03/12/18
 戦争の足音

 今日、NHKスペシャルで「シリーズ・安全保障」のタイトルで、日本を取り巻く危機と、世界の中での日本の軍事的な位置付けについて、自衛隊や海上保安庁、警備(公安)警察に克明な取材をした番組が放送されました。

 アメリカと連動した弾道ミサイル迎撃網やイラク派遣軍の装備など、重装備の部分はもちろん、実弾射撃訓練で20ミリバルカン砲を撃つ海上保安庁の巡視船や、89式小銃を装備した普通科部隊が本格的な市街近接戦闘(CRB=Cross Range Battle)訓練をしている様子、さらに原発に配備される警備警察部隊がHKMP5を装備している様子などが映し出されると、すぐ目の前に戦争の影が忍び寄っている、とても嫌な予感がします。

 軍隊や警察の装備というのは、形式的儀礼的なものと、実践的なものとでは決定的に異なります。いままでの日本では、警察がサブマシンガンを装備することなどなかったし、自衛隊も古めかしい旧NATO準拠の装備で、軍事的に見ると、のんびりしたものでした。ところが、今日、目にしたそれは、今すぐに東京のど真ん中で市街戦が繰り広げられてもおかしくない....というより、日本という国は、それに本気で供えていることがありありとしています。

 東京の街角に、土嚢を積んだ警備所が置かれ、迷彩のボディーアーマーに首を埋めた自衛官が89式小銃の安全装置をいつでも解除できるように指を添えたままを持ってうろつく....。日本本土は、外敵との戦いにおいて戦場となったことはありません。だけど、対テロ戦争では、否応無く街が戦場になります。

 今こそ、時代に流されない、強い決意が、みんなに必要な時なのかもしれません。

――― uchida

 

 
 

03/12/16
 そろそろ新たに....

 年の瀬が押し詰まってくると、冬至が気になりだします。先日、スカイパーフェクTVの取材で、江戸の創建に関わる結界を形成するレイラインを辿ってきました。朝廷の東国支配の要である鹿島神宮から見て、冬至の入日の方向に富士山があります。その鹿島神宮と富士山を結ぶ「冬至ライン」には、じつは、皇居や赤坂迎賓館、明治神宮といった施設が並び、さらに小田急線の下北沢−喜多見の10kmあまりの直線路が、ぴったりと一致します。

 江戸城の天守閣から見て、鹿島神宮は夏至の日の出の方向、富士山は冬至の日の入りの方向。つまり、鹿島神宮と富士山を結ぶラインというのは、夏至という太陽の力がいちばん強い瞬間に合わせて、その力を取り込み、冬至という太陽がもっとも弱い日に、その再生を願う意味がこめられているのです。太陽から力をもらい、その太陽の再生を願う....キリスト教でも夏至祭やクリスマスがありますが、同じ祭祀的意味を持っています。クリスマスといえば、キリストの生誕日と言われていますが、それは後でこじつけたこと。キリストの生誕を祝うなら、どうしてイブのほうが盛り上がるのか? それは、もともとが冬至の晩に翌日の太陽の再生を願う冬至祭だからです。

 一昨年は、冬至の日に小田急直線路を辿り、喜多見不動で星供祭と出会って、唐ナス汁粉と柚子をいただきました。昨年は、年末に身の回りで亡くなる人が相次いだり、都心にあった事務所を引き上げることになり、その作業を一人でやって腰を痛めたりして、きっちりと一年の締めくくりを迎え、太陽の再生を願うことができませんでした。

 自宅アパートの窓からは、富士山が遠望できます。この数日、夕陽は、どんどんその富士山に近づいています。今年は、きちんと富士山に沈む冬至の夕陽を見届け、自分自身も再生する気持ちで、新しい季節を迎えたいと思います。

――― uchida

 

 
 

03/12/15
引きこもり....??

 先週末は、まるで流行りの引きこもりのように、二日間、アパートから一歩も出ず、誰とも顔も合わさず、言葉を交わさずに過ごしました。部屋の前は、ゴルフの打ちっぱなし練習場で、その先にはテニスコートがありますが、天気のいい休日ともあって、球を打つ音や、賑やかな掛け声が響いてきます。いっぽう、こちらは薄暗く寒い部屋の中で、ゴロゴロ....。

 11/24で書いた浪人時代に中野の貧乏長屋で倒れたときは、その前後、コンビニでお金のやりとりをしたとき以外は一週間誰とも接することもなく、一言も言葉を発せず、オマケに熱で朦朧としているものだから、本当に生きているのか死んでいるのかわからなくなりました。

 いろいろやりたいことややるべきことはあるのだけれど、どれも手につかない。片っ端から本を広げてみても、意味はほとんど頭に入らず、ビデオを観ても5分と集中していられない。「瞑想」とはまったく逆の多動症の中の孤立。表で汗を流して気分転換しようかなんてことを思ってみても、それも億劫でできない。動物園の檻の中で自分の毛を掻き毟っているノイローゼの猿のようなものでした。

 ....そんな状態がずっと続けば本物の引きこもりなのでしょうが、ある瞬間、フッと、「どうでもいいや」と、もやもやな感情を捨ててしまうと、なんだか、とても気持ちが楽になります。そんなときです、自分も含めて、取り巻いている世界が急にリアリティを失ってしまうのは。

 身の回りにあるものは、たしかに見えているし、それらに触ることもできる。自分という存在がここにあることも感じられるけれど、すべてが消え入る寸前の幻のように薄くて頼りない。狭い部屋の中でうずくまっているのだけれど、周りはすべて存在の薄暮にあって、その先は無限の拡散が続いている。

 空で拡散していた雲が一つになって、一旦は、クリームパンのような形になるけれど、すぐにまた拡散のプロセスに戻って、何事もなく空の彼方に消えていく....人生なんて、そんなものではないかという気がしてきます。

 夜、無気力にテレビをつけると、イラクを侵略したアメリカ軍がフセインを捕獲したと、まさに鬼の首をとったように得意になっている記者会見の様子が映し出されていました....あらためて世界を見回してみると、すべては、引きこもりの胡乱な意識が生み出した妄想だという気がしてきます。

――― uchida

 

 
 

03/12/10
嗜み....

 ごくたまに、タバコを嗜みます。読書や資料調べに没頭していて、気がつくと明け方も近い深夜。疲れてはいるのだれど、気が昂ぶって、そのまますぐには眠れない。そんなときに、シングルモルトのボウモアがあればそれをショットグラスに注いで、なければ安い赤ワインを小ぶりなオールドファッションド風のグラスに注いで、チビチビと舐めながら、煙を吹かします。

 タバコは、普通の紙巻ではなくて、細身のドライシガー。とくに甘いフレーバーのついたパイプタバコを巻いたものが好きで、これをゆっくりゆっくり一本だけ吹かします。荒涼としたスコットランドの風景が浮かび上がってくるようなボウモア独特のピート臭やスパイシーな赤ワインの香りとタバコの香りが入り交じると、どこかしっとりとした過去の次元に腰を落ち着けているような気がしてきます。

 ぼんやりと、小一時間も異次元の世界に浸って、気を落ち着けてから寝床に入る。月にせいぜいニ、三度。一人だけの密かな嗜みです。また、たまに旅先の宿で、部屋を包む雰囲気を自分のものに変えたいときに、香の変わりにシガリロに火をつけることもあります。

 タバコは嗜好といっても、ほんとにささやかなものですが、コーヒーは生活に欠かせないものになっています。かれこれ30年近く、高校時代から欠かさずレギュラーコーヒーを自分でいれて飲んできました。

 最初はサイフォンで、それがドリップになり、コーヒーメーカーになり、最近はまたサイフォンに戻り、生豆から焙煎してミルで挽き、そのときどきの気分でブレンドや焙煎具合を変えたりして楽しんでいます。

 コーヒーもやはり、その香りや味わいが、しっとりとした別世界へと誘ってくれます。専用の焙煎網の上を心地良い音を立てながら動く豆から、香ばしい匂いが立ち上り、それを冷ましてミルで挽くと、今度は、豆の種類に応じて、独特の芳香が立ち上ります。そして、サイフォンにいれて、豆が上がってきた水を含むと、また違った香りに変化していきます。出来上がったコーヒーを飲めば、口に入れた瞬間とまた口から鼻に抜ける香りも変わります。

 コーヒー豆という一つの素材が、幾様にも変化する。手の入れ方、気の遣い方、そして、自分の体調や気分によって、また異なった変化が起こる。微細な変化が体感できる、楽しめる嗜みがたくさんあると、人生が豊かになる気がします。

――― uchida

 

 
 

03/11/24
 災難は....

 この数日、胃が痛くて、ずっと臥せっていました。立ち上がれないほどの胃痛なんて20代前半以来です。若いうちはけっこう繊細な神経をしていたので、ストレスが胃に来ることが多かったのですが、世間の荒波にもまれるうちにすっかりずうずうしくなって、さしこむような胃痛なんてすっかり忘れていたのですが....。

 寒くなるとシクシクと痛むので、寝袋に潜り込んで丸まったまま、部屋の中を殺虫剤をかけられた毛虫のようにのた打ち回っていました。空腹になると、これまた痛みが激しくなるので、なんとか寝袋から脱皮して、台所まで這いずって行って、目についた野菜を片っ端から乱切りにして鍋にぶちこみ、グツグツ....。スープというかシチューというか、闇鍋のようなものをすすって、なんとかごまかしました。

 表を車が通ると倒れそうになる中野の貧乏長屋で一人暮らしをしているとき、インフルエンザで立ち上がれなくなり、高熱を出して二日間気絶していたときがありました。まあ、よく目が醒めたものだといまだに思いますが、あのときも同じように食べ物がなく、昏睡から醒めた後、近所のコンビニに這うようにして行って、食料を仕入れて、なんとか立ち直りました。また一人暮らしに戻ったとたん、この様。阪神淡路大震災のときの犠牲者は、一人暮らしの人が多かったそうですが、たしかに、自分を気遣ってくれる人が近くにいなければ、瓦礫の下で成す術もないでしょう。

 この連休には、富士山や北アルプスでシーズン最初の冬山遭難といえるような事故がありましたが、寝袋に包まって、部屋の中で遭難しているような有様でそんなニュースを虚ろに聞いていると、他人事ではなくなってきます。

 富士山も北アルプスも遭難の詳しい事情はわかりませんが、どちらも滑落とのことですから、冬山への対処が十分でなかったことが考えられます。今の時期、根雪にはなっていなくても、雪が降れば地面は氷結するのはわかりきっていますから、アイゼンやピッケルを用意していなかったということはないでしょう。

 シーズン初めは、久しぶりに使う装備がまだ馴染まず、体の対応も不十分なケースが多くなります。季節の変わり目は、体調も崩しがちだし、体を寒さに慣らしてから山へ行ったほうがよさそうですね。

――― uchida

 

 
 

03/11/19
 天気図

 最近は山行の途中でも携帯電話で気象情報を確認することができるようになって、テントの中で短波ラジオの気象通報に耳を傾けて天気図を記すことはなくなりました。

 日本と周辺の主要ポイントの風向と風力を記号で記し、等圧線を結ぶ。前回、前々回の天気図と比べて、今後の気象の変化を予測する。フリーハンドで等圧線を引いていると、地球の呼吸とでもいうのか、脈動のリズムがリアルに感じられたものでした。

 小海線の列車が、まだ小さな小屋のような駅舎の清里の駅についたとき、ちょうど気象通報のはじまる時間になりました。ホームに座り込んで、ザックのトップポケットからハンディサイズの天気図帖を取り出し、そこにボールペンで風向、風力と等圧線を引いていきます。完成した天気図と前の図を見比べると、低気圧の動きが速くなっていることが気にかかりました。

 その日は清泉寮の上にある美の森でキャンプし、翌朝また天気図を描きました。その図は、前回に記したものと比べると低気圧の動きと発達具合が鈍ったように見えました。その後、AM放送の天気予報では、低気圧の動きが鈍くなっているので、関東甲信越地方の天気の崩れは、早くても今日の夕方だろうと伝えていました。

 だけど、ぼくは、低気圧の動きが急に早まって、午後には大荒れになる予感がしました。本来なら、朝鮮半島をかすめて日本海に進んだ低気圧は偏西風に煽られて動きが早まるはずなのに足踏みをするのは、そこで海から力を補給したためで、いったん動き始めたら、速いのではないか....そんな気がしたのです。

 地球の生理を天気図を描くという行為で観察していると、そのリズムが見えるようになる。まさにそういった感じでした。

 朝、予定通りテントを畳んで、八ヶ岳の主峰赤岳に通じる真教寺尾根を登りはじめました。スタート時点では快晴だった空は、いつのまにか高曇りとなり、赤岳への最後の岩場の急登を目前にした手前の牛首山のピークではどんよりと重く曇り、風も出始めました。

 ぼくは、ここで、パーティを組んでいた相棒に、撤退しようと提案しました。天気図を二人で検討していたこともあって、彼はすぐに同意しました。

 ぼくたちが撤退しようと、腰を上げると同時に、このピークに差し掛かったパーティがいました。ぼくたちは、彼らに、一緒に下山しようと声をかけました。しかし、彼らは、「天気予報では夕方まで天気は持つと言っていたよ」と聞く耳を持ちません。そのままぼくたちをあざ笑うようにして、吹き晒しの最後の岩場へと向かっていきました。

 撤退するのがもう30分も遅れていたら、ぼくたちも命を失っていたかもしれません....。

 ネットで気象衛星からの動画が見られ、携帯で局地的な天気予報を確認できる。それはとても便利ではありますが、聞き取り難い短波の気象通報をラジオに耳をくっつけて必死で聞きながら天気図帖にポールペンを走らせていたあのときのほうが、もっと身近に地球の息吹を感じ取っていたような気がします。

――― uchida

 

 
 

03/11/15
ネットワーク

 火曜日、20年ぶりに会った立風書房の編集者、大迫さんと、レイラインや里山、新しいアウトドアムーヴメントの話などで夕方から深夜まで盛り上がりました。

 別サイトとして立ち上げているレイラインハンティングですが、これは元々、自然と触れ合い、何かを感じるというOBTと同じコンセプトを持っています。自然と触れ合うことで目に見える以上の「何か」を感じること、それをサポートするノウハウをメインにしているのがOBT。目に見える以上の「何か」そのものに焦点を当てて、太古の人たちが自然の奥底にあるものを感じて、自然と共生するためのシステムとして築き上げたレイラインを探求するのがレイラインハンティングサイトの趣旨です。

 OBTは、ハードな自然環境の中に踏み込んでいくためのノウハウを知り、その先にある自然が見せてくれるどちらかといえば非日常の世界を感じるためのサイト。レイラインハンティングのほうは、山岳などの特殊なシチュエーションではなく、身近にある鎮守の森や「聖地」と呼ばれる場所の構造を解明することで自然の奥行きを知ろうとするものと言ってもいいでしょう。

 主催者であるぼくの気持ちとしては、OBTとレイラインハンティングはまったく同列で、遊歩大全の冒頭で著者のコリン・フレッチャーが記している「自然からのFeel How」を実践するためのものです。

 今、里山巡りをテーマにした雑誌やライフスタイルマガジンを手がけている大迫さんも、身近にある自然の中にあるフラジャイルだけれどとても奥行きのあるものに関心を持って、それを解き明かしていきたいと思っていたそうです。20年前、オートバイ雑誌の編集者とライター兼カメラマンという立場で仕事をして以来、長い隔たりがあって、気がついてみれば、また同じような視点で、同じようなものを追いかけている....縁とは不思議なものです。

 水曜日、ツリークライミングというカナダで生まれたローインパクトな木登りの方法を普及させようとしている日本ツリークライミング協会の梅木さんと会いました。そもそも、何故、彼に会ったかといえば、例年好評のOBTのスノーシューオフ会を、今度はまともなアウトドアアクティビティツアーに発展させようと思っていて、次回の目玉に、真冬の深雪の森にスノーシューで分け入って、そこで木に登って、一日過ごしてみようというスノーシュー&ツリークライミングのプランを相談するためでした。

 梅木さんは、ツリークライミングだけでなく、アウトドアアクティビティのほとんどに通じていて、ネイチャーガイドやインストラクターとしても活動されています。今年二月のスノーシューツアーでは、一緒に北八ヶ岳縞枯山の直登に臨み、ともに吹き溜まりに落ち込んで登頂を断念しました。縞枯山再挑戦はさておき、スノーシュー&ツリークライミングで、新しい冬のフィールド体験をしてみようというわけです。

 梅木さんは、ツリークライミングをただ一般に普及させるだけでなく、ハンディキャップのある人たちにフィールド体験をしてもらうためのツールとしてこれを使ったり、不登校の子供たちに木登りを体験してもらうプロジェクトに力を入れています。

 彼といろいろ話をしていて、ふとひらめいたのは、里山の木に登ること。とくに神社仏閣にある神木は無理としても、それに並ぶような大樹に登らせてもらえないかということでした。身近にある大樹に登って、身近な風景を今までとは違った視点で見る。そして、人間と自然の共生の象徴でもあるそうした木と触れ合うことで、何かが感じられるのではないか。とくにハンディキャップのある人や不登校といった人は、感性がとてもセンシティヴな人が多いので、そんな人の木との触れ合い体験をじっくり聞いてみたい。そんなふうに思ったのでした。

 梅木さんは、木に登ることが重要なのではなくて、それをすることで感じる「何か」が重要なのだといいます。まさに、ツリークライミングを「Feel How」のためのツールと考えているわけです。これまた意気投合して、どんなツリークライミング体験を仕掛けていくかということで、また盛り上がってしまいました。

 木曜日は、アドベンチャーライダーの風間深志さんと会いました。22年前、日本人ライダーとしてはじめてパリダカに挑戦して以来、風間さんは、オフロードバイクというツールを使って、世界中の様々な自然にアプローチしてきました。そして、その体験をベースにして、オフロードバイクだけでなく、カヌーやMTB、トレッキング、クライミング、フィッシング、さらにはマタギや田舎に伝わる技術など、自然と触れ合うためのあらゆるツールを動員して、だれでも身近に自然と触れ合い、感じることができる「地球元気村」を発足させて、発展させてきました。

 その地球元気村をさらに発展させて、自然との共生が濃密な地方から、それぞれ個性のある産品を生み出して全国に流通させたり、ノウハウの交流を図ろうとされています。また、個人的には、自身の活動の原点となったパリダカに22年ぶりに挑戦して、地球元気村再出発の活力にされようとしています。

 そして、金曜日は、昭文社の顧問で、ネットワークプロデューサーの溝口勇さんにお会いして、これまたレイラインハンティングから、アウトドアアクティビティのネットワーク化といったことで、盛り上がってしまいました。溝口さんも、若い頃から登山に親しまれ、50歳を過ぎてもドゥカッティを乗りこなされています。デジタルマップのプロデューサーでもあり、じつをいえば、レイラインハンティングの重要なツールであるデジタルマップに関して、いろいろお世話になっています。

 普段、ぼくはどちらかといえば人と接する機会が少ないのですが、今週を振り返ると、目まぐるしく動き回って、いろいろな人と深い話をしました。そして、それぞれが関係のない話ではなくて、相互に関連のある、結びつければさらに面白さが増していくようなことばかりです。

 以前このコラムで紹介した若狭の宿のご主人、田辺さんも、それから、ここでは触れていませんが、その後に不思議な縁で結びついた幾人かの人たちも、とても深く結びついていきそうな気がします。何か、巨大なネットワーク化のうねりが近づいている....そんな予感がします。

「おれたちは、母親の胎内にいるような感じで地球を感じているんだ。だから肝心の地球の具合が悪くなったり、汚染されたりすれば、健康でなんかいられなくなるんだ。自分の体を癒したいなら、地球を癒さなければだめだよ。逆にいえば、地球を癒したいなら、自分自身を癒さなきゃだめなんだ」(『アボリジニの世界』ロバート・ローラー著 の中のあるアボリジニのシャーマンの言葉)

 ネットワークのキーは、それでしょう。

――― uchida

 

 
 

03/11/08
防災ツールとしてのGPS

 今日は立冬だというのに、東京は夏日を記録。街では、クリスマスツリーの飾り付けをしている店もあるというのに、Tシャツ姿で、汗を拭きながら歩いていると不思議な気分になってきます。

 友人からのmailで、庭に突然ミミズがたくさん土の中から這い出してきたとありました。「大地震の前兆かもな」なんて、彼は続けていましたが、そういえば、数日前には、太陽活動が活発になって北海道でもオーロラが観測されたというし、何かただならぬことが起こりそうな、ざわついた気分になります。

 もう数年前から、トレッキングやツーリング、そしてレイラインハンティングはもちろん、街中を散策するときもGPSを持って歩いているのですが、せめて、東京23区内の避難場所や防災施設のポイントをプロットしておこうかと本気で思っています。

 ぼくが使っているのは、GARMINのeTrex-Vistai日本語版と同じくGARMINのGPS-V日本語版というモデルです。どちらも2.5万分の一の詳細な日本地図が搭載できるので、都内だと、小さな路地まで完全に網羅できます。

 山にいるときは、方向感覚も鋭敏になっているので、GPSは、自分の現在位置がイメージしている場所と違っていないか確認する程度なのですが、ビルに囲まれた都内では、方向感覚が狂って、地下鉄の駅からひょこっと出たりしたときに、目的地とはまったく逆の方向に歩き出すようなことが多々あります。GPSを持っていれば、逆に進んでいるのが一目瞭然なので、打ち合わせで初めて訪問する会社へ向かうときなど重宝しています。

 もし大地震がやってきたとき都内にいたら、そこは瓦礫の山で目標物も無くなってしまうでしょうから、GPSは絶大な威力を発揮するでしょう。

 Vistaのほうはハンディタイプなので、どちらかといえば、被災地から自力で脱出するためのツールです。GPS-Vはラリーにも使われている車載タイプで、オートバイに装着して使っています。こちらは、被災地での救難活動などをするときに威力を発揮しそうです。

 神戸の震災のときには、まだまともな民生用のGPSはありませんでしたが、今は、高性能なハンディGPSがいろいろあるので、サバイバルやレスキューツールとして常備しておいたほうがいいかもしれません。

*宣伝めいてしまいますが、GPSの詳細は「OBTセレクト」にありますので、そちらもどうぞ。

――― uchida

 

 
 

03/11/04
不屈

 子供の顔は、血の繋がった人間たちの面影をどこかしらに持っています。8月に生まれた息子は、ときには妻そっくりで、ときにはぼくの何気ない表情を生き写しにしていて、ときには亡くなったぼくの父親に似ていて....妻の父親とそっくりな表情もします。

 生死の境をさまよって、それを強靭な意志で乗り越えた彼は、はっきりとした視線を人に向けるようになりました。里帰りしていた彼をずっと見ていた妻の両親は、「病気のせいで表情が変わってしまった」と、少し寂しそうに言います。

 だけど、じつは、そのはっきりした眼差しには、妻もぼくも見覚えがありました。それは、94歳まで生きて大往生を遂げた、ぼくの祖母の眼差しそのものでした。

 前にもこのコラムで祖母のことに触れましたが、身長140cmの小さな体に、強烈な意志の力を秘めた人でした。樋口一葉や津田梅子に憧れた少女時代、女学校への進学を目前にして父親を失い、学問の道が閉ざされた祖母は、一人、東京に出て、看護婦の道を歩みました。

 祖母が亡くなった後、遺品を整理していると、ドイツ語やイタリア語とその意味を見覚えのある筆跡で記したノートが出てきました。わら半紙を綴じた粗末なノートに、隙間が開くのがもったいないとでもいうように、びっしりと書き込まれたノート。

 ぼくが小学校の低学年のとき、微熱があってだるくて学校を休みたいと祖母に訴えると、祖母は、「そんなことで勉強できる機会を無駄にするなんてとんでもない」と血相を変えて怒りました。それでもグズグズと登校せずにいると、10分と開けず、「ほら、熱なんて下がったから学校へ行きな!」。「私は、39度の熱があって、自分で歩けなかったときも、兄さんに背負ってもらって、学校へ行ったもんだよ」と、繰り返す。

 そのうち、家にいるとうるさくて仕様がないので、しぶしぶ学校へ出かけていきます。「内田、熱があるから休むって聞いたけど、良くなったのか?」と、先生は怪訝な顔をします。

 祖母は、とにかく不屈の人でした。90歳を過ぎて、腰が痛くて立てなくなってしまったとき、病院でレントゲンを撮ってもらうと、背骨の間にある軟骨組織がすっかり磨り減って、骨と骨とが直接くっついていました。それを見た医者が、「おばあちゃん、もう、背骨がくっついちゃっていて、歩くことはできないよ。歳だから仕方ないね」と言うと、祖母は、もう治らないなんて医者が患者にいうとは何事かと、激怒し、その若い医者をどやしつけました。そして、家に戻ると、「チクショウ、チクショウ....」と、歯を食いしばりながら、廊下を何往復もして立ち上がろうとします。それを何日か続けると、ついに、何事も無かったかのように立ち上がって歩けるようになってしまいました。

 明治、大正、昭和と激動の時代を生きて、夫を亡くして苦労しながらも4人の子供を育て上げた祖母。90歳を過ぎても、大きな天眼鏡を構えて、新聞の隅から隅まで読んでいた祖母。

 そんな祖母と同じ眼差しの息子は、やっぱり不屈の魂を持っているのかもしれません。

――― uchida

 

 
 

03/10/31
子供への思い

 この数日、不安で不安でたまらない日々が続きました。

 自分が辛いとか痛い、苦しいというのは、なんとか耐えられるし、それなりにいろいろな修羅場を潜ってきた身としては、自分の身にどんなことがあっても、それを素直に受け入れる覚悟もできています。だけど、血を分けた子供が苦しむ姿を前にしては、もう、なんとも言いようがありません。ただひたすら、「自分をこの子の身代わりにしてくれ」と祈るばかりでした....。

 人生というのは、ほんとうにいろいろなことが起こるものです。今回は、つくづく人間の無力さと、その逆に命の強さというものを実感しました。我が子が必死で戦っているのをただ見守るしかない無力感、そして小さな体で気力を振り絞る命の凄さ....。

 そして、大病院の小児科病棟という、今までまったく知らなかった世界に入って、けなげに病と闘っている子供たちがたくさんいることに驚きました。点滴やらいろいろなセンサーを体に取りつけられて、一人で病室の天井を見つめている子供たちは何を思っているのでしょう?

 まだトイレの手洗いの蛇口に手の届かない子が、手馴れた手つきでコップに尿を受けて、看護士さんに届けに行きます。廊下をぎこちなくスキップで行ったり来たりしている子が、すれ違う人みんなに「私ね、今度の土日、ウチにお泊りに帰れるんだよ!」と満面の笑みで話し掛けています。

 大人ならまだしも、どうして自分がそんな状態になってしまっているのか理解できない子供たちが、それでも現実を受け止めて、必死に歯を食いしばっているのを見ると、健康でアウトドアを満喫している自分がどんなに恵まれていたのか身に染みてわかります。そして、自分の子も含めて、都会のコンクリートのフロアに閉じ込められているこの子たちに、自分が見てきた息を飲むような風景を見せてあげたり、風や水の感触、におい、日の光の気持ち良さを味わわせてあげたいと思います。

――― uchida

 

 
 

03/10/22
エコツーリズム

 今月の初め、若狭は三方町にある「湖上館PAMCO」の館主、田辺一彦さんのお誘いを受けて、三方五湖の一つ、水月湖の辺にある宿を訪ねました。

  田辺さんは、高校、大学とボート部で活躍された根っからのスポーツマン。家業の旅館を引き継がれてから、建物をヨーロッパの民宿風に立て替え、独自のビールプラントを設置して地ビールならぬ「PAMCOオリジナルブランド」を作り、特産の梅を生かした梅風呂を考案し、豊かな三方の自然を生かしてシーカヤックやシュノーケリング、サイクリング等々のアクティビティをお客さんに提供するなど、驚くばかりのバイタリティで自分が愛する三方の自然を堪能してもらうための宿作りをしています。

  今年、三方の旅館組合の会長となった田辺さんは、自分の宿だけでなく三方全体、若狭全体の観光業のあり方をなんとか改革したいと、ぼくに助言を求めてきたのでした。

  観光とは、本来、その言葉通り、「光を観る」ことでした。「易経・周易上経・観の項」に「観国之光、利用賓干王。観国之光、尚賓也。」(国の光を観る、もって王に賓たるに利し。国の光を観るとは、賓を尊ぶ也)。国之光とは、その土地の自然や文化、歴史のことです。単なる物見遊山が観光なのではなく、土地に秘められたあらゆることを知り、感じることが本来の観光です。 

 観光をすることによって、訪れた土地のことをよく理解できる。それは、自分が立つ大地、自分もその一つの構成要素である地球について理解することです。

  易経は、膨大な経験を裏づけにした未来を開くための体系です。その中に「観光」という言葉が位置を占めているのは、それが、人と社会、そして大地を豊かにする要素の一つだからでしょう。

  先進国では、エコツーリズムやグリーンツーリズムという言葉が定着して、それがさも新しい概念やムーヴメントであるかのように宣伝されています。だけど、じつはすでに「観光」という言葉の中にそんな概念は数千年も前からこめられていたのです。 

 田辺さんに案内されて、常神半島の八百比丘尼伝説の神社や空海が足跡を残した雲谷山麓の寺を回り、宿の目の前の水月湖にシーカヤックで浮かんで、陽が巡って、同じ景色が鮮やかに変化していくのを見守っていると、「観光」という意味、古の人たちが、いかに大地との感応に喜びと意義を見出していたかがわかってきます。 

 政府や各地の自治体でも、今までの開発型の観光産業から、それぞれの土地が持つ固有の性格を生かして、訪れた人たちが自然に親しみ、満足できる何かを得て日常生活に戻っていけるような新しい観光産業にシフトしようと、いろいろな施策を行いはじめています。

  三方のある福井県でも、体験・滞在型レジャー拠点として、三方をモデル地区にして様々な事業を起こす準備をしているそうです。日本一の観光県である長野県では、「新世紀の観光ビジョン」と銘打って、様々な施策を公開しています(http://www.pref.nagano.jp/syoukou/kankou/kankouvision/index.htm)。 

 行政主導のそうした施策も、ぼくはとても重要だと思います。バブル時代のリゾート狂騒とは異なり、自然と共生しつつそれを観光資源として生かそうという意識が、今は行政にも定着して、本気で取り組んでいるることが、長野県の例を見てもよくわかります。行政主体で、システムや枠組みを整備して、大きなプロジェクトを立ち上げるのも必要なことです。

 でも、何より大切なのは、誰もが、自分の住む土地について、観光業者だとか客だとかの立場を退けて、「人」として良く知り、感じることだと思います。

 今回、田辺さんの計らいで、宿のスタッフの方たちやお友達、役場の方たちを交えて、ざっくばらんにお話する機会を設けていただきました。みんな、自分の暮らす三方のことが好きで、三方の自然をたくさんの人に堪能してもらいたいと思っています。 

 では、三方の自然のどこが自慢なのか? ぼくは素朴に質問しました。「海、湖、山、川と自然の要素が満遍なく揃っていて、海の幸にも恵まれている」……そんな答えがみんなから返ってきました。では、海、湖、山、川、それぞれが他とどう違い、それぞれの何が三方にしかないものだと自慢できるのか? そう質問すると、答えはすぐには返ってきません。 

 若狭湾に向かって伸びる常神半島は、恐ろしいほど澄んだ水面の入り江がたくさんあります。そこでは、四季を通じてとれる海産物の種類が目も眩むほど多い。そして、沿岸から見る若狭湾へ沈む夕陽は、心を洗う力を持っています。この景色からは、人魚の肉を食べて不老不死となった八百比丘尼の伝説が生まれていて、その伝説を踏まえた上で、景色を見れば、この伝説が、切ないほどに繊細な常神の景色とその月日や季節による移ろいそのものを語っていることが、即座にわかります。 

 また、空海が足跡を残した寺の傍らにある滝を見れば、そこが鮮やかな朱に染まっていて、丹薬の原料である水銀を探し求めた空海が確かに、ここに足跡を刻んでいたことが知れます。そして、不老不死の丹薬が、そのまま八百比丘尼の伝説にも繋がっていきます。

 三方町の象徴ともいえる湖、三方五湖は、淡水、汽水、海水に分かれて、海と山が出会って混ざるグラデーションをその色にも示しています。もちろん、それぞれの水を生息域にする魚がいて、種類が豊富なのはいうまでもありません。宿が面する水月湖は、その名の通り、東の山入端から登る月の光を受けて、幻想的な風景を見せてくれます。宿の対岸には人口の明かりが一つもなく、鏡のような湖面には蒼々とした月と朧な山並みが映り、伝説を想像するのではなく、伝説そのものの中にいるような気がしてきます。

 そんな印象をぼくが取りとめもなく話しをすると、地元の人だからこそ伝えられる、ディテールが次々に飛び出してきます。水月湖から観る夕陽のベストポイント、校歌に歌われている雲谷山の不思議、そして、宿の厨房をあずかる水野さんは、三方の野菜の美味しさを強調してくれました。  「水と緑の○○」といった国体のキャッチフレーズのようなお題目では、せっかくの、その土地それぞれの繊細な特色が失われてしまいます。三方には、羨ましいほどの自然の細やかさが秘められています。 

 今、ぼくの頭の中では、この三方の自然や文化を素材に、いろいろなツアーの可能性が次々に湧き上がっています。同時に、水野さんが素朴に感じた野菜の旨さを味わうように自然を味わうための簡単なトレッキングセットやウェアなどをレンタルで用意したらどうかと思っています。 

 たとえば、ドライブの途中にこの地に立ち寄った初老の夫婦が、トレッキングセットを借りて、水月湖を巡る遊歩道を散策する。そして、気に入ったロケーションの場所でマットを広げ、セットの中に入った、土地の野菜で作られたさりげないランチを食べたり、ストーブでお茶を沸かして飲む。ビノキュラーや図鑑もその中に入っていて、その時期に見られる鳥や魚や木花には、さりげなく付箋が差してある。地図には、その日の夕陽のベストポイントと日の入りの時間が記してある。午後のひと時を楽しんだら、帰りは、月明かりに照らされた遊歩道を戻って来る....。 

 ありふれているようでいて、だけどそこだけでしか味わえない自然の細部を観光できる、さりげないインフォメーションとサービスが全国のあちこちに用意されていたらいいなあと、漠然と思います。

―湖上館PAMCO―
http://www.pamco-net.com/

――― uchida

 

 
 

03/10/16
鎌倉散歩

 14、15日と、渓流釣りの第一人者、真木隆さんのお宅を訪ね、鎌倉をあちこち案内していただきました。

 真木さんは、日本の川を丹念に歩いて、河口から源流近くまで遡行して釣りをしながら、川の生態や周囲の植生を調べて、川のガイドブックを作るという仕事をずっと続けられています。今年も、春から夏にかけて、日本中の川を巡り、漁期の終わった今は、鎌倉の自宅兼仕事場に腰を落ち着けて、来春に出版するガイドブックの執筆と編集作業に没頭されています。ぼくは、昭文社の「ツーリングマップル中部北陸」を毎年、実走取材していますが、ちょうど同じようなパターン。といっても、ぼくのほうは、取材と記事の取りまとめを合わせて1ヶ月ほどの夏の出稼ぎのようなものですが....。

 今回は、仙台からベテランカヤッカーでありアウトドア系の書籍の編集をしている越出哲郎さんが上京されるので、三人でこれから力を合わせて何かできないか相談しながら飲もうということになり、それなら、静かな真木さんのお宅がいいやと勝手に決めて、いざ鎌倉へ。

 腰越の海岸から車で数分山へ向かい、丘陵に挟まれたひだに沿って詰めていった先にあるお宅は、深い森を背にして、仙境のように静かな雰囲気に包まれています。森と母屋の間にある小さな畑では、秋野菜に混じって夏の名残りの茗荷や苦瓜が同居していて、雑草も邪魔にもされず、のどかにのんびり茂っています。自生するようにさりげなく成った野菜をもいで、目と花の先にある腰越の漁港で獲れたての魚介を仕入れて食べるという羨ましいライフスタイルです。

 畑のあたりは、獣道でもあるのか、毛色の違うネコが、のっそりとやってきて、部屋に上げてくれと甘えた鳴き声を出しています。夜には、鎌倉らしく、落ち武者もそのあたりを徘徊しているとか....。訪ねたその日は、雨がしとしとと降っていましたが、落ち武者が現れても、それも、一つの風情と思わせてしまうほど、濡れた自然が合っていました(笑)

 久しぶりに三人で顔を合わせて、せっかく毎年現場で釣りをしたりツーリングして取材してるのだから、翌年に出版するガイドじゃなくて、WEBやら携帯サイトで旬の情報を配信できないかな、なんて飲むほどにハイテンションになり、夜中まで語り合いました。

 翌朝は、前日に腰越漁港で仕入れたシラスを、米と同量載せた贅沢極まりないシラス丼で朝食。その後、前夜に、隣の部屋で正体をなくして盛り上がる男どもを尻目に、「Hanako」の記事を徹夜で仕上げていた真木さんの同居人のライター日高むつみさんも一緒に、四人で光明寺から浄明寺あたりを巡りました。

 鎌倉は、20数年前に鎌倉アルプスというハイキングコースを辿ったのと、中学の修学旅行で大仏に立ち寄ったくらいで、じっくり散策したことはなかったし、著名な観光地とあって、人ごみの苦手なぼくとしては出かけてみようという気が起きる場所ではありませんでした。

 ところが、今回、真木さんに案内してもらって、自分の中にあった鎌倉のイメージがすっかり変わってしまいました。海岸には素朴な漁港があって、そこでは旬の海産物がうそのような値段で買える。ちょっと山に向かえば、静かな寺社や散策コースがある。道が狭くて、観光バスなどは奥まで入れないので、喧騒は著名な観光名所だけ。

 今回、最後に日高さんお勧めの石窯ガーデンテラスでティータイムを楽しみましたが、入り組んだ丘陵のおかげで、街並みや余計な風景が旨い具合に遮られて、まるでバリあたりの隠れ家リゾートにでもいるようないい感じの孤立感に包まれています。

 真木さんと日高さんは、小さな二人乗りのできるモペットを手に入れて、鎌倉の隠れたすポットを探して歩きたいとおっしゃっていましたが、たしかに、狭い山坂道の多い鎌倉を巡るには、小さなバイクがうってつけです。ぼくは、バイクといえば、普段はビッグバイクで豪快なツーリングばかり指向していますが、鎌倉のような丘陵地のしっとりとした路地を小さいバイクで巡ってみるのも良さそうだという気がしてきました。

――― uchida

 

 
 

03/10/10
異邦人

 かれこれ20年前のこと、久保田早紀の「異邦人」という曲がヒットしました。乾いた砂漠の空気のようにカラッとしていながらどこか物哀しいファドの響きに包まれたこの曲を、ぼくはタクラマカンの砂の海を渡る車の中で、ずっと聞いていました。

 強烈な日差しに風景が霞み、同じ光景が延々と続く砂漠の直線道路を走りながら、カーステレオから漂ってくる「異邦人」に身をゆだねていると、自分が、実際に幻の世界に迷い込んでしまった異邦人であるかのような気がしてきました。

 ようやく南海の孤島のようなオアシスに着くと、そこでは、西と東の血が入り混じったエキゾチックな人たちが、砂で作った家に住み、ポプラの並木の下を流れるパミールの雪溶け水を引き込んだ水路の辺で、何するでもなく、のんびりと時の流れに身を委ねています。その気だるい空気とリズムに包み込まれると、ますます自分が幻影の中に溶け込んでしまったような気がします。

 ところが、そんな環境の中に長くいるうちに、自分では気づかないまま、その心地良い虚ろなリズムが心と体に染みついていました。久しぶりに日本に戻ってくると、東京の雑踏を人にぶつからずに歩けなくなっていました。生き物のリズムとしては、「異邦人」にシンクロするあのシルクロードの幻のような世界のほうがはるかに自然で、この気ぜわしい日本のリズムはいびつなものに感じられました。

 そして、シルクロードの旅から帰ってからずっと、ぼくは、日本のリズムに合わない異邦人として、どこか居心地の悪さを感じ続けて生きてきました。

 そんな、ぼくにとって、すっかり懐かしい土地であるシルクロードから、mailが届きました。20年前の旅にも同行した、写真家の石嘉福さんが、カシュガルに滞在していて、ネットカフェから連絡をくれたのです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カシュガルに来て2週間になります。いまこのメールをホテルの近くにあるネットカフェで作成しています。

 カシュガルに着いてから、日本語が入力できるネットカフェを見つけるのに何軒かの店をめぐりましたが、市の中心地の大十字路からアィティカール寺院に向かって約百メートル歩いた左側に「英才休閑網巴」を見つけ、オーナーと話しているうちに、ここのパソコンの1台が日本語の入力できる事を知りました。1時間の使用料は2.5元で安く、店も明るくて清潔なのも気に入り、毎日朝方この店に来てメールや日本のニュースをチェックしています。

 今回の宿は最初のうちチニワク賓館に泊まっていましたが、その後設備もよく安くて市の中心地にある人民飯店に移りました。1ヶ月泊まるという交渉で、トイレシャワー付き、セミダブルの部屋を50元/日で借りてのんびりとカシュガルの移りゆく町の変貌を体感しております。

 今回は近代化が進む街の中で失われつつある庶民の生活を取材していますが、毎年この地を訪れている私も驚くほどの変貌にただ呆然するばかりです。

 今回私は20年前に「六興出版」から出版した「バザールやくしー」の本を初めてカシュガルに持ってきて、取材先の人々に見せていますが、多くの人たちが画面に写っている人を見てこの人はどこそこの人だ、この人は死んだなどと喧喧諤諤のありさまで、その反響に私自身が驚くばかりです。もう既に歴史的となった写真の数々は、ここの人たちの貴重な写真になっているのです。

 カシュガルは今変わりつつあります。この歴史を記録するためにゆっくりとのんびりと裏町を散策しながら記録していきたいと考えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ぼくは、20年前の幻影のオアシスとしてのカシュガルしか知りません。その頃から、ずっとこの街の移り変わりを見つづけ、タクラマカンとそこに点在するオアシスを観察しつづけてきた石さんでも、目を見張るような変化が起こっている。

 すべてが蒸発してしまうような日差し、乾いた砂、そして物悲しいロバのいななきと、それにかぶさるコーランの響き....何百年も変わらずに、同じゆったりとしたリズムを刻んできた街。それが、ぼくの記憶の中に存在するカシュガルです。

 ところが、今、その街にはインターネットカフェがあり、日本語のmailが送られてくる。ホテルで国際電話の手配をしてもらうと、回線が繋がるまでに2時間も3時間も待たされるのは当たり前で、繋がったとしても、雑音が多くて、聞き取りにくく、途中で切れてしまうことも当たり前のでした。それが、途切れることなくリアルタイムでやり取りが可能になっているのです。

「異邦人」のまどろむようなリズムと同じリズムに包まれた場所がこの世からなくなってしまったら、心に異邦人の意識を抱えつづけている人間は、いったい、どこに安らぎの場を見出せばいいのでしょう?

――― uchida

 

 

BACK NUMBER >>>

HOME