03/09/25
荒涼

 気の遠くなるような暑さの中、大きな砂丘の頂きに立って、地平の彼方まで続く砂漠を眺めるのが好きです。一木一草無い岩と雪と風の高山の頂きで、じっと寒さに耐えている瞬間が好きです。長い長いトレールを歩き詰めに歩いて、疲労困憊の体で、ようやくのことキャンプを設営し、そのままテントに中に倒れこんで眠ってしまうのが好きです。

 繊細な自然を余裕を持って楽しむのもいいけれど、それを続けていると、無性にウィルダネスが恋しくなります。

 ウィルダネスを日本語に訳すと、「荒野」ですが、それは荒れ果てた野というよりは、手つかずの自然、人間なんてちっぽけな存在だとあざ笑っているような巨大で力強くて、素のままの自然といったほうが、ニュアンスは近いでしょう。

 ある意味、それは「荒涼」とした風景です。でも、自分の中に、細々したことが溜まってくると、「荒涼」の中に飛び込んで、いったん全てを洗い流してもらいたくなります。自分以外には誰もいない、助けはなにもない、自分を守るものは自分の体力と気力だけ。ウィルダネスは、癒しを与えてくれるわけではなく、自分という存在をこの世から冷徹に剥ぎ取ろうとします。

 だけど、ウィルダネスと対峙し、その荒涼と同化してしまうと、それは、穏やかな自然が与えてくれる安らぎよりも、遥かに深くて広がりのある静穏をもたらしてくれます。

 自分という存在を意識しなくなったときこそが、存在を乗り越えるということなのかもしれません。そして、人は....少なくともぼくという人間は、限界のある「存在」を常に乗り越えたがっているかもしれません。

――― uchida

 

 
 

03/09/15
黒部の海岸にて

 立山に降り積もった雪は、富山湾に向かってできた広い扇状地に伏流して、海に出会う場所で湧出します。眼前に海があり、カモメの泣き声が響き、磯の香りが漂う浜に、コンコンと手を切るような水が湧き出す。それは、まさに自然が織り成す奇跡です。

 黒部市のJRの生地(いくじ)駅前には、泉があって、公共の水飲み場として利用されています。真っ黒に日焼けした下校途中の小学生が走ってきて、備えつけのアルミの大ぶりのマグカップを使って替わりばんこに喉を潤したかと思うと、建設現場帰りの人たちがトラックを横付けにして、持参の水筒にその水を汲み、ついでにマグカップで一杯飲んでいく。女子高生や近所で働く若いOLも同じマグカップで、美味しそうに水を飲んでいきます。

 フェーン現象で、街じゅうが陽炎に包まれるような昼日中、通りがかりのぼくは、同じマグカップで喉を潤し、自分の水筒に受けて、それを頭からかぶり、木陰に涼みながら次々に土地の人たちがやってくる泉を眺めていました。そして、自分の田舎でも、バス停の横に手漕ぎの井戸があって、その冷たい水を子供も大人も通りがかりに飲んでいったものだった、遠い昔を思い出します。

 幼い頃のぼくは、軽い喘息を患っていて、ときどき、祖母に連れられて、バスで30分あまり離れた診療所に通っていました。田舎の砂利道をボンネットバスに揺られて診療所に辿り着き、注射を一本打ってもらうと落ち着きました。

 帰りのバスを待つ間、細い材木を組んでトタン屋根を葺いた停留所の横にある手押し式のポンプを祖母が押して、水を出してくれます。それを手に受けて飲むと、熱で火照った体に冷たい水が染み渡って、最後まで残っていた気管支の苦しさが嘘のように消えたものでした。

 手押しポンプの吐出口には布巾で作った漉し布が被せてあって、ポンプを押すごとにその布が膨らんで、柔らかくて冷たい水が染み出してきます。自分が生まれ育った大地の当たり前の恵み。そのときは、バス停脇の井戸や、各家庭に井戸があるのが普通で、べつに気にかけない生活の一コマでしかなかったものでした。ところが、それが失われてしまうと、いかに貴重なものであったかが思い知らされます。

 生地の泉が、いつまでも、地元の人たちの喉を潤してくれることを思わず願ってしまいました。

 その夜、生地にほどちかい入善の海岸にあるキャンプ場で、月明かりに照らされて、富山湾の向こうに長々と横たわる能登を眺めながら、涼しい海風に吹かれて、ぼんやりしていました。このキャンプ場の中にも湧き水があって、気持ちのいい松林の中のサイトスペースも、もちろんこの水も、自由に使うことができます。

 能登半島の向こうに日が落ちるまでは、地元の人たちが賑やかにバーベキューを楽しんでいましたが、日が暮れると、ひっそりとして、海風にそよぐ松の枝の音と湧き出す水の音だけが響いています。キャンプ場の中にも、その周囲にもゴミ一つなく、地元の人たちが、ごく日常的に利用しながらも、この環境をとても大切に思っていることが伝わってきます。

 身近に当たり前にあること、それを大切にしていくこと。それが、自然と人間が、心地良く共生していくための原点なのかもしれません。

――― uchida

 

 
 

03/08/31
送る命、迎える命

 この一年間、身近な人の死にいくつも向き合い、父親の23回忌もあったりして、命を送るということをずっと考えていました。この世で生を終えた命は、いったいどこへ行くのか? この世に生きたことの意味は、いったい何だったのか? この世に残された者の中に生きる逝った人の意識、それも一つの生ではないのか?

 紀州熊野に、とてもお世話になった方がいました。大学時代の親友の親父さんで、青二才のぼくが大人びたつもりになって偉そうなことを言ったりするのを、いつも好々爺然と嬉しそうに聞いてくれたり、訪ねれば、その親友と兄弟であるかのように歓待してくれました。

 ぼくは、18歳で父親を亡くしていたので、その父と面影がどこか似ている、親父さんにとても親しみがあり、一家で迎えてくれると、実家に戻ったような安らぎを覚えました。

 その親友の親父さんが、この4月に亡くなりました。ぼくは、そのことを今月までずっと知らずにいました。それを知ったとき、死に目には会えなくても、せめて葬儀には出て、送ってあげたかったと、とても悔しく思いました。

 今月上旬、関西から四国のほうを取材で回ることになり、久しぶりに熊野の友人を訪ねてみようと計画を練っていると、当の友人から電話がかかってきました。それは、2年ぶりの電話で、それではじめて親父さんの死を知ったのでした。

 取材を無事に済ませて、熊野を訪ね、お墓に手を合わせると、自分の父親を見送ったときと同じ悲しさがこみあげてきます。でも、どこかで、親父さんの意識が永遠に生きていて、ぼくに語りかけてくれるようにも思いました。

「内田君、しばらくご無沙汰してたね。どうだい、久しぶりの熊野は? 熊野の自然は、君が来るのをずっと待っていたよ。これからも熊野を忘れず、時々訪ねてやってくれよ」

 親父さんは、熊野の自然と文化、熊野の荒ぶる神々をこころから愛していた人でした。毎年、お盆が過ぎると、熊野大花火大会が開かれます。地面を揺るがし、海を焦がす、この世でいちばん迫力があって、熊野だけでしか見られない大仕掛けを見せてくれるこの花火大会を主催し、クライマックスの大仕掛けをデザインして演出していたのが、親父さんでした。

 親父さんは、この花火に、熊野の自然と文化を丸ごと詰め込んで、宙と大地と母なる海に轟きわたらせたのでした。

 今年は、その親父さんの御霊を送る初盆の花火となりました。ぼくは、その現場に行けなかったけれど、親友が、その花火と親父さんのことをまとめたテレビのドキュメンタリーのビデオを送ってくれました。故郷、井戸川縁に咲く桜並木、秋になると乱舞する赤とんぼ、そして川辺に夜群舞するホタル....。今まで、親父さんがスケッチを起こし、玉の仕様を決めてオーダーしていた花火は、親父さんに10年付き合ってきた花火師が、その遺志を継いで、自分でイメージして製作し、見事に熊野灘の空に咲かせました。

 来年は、もう親父さんのデザインした花火は見られませんが、その意志は残り、心に染み込む熊野ならではの花火を見せてくれるでしょう。来年は、自分の目でしっかりと花火を見たいと思います。

 そして、命の不思議は、この22日にやってきました。結婚20年目にして、男の子を授かったのです。大厄を過ぎて、自分の父親が亡くなった歳に迫っていくことを意識していたときに、おもわずやってきた命。

 妻は酷い子宮筋腫を持ち、高齢出産ということもあって、医者は無事に生むことはまず不可能だろうと診断していました。でも、お腹の中の子は順調に育ち、なんと大きな筋腫を自分で動かして流産しないように子宮口を塞ぎ、生まれる前日には、子宮の下に下りて、自分で準備をしました。

 自然分娩は不可能で、筋腫がたくさんあるため通常の帝王切開はできず、お腹の上のほうを手探りで切開していくという困難な手術で、もう何千という帝王切開手術を経験してきた院長も、これが二例目というほどの特殊な手術でした。手探りで深い切開をしなければならない上に、胎児が少しでも空気に触れると息をし始めるために、迅速に行わなければならない。それでいちばん怖かったのは、胎児の体にメスが入ってしまうことでした。それを子供は、まるで予期していたかのように、メスが入る方向に背を向けていて、肩甲骨のあたりにかすり傷を負うだけで済みました。

 母体の安全を考えたら、諦めたほうがいいのではないかと、ぼくは当初考えました。だけど、そんな気持ちを跳ね返させ、母親の自覚を促した命。そして、その後の困難も、この世に生まれ出るために、自力で克服した命。すでに母親の胎内で育っているときから、この命が持っている意識が感じ取れるようでした。

 そして、ずっと筋腫と場所を取り合ってきた子供は、広い世界に飛び出して、思い切り手足を伸ばせる喜びを表すように、元気に手足を動かして、盛大な産声をあげました。

 まさにこの世にやってきた命、迎える命でした。

 逝く人がいれば来る人がいる。命の連鎖によって、全ては形作られていく。いろんな人の命=意識を受け継いで、意識をバトンタッチして、世界をより良くしていく....そのために、今のこの自分の「生」を精一杯生きなければならない....。送る命からも迎える命からも、たくさんのことを教えられます。

――― uchida

 

 
 

03/07/24
単線列車に揺られて

 前回、「正しい梅雨」などと書いたものの、その後の様子は、どうも長梅雨で冷夏模様が続いています。天気というやつは、なかなか一筋縄ではいきませんね。

 子供の頃、夏休みに入っても梅雨が明けなかったり、天候不順だったりすると、なんだかとても損をした気がしたものでした。でも、大厄を過ぎたこの歳になってみると、時間の経つのが早くて、この長梅雨ですら、「もう、今週末には梅雨明けだな」と、あっという間に過ぎてしまったような気がしてしまいます。

 時間は、意識のあり方一つで伸びたり縮んだりするものだといいます。何かに思い悩み、出口が見えないときは、時間の流れは淀んで、永遠に苦悩が続くように思われます。反対に楽しい時間は飛ぶように流れ去ってしまう。

 もっとも、年々時間の速度が速まっているように感じられるのは、楽しい時間を過ごしているからではなくて、別なファクターがあるような気がします。

 それは、歳をとるにつれて、「可能性」の幅が狭くなってくるからではないかと思います。子供の頃は、それこそ、自分の人生に無限の可能性がありました。将来の見通しなんて何もないけれど、自分が思い描くことが全て実現するような気がしている。夢がとても現実的な色彩を持っていて、その夢の世界にいつまでも浸っていられる。ところが、だんだんと夢の色彩が薄れて、現実的な硬い色合いが見えてくる。

 そのうち、夢や希望が一つずつ灯火を消されるようになくなっていって、気がつけば、一方通行の単線列車に乗って、途中下車して乗り換えることもできないままに、終点に近づいていることがわかってくる。

 漏斗に砂を入れて下に落とすと、面積の広い上部では動きがゆっくりしていますが、漏斗の首に近づくに従って流れるスピードが速くなり、細い首に入ると、後はもう一気に下に流れ落ちてしまう........。まだ、首のところにはさしかかっていませんが、もう半分以上は漏斗の中を下ってしまっていることははっきりしています。

 なんて綴ってくると、いかにもぼくがもう黄昏れてしまっているようですが、そうではありません。漏斗の首に差し掛かることが見えてきたことで、逆に、無闇に可能性を追求したり、子供のときの夢をいつまでも追いつづけることをせずに、ある意味、ドライに、いろいろなことを計画性を持ってできるようになってきた気がするのです。

 乗り換えられない単線列車に乗っているのなら、あくせくしないで、景色を楽しもうと思えば、それだけで、いろいろなものが見えてくるし、景色も変わってきます。幸いなことに、ぼくが乗り込んだ単線列車は、いい景色の中をずっといくようです........。

――― uchida

 

 
 

03/07/13
正しい梅雨!?

 先月上旬に梅雨入りしてから、日本列島には梅雨前線がしっかりと居座って、梅雨が続いています。ジメジメして鬱陶しいし、オートバイにもMTBにも気持ちよく乗れず、山へ行っても爽やかでないし、アウトドアアクティビティには最低の季節ですが、今年はほんとうに「正しい」と形容できるような梅雨で、梅雨明けが待ち遠しいのと同時に、真夏の到来にとても期待しています。

 「梅雨明け十日」という言葉がありますが、これは、梅雨前線が太平洋高気圧に押し上げられて日本海に抜けて、日本列島に真夏がやってくると、その日から十日間は天候が安定して、登山やマリンスポーツに最適の期間ということです。

 山では、この時期は、ほとんど雨が降らず爽やかで、雷雨に襲われる可能性も少なく、安心して登山を楽しめます。そこで、昔はもみんな梅雨明け十日を狙って山行計画を立てたものでした。

 ところが、この何年か、いや10年以上にもなるかもしれませんが、異常気象で、空梅雨だったり長梅雨だったり、あるいは梅雨入りも梅雨明けもはっきりしなかったりといった状態で、天候の安定した梅雨明け十日も明確ではなくってしまいました。

 今年は、梅雨入りも平均日だったし、しっかり梅雨前線も居座って、徐々に梅雨明けに向かって、太平洋高気圧が勢力を増してきています。この分でいけば、今月下旬には、しっかりと梅雨が明けて、その後は、しばらく天候が安定しそうです。

 季節は、やっぱりメリハリが効いていたほうがいいですね。鬱陶しい梅雨もその後が爽やかなら、我慢できるというものです。

 今年は、梅雨明け十日のうちに、四国でシーカヤックを楽しむつもりです。

――― uchida

 

 
 

03/06/25
ESBIT

 先月の3日にオーダーして、ストック切れのバックオーダーになっていた荷物が昨日届きました。「8-1/2Wのブーツのストックがなくなっちゃんだけど、9でもよければすぐ送るよ。どうしても8-1/2Wじゃなければ3週間待ってね」なんてmailが来て、結局、発送されたのは6週間後。届いた荷物には、「一ヶ月以内にまた注文してくれたら10ドルおまけするからね」というクーポンが入っていたものの、すでにその期限は2日後。

 なんとものんびりした話で、IT化されて国内で注文するより早く届くものがあるかと思えば、オーダーシステムだけIT化されただけで、こんな調子の、いかにもアメリカ中西部の田舎町の雑貨屋のようなショップもあるんですね。

 この夏の取材用にブーツやらパンツをオーダーしたのですが、なんとか梅雨明け前に届いてほっとしました(笑)。

 その荷物の中に、固形アルコールの燃焼器が入っていました。WEBのカタログで見つけて、4ドル90セントと安いし、面白そうなので注文したのですが、これもストック切れだったようで、替わりに、8ドル99セントのESBITが入っていたのでした。

 オーダーした面白い形の燃焼器も実物を見てみたかったのですが、なんとも懐かしいESBITを手にして嬉しくなってしまいました。

 かつて、「ヘビーデューティ」がアウトドアの合言葉だった頃(もう20年以上前ですね)、憧れのピーク1やらホエーブスには遠く手の届かないアウトドアに憧れる少年の強い味方でした。こいつの上にシェラカップを置いて、沸かしたお湯で入れた紅茶の味は今でも思い出せます。調理なんてとてもいえないけれど、それがはじめてのアウトドア料理でした。

 輸送途中、飛行機の荷物室の中でパンクしたらしく、固形アルコールのパッケージが割れて、その粉にまみれた懐かしいストーブを開いて見ると、made in West Germanyの刻印がありました。ブーツも燃焼器もストック切れのお店で、どうしてこんな骨董品の新品が残っていたのか不思議です(笑)。

 そういえば、ぼくが初めて買ったストーブである初代ESBITは、スポーツスターやらプリムスにメインストーブの座を譲り渡した後も、ワンデイハイクやツーリングでずっと活躍し続けてくれていたのに、どこかに行ってしまいました。

 思いで深い相棒が、「おいおい、俺のこと忘れるなよ」と、ひょっこり帰ってきた感じです。

 明日、晴れたら、多摩川縁に連れ出して、紅茶でもいれようかな。

ひょっこりと、ぼくの生活に戻ってきたESBIT。シンプルで頑丈、軽量、コンパクト。あらためて見直すと、すごいヤツです。

――― uchida

 

 
 

03/06/16
新しいメディアとツール

 ひょんなことから新しいメディアの立ち上げに関わることになって、打ち合わせやら、クライアント回りやらに忙殺されていて、なかなか自分のサイトの更新ができずにいます。

 梅雨に突入して、レインウェアや雨の中でのキャンプの設営や撤収といったことをちょっと書いてみようかと思ったり、レイラインのほうではもうだいぶ時間が経ってしまいましたが能登のレポートを書かなければと、心に引っかかっているのですが、ミーティングをいくつかこなすと、もうそれだけでへとへとになってしまい、エディタを開く気力がなかなか起きません。

 来月立ち上げる予定のメディアは、4年間、雑誌として出版されていたものが休刊となり、WEBのほうにシフトして、リニューアルスタートするものです。そのスタッフは、みな紙媒体の経験しかなく、なんとか面倒なシステムを介在させないで、サイトの更新をする手立てはないかと、調べているうちに、いいツールを見つけました。じつは、今、このページも、そのツールを使って、更新しています。

 従来だと、WEBの更新は、ローカルでHTMLエディタを使ってページを編集し(中にはシンプルなテキストエディタを使って、ソースから書く人もいますが)、画像が入るならそのファイルと一緒にサーバにアップロードするというプロセスが必要でした。

 だから、HTMLエディタの使用法に慣れていることと、ファイルをアップロードするためのFTPの方法などに精通していなければなりませんでした。ところが、MacromediaがリリースしたContributeを使うと、サーバの必要なファイルに直接アクセスして、それを開き、ワードプロセッサを使うのと大差ないインターフェースでページを編集して、更新することができます。

 実際使ってみると、これは驚くほど便利です。テーブルやフォーム、フォント、それからスクリプトなどには一切手を触れずに、必要なテキストと画像だけ更新できるので、WEBのことを知らない人が操作しても、デザインが崩れるようなことはありません。

 これなら、モバイルでのサイト更新も楽チンそのもの。この便利なツールを使って、これから、こまめに更新していきますね。……それにしても、今から、WEBをつくり始めようという人は恵まれています。車が滅多に故障しなくなり、スポーツカーまでよくできたオートマチックが主流になったように、PCもどんどんユーザーフレンドリーの度を高めていっています。

――― uchida

 

 
 

03/05/31
空海の秘密

 もう何度も、このコラムで空海のことに触れていますが、やはり空海という人には底知れない魅力を感じます。同行二人の弘法大師としてではなく、「山師」、「修験者」、「陰陽師」、「シャーマン」としての空海。宗教者ではなく、策士、戦略家としての空海。

 四国八十八箇所は、巡礼の道として整備したように見せかけて、じつは空海が大地に記した巧妙な暗号ではないかと思っています。88の霊場を順番に辿るのではなく、何かキーとなる数列を使って並べ替えるか、あるいは何か共通するキーワードで個々の寺を括り直すかすると、単なる巡礼の道ではない何かが見えてくる....そんなことを想定しています。

 山登りをしていると、1000年以上も昔に踏み跡もない岩壁をよじ登り、文字通り「開山」した修験者たちの痕跡に度々出会います。何のために、貧弱な装備で、命をかけてまで、未知の山に登ろうとしたのか? 「そこに山があるからだ」というスポーツ登山の理念とは、また違ったモチベーションがあったはずです。

 いちばん身近なのは、修験道の開祖である役小角に代表される「仙人」のイメージです。不老長寿の秘薬と境地を求めて、一人深山に篭り修行する。そこには、ストイックな求道者の側面と、丹=水銀鉱脈を求める現実主義者の側面が同居しています。

 空海という人も、弘法大師としての「聖」の部分と、怪しげな術を操り、権力者を手玉に取る「俗」の部分が同居しています。聖なる理念を表したのが四国八十八箇所だとすれば、そこには、必ず、現実的な利益を追求する俗の部分が隠されている。空海の人となりをみれば、それは明らかです。

 空海が、何を四国の山中に隠したのか? あるいは四国山中に秘められた何を発見して、それを暗号として後代に伝えたのか? そんなことを想像しながら、お遍路さんとはまったく違うモチベーションで遍路道を辿ると、痛快ではないか....天邪鬼なぼくは、そんなことを考えてしまいます。

――― uchida

 

 
 

03/05/19
吹き飛び消え去る
海辺の一個の砂粒のように

 前回、このコラムを書いてから、いつの間にやら一ヶ月が経ってしまいました。その間、取材で一週間能登を回り、その記事をまとめて、何冊か本を読み、幾人かの人と会い、mailをいくつかやりとりして、凪いだ海に漂っているヨットのような一ヶ月でした。そろそろ転覆しそうな嵐が来そうな予感もありますが、このまま凪が続くよりはましかな....。

 今、ちょうど朝の4時を回った時間で、ライアル・ワトソンの『ダークネイチャー』なぞを読みつつ、手遊びに、コラムを書こうという気分になりました。

 ここ数日、人はどこへ向かって進んでいるのだろうと、ぼんやり考えています。ワトソンはダークネイチャーの最初のほうで、ドーキンスばりに、「遺伝子の巧妙な戦略によって生かされている生物」という生命観を提示しています。もっとも、まだ途中なので、この先、ワトソンがどう話を展開していくのか想像がつきませんが、今まで読んだ部分で、最近、自分が意識していることと重なり合う気がしました。

 人は……他の生物もそうですが……、「個」とともに、「全体」が一つの存在であるということ。個は個で自分の生存欲求を満たしながら生きているけれど、ときに、全体の生存欲求を優先させるために自らの生存を放棄することもある。

 ゴールデンウィークは、レイラインハンティングの取材で、能登を回ってきましたが、そのテーマは「寄りイルカ」でした。イルカやクジラが、まるで集団自殺するように、岸へ向かって泳いできて、そのまま座礁してしまう。そういう事例が世界中にあります。日本でも、古くから、沿岸に寄って来るイルカを「寄りイルカ」と呼び、ときどき、そのまま海岸に自ら打ち上げられることがあったそうです。

 イルカやクジラに限らず、「集団自殺」を遂げる動物たちがいます。それをある種の細菌やウィルスの感染によるものとか、地殻変動などに伴う磁気異常が脳波を狂わせるのだと説明するものもありますが、それが証明されたわけではありません。

 人間社会でも、今、見知らぬ同士がネットで出会い、集団で自殺するようなことが起こっています。また、カルトが自滅的ともいえるような異常な行動に走ったりするのが目につくようになりました。人間社会では、それを多くはアノミーで説明します。それを納得できる形で提示したのはデュルケームの『自殺論』でした。

 「個」の数が増えすぎ、あるいは、天敵との数のバランスが崩れて、生態系に大きなダメージを与える可能性が出てきたとき、ガイアの意思とも言うべきものが働く。それが本能的なパニックを呼び起こし、「個」をアポトーシスさせる。アノミーのバックボーンとして、そのようなことがあるのかもしれません。

 そう考えると「個」はいかにも無力な気がします。だけど、自然の面白いところは、そんな無力と思える「個」の意思がフィードバックされて、「全体」が思いもよらない変化を遂げることがあることです。「個」としては、吹き飛び消え去る海辺の一個の砂粒であることを自覚しながら、でも、無力感に囚われず、可能性を信じて、明確な「意思」を持ちつづけたいと思います。

 ……夜明けの志向は、啓示的だけど、あらためて読み直すと、意味不明ですね(笑)。彼者誰時の戯言でした。

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ポジがあれば必ずネガもある。「生命」を一貫してポジティヴに見つめつづけてきたワトソンがネガを語るだけに説得力があります 100年も前の著作ながら、今読み返しても、デュルケーム以上に自殺を社会現象として分析した研究はありません

――― uchida

 

 
 

03/04/20
Ars naturae ministra
. Temporis natura filia.

 松岡正剛に『フラジャイル』という作品がありますが、最近の力だけがまかり通る世界情勢など見ていると、フラジャイルなもの=繊細なものの存在に、もっと目を向けなければならない気がします。

 最近読んだ、『化学の結婚』(ヨーハン・V・アンドレーエ、種村季弘訳)の中に、こんな一節がありました。「真実は素朴、単純、赤裸であり、虚偽のほうは華美、ご立派、堂々としていて、神的人間的知の尋常ならぬ装いに飾り立てられているのであってみれば、それだけ何が真実か見分け難くなっているのである」。

 ぼくは、万人にとっての「真実」だとか、ただ一つの宇宙の「真理」などというものがあるとは思いません。「真実」だとか「真理」だとか言われるものは、様々な言説を吸引する力を持つぼんやりした「核」のようなもので、そこに塊のようなものがあるのは感知できるけれど、いざ掴もうとすると雲のように散って消えてしまうものです。

 でも、物事には、その「核」に近いところにあるものがあって、それは素朴で単純で赤裸、そして繊細なものであると思います。素朴で単純なものは自分の心も素朴で単純でなければ気がつくこともない。赤裸なものは、それを見据える勇気がなければ、つい目を反らしてしまう。そして、繊細なものは、いきなり掴もうとすると壊れてしまう。

 五感を研ぎ澄まし、息を潜め、注意深く周囲を見回して探し、それを見つけたら、掴みとろうとせずに、研ぎ澄ました感覚で交感し、輪郭や味、雰囲気をイメージとして意識に固定する。そして、本体が消えうせた後でも、そのイメージを幾度も呼び起こして反芻し、意味を噛み締める....そんなアプローチが、「核」へと近づく唯一の方法だという気がします。

 Ars naturae ministra. 「芸術は自然の稗女なり」。
 Temporis natura filia.「自然は時間の娘なり」。
 いずれも『化学の結婚』の中の一節です。

 17世紀のドイツで発表された『化学の結婚』は、それに続く『薔薇十字基本文書』とともに、秘教的秘密結社「薔薇十字団」の存在を表明した書として、キリスト教社会に大きな衝撃を与えました。

 現実には存在しない薔薇十字団が、アンドレーエが仕掛けた緻密な寓話によって一人歩きをはじめ、多くの人の意識の中に存在し始める。それが、現代に至るまでも続いています。ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』では、テンプル騎士団という寓話が多くの人の意識に共有されることでリアリティを持ち、それに振り回される現代の神秘主義者の哀れを表現しています。

 『化学の結婚』の中には、密やかで、深い意味のこめられたシンボルがたくさん散りばめられています。その一つ一つは、「核」を感じるヒントを与えてくれるのだけれど、全体が物語るものはまぎれもない寓話です。冷静に読めば、アンドレーエの「遊び心」がわかるはずなのに、薔薇十字団を信じ、狂騒に走るキリスト教徒(イエズス会士)たち。せっかく繊細な「核」に近いものに迫る感性を持ちながら、もう一歩というところで、寓話にはまってしまう人間の愚かさ、哀しさ....。

 自らの意識に焼き付けたイメージを反芻するときには、それに没入しながらも冷徹な客観性を失わない必要があるということでしょうね。

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フラジャイル=弱いものの視点から見た世界は、繊細で奥行きがある 現代欧米社会にまで影響を与えつづける秘密結社「薔薇十字団」の団員召集の暗号!? 「薔薇の名前」のウンベルト・エーコが、現代イタリアに舞台を置き換えて、「テンプル騎士団」に踊らされる知識人の精神風土を描く 日付変更線上に浮かぶマジカルな島に、その入り江に浮かぶマジカルな船。そこに流れ着いた主人公が帯びたマジカルな密命とは?

――― uchida

 

 
 

03/04/11
ふるさとの山 その2

 以前、心に刻まれたふるさとの山として筑波山のことを紹介しました。筑波山が、幼いときから見慣れた原風景としての山なら、本格的な登山をはじめたぼくに山や自然を実感させてくれたのは茨城県の北部、阿武隈に連なる山々でした。

 標高700〜800mほどの低山で、スリリングな岩場があるわけでもなく、かくべつの展望が楽しめるわけでもありませんが、他に人影もない、静かな登山道を辿っていると、吹き渡る風や木漏れ日と対話しているような気がしてきます。

 緩やかな起伏を描く里山の延長のような山は、人に例えれば、長い人生を生きてきてすっかり角のとれた好々爺とでもいった感じで、その懐に包み込んで、諭すように、自然の在り方を伝えてくれました。

 リングワンデリングを体験したのも、この山域でした。リングワンデリングとは、自分では前に進んでいると確信しているのに、通り過ぎたはずの場所に戻ってしまう現象。ふつうは、起伏の少ない広い尾根道で深い霧に包まれたり、ブリザードに遭ったりしたときにおこすものです。ところが、ぼくが体験したのは、間違いようのない細い尾根道で、よく晴れた小春日和の昼間でした。

 黙々と登山道を辿っていて、そろそろ頂上に出てもいい頃だが....とあたりを見回すと、ふと傍らに見覚えのある祠が目に入りました。大きな杉の木の袂に、石造りの水神を祭った祠がひっそりと佇んでいます。ふいに、それが先ほど目にして、その前を通り過ぎたはずのものであることに気づきました。登り一辺倒の道を何十分も辿っていたはずなのに、先ほど通り過ぎた場所に出てしまったのです。それでも、一回目は、自分の勘違いだろうと、さして気にも止めず、再び歩き出しました。そして、上り坂を辿って、しばらくすると、また、水神を祭った祠の前に出てしまったのです....。

 さすがに、二度目はぞっとしました。そして、その状況が理解できず、パニックをおこしかけたそのとき、朝、祖母が持たせてくれたものが、ポケットの中で手に触れました。祖母は、ぼくが山登りをはじめるようになると、山行の日は、いつも先に起きて、弁当を作ってくれ、必ず、「霧に巻かれたり、道に迷ったりしたら、これを食べるんだよ」と、梅干をいくつか持たせてくれました。

 そのとき、無造作にポケットに突っ込んだ手に触れたのは、その梅干でした。水神様の祠の横に腰を下ろし、梅干をはおばると、自分の気持ちの中に広がりかけた霧がいっぺんに晴れたような気がしました。そして、自分でも気がつかぬまま、水神様に両手を合わせていました。その後は、何事もなかったかのように、あっけなく頂上に出ることができました。

 単に目に見えるものだけでなく、スーパーネイチャーともいうべき、深いものを見せてくれた、感じさせてくれたのも、好々爺とした北茨城の山でした。

 そんな山を久しぶりに訪ねました。今回は、1200年間、72年毎に続く祭りの舞台としてのふるさとの山でした。前回のコラムで少し触れた「金砂大田楽」を観に行ってきたのです。

 昔、通いつめた風景とまったく変わらない好々爺の山々に囲まれた長閑な山村風景の中、天孫の道案内をする猿田彦命を露払いに、どことなく孫悟空を思わせる金砂神社の守り神の猿、三匹の鬼、そして世話役と裃をつけた楽隊が続き、神輿と馬に乗った神童、最後に宮司と、500人を越す行列が陸続と進んでいきます。

 

 鳴り物入りで賑やかにというのではなく、勇ましく練り歩くというのでもなく、ただ淡々と街道を行く行列。この行列は、沿道の各地で、さの土地の産土に田楽を奉納していきます。また、沿道には枕石やら鏡石といった「聖石」があって、それらは道筋を示すと同時に、依代となって神様がそこで休憩するという意味を持っています。

  天明の大田楽について詳しく記されている『寝覚譚』には、金砂の神は神号を「鮑形大明神」と称するとあります。常陸の水木浜に上がった神様は黄金の膚と九つの穴を持つ鮑の姿で、潮を満たした甕に入れてお迎えする。72年間、金砂山に鎮座するうちに潮がだんだん減ってきて、それにともなって天変地異が増えてくる。72年目に、それまで鎮座していたご神体を水木浜へ還しに行くと、不思議なことに、そこにはまた黄金の膚で九つの穴を持つ鮑が待っていて、新たに潮を満たした甕にご神体を迎えて山へ戻るのだといいます。そして、無事に新たなご神体が山に着くと、世の中は平穏になり、作物は豊作になると。

 山と海と、そして沿道の里と、すべての自然に対する畏敬と感謝の念を表し、その自然との一体感を味わう。それがこの祭りの意味だと思います。歴史的に見れば、豊かな自然を享受して、太古からこの土地で静かに暮らしていた蝦夷の人たちを、海からやってきた大和朝廷の軍勢が駆逐するといった史実を再現している祭りだともいえます。でも、住む人間は変わっても、自然に対する気持ちは変わりなく、蝦夷の人たちの感性をそのまま受け継いでいます。

 特別な景観が広がるわけでもなく、アウトドアのフィールドとして目を引くようなものもない。ただ淡々とした自然がそこに広がっているだけ。でも、だからこそ、その自然は身近に感じられ、時おり、奥に秘められた「スーパーネイチャー」をかいま見せてくれるのかもしれません。

 2月の初旬にも、東西金砂神社を中心に、北茨城の山中を巡りました。そのときたまたま投宿した宿では、ぼくが各地の「聖地」巡りをしているという話から、その宿の氏神様の話になりました。その宿のご主人が、ずっとほったらかしだった裏山の「熊野様」への参道を整備して、祠にも手をいれたところ、毎朝、自分の足が熊野様に向くようになったそうです。そして、そこから日々変化していく里山の風景を見ていると、自然と人間が一体のもので、目の前にあるなんでもない自然こそがいちばんかけがえのないものであると感じて、心から感動したそうです。長い東京生活から故郷に戻って、家業を継いで、あらためて生まれ故郷の自然に目を向けてみると、自分はこの土地から生まれ、この土地と繋がり続け、そしていずれこの土地に還っていくのだという思いがこみあげてきたそうです。

 その熊野様にお参りしたときに、ぼくは、昔、リングワンデリングを経験したときの水神様を思い出していました....。

金砂大田楽の最後の会場には、1万人の観客が集まりました。会期を通しての観客の数は100万人を越えました 猿田彦命による「四方固め」。剣、長刀と持ち替えて、東西南北四方をそれぞれ清めていきます
産土に恵みを感謝し、五穀豊穣を願う「巫女舞い」 地を這うように踊る独特の「獅子舞い」。田楽のすべての演目が、長閑な里山の雰囲気を反映するように、ゆったりのんびりと演じられていきます
最後に現れた鬼は、あたりを威圧するように踊り、最後に、金砂の守り神である猿から焼いた餅をもらって、恭順し、山へ帰っていきます

―追記―
今年の「第17回金砂大田楽磯出大例祭」の模様は、NHK教育テレビで、4月26日22時〜23時半に放映されます。今回見逃してしまった人は、、ぜひご覧になってください。

――― uchida

 

 
 

03/03/26
謙虚に

 ちょうどアメリカがイラク侵略を始めた日に、持病の発作が出て、それから一週間あまり安静を余儀なくされました。横になったまま、ぼんやり侵略戦争のニュースを聞き流していると、これが現実に起こっていることなのか、それとも朦朧とした脳が紡ぎ出している白昼夢なのかわからなくなってきます。

 公然と暗殺作戦の実行を発表し、自分たちの民主主義こそいちばんと、それを押し売りするスローガンを掲げ、一方で、国益を守るための「先制攻撃」であることを隠しもしない....こんなことが夢でなかったとしたら、いったい何なのでしょう?

 高校時代にアメリカンアウトドアの洗礼を受け、バックパッキングや登山に目覚めたぼくとしては、一刻も早く、アメリカがくだらない覇権主義を捨てて、健全な個人主義を取り戻してくれることを祈るのみです。もっとも、アメリカは、個々の人たちは健全な個人主義を持ちながら、国家となると途端にパックスアメリカーナに凝り固まるという国でありつづけてきたわけですが....。

 体調もなんとか回復して、ようやく今日からまともに動けるようになりました。今週末は、茨城で行われている「金砂大田楽」を見学に行ってくるつもりです。1200年前から続く、プリミティヴな祭り。自然から恵みをもぎ取るのではなく、自然に対して謙虚に働きかけて、恵みを請う祭りです。世界は、もう少し、他人に対して、異質な文化に対して、そして自然に大して謙虚にならなければなりませんね。 

――― uchida

 

 
 

03/03/17
愚か者

 人間にとっていちばん難しいことは、「愚かさ」を自覚することかもしれません。自分がいかに愚かであるか、あるいはあったか....それを知ることは、行動をおこしてしまってから後悔することでしかありえないのでしょうか?

 嫉妬から、怠慢から、あるいは欲望から、人は間違いを犯します。成人してしばらく経っている大人なら、だれでも自分の愚かしさに穴に飛び込みたくなるような経験の一つや二つはあるはずです。そこから、二度と人を傷つけたくない、自分も傷つきたくないと思い、行動を正す。正しても正しても、また同じような間違いを犯してしまう。それもまた人間だから仕方がない。だけど、自分の愚かさを何度も何度も反芻することで、少しずつ少しずつ、真っ直ぐに、無垢に戻っていく。

 そんな個人体験を持つ大人が集まれば、本来なら、互いの愚かさを補い合い、想像力を働かせて、これから起こるかもしれない危機を乗り越えていけるはずなのに....。「指導者」と呼ばれる、もっとも自らの、人間の愚かさを自覚していなければならない種類の人間が、もっとも愚かさを理解しない愚か者だとしたら....。

 政党であれ、軍部であれ、宗教団体であれ、あるいはひょんなことから表舞台に立ってしまった独裁者であれ、何らかの利益代表でしかない愚かさの自覚のない人間が「指導者」であるかぎり、人類は絶滅の危機から逃れられないのかもしれません。

 どうやらアメリカは18日に開戦するようです。マスコミは特別番組枠や記事枠を開けて、準備しています。二週間以内にイラク軍を壊滅させ、新月の晩、バクダッドでフセインを追い詰める....果たして、そんなシナリオ通りに事が運ぶのでしょうか? 厳格な報道管制を敷いた湾岸戦争のときと違って、今回のアメリカ中央軍は最前線での取材を許しています。日本のマスコミも従軍記者を派遣しています。

 湾岸戦争では、想像を絶するハイテクに、イラク軍は驚き慄き、すぐに敗走しました。だけど、その後起こったのは、911でした。アメリカも、物見遊山のマスコミも、湾岸戦争の記憶に基づいて、「楽勝」気分で戦争を向かえようとしています。911以降の世界は、起こるはずのないことが起こる世界になってしまったことを、みんな忘れてしまったのでしょうか....。

――― uchida

 

 
 

03/03/11
新月

 1991年1月17日。「砂漠の嵐」作戦が発動されたのは新月の晩でした。こうした軍事作戦は、往々にして新月の晩に開始されます。満月の光が人の心を物狂おしくさせるルナティックに対して、あくまでも冷徹で合理主義に支配される新月の晩。太陽を悪魔とみなし、月をそれと対峙する女神とする砂漠の民が、女神の庇護を失う瞬間に、太陽を神とする軍勢が攻める....。

 もちろん、ハイテク誘導兵器やノクトビジョンなどで、夜間戦闘能力が圧倒的に高い米英軍の戦術的な理屈から新月の晩が選ばれることはわかっています。でも、単に軍事上の理由だけでなく、宗教的な弱点を突くキリスト教社会の狡猾な意識が働いているように見えるのはぼくだけでしょうか。

 アメリカは、イラン革命が中東に波及するのを防ぐ防波堤としてフセイン政権を利用し、軍事援助ばかりか化学兵器の原料となる物質やそのまま生物兵器になるウィルスまで盛んに輸出していました。いわば自ら蒔いた種。911で、同じように自分たちが育てたビンラディンが本土空襲というアメリカ人が経験したことのない攻撃を加えたことで、まさに悪夢が繰り返されることを恐れて、これを何が何でも抹殺したい。

 太陽の世界の理屈は、パワーポリティクスそのものです。目に見える障害を取り除いてしまえばとりあえずは安心。また同じような障害が現れたら、また取り除けばいいと思う。あるいは、障害を永遠に取り除くためには、その根を根絶してしまえばいいと思う。でも、根絶などできるはずはありません。

 人間を機械のように考え、パーツが故障したら、それを取り替えてしまえばいい。ギアの動きが悪くなったら油を注せばいい....そうして対症療法で病と対する西洋療法のやり方そのものです。

 体の自己回復能力を取り戻させることで、病を克服あるいは病とうまい形で共存を図ろうとする漢方のような国際政治に対する処方はないものでしょうか....。

 今月、中東では18日に満月となり、徐々に月の女神の力は衰えていきます。そして、4月2日、新月を迎えます。

――― uchida

 

 
 

03/01/30
ふるさとの山

 レイラインの内輪のBBSで、深田久弥が話題にのぼり、久しぶりに「日本百名山」を読み返しました。北陸加賀の出身だった深田久弥は、白山を眺めながら育ちました。「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている....私のふるさとの山は白山であった。....真正面に気高く美しく見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった....」。

 ぼくにとっては、関東平野の真中に聳える筑波山がふるさとの山です。関東平野の東端から遠望する筑波山は、きれいに峰が二つに分かれて、優美に裾野を伸ばした独立峰で、ひときわ気高くみえます。

 深田久弥は筑波山を百名山のひとつに数えています。その中で、1000mにも満たないこの山を選んだ理由を、遮るもののない関東平野の中にあって、圧倒的な存在感を持っていることにあるといっています。

 子供の頃、筑波山はこの世の果てにあって宇宙とつながっている恐ろしくかつ気高い場所のように思えました。そして、オートバイに乗るようになって、自分で好きなところへ行けるようになると、まず冒険心を試しに出かけたのは筑波山麓でした。

 後に、八ヶ岳や北アルプスに通い、3000mの稜線で修羅場を味わった後でも、ふるさとに戻り、筑波山を遠望すると、その気高さは、他に比べようのないものでした。今でも、筑波山を仰ぐと、子供の頃のすべてを知っていて、「生意気を言って、この洟垂れ小僧が」とカラカラ笑う大恩師の前に引き出されたような気がします。そして、幼い頃に刷り込まれた遠い記憶と変わらないその姿が、この上ない安心感をもたらしてくれます。

 深田久弥が、「日本人にはふるさとの山がある」と書かずに、「日本人は大ていふるさとの山を持っている」と表現したことに、深い共感を覚えます。ふるさとの山は、心の中に、確かな存在感をもって「ある」のです。

 いろいろな山に登り、印象に残る山もたくさんあります。でも、ぼくにとって、筑波山以上の「存在感」を持っている山はありません。筑波山は、ぼくの腹のあたりに、ドシンと据わっているのです。

――― uchida

 

 
 

03/01/10
自分だけが
生き延びるのではなく....

 昨年の日付のままで、しかも「腑抜け」なんてタイトルが最後になっていたので、「内田は年が明けても腑抜けのままか?」と心配してくださった方がいました。なんとか腑抜けは脱しましたので、ご安心を(笑)。

 じつは、年末も土壇場になって事務所の撤収の荷物の整理をしたり、茨城の実家に引越し荷物を運ぶ車を借りに行ったり、さらに自宅アパートに収まりきらない荷物をまた実家に運んだりといったことを一人でやっていたもので、てんてこ舞いな上にさすがに疲労困憊でへたり込み、ようやく回復したと思ったら、今度は仕事が立て込んで朝から晩まで腱鞘炎になるほどキーボードを叩いたりと、まったく年明けの実感が湧かない2003年の幕開けでした。

 去年は、レイラインハンティングで、春分、夏至、秋分、冬至と、季節の節目をそれぞれ象徴的な場所で迎え、それだけで満足できたので、なんだか便宜的に年の変わり目とされる1月1日が特別な日のように感じなくなってしまいました。そんなわけで、今年は年賀状も書かず、ごく普通の日として実家で正月を迎えたのでした。

 それにしても、年が明けてみると、空前の不景気には拍車がかかり、戦争の足音はますます高くなって、とんでもない危機に取り囲まれているというのに、この日本はあいかわらずの「腑抜け」のままで、いったい、どうなってしまうのでしょう?

 昔、中野のオンボロ長屋で暮らしているときは、天災に見まわれたときにザック一つ持って飛び出せば一週間は暮らせるくらいの準備を整えていました。今、また、そんな備えをしておこうかとも考えています。あるいは、政府なんていういい加減なものの世話にならずにすむように、どこか山奥で自給自足、自衛体制を整えようかなんてことも、半ば本気で考えてしまいます。

 だけど本当に問題なのは、社会がどうなろうと、自分の力でなんとかできる人よりも、過酷な条件によって切り捨てられたり、戦争の犠牲になってしまう人たちですよね。自分だけが生き延びるのではなく、そんな人たちが幸福に暮らしていける社会を作るために、社会に留まって具体的なアクションを起こす。そんな年にしたいと思います。

――― uchida

 

 

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