02/04/24
日本縦断の旅

 もうすぐゴールデンウィークですね。今年は、季節の進み具合が早く、東京ではすでに初夏のような陽気です。例年だと、ぼくはどこへ行っても混みあうこの時期にはどこへも出かけず、仕事したり、のんびり本を読んで過ごしたりするのですが、今年はアクティヴに過ごすことになりました。

 北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで、文字通り日本を縦断するラリー「ツールドニッポン」に出場するのです。5000kmあまりを一気に駆け抜けるこのレース。一部のスペシャルステージ以外は、当然、公道を走ります。渋滞に巻き込まれることは必至で、それを考えると憂鬱なのですが、重い荷物はトランスポートが運んでくれて、日本各地の山岳路を繋いで走るので、移り変わる風景がどんなものになるのか、それが楽しみです。

 一人でツーリングするとしたら、一週間で山道を繋いで日本縦断しようなんて思いもしないことです。でも、トランスポートだけでなくキャンプ地や夕食が全期間確保されているラリーなら、走りに専念すればいいだけなので、それが可能になります。

 今年が初めての開催になるこのラリーは、どのような展開になるのかまったく予想がつきません。だけど、ぼくとしては、日本の自然の多様さを実感できることを楽しみにしています。ひとつひとつの場所をじっくり味わうことはできませんが、様々に変化する自然を通観してみることで、また何かが見えるような気がしています。時間をおいてそれぞれの場所に出かけるのではなく、ほぼリアルタイムといってもいい時間枠の中で北の果てから南の果てまでの自然にどっぷり漬かることで、日本という国土の何が見えてくるのか...。

 ぼくが、何を感じたのか、それは、連休明けのこのコラムにご期待ください! 

――― uchida

 

 
 

02/04/10
低血圧

 週に二、三回はジムで汗を流すことにしています。その運動の前に、必ず血圧を測ります。その今日の価が、69−118。なんと、低血圧です。「このところ、テンションは上がらないし、血の巡りが悪いと思ったら、そういうことだったのか」と、思わず納得...したわけではないのですが、驚きました。

 元来、高血圧系の家系で、ぼくもずっと高血圧だったのです。大学生の頃から、ずっと110−158あたりで動かなかったのですが、30歳を過ぎて、その数値のままだったら、やたらと体調が悪くなり、痛風を発症するに至って、「これではいけない」と根本的な治療に乗り出しました。

 漢方療法を始めて2年余りで、85−135あたりに落ち着きました。その後、元の高血圧には戻らないものの、体調の悪さを自覚するときは、決まって血圧が上がり気味になっていたものでした。

 この二日ばかり、なんだかテンションは上がらないし、朝の目覚めが悪いと思ったら、なんと低血圧だったというわけです。いったい、どうなっているんでしょうね、ぼくの体?

 オートバイに跨ると、アドレナリンが噴出していたのに、このごろは不発状態で、それをBMWに乗り始めたからだと思っていました。「BMWは、ジェントルだから、スピードを出さなくても、それなりの気分で走れるんだよ」なんて、したり顔で語っていたのですが、案外、それも低血圧のせいだったりして...。

 それにしても、どうして突然低血圧になったのか、不思議です。 

――― uchida

 

 
 

02/04/07
楽しみを分かち合うということ

 しばらく前になりますが、とあるメーリングリストで、ある人が計画しているアドヴェンチャーを「無知で危険な行為だから、みんなで止めさせよう」という投稿がありました。何も知らない子供が、渋谷の街角でドラッグの売人からコカインを買おうとでもいうのなら、これはなんとしても止めさせなければならないでしょうけど、まともな大人が、人に迷惑をかけるわけでもなく、変わったチャレンジをしようというのに、頭ごなしに止めさせよう、しかも、自分ひとりではそれを阻止できそうもないから仲間を集めて圧力をかけようというのは、いったいどういう了見なのか、理解に苦しみます。

 それを投稿した人は、たしかに、その分野ではベテランで、止めさせようという相手は無知な初心者なのかもしれません。だったら、どうして、自分が楽しんでいる世界に、これからエントリーしようという人がいることを素直に喜んで、積極的にアドバイスしてあげられないのでしょう?

 そこには、何かというと、「素人のくせに...」とビギナーを見下す半可通の嫌らしさが見え見えです。自分だって、初めはビギナーで、頓珍漢なことだってやっていたはず。ところが、少し経験を積んだだけで、自分が第一人者であると勘違いして、ご託宣が始まってしまう。そういう勘違いな「ベテラン」がどんな分野にもいて幅を利かせているのが、日本という国のお寒いところです。

 何かといえば、すぐに徒党を組んで、そこに囲い込みをしてしまう。そして、そんなふうにしてできた村社会の中だけでしか通用しない「技術が高いやつほど偉い」という理屈を外の世界にまで当てはめようとする。ベテランぶって、本来関係のない人に意見をするということが、無知で危険な行為をしようとしている人なんかよりよほどおかしな行為だということがわからない。

 つい最近、関野吉晴さんがグレードジャーニーを達成しましたが、彼は、その壮大な旅をすべて人力で行うために、MTBやらスキー、シーカヤックといった最新の道具を使いました。そのすべての分野でプロフェッショナルになることは出来ないし、そんなことはグレートジャーニーの趣旨でもないから、彼は、それぞれの分野のプロフェッショナルにサポートを頼みました。たとえば、その関野さんに、「あなたは、シーカヤックの技術が未熟だからベーリング海峡を渡るなんて自殺行為。あなたがシーカヤックで命を落としたら、シーカヤック界にとって迷惑だ。ぜったい断念させてやる」というようなものです。いくら自分がシーカヤックのベテランだからといって、その人の専売特許なわけではありません。

 ぼくは、基本的に、大人が自分の責任において、人に迷惑をかけないでする行為なら、たとえ傍から見て自殺行為であろうが、それにケチをつける権利なんて他人にはないと思っています。ケチをつけるのではなく、自分の経験からアドバイスしたり、一緒に楽しもうとどうしてできないのでしょうね? 

――― uchida

 

 
 

02/04/02
カントリーライフ

 昔、山登りに夢中になっている頃、東京の大学に通っていたのですが、東京が大嫌いで、自分は学校を卒業したら山小屋に住み込みで働くか、しばらく世界中を放浪してあちこちの自然に浸って、気に入ったところに身を落ち着けようと思っていました。もっとも、当時は大学院に進学するつもりだったので、あと何年かは東京暮らしを我慢しなければならないとも思っていました。

 ところが、とある事情で進学はあきらめ、登山専門誌の編集部で働くことに。その編集部も半年の付き合いで、今度はフリーランスのライターとして仕事をすることになって、気がつけば20年あまり。なんと、大嫌いだった東京での暮らしが、いちばん長くなってしまいました。

 この20年を振り返ってみて、「どうして、自分は、こんなせせこましい都会に埋もれて、今まで我慢してきてしまったんだろう...」と、思わず息を飲んでしまいました。ずっと、いつかは、気に入った自然がたくさんある土地で、ゆったり自分のペースで生活しようと、山通いの頃の気持ちは忘れずにいたつもりなのに、気がつけば20年...。さすがに、流れ去った時の重さに、立ちすくんでしまった感じです。

 どうして自然に囲まれた生活に飛び込んでいかなかったのか。それは、ひとつには、東京をベースにライターという仕事をしているうちに、いろいろなカントリーライフのスタイルを見たり知ったりして、「どうも違うなぁ」と感じてしまったからでした。本来は、人がどんなライフスタイルをしていようが関係なくて、自然に自分のスタイルができていくと思っていたのですが、住む場所やその土地に合ったライフスタイルなんてことを考えているうちに、つまらないことまでシミュレーションして、二の足を踏むようになってしまったのです。それに、仕事柄、情報が集約された都会のメリットにぬくぬくとしてしまったということもあります。

 このごろ、そろそろ東京から離れて、自分が求めていたカントリーライフをどこかで実現したいと思い始めています。それがどんな形になるのか、昨日は、エイプリルフールで、「山伏になりましたので、このサイトは閉鎖します」なんてトップページをアップしましたが、それもまんざらエイプリルフールの冗談でもなかったりします。

 ぼくのような仕事は、インターネットのおかげで、世界中のどこにいても、現地から情報を送ることができるようになっています。一昨日、茨城の実家に立ち寄ると、ADSLを導入するというので、その設定を手伝って、「とりあえず、茨城の実家でも、東京と同じ環境で仕事ができる」と、妙に実感しました。

 インターネットと通信インフラを利用して、今の仕事をカントリーライフの中に持ち込むか、それとも、あえて世間に背を向け、便利なツールはみな捨てて山伏になるか...けっこう、真剣に悩むところです。 

――― uchida

 

 
 

02/03/22
春分の日

 春分の日の昨日、午前3時半にオートバイで東京を出発し、外房の上総一ノ宮にある玉前神社で日の出を迎えました。この日、玉前神社が面する太平洋から昇った太陽の光は、寒川神社、富士浅間神社、富士山頂、七面山、竹生島、元伊勢、大山、出雲大社と名だたる聖地を一直線に結びます。通称「御来光の道」と呼ばれる、その基点に当たる玉前神社で御来光を拝むのが目的でした。今は商店街に阻まれて海から昇る朝日が参道の先に現れる様子は見られませんでしたが、東を向いた大鳥居に真っ直ぐ日が当たり、上部から徐々に輝いていく様子は、息を飲む荘厳さでした。東京を出るときに暖かかったので油断して薄着だったため、途中からくしゃみを連発しながら走っていましたが、この光景に打たれて、くしゃみも止まりました。

 玉前神社は、海神(わだつみのかみ)の娘、玉依姫命を祭っています。姉である豊玉姫命が、夫の山幸彦に自分が本当は鰐の姿をしているのを見られたのを恥じて海の国へ戻ってきたときに、その御子神を預かり、後に御子神が長じたときにその后となります。そして、二人の間に神武天皇が生まれる。記紀神話にはそうあります。いかにも海の国というにふさわしい外房の海辺にあり、姉の子を育てて、後に仲むつまじい夫婦になる...そんな物語は、そういう人物たちが実在して、それを史実として記したというよりは、この玉前神社がある場所の雰囲気を物語として構築したもののような気がします。穏やかで、なんでも優しく受け止めてくれる自然。それを人格で現せば、玉依姫命そのものという気がします。...ちなみに、御来光の道と玉前神社の話は、レイラインハンティングのほうで、詳しく紹介する予定です。

 緩やかに波が砂浜を洗う上総一ノ宮の海岸で一休みした後、木更津へ向けて、のんびり移動を開始しました。房総半島を横切る道は、柔らかな曲線を描く雑木林の里山が続く気持ちのいい道です。水が張られて田植えも間近な田んぼの畦には菜の花が咲いています。

 市原へ出る頃には走っていても汗ばむほどに暖かくなってきました。高速道路には乗らず、そのまま下の道で都内へ。靖国通りを九段下まで差し掛かると、なんと、桜吹雪が舞っています。北の丸公園から千鳥が淵のあたりの桜は、今が満開。すごい人手です。後で知りましたが、都心では、まさにこの日に桜の満開宣言が出されました。平年より15日も早いとのこと。その桜も、春の嵐に、すでに撒き散らされて、これでは、週末には葉桜になってしまいそうです。

 昼前には自宅に帰り着く、まさに小さな旅でした。 

――― uchida

 

 
 

02/03/16
不動尊

 前に「ロード・オブ・ザ・リング」の映画を楽しみにしていると書きました。日本でも公開になり、久しぶりにロードショーを観ようと出かけていきました。都心の映画館は混んでいそうなので、立川へ。ところが、平日の昼どきにもかかわらず満席。3時間にも及ぶ映画を立ち見するのも辛いので、今回は見送ることにしました。

 書店を覗くと、原作の「指輪物語」が平積みで、飛ぶように売れているし、どうやらブームになっているようです。それにしても、発表されてから40年以上、ファンタジーの古典として熱心なファンに読み継がれてきたこの物語が、流行のファッションのように扱われてしまうと、どこか虚しい気がします。映画は、ブームが一段落してから、空いた劇場でゆったりと鑑賞することにしました。

 映画に肩透かしを食ってしまって、思わぬ時間が空いてしまったので、多摩都市モノレールに乗って高幡不動へ。じつは、朝、家を出るときに、映画を観ようか、江戸五色不動を巡ろうかと思案していたのです。江戸五色不動とは、目黒、目赤、目白、目青、目黄の五つの不動尊で、江戸の町を綿密な風水に基づいて設計した天海僧正が、江戸城のまわりを囲むように配置したものです。昨日からスタートした「レイラインハンティング」の「江戸=東京特集」で取り上げるつもりで、その取材を兼ねて行こうかと思ったわけです。結局、映画を選んだわけですが、それが肩透かしに終わって、さてどうしようかと思案。最近開通した多摩都市モノレールの路線図を見たら、高幡不動が目についたというわけです。

 高幡不動の駅から始まる100mほどの参道を抜けると、堂々とした門の向こうに五重塔が聳えています。到着したのが15時。ちょうど定時の勤行の時間で、境内に粛々としながらも深く染みこんでくるような経の音が響き渡っています。1000年ぶり修復された不動明王は上野の国立博物館に展示されているとのことで拝めませんでしたが、経の音とうららかな春の日差しに包まれて静かな境内に佇んでいると、そのまま涅槃に引き込まれていきそうな気がしてきます。

 数日前、打ち合わせの帰りに青山通りを歩いていると、ふいに起こった突風に危うく吹き飛ばされそうになりました。そこはある商社の本社ビルの横で、軽い春風がビルの側面を抜けるときに凝縮されたビル風になったのでした。環境への配慮や自然との共生をはかるテクノロジーが導入されつつあっても、現代都市は自然から疎外された存在であることに変わりありません。それに比べると、こうした古刹では、単に建物だけでなく、そこにある人間の感性を自然に同化させて、さらに、自然の中に秘められたスーパーネイチャーまでを感得させようという繊細な工学がバックボーンにあるような気がします。

 レイラインハンティングでは、そんな「聖地」に秘められた工学も見つけ出していきたいと思っています。明日は、手元にBMW1150GSというタフなデュアルパーパスツーリングバイクが届きます。まず、手始めに、こいつで江戸五色不動を巡ってみようと思っています。

――― uchida

 

 
 

02/03/09
啓蟄

 二、三日前、夜遅くまで仕事場にこもっていて、気分転換に表に出ると、ふいに甘い香りが漂ってきました。 地下鉄銀座線の外苑前へ向かう裏通り。どこにでもあるオフィスビルなのですが、道に面して、手入れされた生垣がその香りの元でした。 

 昼間、同じところを歩いたときには何も匂わなかったのに、夜は、幅5mほどの通りが、その香りで満たされています。 昼間は、歩いている人たちが、上着を脱いでシャツ一枚でいるほど暖かく、夜には冬に逆戻りしたように冷え込みました。 凍えるような寒さの中、その香りを嗅ぐと、こわばりかけた体の心が、じんわり溶けるようでした。 

 今日は、打ち合わせで蒲田のほうへ行き、まだ日のあるうちに多摩川沿いの道を遡って帰宅しましたが、 沿道では、梅の花はすでに終わりかけていて、代わりに、桃の花や気の早い桜が目立ちました。 

 カレンダーを見れば、もう三月も半ばに差し掛かっているわけですから、そうして春の色が濃くなっているのも当たり前のような気がしますが、 でも、仮にカレンダーがなかったとしたら、そんな季節の移り変わりをどう感じるだろうかと思いました。 

 全ての生命が死んだように寝静まっていた冬から、まるで硬い殻を破って雛が孵るように、春が現れてくる。 寒い冬に、命が胎動しているなんて考えられないでしょうから、これは、やはり奇跡としか見えないでしょう。

  あらゆる生命が土の中で目を覚まして動きはじめるという「啓蟄」。 今年は今月の6日でした。それは、ちょうど、ぼくが夜中の都心で、春の香りに包まれた日でした。 

 一年を便宜的に12ヶ月で区切ったカレンダーより、長い間の観察によって、自然と生命の関係を示した昔の暦のほうが、 人という生命の感覚に合っている気がします。 

 ケルトの「啓蟄」にあたる「セント・パトリックデイ」は今月17日です。 そして、昼の長さと夜の長さが逆転して「陽」の気が強くなる春分の日は21日。 今年は、花粉症などにめげず、春分の日に「御来光の道」のどこかのポイントで、生命力の源である太陽の光を全身に浴びたいと思います。

――― uchida

 

 
 

02/03/07
空海

 ley-line.netのほうで、平安京の風水の成り立ちについて知りたくて、この都を創建した桓武天皇のことを調べていて、ついつい、その同時代人である空海に引っかかってしまいました。空海といえば、幼い頃に非常な秀才を発揮して、若くして奈良平城京の大学に入ることを許されながら、突如出奔し、一介の私度僧となって四国や紀州の山野に分け入ってしまう。それから数年、今度は遣唐使の一員として歴史に登場し、わずか二年で密教の奥義を極めて帰国する。謎と伝説に満ちた人物です。

 ぼくは、スポーツとしての登山が始まりで、古来から山野を修行の場とする修験道の存在を知り、自ら実践しようと思い立ったわけですが、空海の足跡、とくに大学を出奔してからの謎の数年間は、まさに修験の世界に身を浸していたのではないかと、親近感を持ちました。

 修験道の始祖は、空海を遡ること100年あまり前に生きた役小角と言われています。深い山に分け入り、その自然と交感することで、宇宙との合一感、別種のリアリティを感得する。それが修験道の目的です。それは、修行者個々人の体験とスキルに依存するもので、とにかく実践しなければ何も得られない。しかも、体系づけられた確固たる思想や論理はなく、ただ修行者の感覚にのみ依存している。

 空海は、山野に分け入り、修験のを修めたものの、それだけでは飽きたらず、もっと普遍性を持った思想、修行体系の確立を求めたのでしょう。そして、一時は、既成仏教の中の華厳経や大日経に期待し、それでもまだ足りないものを感じて、結局は、唐へ渡り、密教の奥義を極めることになる。

 密教といっても所詮は仏教の一流派に過ぎないとしか理解していなかったのですが、空海の足跡を辿ってみると、それは仏教という枠に囚われず、修験道や陰陽道、道教、風水といったあらゆる東洋的思想を包含した形の思想だということが見えてきて、目を開かされた思いがしています。

 伊勢神宮の鬼門を守る金剛証寺には、大日如来の後ろに天照大御神が控えている。高野山の守護神には丹生都比売,高野御子,三宝荒神といった神道の神様がいる。それを「神仏習合」といった教科書的な解釈で片付けてしまうと、逆に本質を見失ってしまうと思います。

 神道も本来は垣根の低い、柔軟で包容力のある思想ですが、密教は、その神道と同じくらいの包容力があり、しかも、神道よりもはるかに具体的で体系づけられた思想なのだと感じています。それにしても、その密教をほぼ一人の力で体系づけた空海という人は、どんな人だったのでしょうか?

――― uchida

 

 
 

02/03/04
フリースと花粉症

 ぼくがはじめてフリース素材を着始めたのは、たしか70年代の終盤、高校生の頃だったと思います。日本の新興アウトドアウェアメーカーが乾式アクリル「オーロン」という、それまであまり衣料用素材として使われていなかった繊維を使って、糸をドッグボーン状に起毛加工して今のフリースとほとんど同じような風合いに仕上げたもので、すでにフルオープンのブルゾンタイプでした。防寒用のインナーとしてはウールのセーターしかなかった当時としては、同等の性能を発揮しながらウールより断然軽く、画期的な製品でした。それをヤマケイの広告で見たぼくは、上京した折にアウトドアショップを梯子して、ようやく見つけて購入したのでした。

 アレルギー体質のぼくは、ウールが直接肌に触れるとてきめんに肌が痒くなって、アンダーもインナーもウールしかない頃は、痒いのを我慢しながら山に登っていたものでした。それが、大阪で産声を上げたモンベルが生み出した画期的なオーロンジャケットのおかげで、ウールアレルギーから解放されたのでした。

 当時のオーロンジャケットは、今のフリースのように極細の繊維ではなく、厚手の毛糸のようなザックリとした生地でした。色もラクダ色で地味でしたが、オレンジの小さなモンベルのロゴがアクセントになって、アウターにしても、けっこうおしゃれな感じでした。そのジャケットは、ハードに使っているうちに毛玉ができて、だんだん生地が薄くなり、しまいには向こう側が透けて見えるほどになりましたが、そうとう長く使い込みました。

 それから、いつしかフリース素材が登場し、製品の値段もどんどん安くなって、今では防寒用のインナーやアウターとして、アウトドアだけでなくタウンウェアとしてもあたりまえのものになりました。性能も、オーロンジャケットに比べれば格段に進歩し、風合いもしなやかでとても着心地がいいのですが、最近、ふとあることに気づきました。それは、フリース素材のウェアを着て街を歩いている人が、とくに花粉症の症状が酷いように見えること。かく言う僕自身も、フリースをアウターに着て表を歩いてきて、暖かい室内に入ると、くしゃみが止まらなくなります。それが他のジャケットだとフリースを着て出たときほど酷くないのです。

 とくに乾燥しているところでは、フリースの生地がこすれて静電気がおこり、それが空気中に漂うゴミや花粉を引き寄せてしまいます。生地が稠密な最近のフリースではその集塵効果が強力です。

 暖かそうなフリース素材のジャケットを着て、くしゃみを連発する姿というのは、なんだか現代を象徴しているような気がします。

――― uchida

 

 
 

02/03/03
ブチかまし

 このところ週末毎にアウトドアで汗を流しています。先々週は八ヶ岳でスノーシューイング、先週は茨城の海岸でサンドライディング、そして昨日は利根川の河川敷にあるコースでオフロードバイクに乗ってきました。先々週、フィールドに出掛ける前日には熱を出して、どうなることかと思いましたが、雪の中で大汗をかいたらインフルエンザが吹っ飛びました。ところが、先週のライディングは散々で、戻ってきたらインフルエンザ再発。その翌日から二日間寝込みました。そして、昨日は出掛ける前までは調子が悪かったのですが、走り出してみると、ブランニューのKTM400EXCというバイクが、笑ってしまうほど面白くて、夢中になって走っているうちに、今度は完全にインフルエンザが吹っ飛びました。

 スポーツは体調に良くも悪くも作用しますが、具合の悪さを一気に噴出させたり、残滓を一掃させたり、いつまでも半病人状態でいないようにメリハリをつけてくれます。どうも、中途半端が嫌いな性格のため、半病人的なままでいるのが嫌で、そんなときには、どっちに転んでもいいから一発ブチかましたくなります(笑)。

 さて、仕事も、中途半端なままにしておかないで、一発ブチかまそっ!

――― uchida

 

 
 

02/02/23
ほんとうの春

 今、都心の仕事場の周りは梅が満開です。「春の兆し」ではなく、ほんとうに春の始まりが実感できます。そして、春といえば花粉症。今年も、この高校時代からの長〜いつきあいの嫌な奴は、しっかりやってきました。症状も例年並なのですが、でも、今年はなぜか例年ほどの辛さは感じません。ひとつには、昨年の後半に激烈な痛みを耐え続けて死にそうになるような病気を経験して、そのときの辛さに比べたら花粉症の辛さなんてたいしたことがないと思えるようになったため。もう一つは、今年は、先週のスノーシューイングをはじめとしてOBT主催者らしく、アウトドアで活動する機会が多いので、気分的に満たされているためかもしれません。ちなみに、明日は、ゴールデンウィークのレースに備えて、実家の近くの浜でサンドライディングで汗を流してきます。

 それから、ここだけのご案内。まだ試運転中で、プレスリリース前ですが、「レイラインハンティング」の公式サイトを来月早々にオープンします。日本中に点在する「聖地」と呼ばれる場所を結んでいくと、地図上にはっきりとした直線や幾何学的な形が現われる。それを「レイライン」というわけですが、そのレイラインをデジタルマップとGPSを使って探し出し、実際にその場所を訪ねて、そこに隠された歴史や、レイラインを描いた人たちの意識に迫ろうというものです。19日のコラムで書いたテレビ番組の打ち合わせというのは、じつはその「レイラインハンティング」の番組のことなのです。番組の放映は、たぶん来年になりますが、サイトのほうは来月にオープンして、どんどん取材を重ねていきます。そして、動画やCGも使って、実際の場所やレイラインに隠された仕掛けを紹介していく予定です。

―LEYLINE HUNTING―
http://www.ley-line.net/

――― uchida

 

 
 

02/02/19
春の兆し!?

 このところ、慌しい毎日が続いております。締め切りやら打ち合わせやらの合間を縫うように、メーリングリストのスノーシューイングオフ会や春のレースへ向けての走行練習、そんな中、ご丁寧にもインフルエンザまで背負い込んで、一時はどうなることやらといった状態でしたが、朦朧としつつスノーシューイングで汗を流しているうちに、インフルエンザは吹っ飛んでしまいました。そういや、昔、熱が40度もあるのに、とあるスポーツ雑誌の編集部に缶詰になっているうちに、朝を迎えると、ケロッとしていたことがありりました。誰かが、「ほんとに忙しいときは、病気も退散する」といっていましたが、やりがいを持って何かに取り組んでいるときは、全てがプラスの方向に動くものです。

 昨日は、長い間暖めてきた企画のことで、テレビ番組の制作スタッフと打ち合わせしてきました。このところ、企画の内容を説明して、それが、企業活動にどのようにメリットがあるのかなんて、広告代理店のようなトークばかりしてきたので、企画そのものについて、みんなでディスカッションする心地よさを久しぶりに感じました。

 その企画は、WEBと紙媒体、そして放送と、さらには他のキャリアなどを巻き込んで、大きく発展していきそうです。じつは、すでに、デザイナーと一緒にWEBは試験運用を開始していて、さらにゲーム制作をしていた頃のコネクションで、CGなども使って、様々な試みを行っていこうと思っています。具体的なURLなどは、近々、アナウンスします。

 それから、話が前後しますが、この前の土日に行ったスノーシューイングオフ会は、大盛況で、ほんとに楽しいものになりました。詳細は、別にまとめますので、こちらも、ぜひご覧になってください!

――― uchida

 

 
 

02/02/09
虫の知らせ?

 先日のこと、春のレースに向けて、オフロードテクニックを磨かねばと、オートバイのタイヤをモトクロスタイヤに履き替えに行きました。ついでに、どうも吸気系が薄くて窒息気味になっていたキャブレーションを調整してもらおうと思い、それも頼んだら、なんとスロットルワイヤーが今にも切れかかっているのを発見しました。ガレージに持ち込むのに、仕事場まで自走していったのですが、途中、アクセルが戻らなくなって、何度か、勝手にスピードがあがってしまい肝をひやしました。ぼくは、それもてっきりキャブレーションの問題だと思っていたのですが、スロットルの戻し側のワイヤーが、もう何度かスロットル操作をすれば切れるくらいになっていて、それを見たら、背筋がゾッとしました。下手をすれば、アクセルが全開のまま、戻らなくなってしまうところでした。「クラッチワイヤーが切れることはよくあるけど、スロットルワイヤーが、こんな切れ方をしているのを見たのは始めてですよ。それにしても、キャブレターを外してみて良かったね」とメカニック。

 じつは、もうかなり前からキャブレーションがおかしくて、調整しなければと思いつつ、忙しさにかまけて、だましだまし走らせていたのです。それが、たまたま仕事仲間で、今度のレースの監督をつとめる人が、今回でかけたショップに立ち寄ったときに、最新のモトクロスタイヤを見つけて、確保してくれて、整備の日まで決めてくれた上に、仕事場からそのガレージまでトラックでピックアップしていってくれたのです。周りが、どんどん事を運んでくれて、それで難を逃れたというわけです。その後、完調になったマシンで、オフロードを楽しんできました。

 それから、これは、ここ数日のこと。ぼくは、フリーランスで時間は比較的自由になるし、仕事はどこでもできるし、あまり世間様のようにカレンダーは気にせず生息しているのですが、何故か、この数日、今度の三連休に実家に帰ろうかなと、考えていました。昨日の朝までは、連休は、田舎で姪や甥と遊んで過ごそうと決めていたのですが、急に仕事が立て込んで、今日は行けなくなってしまいました。

 すると、午後、携帯に母親から電話があった履歴が。折り返し電話してみると、一歳半の姪が電話をいたずらしていてかけてしまったとのこと。それで、ついでに近況など話していると、その姪が、この二日くらいの間に、ようやく立って歩き始めたとのこと。仕事もあるし、わざわざ連休に出かけていかなくてもなんて、思っていた矢先だったので、これは、歩き始めた自分を見て欲しくて電話してきたんだなと思いました。最近、自分が横着していると、周りのほうが動いてアプローチしてきているような気がしています。

――― uchida

 

 
 

02/02/07
あれから24年

 今、ぼくは国立競技場や原宿が近い仕事場で、日々過ごしています。今日、仕事場に向かう途中、いつもの道が混んでいたので、外苑のほうを迂回しました。神宮外苑には、日本青年館というレンガ色の建物があります。その脇の道をオートバイで走りながら、いつも見慣れている建物なのに、今日は、妙に懐かしく感じました。じつをいうと、今から24年前、高校3年生のときに、ぼくは日本青年館に一ヶ月あまり滞在して、大学を受験していました。ちょうど、今ごろの季節だったせいもあって、ふいに懐かしく感じたのでしょう。

 光陰矢のごとしといいますが、ほんとうに早いものです。24年前、田舎育ちの初心な若者だったぼくは、東京の街が持つパワーに圧倒されていました。もちろん、当時は、自分が泊まっている宿の近くで仕事をするようになるなんて、想像もしませんでした。

 あれからバックパック一つに、山道具と何冊かの文庫本を詰め込んで東京に出てきて....いろいろありました。今の自分は、あの頃に比べるとたくさんのモノを抱え込んでいる。だけど、あの頃より、心は豊かになっているのだろうか? モノと引き換えに、何か大事なものを失ってしまったのではないだろうか? 思わず考えこんでしまいました。

 そういえば、今日はモンベルの秋冬物の展示会に顔を出してきたのですが、展示会場一杯にアイテムが増えて、カレーショップまで出ているのには驚きました。ぼくが登山専門誌で仕事を始めた頃は、モンベルの東京事務所といえば、芝公園のマンションの一室に四五人のスタッフがいるだけで、アイテムも10点あったかなかったかというくらいでした。それが、あれから20年あまりのうちに、REIと提携するなど、世界的なブランドに成長しました。昔馴染みのH氏に、初対面の広報担当の方を紹介してもらいましたが、「内田さんは、大昔、ヤマケイでも仕事してたんだよ」との言葉に、すでにノスタルジックな気分にあったぼくは、ちょっとジンとしてしまいました。

――― uchida

 

 
 

02/02/04
ゲニウス・ロキ

 以前にも、こんなタイトルでこのコラムを書いたことがありますが、「日本」という土地にまつわるゲニウス・ロキ=地霊について、ふと感じたことに触れてみたいと思います。今、Ley‐line.netのオープニングのための作業を続けながら土地の持つ力のようなことを考え、さらに旅の雑誌の企画で、全国各地の土地の持つ雰囲気などに触れていて気がついたのです。

 以前から、四国の歩き遍路をしてみたいなと思っていたのですが、最近、歩き遍路について紹介されたいろいろなものを見聞きしているうちに、「巡礼」や「遍路」というのは、自分には合っていないなと感じました。ある本に、最近の歩き遍路は、ご接待をされて当然という乞食根性丸出しの人間ばかりだとレポートしていました。リストラされたり、社会がタイトになっているのでドロップアウトして、食うに困らない歩き遍路になる。それで、八十八箇所を回り終えても、現実に戻らず、ご接待を受けながら四国をうろついている。それだけならまだしも、そういう輩が、他の歩き遍路に対して先輩風を吹かしているとか。

 ぼくが毎週コラムを書いているサイトでも、昨年、友人が歩き遍路をして、その模様をライブで流していましたが、そういう「プロ遍路」というか、四国という土地に巣食ったダニのような人間がけっこう登場していました。

 四国という土地は、自然も人も穏やかで、多少、よそ者が入っても、それを養う余裕がある。だから、生きていく上で辛いことがあったり、壁に行き当たったりした人を優しく受け入れてきた。他の土地で行き場を失った人たちは、四国で優しい自然と人に触れ合って癒され、また自分の世界へ復帰する。そして、自分が立ち直ったときに、今度はお礼参りに行く。かつては、そんな循環があったのでしょう。でも、どうやら、今は、四国のそんな情緒につけこんで、自分は遍路だと威張っている人間が多いようです。

 元々、ぼくは、遍路に興味があったというよりは、「遍路」というシステムを確立した空海という人物に興味があって、司馬遼太郎が遍路道を辿ったように、空海の心境を想像しながら静かに辿ってみたいと思っていたのでした。そもそも、そんなモチベーションは、「巡礼」や「遍路」とは大きく違うのかもしれません。

 四国の万人を受け入れる優しい自然と人情に対して、「修験道場」と呼ばれるような場所は、人を拒む峻険な自然があって、修験者は、おのれを捨ててそれに臨もうとします。「巡礼」や「遍路」が、救いや癒しを求めるのに対して、「修験」は、おのれの身体や精神をひとつのデバイスにして、この世ならぬものにアプローチしていこうというものです。

 そんな修験の道場とされる出羽三山、紀伊半島の大峰、白山、御岳、九州の英彦山や求菩提山、厳しい自然を湛えて、生半可な心持ちで寄りつこうとする人間はたちまち粉砕しようとするそんな場所、そんな土地が持つゲニウス・ロキに触れたいと、今は強く思っています。

――― uchida

 

 
 

02/01/29
スノーシューイング

 昨日、奥日光の戦場ヶ原で、スノーシューイングを楽しんできました。今まで、冬のフィールドを歩くギアとしては、ノルディックスキーやテレマークスキー、山スキー、それにワカンジキといったものがありましたが、いずれもギアを扱うためのスキルがそれなりに必要で、ビギナーが、「夏のお気に入りのトレールを冬も歩いてみたいな」といったモチベーションで気軽に出掛けるには、まだ少しハードルが高いものでした。

 その点、スノーシューは、特別なスキルなどいらず、履いたその場で、誰でも自在に雪の上を進むことができるし、シューズもそれなりに防寒性のあるものなら何でもいいし、他の装備も特別なものは何も必要ありません。去年、シーカヤックを初体験したときも、海を自在に進むことができる気軽さにビックリしましたが、今回も、スノーシューを履いて、奥日光の戦場ヶ原や樹林の中をなんのためらいもなしにズンズン行ける感覚に、新鮮な自由さを覚えました。

 無雪期だとブッシュに閉ざされてしまう樹林の中も、木道を外れて歩くことができない高層湿原も、厚く雪が積もっている今、スノーシューがあれば自由に歩き回れるフィールドです。普段は立ち入れない、そんな場所の奥深くに分け入って、樹林の中の動物のトラッキングを見つけたり、湿原のど真ん中に立って、その広さを実感したり、冬という季節が、俄然身近に感じられるようになりました。

 夏のお気に入りのトレールが雪に閉ざされている間は指を加えて眺めているだけだったのが、ザックにスノーシューをくくりつけていけば、夏よりずっと広がりをもったフィールドに変わります。ワカンでは、どうしても苦行のイメージがぬぐえないし、スキーでは、その長さが邪魔になる樹林も、なんの問題もありません。

 個人的には、冬山のアプローチに使うことはもちろん、雪に閉ざされた露天風呂を訪ねたり、里から少し離れたレイラインポイントを訪ねるためのギアとして、ワンセット揃えようと思いました。

 ちなみに、来月はOBTのオフ会で、スノーシューイングを行う予定です。TUBBSブランドの最新モデルを、今度は北八ヶ岳でインプレッションしてきます!

*スノーシューイングの情報は、下記のページにもあります
http://goldwinsys.co.jp/stp/

――― uchida

 

 
 

02/01/25
遭難

 また一人、ベテランの登山家が遭難してしまいました。山岳写真家の岡田昇さん。ぼくが登山専門誌で働いていたとき、新進気鋭だった岡田さんは、編集部によく顔を出されていました。あれから20年あまり、岡田さんは、知床で越冬して、その海や山、動物の迫力ある写真を発表したり、カムチャッカでヒグマを追って、その生態を収めたり、迫力のある写真で知られる人です。高い登山技術も、体力もあり、経験豊富な彼が、この7日から行方不明になっています。

 昨年末に、新穂高から入山して、穂高岳山荘冬期小屋に泊まり、穂高連峰を撮影の予定が、下山予定日を過ぎても下山せず、装備や食料は穂高岳山荘に残したままだそうです。装備、食料を持たずに出たということは、付近で撮影する予定だったのでしょう。それにしても、岡田さんほどのベテランが、そんなところで....。

 遭難というのは、得てしてまるで予期しなかった安易なというか、油断しそうなシチュエーションの中で起こります。マッキンレーに消えた植村直巳さんも、エベレストの中腹で雪崩に飲まれた長谷川恒夫さんも、そしてカムチャッカで帰らぬ人となった星野道夫さんも、彼らの遭難を伝え聞いた人たちは、みんな一様に「どうして、彼らが、そんなところで?」と、思ったでしょう。数々の修羅場を潜り抜けてきた人たちが、その人たちにとったらなんでもないような場所で、あるいはシチュエーションで、逝ってしまう。そういう遭難は、「この世での彼らの役割が終えて、天に召された」とでもいったような感じです。

 それから、最近言われるのは、全地球的な気候変動のせいで、天気や雪、地盤のコンディション、そして野生の生態が読みにくくなっている、かつてのノウハウが通用しなくなっているということです。この冬の日本の山では遭難が相次ぎました。そこで目に付くのは、雪崩の多さです。積雪があるときは一気に降り、その後、急に暖かくなる。吹雪が何日も続くということがないかわりに、晴れ間が出ると春のような暖かさになる。うららかな日差しに、つい油断していて、雪崩に巻き込まれる。そんな状況が、多かったそうです。

 ベテランといえども、人間です。ふと、気を抜く瞬間もあるし、今までの経験では予測しえない事態が起こることもある。.....だけど、岡田さんは、自分から物事をあきらめる人ではないから、まだ、穂高のどこかで雪洞にこもって、救助を待っているような気がします。昔、ミニヤコンガで行方不明になり、本隊が帰還してしまってから一ヶ月もして、自力で麓にたどり着いた松田さんの例もあります。

――― uchida

 

 
 

02/01/16
空海の風景

 この数日、深夜のテレビで司馬遼太郎の『空海の風景』をモチーフにした番組を再放送しています。真剣に見ているわけではないのだけれど、酒を飲みながら、ぼんやり映し出される風景を眺めて、ナレーションを聞いていると、空海になりきって空海の足跡を辿っている司馬遼太郎の感覚が、温泉の湯のぬくもりが体に染み込んでくるように伝わってきます。

 ぼくは、若いときから山登りをしてきましたが、その初めの頃から、どうして自分は山に登るのだろうと疑問に思っていました。山でかく汗が爽快だからとか、頂上から見る景色が素晴らしいからとか、頂上に立ったときの達成感が病みつきになってしまったからとか、いろいろ考えて、どれもたしかにそうなのですが、だけど、それだけではない。何か、自分でも意識しない何かが、山へと駆り立てていると、常に感じているわけです。

 その「何か」が、ふと空海が山に入っていった気持ちと同じことではないかと思い、その空海の心境に迫った司馬遼太郎もそれを感じていたのではないかと思えました。「空海は、全身全霊をかけて自然の中へ分け入っていくことによって、その自然の向こう側へ踏み込もうとした。……考えるのではなく、邪心を捨て、自分の身を自然に晒すことで、理解よりもはるかに直接的で圧倒的な悟脱に達しようとした」。司馬遼太郎は、文章で空海の心境を表現しようとするけれど、「向こう側へ踏み込む」感覚は、自分でそれを体験する以外に知ることはできないから、うまく言葉にできない。でも、自分も山野に分け入って、自然からダイレクトなメッセージを受けた司馬遼太郎は、それをあえて言葉にする必要もじつは感じていない。

 修行者に、遍路に、具体的な何かを語るわけではないのだけれど、いつも優しく寄り添っている空海。空海を描いた司馬遼太郎も、空海に寄り添うようにして、淡々と空海を取り巻く風景だけを描写していく。

 「どうして自分は山へ登るのだろう」という疑問は、そのまま、そっとしておき、自分が山で感じることをそのまま受け入れていけば、それでいいんだなと思いました。自分を山に駆り立てる何かを知ることはたいして重要ではない。そこに駆り立てられるなら、素直にそこへ向かえばいい。

 それにしても、タイトルを『空海』とせず『空海の風景』とした司馬遼太郎という人のセンスに、心が温まります。

――― uchida

 

 
 

02/01/08
不眠症

 スティーヴン・キングの『不眠症』を読みました。キングにしてはゆったりとしたリズムの展開で、はじめやや冗長に感じることもありましたが、例によって読み進めるうちにどんどん展開も加速してゆき、読むこちらも次第に時間を忘れて没頭してしまいました。年末に『指輪物語』の公開を楽しみにしているなんて書きましたが、『不眠症』は、まさにそれをコアのモチーフにしています。

 主役は、妻を亡くして不眠症に陥った年金暮らしの老人と彼を取り巻く仲間たち。プロットは幼い時の記憶を呼び覚まされた中年の友人たちが主人公の『IT』と似ているのですが、こちらは老境に達して穏やかな引退生活を送れるはずの年金生活者が冒険に巻き込まれていきます。社会から不要品扱いされて黄昏ている老人が、特殊な力を得て、宇宙の危機を救う。すぐに新しいものに飛びつき、先人の知恵やシルバーエイジ世代の経験を生かそうとしない現代社会に対するアイロニーと、そんな世代の逆転勝利が痛快なお勧めの一作です。

 「存在にはいくつものレベルがある」。それは、古今、多くの思想家や神秘家たちが語ってきました。『不眠症』では、人間を「ショートタイマー」と呼び、さらに人の生死を司る天使のような存在を「ロングタイマー」さらにその上に不死の存在があり、もっと上には時間を超越した存在があると想定しています。上のレベルに存在するものにとっては、「ショートタイマー」の生は、取るに足りない一瞬でしかない。だけど、「ショートタイマー」は、喜び、悲しみ、苦悩し、何かを学び取ることができる。上の存在には、そういった経験はできない。それは、人間を変化の中にあって進化できる稀有な存在とし、神を固定された世界に住む進化の可能性のない存在とした東洋思想と同じ世界観です。人生の意味について、わかりやすく、明確に教えてくれるこうした作品を読むと、元気が湧き上がってきます。

 昔からとてもお世話になっている人から、新年早々リストラされたと連絡を受けました。実業家の邱永漢さんが前に「ほぼ日」で、若い人はいくらでも転職のチャンスがあるし、いろいろな業種で経験を積んだほうがいいから、リストラするなら中高年ではなくて若者からだろうといったことを書かれていましたが、まったく同感です。知識も経験も豊富な中高年世代の能力をもっともっと引き出せる社会にしなければ、どんどん薄っぺらで寒々しい世の中になっていってしまうでしょうね。

 ぼくも、気がつけば立派なおじさんになってしまいましたが、そろそろおじさんパワーを糾合して、生きることをみんなが楽しめる面白い世の中に変えていこうと思っています。

――― uchida

 

 
 

02/01/05
今年は...

 昨年の世界は、新しい世紀の幕開けとしては、なんとも凄惨な事件ばかり相次ぎ、先行きが思いやられるような年でしたね。予測のつかないようなことが次々に起こる、そんな傾向は、今年はさらに加速していきそうな気がします。日本は、「空前の大不況」とか「IT不況」なんて、相変わらず「経済大国」という言葉が羽振りをきかせていた前世紀の夢から抜け出せずにいますが、世界は、確実に今まで人類が経験したことのない新しい波に飲み込まれようとしています。

 INFORMATION TECHNOLOGYは、「IT不況」なんて言って寝ぼけている死んだ国のことなどおかまいなしに、どんどん発展しつづけています。情報の集約度とアクセススピードはかつて錬金術師や宗教家が思い描いた全能の知性に肉薄しているし、見えないところで、新しい関係性が築かれつつあります。

 ぼくがこのサイトを開いて、今年は5年目。最初の3年間は、ごく限られた人だけがアクセスするマニアックなコミュニティにすぎなかったものが、この2年間で、どんどんアクセスが増え、メーリングリストなどのコミュニティも創発的に発展してきています。そして、ぼく個人にとっては、このサイトは、単なる趣味や道楽の域をはるかに越えて、自分のライフスタイルそのものに関わってきています。もちろん、その中には、表現者としての仕事も含まれています。

 wwwが登場する以前の世界では、個人の発想や見解が社会に広がるためには、情報の卸売り産業ともいうべきメディアの介在が必要でした。まず、特定のメディアのおめがねに適わなければ、自分を表現したくとも、なかなかアピールすることができなかった。ところが、wwwは、まどろっこしい情報卸売り産業の手など経ずとも、個人がどんどん世界に向けて情報を発信することを可能としました。しかも、万人向けに中和された表現でなくとも、「わかる人にわかればいい」というわがままがいくらでもききます。

 前世紀、ぼくが仕事をしていたメディアでは、「アウトドアライター」だとか「二輪ジャーナリスト」といったレッテルを知らぬ間につけられて、雑誌や本に紹介されてしまいました。だけど、ぼくが今までに一度だって「アウトドアライター」だったり「二輪ジャーナリスト」だったりしたことはありません。アウトドアも二輪もぼくのライフスタイルの一部に過ぎず、しかも、それは自己実現、自己表現、あるいは自己満足といったほうが適切かもしれませんが、そういったことのためのツールにしかすぎません。ぼくにとって大切なのは、登山や二輪に乗るという行為を通して、その向こう側に見える世界の像を鮮明にして、それを伝えたいということなのです。山や二輪に限らず、旅も読書も、さらに「日本山岳修験学会」なる団体に所属して、いろいろ探求しているのも、ぼくにとってまったく同列のことなのです。

 そういったことを今まで理解してもらうのは、とても難しかったのですが、wwwでは、たちまち、大勢の理解者が現れてくれました。そして、ぼくと同じように、周囲からなかなか理解されずにいた人たちも大勢いることを知りました。

 2001年までの段階は、同じ感覚を持った人たちの存在を知り、互いにエールを送るところまででしたが、今年からは、必要な部分で力を合わせ、社会に対するインパクトを与える段階にきたと思っています。その第一弾として、昨年から開始した「レイラインハンティング」を独立したサイトとして立ち上げ、これにコラボレーションしてくれる個人、企業のみんなと、面白いことをしていこうと思っています。

 この世界は、まだまだ不思議や未知なものに溢れています。また、太古の人たちがあたりまえのように感じていながら、現代のぼくたちが忘れてしまっていることもたくさんあります。例えば、平安京に秘められた恐ろしく周到な結界、日本神話に隠された「大いなるモノ」の存在、世界各地の「土地」が持つ魂や意思...そういったものをwwwを通して、興味を持つみんなと探っていきたいと思っています。ぼくにとって、アウトドアや二輪は、そんな探求のために必要なスキルだったのではないかと、ふと思った年頭でした。

 
 
 
 
 

――― uchida

 

 

 


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