意にも聞こえてしまう。話し言葉だけでなく、mailやBBSのやりとりでも、同じことを言おうとしているのに、一方は人を心地良くして会話を活発にし、一方は人の心を沈めて会話の息の根を一言で止めてしまう。あるいは、悪意が飛び交う修羅場へと導いてしまう....。

 些細な一言に心を酷く痛めつけられ、それを受け止め、我慢しているとさらに過酷な言葉が情け容赦なく突き刺さってくる。そんなことが積もり積もっていくと、心が動きを止めてしまいます。我慢し続けて、あるときそのフラストレーションが炸裂するのならまだいい。怖いのは、いつのまにか心が動きを止めて、代わりに虚無がそこに居座ってしまうことです。

 虚無はどんどん広がり、悪意のある言葉に対して心を無感覚にするだけでなく、思いやりの篭った言葉にも心を無感覚にし、いつのまにか喜びや悲しみや怒りといった感情をも殺ぎ落としてしまう。良きも悪きも、光も影も、ブラックホールのように飲み込んでしまう虚無が、「心」にすりかわってしまう。

 言葉は「呪い」です。

 言葉には、ただの音や文字だけではない「霊」が宿っている。そのことを深く感じていた昔の人たちは「言霊=コトダマ」という意識を常に持っていました。

 明治生まれの祖母は、言霊=コトダマという言葉は使いませんでしたが、「不吉なことを思っても、それを軽々しく口に出してはいけないよ。言葉にしたことで、不吉なことがやってきてしまうからね」と言っていました。そんな祖母の言葉が脳裏にこびりついているためか、自分が言葉を口にした後の様々な結果を想像してから口に出したり書いたりする習慣が身についてしまっているため、世間話やらチャット(WEBでの世間話ですね)といったものは大の苦手です。ある言葉を受け取って、それに対する返答をあれこれ考えているうちに、その場の話題は他にシフトしてしまう。多人数での会話ではとくに、一人、別の世界へ行ってしまいがちです(笑)。

 コミュニケーションの潤滑油としての言葉は必要だと思います。でも、言葉には必ず言霊が憑依している。言葉は呪いそのものであることを心のどこかに留めておいて言葉を発信すること、今の時代、それがとても必要な気がします。

 ぼくは、このコラムでよく祖母のことを話題にしますが、「三つ子の魂、百までも」というように、精神のコアの部分が形成されるときに、ずっと祖母の側にいたため、その考え方をそのまま受け継いでいるようです。ぼくにとって、それは、とても貴重な財産だと思っています。

 祖母は、晩年、ある言葉について悔やむように言っていました。ぼくが高校を卒業して東京暮らしをはじめた夏、夏休みで帰省したぼくは、祖母と二人で、蝉時雨が降り注ぐ霊園の中を歩いていました。墓参りを済ませて、のんびりと歩きながら、祖母はいかにも気持ち良さそうに言いました。

「こんなに幸せでいいんだろうかねぇ....」

 明治の世に生まれて、時代の激動とともに、個人としても苦労を重ねてきた祖母は、ようやく何の不安もなく暮らせるようになり、のんびりと孫と墓参りをして、ふと、そのときの素直な気持ちを言葉にしたのでしょう。

 それから二ヵ月後、突然、父が他界しました。

 祖母は、ぼくと二人で墓参りしたときのことがよほど鮮明に記憶に残っていたのでしょう、「あのとき、私があんなことを言わなければ....」と、ふとしたときに思い出しては、遠くを見るような目をして呟いていました。

――― uchida

 

 
 

04/05/07
シダレアカシデ

 今日の午後、ふと思い立って、奥多摩日の出町にある天然記念物「シダレアカシデ」を観に行きました。数日前に調べものをしていて、たまたまWEBサイトでその存在を知って、気にかかっていました。

 ある風景に雑誌やWEBの写真で出会った瞬間に、自分がいつかその場所に立つことを確信することがあります。そのときの思い込みが暗示になり、それが自分をそこまで運ぶ強い動機になるということかもしれませんが、では、どうしてその「場所」に魅かれるのかは、うまく説明できない。運命的な出会いというと少し大げさですが、それに近いものを感じさせる瞬間があるものです。

 連休中は交通渋滞のことを想像するだけでどこにも出かける気など起きず、ずっと近所を散歩する程度で気を紛らわしていました。連休が明けて、ふいに時間ができると、ずっと逼塞していた反動が出て、どこかへ行きたくなりました。そして、思い浮かんだのが日の出町のシダレアカシデ。

 昼食を食べてからいそいそと準備をはじめ、オートバイに跨って走り出しました。甲州街道から奥多摩街道を経由して1時間あまり。目的の幸神(さじかみ)神社はすぐに見つかりました。あらかじめ、GPSに場所をインプットしておき、ナビゲーションに従って行ったのですが、住宅街の中にある小さな社は、地図だけではなかなか探し出せないでしょう。

 目的のシダレアカシデは、神社の参道の入口にありました。樹齢700年というその樹は老木の風格がありますが、こんもりと繁った若葉には、まだまだ活気が感じられます。何より目を引くのは、その枝振りです。大地の気がそのまま湧きあがって、うねりながら立ち上がってきたように幾筋もの襞が縒り合わさった幹。そこから四方八方へ複雑にうねりながら伸びる枝。真っ直ぐ天に向かって伸び上がっていく杉などとは対照的に、見方によっては伸び上がろうとする力を押さえつける重力と格闘し、苦悶し苦痛と闘いながらそれでも伸び上がろうとしている健気な姿にも見えるし、人間の目には映らない微妙な空間的なグリッドの中で最適な部分を繋いでいった結果がこの形になったようにも見えます。

 ときどき、ある風景や事物を目の当たりにしたときに、「感銘」としか言えない気持ちが湧き上がってくることがあります。このシダレアカシデと遭遇したときに感じたのは、まさに感銘でした。

 この樹は、大昔、山に自生していたものを神社の関係者が見つけて、この場所に移植したものだそうです。アカシデの突然変異種で、世界中でもここにしかないというこのシダレアカシデは、たぶん幼樹の頃から人を魅きつけるものを持っていたのでしょう。今では、すっかりこの土地のゲニウス・ロキと融合して....いや、この樹がこの場所のゲニウス・ロキそのものであり、それを醸成しているといったほうがいいかもしれません。

 ぼくは、このシダレアカシデと対面したときに、逞しく生きることを教えられたような気がしました。坂の上から見下ろすと、若葉をこんもりと繁らせて、全体として丸く穏やかな風貌にまとまっています。ところが、下に回りこんで見上げてみると、複雑で非線形の基幹と枝が絡み合うように見えながら微妙な調和を保っている。それは、「生」という現象の本質を表すと同時に、その美しさを象徴しているように思えたのでした。

 このシダレアカシデは、思い出すと心をなごませてくれる風景の一つになりました。そして、この場所は何度も訪ねたい場所になりました。

 そうそう、ちょうどぼくがこの樹を訪ねたとき、この樹の傍らにある幼稚園から子供たちが帰宅する時間にあたっていて、子供たちと迎えにきた父兄と保母さんたちはごく自然にこの樹の下に集まって、和やかに話をしていました。この樹に見守られて育った子供たちは、どんな人間に育っていくのでしょう。

――― uchida

 

 
 

04/04/27
聖域

 今月は、中盤から首都圏の山岳地帯をまわっていました。富士山に始まり、箱根、伊豆、妙義、浅間、秩父、赤城、足尾、日光、奥久慈....。山には登りませんでしたが、いずれもけっこう山の奥深くまでオートバイで分け入り、少しトレッキングも楽しみました。

 首都圏の人気のあるエリアは、もう長い間足を運んだことがありませんでしたが、とにかくびっくりしたのは、どこも道が整備されて、そうとう山奥までマイカーで問題なくアプローチできてしまうこと。昔は、ずっと麓のほうから長いアルバイトを我慢して登ったり、4WDの車やオフロードバイクを使って荒れた林道をようやく登りつめて、それから登山道に入っていったものでした。

 かつて苦労して辿り着いたピークや峠にあっけなく辿り着き、あるいは徒歩でしか越えられず、それも一泊二日みなくてはならなかった峠の下をトンネルが貫通してあっという間に、こっちの里からむこうの里に抜けられたり....労力も極端に少なくて済むようになっただけでなく、何の工夫もいらなくなりました。代わりにぼくたちが得たものは、現代建築技術の粋を見せつける威圧的な構造物に見事に分断された素朴な山里の景色や踏み荒らされた登山道とゴミ、立ち枯れた木々....。

 谷に渡した大きな吊り橋の横には鯉幟が群れを成してたなびいて、それをまた鯉幟の何十倍もの車と人が押しかけて見上げにやってきます。そこは、まだぼくが山に登り始めたばかりのときに、深い谷底の微かなトレースを頼りに、一人で心細さと戦いながら辿った場所でした。ぼくがかつて辿ったトレースは橋から見下ろすダム湖の湖底です。

 橋の上から鯉幟と人の群れ越しに見る山々は、当時と形は変わっていないはずなのに、まるで生気を失ったように見えました。

 かつては、長いアプローチを含めたものが登山でした。林道をショートカットする場合はともかく....それも荒れた林道を走ることそのものがリスキーだったわけですが....山里にある鉄道の駅やバス停を降りると、しばらくは里の集落の中を通り、地元の人と挨拶を交わしたり、山道や天気の具合を聞いたりして、それから長いアプローチを黙々と登って、ようやく登山道と呼べるトレースに取り掛かるものでした。目指す山容がはっきり見えるまで、いろいろとプロセスがあり、ひと汗もふた汗もかかなければなりません。だからこそ、山と対峙したときの感動が味わえました。

 山や自然に接するために、便利になる必要などない。荒れた道を辿り、ブッシュを掻き分けてようやく辿り着ければいい。そこに無理やり道をつけて、トレースを刻む必要などありません。山に登りたい、自然に接したいと思う人間のほうがそのために努力して、準備して、汗を流せばいいだけではないでしょうか? それができない人は山へ行く必要もないし、自然と接する必要もない....というか、それぞれの人間の間尺に合ったフィールドへ行けばいいだけのことです。

 20年前は、まだ、東京からほんの少し足を伸ばせば、自分から努力して汗を流す登山者だけに開かれたフィールドがたくさんありました。それはまさしく山ヤにとっての「聖域」でした。

 もうこれ以上、聖域への道筋を整備する必要もないし、交通の便を図る必要もないでしょう。

――― uchida

 

 
 

04/04/09
空海と高野山展

 上野の国立博物館で開催されている「空海と高野山展」を見学してきました。平日の午後なのでゆっくり観られるだろうと思ったら、いやはやたいへんな人手。弘法大師の人気は相変わらず高いようです。

 人ごみといっても、高齢の人が多いので、そこそこ身長のあるぼくは頭一つは出ているので、見通しが効きます。でも、長くひとつところに立っていると、図体が大きい分邪魔になって、結局落ち着いてじっくり観るというのは不可能。それでも普段は開帳しないような文物もたくさんあって、端から端まで流れに乗って一時間半は優にかかります。

 今回とくに印象に残ったのは運慶の「八大童子立像」。八体が一度に並ぶのは今回がはじめてとのことでしたが、どの位置から眺めても、八体すべてがこちらを凝視しているように感じられる「生々しい」存在感は、運慶が何かマジカルな仕掛けでも施したのではないか―錬金術師がホムンクルスを作り出すような―と想像させてしまいます。観ている者の心をざわつかせ、ただ一方通行の「鑑賞」を許さずに互いの位相を自覚するように迫ってくるるような雰囲気は、隣に並ぶ快慶の作品が美術品として洗練されていているのとじつに対照的です。

 それから、空海の真筆である経の文字があまり達筆でなく、秀才は得てして文字が下手というセオリーがこの当時から当て決まっていたのかなと面白くなりました。同時に、様々なイメージが付加されて「神」にも比肩されるような存在になってしまった空海も所詮は人の子だというのが実感できて、なんだかほっとしました。

 1200年の時代を追って、初期の高野山文物の神仏混交的なものから、仏教的な深化と先鋭化が進んだ中世、そして平板化した近世以降と日本の宗教思想史を通観できたのも有意義でした。

 空海入唐1200を記念したこの展覧会は上野の東京国立博物館で5月16日まで。途中で展示物の入れ替えがあるので、また後期に行ってみようと思っています。

>>東京国立博物館

――― uchida

 

 
 

04/03/23
量り売り

 ドイツ発祥のVom Fassという量り売りのショップがあることを知りました。オリーブオイルやバルサミコ、モルトウイスキーに泡盛などを100cc単位で量り売りしてくれます。原宿あたりでは、化粧品の量り売りはだいぶ前からありましたが、食品は身近にあまり見かけなかったので、近々、一番近くの国立のショップを覗いてこようと思っています。

 量り売りといえば、必要な量だけリサイクルできる瓶に入れてもらえるのでゴミが出ず、エコロジカルなムーブメントとして今後広がっていきそうですが、思い返してみれば、30年も前の田舎では量り売りは当たり前でした。

 一升徳利をかかえて日本酒を買いに行くという時代劇風なのはさすがにありませんでしたが、醤油などは、ガラスの一升瓶を抱えて近所の雑貨屋さんへ行き、ショーユチュルチュルで一斗缶から分けてもらいました。

 今は、世界中の多種多様な商品を居ながらにして選んで、キーボードを叩くだけで即座に注文できますが、ショーユチュルチュルで醤油を吸い上げている間、雑貨屋のおばちゃんと話をして、子供が社会的コミュニケーションの初歩を学ぶような場面はなくなってしまいました。

 モノは少ないけれど、モノを介在して人との関係が濃密だった昔。そういえば、ニワトリが食べたければ、小規模に庭で養鶏している店に行き、その場で締めてもらったものでした。ニワトリの首をつかんで、包丁を一閃させると、スパンと首と胴が離れ、ストンと何事もなかったかのように着地した首なし胴がバタバタと円を描いて走り回り、突然、コテンとひっくり返る。胴と切り離された首のほうは、二、三度びっくり眼を瞬きした後、胴が倒れるのと同時に閉じます。毛をむしるのを手伝い、素早く解体された肉を新聞紙に包んでもらって帰ります。

 ニワトリの肉を買いに行くだけで、命の不思議を目の当たりにし、生物の体の構造を実地に学ばされました。自分の口に入る肉の安全性は、当然、自分で確認できたわけです。

 輸入モノだけではなく、もともと確立されていたエコロジカルな流通システムとコミュニティが復活すれば、寂れていく商店街もたちまち活性化できると思うのですが....。

――― uchida

 

 
 

04/02/19
フィールドブーツ

 先日、ある雑誌の記事を書くために、昔愛用していたフィールドブーツを引っ張り出して、写真を撮りました。

 もう20年近く前に、はじめてアメリカに行ったときに、ロサンゼルスのアウトドアショップで購入した「ダナーライト」。足首の後のほうが斜めにカットされていて、車を運転するときに足首が自由に動かせるように工夫された「ドライビングカット」というモデルで、日本には入ってきていないものでした。たしか、バーゲンで80ドル弱でした。このブーツは、購入以来15年あまり、ぼくのメインフィールドブーツとしていろいろな場面で活躍してくれました。

 ダナーライトは、ゴアテックス社と共同で開発したゴアテックスブーティという一種のインナーブーツを内蔵して、ウェアで確立された防水透湿性能をブーツで実現した画期的な製品でした。なにしろ、快適性は言うに及ばず、コーデュラナイロンと革のコンビネーションのアッパーは、軽くて、しかもデザイン的にも洗練されていて、それまでのごつい「登山靴」のイメージを根底的にくつがえしました。

 このブーツを履いて、国内の山はもとより、メキシコの砂漠やタクラマカン砂漠、天山、パミール高原と、苛酷な環境の中、まったくトラブルなしにぼくの旅を支えてくれました。久しぶりに引っ張り出して、こびりついた汚れや泥をなでたりしていると、このブーツでで踏みしめた世界中の大地の記憶が蘇ってきます。

 アリゾナの炎熱の大デューンでは、熱いパウダーのような砂の感触を味わいながら歩いていると、ラトネスネークがすぐ傍らを横走りに滑って通り過ぎ、その振動が足裏から伝わってきました。場はカリフォルニアの広大なドライレイクでは、カチカチに引き締まった塩の大地の不思議な感触が今でも、幻のような陽炎に煙った風景とともに思い出されます。中央アジアの海抜マイナス200mの塩湖では、ドライレイクのつもりで踏み込んだら、表面だけがカチカチですぐ下は粘着性の泥の堆積で、いったん足を取られると自分ひとりの力では抜け出せなかったこと。法顕や玄奘三蔵もたどったタクラマカンの砂の感触、パミール高原で眼前に聳えるムスタークアタを見上げたときの足もとの草原の感触....思い返すと、ぼくは足で土地を味わってきたんだなぁという気がします。

 今、何度か見送りになってしまったアドベンチャーの計画をこの秋に実行すべく、準備を進めています。中国新疆のウルムチを出発点として、トルファンからタクラマカン砂漠を縦断してホータンへ。さらにヤルカンドから南に転じて、崑崙山脈を越えて西チベットへ。カイラスを巡礼した後、ラサから青海省のゴルムトへ出て、敦煌、トルファンと巡り、ウルムチへ帰還。海抜0mから5000mオーバーまで、砂漠あり、草原あり、雪山ありの中央アジアの大地を味わい尽くすようなルートです。

 この旅の相棒は、初代の「ダナーライト」に代わって、今愛用している「ダナーライトU」。また、こいつと新しい思い出をたくさん作りたいと思います。

右が今愛用している「ダナーライトU」。先代も、ソールを張り替えてやれば、まだまだ現役でいけそうです

――― uchida

 

 
 

04/02/11
日記

 久しぶりにMTBで遠出しました。自宅のある調布から品川まで、子供の顔を見るために往復50km、このところほとんど運動らしい運動をしていなかったので、体じゅうガタガタになってしまいました。帰りは、尻が痛くてサドルに座っていることができず、ずっとスタンディング。気楽にGパンで出かけたので、それが夜風に冷えて、太股は痙攣するし、散々でした。でも、生後5ヶ月の子供の笑顔を思い出せば、そんな疲れは吹っ飛んでしまいます。

 山に登り始めた頃、新田次郎の作品をむさぼり読みました。なかでも、不世出の単独行者、加藤文太郎を主人公にした「孤高の人」には感銘して、以来、ぼくの座右の銘になりました。今まで、何かに行き詰まったり、辛いことがあると、この本を開き、何度も読み返してきました。努力して世間と折り合おうとするのだけれど、生き方が不器用で、どうしてもうまく他人と馴染むことができない文太郎。でも、彼は、それを苦にすることもなく、自分が自分らしくいられる山へ向かう。山では、誰も自分のことを気にしてくれる人もいないけれど、自分が技術や体力、精神力を磨いて山の懐に飛び込んでいけば、けして裏切ることなく、素晴らしい体験をもたらしてくれる。

 頑なに、山を愛し、山に向かう文太郎の姿が、自分の姿にだぶって見えたものでした。そして、「孤高の人」を読むたびに、うまく社会に馴染めない自分のあり方を無理やり変える必要はないのだと安心しました。

 「孤高の人」では、文太郎が結婚して、子供を授かり、心境が変化することで、次第にぎくしゃくしていた世間との折り合いがついていくようになっていきます。ヒマラヤの高峰に挑むという夢も、子供のことを思えば、それが唯一絶対の目標ではなくなる。でも、永遠の単独行者でありつづけた加藤文太郎は、山仲間の情に押されて、はじめて単独行ではなく雪山に臨み、帰らぬ人となってしまいます。生まれたばかりの幼い子供を残して....。

 加藤文太郎は、一人なら無事に生還できたはずのものを、山仲間を見捨てず、彼が息を引きとるまでその体を抱えて、困難な下山を敢行します。そして、ついにパートナーが息を引き取った後、再び単独行者となった文太郎は、愛する子供と家族の元へ辿り着こうと、常人にはとても考えられない気力と体力をふり絞って、深雪を掻き分けて進みます。ブリザード吹きすさぶ槍ヶ岳の北鎌尾根から、ついに麓の山小屋近くまで達しながら、そこでついに力尽きてしまう....。

 加藤文太郎は、登山史に残る数々の記録と、文学史に残る生き様を遺しました。

 ぼくも子供を授かって、はじめて、「孤高の人」の中に描かれている、加藤文太郎の心境の変化がわかった気がしました。ぼくの場合、あいかわらず世間と折り合いをつけるのは下手なままですが、それでも、多少は人間が我慢強くなったように思えます。

 でも、幼い息子の無邪気な顔を見て、この子に何が遺してやれるのかと思うと、情けなくなってしまいます。中途半端な生き方をしてきたぼくには、何も遺してやれるものがない....。

 そこで、せめて、親父が何を考え、世界とどう向き合ってきたのか、その記録を残そうと、この年明けから日記をつけはじめました。20代の前半から15年あまりずっとライター修行の一つのつもりで日記をつけていたのですが、それもあるときからぷっつりとやめてしまいました。その後、何年も日記をつけるのはおろか、自分の生き様を振り返って反省することも止めてしまっていました。

 あらたに書き始めた日記は、誰にも、どこにも公開するつもりはありません。ただ、いつか、息子がこれを読んで、親父の生き様を踏み台にして、充実した人生を歩んでくれればと思います。

――― uchida

 

 
 

04/02/10
エスケープを考えない無謀

 福井県勝山市と石川県白峰村境にある大長(おおちょう)山で遭難した関西学院大学ワンダーフォーゲル部の14人は、無事救助されました。今では、携帯電話や無線などの連絡手段や位置を捕捉するGPSなどもあって、遭難時に救助を要請するのも、遭難者の位置を特定するのも、昔と比べたら格段に進歩しています。

 今回の遭難事件は、一昔前なら、登山史に残る悲劇に終わっていた可能性も高いものでした。地元の登山関係者には悪天候が続くことがわかっているのだから、計画を中止するように勧告されたものの、彼らは山に入っていったそうです。

 福井、石川県境の山々は、1000mクラスで、山域としては地味なところです。ところが、冬は、季節風の吹き出しをもろに受け、ときに、何日もブリザードが続くことがあります。今回は、まさにこの山域に典型的な悪天候が続いたわけです。地味な山域だけに、入山者も少なく、冬場のトレースははっきりしていません。

 他の山域、たとえば北アルプス等では、冬季の入山者も多いし、ルートの途中には山小屋や避難小屋もあって、非常時には長時間の停滞も可能です。ところが、今回の場合は、せいぜいが雪洞を掘って、寒さを逃れるだけが精一杯で、食料のデポはないし、補給もできませんでした。

 救助された時点で、食料は底をつき、凍傷を負った人や低体温症に陥った人もいました。もし、悪天候があと二日続いたら、全員が無事救助されることはなかったでしょう。

「行けると思って進んでいったら、雪が深くて進めなくなり、そのときは、もう戻ることもできなくなっていました」と、救助されたサブリーダーは語りました。「気がついたら、どうすることもできなかった」ということは、そこまで、何も考えずに行ったということです。ワンダーフォーゲル部で、彼らは、いったい何をしていたのでしょう? 気象、地形、パーティを構成する隊員個々の体力やパーソナリティ....そういったものをすべて考え合わせて、的確な状況判断を行うのが「登山」という行為です。ただの仲良しグループが街へ遊びに行くのとなんら変わらない、とことん自然を舐めた行動です。彼らには、二度と山に入って欲しくない。そう思います。

 現代だからこそ、遭難者との連絡がついて、状況が切迫していることを知っている捜索隊は、一刻も早く彼らを救助しなければたいへんなことになると、焦燥していたはずです。当事者たちが下山も諦めたほどの積雪を必死にラッセルして登って行く捜索隊の苦労やリスクを彼らはわかっていたでしょうか?

――― uchida

 

 
 

04/02/01
ルートファインディング

 前回、14日に、このコラムを書いて以来、二週間以上も間があいてしまいました。43歳の誕生日を迎えた当日、心配事が持ち上がり、それがなんとか峠を越えたかとホッとしたのもつかの間、また再発し、身も心もへとへとになってしまいました。

 人生は登山と一緒なんて、前回書きましたが、どうやら人生は、独立峰に登るようなものではなく、山あり谷ありの長い縦走登山のようなものといったほうがいいのかもしれません。

 たまたま独立峰に近いような見晴らしのいい山を登っているときは、遠くまで見通せて、「こんなに高いところまで登ってきたか....」と感慨もひとしおです。ところが、先へ進めばルートはハイマツの茂みに吸い込まれ、日の光も届かない森の中へ。そして、気がついてみれば、ルートを外れて、深いブッシュを掻き分けて、傷だらけになりながら進んでいる....。

 ルートを失ったと気づいたときは、歩みを止め、不安や焦りに押しつぶされそうになるのをグッと堪えて、冷静に状況把握とルートファインディングしなければなりませんね。

――― uchida

 

 
 

04/01/14
夏の思い出

 毎年、夏になると、ぼくは昭文社が発行している「ツーリングマップル中部北陸」の取材で、中部、東海、北陸をオートバイで走り回ります。8月から9月にかけて二週間あまり各地を巡り、心に残った出会いを地図にプロットしていくわけです。

 でも、その成果が世に出るのは、翌年の春。昨年夏に取材したデータは、今、編集部のほうで地図に落とす作業が進められています。

 そんな中、昨日、口絵のページの写真集の校正原稿が送られてきました。寒さが本番を迎えた今ごろになって、暑かった夏の写真を見直すと、あらためて日本には季節があるんだなあと感じ入ります。眩しい日射しに輝く富山湾、木漏れ陽のモザイクが踊る奥志賀の白樺林、洛北の林道脇を流れる静かなせせらぎ....30カットあまりの写真それぞれが、ひと目でその場所を思い出し、そして、そのときの自分の気分までありありと蘇ってきます。

 それは、つい昨日のことのような気がして、それぞれの思い出に浸るうちに、さらにもっと前の夏の光景が次々に蘇ってきます。

 夏休みに入ると同時に新宿駅から中央線の夜行「アルプス」に飛び乗り、八ヶ岳や北アルプスに向かいました。夜中に出た列車は、明け方、小淵沢で少し長く停車し、その間にホームの水道で顔を洗ったり歯を磨いたりします。そして、松本に到着すると、乗合のタクシーを捕まえて、上高地へ。梓川を左に見て、徳沢の伸びやかな園地に辿り着くと、ようやく自分の居場所に戻ったような気がしたものでした。

 それから、もっとずっと遠い昔、近所の幼馴染たちと朝から晩まで海で遊び、何度も皮が剥けて、まるで青銅のように鈍く光る黒い肌になって過ごした夏休み。週に二、三度は、広い庭のある「デメちゃん」の家で花火大会をしたものでした....。

 誰の言葉だったか、「人生は山に登るようなもので、はじめのうちは、ただ目の前に登るべき山が見えるばかりで、ただひたすら足元を見つめているだけだけれど、だんだん高度が上がるにしたがって見通しが効くようになる。人生も中年を過ぎると、立ち止まって振り向いてみれば、麓からその先の広がりが良く見渡せるようになる。そして、先を見れば、頂上の形とそこまでの距離がはっきりとつかめるはずだ」と言った人がありました。

 幾葉かの写真をきっかけに、夏の思い出が次々に繰り出してくるのは、ぼくが中年を過ぎて、それなりに見通しが効くような場所に立っているということなのでしょうか? たしかに、頂上までだいぶ近づいたような気はしますが、その形も実際にどれくらいの距離が残っているのかも想像がつかないのは、まだまだ未熟な証拠なのでしょうね。

 ちなみに、ぼくは、明日、15日で43歳になります。

――― uchida

 

 
 

04/01/06
リスク

 日本時間の4日午後、モロッコのタンジールでアドヴェンチャーライダーの風間深志さんが事故に遭い、重傷を負いました。風間さんは、22年ぶりにパリダカに出場していました。その第4ステージ、アフリカに上陸して最初のステージでの出来事でした。

 風間さんは、北極、南極の極点にオートバイで到達し、エベレストを目指したチャレンジではオートバイによる到達高度の世界最高記録を樹立、他にも、様々なオフロードレースやチャレンジで目覚ましい成績を残してきました。

 今までの様々な挑戦の中で、風間さんは、一度も怪我を負ったことはなかったのに....。その人が、今回は、レース区間ではなく、一般公道のリエゾン中に、無理な追い越しをかけてきた車輌を避けようとしてコースアウトし、道路脇の鉄柱に激突してしまったのです。

 ぼくは、風間さんが22年ぶりにパリダカに挑戦するので、そのWEBサイトを作って運営してくれないかと本人から依頼され、年末から年始にかけて、正月返上で、現地で取材してるスタッフからのデータを受け取り、WEBを更新してきました。

 第一報が飛び込んできたときは、まさかと思いました。

 22年前のチャレンジのときは、一緒に出場した賀曽利隆さんがレースコースの中でクラッシュして瀕死の重傷を負い、パリの病院へ搬送されました。先月の壮行会では、その賀曽利さんも風間さんの激励にみえましたが、まさか、今回、あのときの賀曽利さんと同じような事態に見舞われるとは....。

 ぼくも、レース中に負傷したり、一般の道で事故に遭って重傷を負ったことがありますが、自分が怪我を負ったとき以上に、こういうことがあると、レースや二輪に乗るということが大きなリスクを背負っていることを痛感させられます。

 自分がとてもリスキーな行為をしていることをわかっているつもりでも、いざ、レースやライディングのモードに入ってしまうと、そのスリルに囚われてしまう。たとえ、冷静であっても、またベテランであっても、今回の風間さんのように不可抗力としか言えないアクシデントに見舞われることもあります。

 モータースポーツに限らず、フィールドを相手にする行為は、すべて同様のリスクを孕んでいます。でも、じつは、そんなリスクがあるからこそ、のめりこんでしまうともいえます。リスクを孕んだ挑戦を成し遂げたときの快感は他に比べようがありません。そんな体験を一度でもしてしまうと、さらに新たな挑戦がしたくなる。それは、至極当たり前の心理です。

 そして、数々のリスクを無傷で乗り越え、目覚しい成績や記録を残した挑戦者やレーサーは、自分ではそうは思っていなくても、周囲は不死身の「超人」という目でその人間を見るようになる。だけど、じつは、本物の超人などおらず、彼らもみんな同じリスクを背負った「人間」なのです。

 風間さんの今までの業績と、その人となりをよく知っているだけに、今回のアクシデントは信じられませんでした。でも、それは裏を返せば、知らず知らずのうちに、ぼくが風間さんを「超人」として見てしまっていたということでもあります。おかしな言い方ですが、今回、多くのエントラントが無傷でいるのに風間さんが大事故に遭ったことで、風間さんも一人の普通の人間であったと思い知らされました。

 ただ、良かったと思うのは、世間に「超人」と見られた人たちが、たった一度のシリアスなアクシデントで命をうしなってしまうケースが多い中で、風間さんは命に別状がなかったということです。いちど修羅場を味わい、そこから生還した「超人」は、その後、とてもタフな人間になる。たとえば、F1レーサーのニキ・ラウダは、大事故に遭って、瀕死の重傷から蘇ったとき、単なる天才ではなく、タフで安定感のある人に生まれ変わりました。

 風間さんの一刻も早い回復を祈ります。

 そして、今回のことを貴重な教訓として、常に、自分が背負っているリスクを忘れずに、様々なことにチャレンジしていこうと思います。

――― uchida

 

 
 

04/01/04
焦点

 緩やかな起伏を描いて地平線の彼方まで続く草原、その緑の絨毯を靡かせながら渡ってくる羽毛のような風。雲海の彼方、東の空を茜に染めて登り始めた太陽から射す一条の光。遠く連なる雪を頂く連嶺からはるばる流れ下ってきた清冽な雪解け水....。

 命を輝かせてくれるはずの、そんな風や光や水が、味も匂いも変わらぬままに汚れ、命を脅かすものに成り果ててしまっていたとしたら....。

 鳥の声も動物の嘶きも、そして、人の話し声もなく、ただ渡る風と流れる水の音だけが響き、光が落とす影はすべて動きをなくしている。地球には、その後、何万年も続くただひたすらな静寂があるだけだとしたら....。それが、すぐ未来の地球の姿であり、そんな地球にしてしまうのが、他ならぬぼくたちだとしたら....。

 今日、テレビの新春対談で、ハドソン研究所の日高義樹氏がヘンリー・キッシンジャー氏に、日本の再軍備について質問しました。すると、キッシンジャー氏は、「北朝鮮がこのまま話し合いに応じず、核を配備するなら、日本は当然、その脅威に対抗するために核を保有することになるだろう」と、淡々と当たり前のように言いました。

 世界をますます厚く覆いはじめた戦争の雲は、このまま避けようもなく破滅の雨を世界中に降らせることになってしまうのでしょうか? 日本の核軍備などという話は、ついこのあいだまで、まったくの絵空事でしかなかったのに、気がつけば、それははっきりしたリアリティとして目の前に立ち塞がろうとしています。

 学生時代、中谷という友人がいました。温厚で優男の中谷に、ぼくは本気で殴られたことがあります。何人かで酒を飲んでいて、たまたま話が政治の話題に及んだとき、ぼくは、日本は憲法を改正して正式な軍隊を持ち、核武装して、欧米と肩を並べなければならないと主張しました。すると、政治の話なんかまるで興味ないよといった風に、他所を向いていた彼が、ふいにぼくの顔を凝視し、「おまえは、ほんとうに日本が核武装すればいいと思っているのか」と、搾り出すような声で言ったかと思うと、ぼくに飛び掛り、滅茶苦茶に拳を浴びせてきました。

「放射能のせいで大切な人の命を奪われた者の気持ちがお前にわかるのか! おまえの家族には、原爆症の人間はいないから、そんなことが軽々しく言えるんだ!」そう、彼は、叫びながら、ぼくに馬乗りになって、殴りつけてきます。そして、嗚咽しました。

 後で、四畳半のぼくの下宿で、二人だけで話をしました。彼は、静かに、ぼくに語ってくれました。

 長崎出身の彼の身内や知り合いには、原爆症で苦しみ、亡くなっていった人がたくさんいました。彼とぼくが大学で知り合ったその前年、彼が高校時代に付き合っていた女の子は、忌まわしい原爆の影響を受け継いでしまい、白血病でこの世を去ってしまったそうです。

「ぼくたちは、あの戦争のことを直接知っているわけではない。だけど、広島と長崎の人にとっては、今はまだ戦争の真っ只中だし、それがずっと続いていくんだよ....」

 中谷は、朝まで、ずっとモノローグのように話を続けました。

 イメージだけで世界を想像し、実際の世界を知らないことがいかに無知なことか。恥ずかしい気持ちとともに、それを痛切に感じました。

 人は、他人の考えから影響を受けやすいものです。とくに美辞麗句を並べ立てるプロパガンダにはだまされやすい。経験に裏づけられた思想を持つ人は、自分自身にとっても重いものであるその思想を、人に語ろうとはなかなかしない。上滑りで体験に裏づけられていないイデオロギーのほうが、自ら体験して学習しようとしない人にとっては心地良く受け止められる。そして、体験の裏打ちが必要ないから、そんなイデオロギーは、ウイルスのようにヒトからヒトへと容易く伝染していく....。かつて、若い自分がそんなウイルスに感染したから、その感染力の強さと恐ろしさはよくわかる気がします。

 自ら戦争の現場に身を置いたことのないペンタゴンや国務省のNeo Conservativeたちが、勝手なイメージを作り上げて、自分と自分を取り巻く者たちだけに都合のいいように、世界を誘導していく。無策な日本の政治家も、犬のようにそれに追従していく....。みんなが身も心も疲弊している今の世の中では、良い悪いなど関係なしに、作り上げられた危機感に踊らされて、とんでもない方向に連れて行かれそうな気がします。

 緩やかな起伏を描いて地平線の彼方まで続く草原、その緑の絨毯を靡かせながら渡ってくる羽毛のような風。雲海の彼方、東の空を茜に染めて登り始めた太陽から射す一条の光。遠く連なる雪を頂く連嶺からはるばる流れ下ってきた清冽な雪解け水....それらが、人としての自分にとって、いつまでも心地良いものであること。その心地良さを保つためにはどうすればよいのか、そこに焦点を当てていきたいと思います。ぼくたちの後の世代の人たちが、幸せに愛せつづける自然を保つために。

――― uchida

 

 

BACK NUMBER >>>

HOME