02/12/23
腑抜け

 ときどき、「思い入れ」というものを完全に喪失してしまうことがあります。それまでとても大切に思っていたり、全身全霊をかけて集中していたことに、突然興味を失ってしまい、物事に取り組む意欲がなくなってしまう。このところ、ちょっとそんな調子でした。

 普通なら、そんなときはなんとか元気を出そうと焦るところなのでしょうが、ぼくの場合、焦る気力も無くなるというか、妙にサバサバした気分で、案外、そんな精神がドロップアウトした状態が心地よかったりするのです。

 たぶん、そんなときに病院に行くと、鬱病とかその前駆状態と診断されて、元気の出る薬を処方されてしまうでしょうね。

 ぼくの場合、やる気がなくて、力も出ないのだけれど、べつに悲観的なわけではありません。ぼんやりとして考えもまとまらず、「このまま人生フェードアウトしちゃおうかなぁ」といった感じ、魂が抜けかかっているとでも言ったらいいでしょうか。一言で現せば「腑抜け」ですね。

 そのまま周囲に何の変化もおこらなければ、ほんとうに即身成仏してしまうのでしょうけれど、だいたい、ある時、突然、プチ家出をしていた「意欲」が戻ってきて、それまで通り、大切なものはきちんと大切に思え、何でも前向きに取り組む元気が出てきます。

 基本形が体に悪いほど元気なので、「腑抜け」になることでバランスを取っているのかもしれません。

――― uchida

 

 
 

02/12/9
紅葉と雪

 東京は大雪に見舞われました。ぼくが住んでいるアパートは、ベランダが目の前のゴルフ練習場に面しているのですが、そのネットに積もった雪が、ときどきドサッっと落ちて、明け方、夢うつつでいると、どこか深い針葉樹の森でキャンプしているような気がしてきます。

 雪は、都会の喧騒を包みこんで、ひととき、自然の静謐を味わわせてくれます。芦沢一洋さんが「アーバンアウトドアライフ」の中で、雪が降るとノルディックスキーを履いて自宅の近くの羽根木公園でスノーハイクを楽しむと書かれていましたが、近所の雑木林の中や多摩川縁の枯れた葦原をスノーシューを履いて歩いたら気持ちいいだろうなあと想像しました。それには、まだ積雪が足りないかな?

 雪国の人にとっては、いまだに天敵のようなものなのかもしれませんが、師走で、何かとぎすぎすしている東京に雪が降ると、それは、みんなの心を癒す天恵のような気がします。

 午後から都心の仕事場に出ると、お茶の師匠をしている一階の大家さんの日本庭園風の小さな庭にも雪が降り積もっていました。石灯籠の上に白い雪が積もり、そこに、紅葉が舞い落ちていきます。雪の上に落ちた紅葉に雪が降り積み、そこへまた鮮やかな紅葉が落ちる....。

 例年なら、東京に今日くらいの雪が降るときは、もう紅葉はみんな散って、冬枯れの枝があるだけですから、小さな風景だけど、なんだかとても新鮮で、思わず、寒さも忘れて眺めつづけていました。 

 

――― uchida

 

 
 

02/12/3
安らかに....

 一昨日、伯母が亡くなりました。その前日、危篤の知らせを聞いて、病院に駆けつけたときは、なんとか意識があり、言葉は交わすことはできませんでしたが、ぼくの顔を見て頷いてくれました。

 23年前、高校を卒業して、一人で東京に出てきて、すぐに父を亡くしたぼくを何かと気遣ってくれ、東京近郊の家に呼んで、ボリューム満点の食事をふるまってくれました。ぼくが大学を卒業して、まともに就職もせずにフリーランスで仕事を始めると、家業が自営の伯母は、また何かと心配してくれました。

 家業を従兄弟がしっかり切り盛りするようになると、少し余裕ができて、晩年は、日本中に旅に出掛けていました。ぼくも、あちこち飛び歩く仕事ですから、伯母と顔を合わせると、いつも旅の話になりました。不思議に指向が似ていて、同じようなときに同じような場所に行っていて、「それじゃ、どこかですれ違ったかもしれないね」なんて、笑ったものでした。

 ぼくは、高校を卒業してすぐ、祖母と二人で、祖母の故郷である群馬をあちこち訪ねる旅をしました。伯母も、同じように、二年前に、高校生の孫と一緒に尾瀬を訪ねたそうです。

 病室に見舞った後、廊下で伯父と話しをしていると、一昨年に二人で浜松から紅葉の香嵐渓を回ったのが最後の旅になったとのこと。同じ頃、ちょうどぼくも取材でそのあたりを旅していて、「またニアミスだったんだなぁ....」と、しみじみ思いました。10月の終わりに、妻とタンデムでツーリングしたときも、浜松から香嵐渓のほうまで、なにげなく足を伸ばしましたが、そのときは、もちろん伯母が亡くなってしまうなんて思いもよりませんでした。

 香嵐渓のある奥三河は、「花祭り」という独特な祭りがある場所です。お釈迦様の花祭りではなくて、修験道に源があるといわれる夜通し踊る祭りです。その祭りとともに、還暦を迎えた地元の人たちが、白装束を着て、お堂に篭り、いったん死んで再生するという儀式があります。

 ぼくは、祖母の通夜のときに急に調子が悪くなって倒れ、そのとき見た夢の中で、この花祭りの白装束とまったく同じ恰好をした祖母を舟に乗せて、三途の川を漕いでわたりました。祖母が先に対岸に下りて、ぼくも降りようとすると、おまえは帰れという仕草をしました。

 それで、ぼくは、手を振る祖母を振り返り、手を振り返しながら、しぶしぶ対岸に戻りました。そこで、目が醒めたのです。

 そんなことがあってから、奥三河は、ぼくにとってとても身近に感じられる場所になりました。

 そんな話を伯母にしたことはなかったはずですが、やはり、血のつながりで感じていたのでしょうか....。

 それにしても、順番とはいえ、逝く人を見送るのは、寂しいです。

――― uchida

 

 
 

02/11/25
安らかに....

 東京は冷たい雨が降っています。夕方、その雨の切れ間に、仕事場の近くにある神宮外苑の銀杏並木まで散歩に出掛けました。黄色い葉が歩道に舞い散る様子に、ようやく通り過ぎようとしている秋の後姿を見たような気がしました。そして、なんだか、ふいに胸が詰まり、涙がこみあげてきました。

 22日のコラムで触れたKさんの死が、突然、重くのしかかってきたのです。

 Kさんは、若いときに夕張の炭鉱で働いていました。炭鉱の中でも一番危険の大きい最前線の切端にいて、自身が危険な目に遭ったことも何度もあり、また落盤や爆発事故があると、真っ先に現場に進んで救助活動を行うのが、彼の仕事でした。

 夕張で事故があったというニュースが流れる度に、ご家族は気が気でなかったそうです。ようやく安否が確認できて、胸をなでおろしたのもつかの間、「俺はすぐ隣の鉱にいたけど、大丈夫だった。だけど、これからすぐに救助に向かうから、また後でな!」と元気な声で言って、また現場に飛んでいったそうです。

 典型的な山の男だった彼は、夕張が閉山になると、お兄さんの紹介で新しい仕事に就きました。身近に彼が暮らすようになって、ようやく家族は安心できるようになったそうです。

 そんな話を、神式の祭壇に置かれたKさんの遺影と遺骨を前に、彼のお兄さんから聞きました。炭鉱で働いていたことは、それまで、まったく知りませんでした。

 Kさんは、屈託がなくて、とても明るい人柄の人でしたが、仕事以外ではあまり人付き合いをせず、友達と呼べるような人も身近にいなかったそうです。東京では、時間やしがらみを気にしなくていい仕事で、気ままに暮らし、時々、誰にも知らせずぶらりと旅に出たりしていたそうです。若いときにいくつもの修羅場を潜り抜け、多くの死と向かい合ってきた彼が、自分の家族を作らず、また友人を作ろうとしなかった気持ちは、痛いほどわかります。

 そんなKさんが、「そのうち、内田さんを誘って三人で飲もうよ」とお兄さんに話されていたそうです。「あいつ、内田さんには、とても親しみを感じていたみたいなんですよ。ふだんは、酒もタバコもまったくやらないし、自分から誰かと飲みたいなんて、滅多に言わない奴なんですけど、飲めないわけじゃなくて、飲めば楽しそうに、いろんな話をしましたよ。見たとおり、頑丈な奴で、酒もめっぽう強かったんです」。

 心の通じ合った仲間を亡くす悲しみは、ぼくももう味わいたくない。そう思いながら、また一人、仲間を失ってしまいました。....付き合いの長さなんて関係なく、本当の仲間、友人は、直感的にわかるものです。

 18歳の時に死んだ父親とは、結局、一度も酒を酌み交わしたことがありませんでした。今でも、ときどき父と酒が飲みたかったなぁと思います。Kさんとも、一度、酒を酌み交わして、いろんな話がしたかった....。

 多くの修羅場をかいくぐり、自分の強運と健康に自信を持っていたKさん。彼は、明るい笑顔の下に、たくさんの仲間を見送ってきた寂しさをかかえていたのでしょう。誰にも見守られず、一人でひっそりと逝ったKさん。だけど、その死顔は、とても安らかで、幸せそうだったそうです。きっと、今は、自分が見送った気のおけない仲間たちと、楽しく酒を飲んでいるのでしょう。

 Kさん、安らかに....ぼくは、もう少し、現世でもがいてみます。 

――― uchida

 

 
 

02/11/22
合掌

 ぼくと妻が、今住んでいるアパートに入居したのは、もう18年も前のことです。入居者の大半は入れ替わり、気がつけば、最古参の入居者の一組となっていました。

 今朝、ぼくがジョギングから戻ってくると、アパートの前に喪服姿の人たちが並び、一階の部屋から棺が運び出されるところでした。

 亡くなったのは、ぼくたちより古くから住んでいるご家族の一人でした。兄弟でコンピュータ関係の仕事を営んでいて、お兄さん夫婦と子供たちは2階の部屋に、弟さんは一人でその下の部屋に住んで、そこで仕事をしていました。

 お互い自営で、生活サイクルが似ているせいか、彼とは、よく表で顔を合わせて、立ち話をしたものでした。つい先日も、ぼくが表でオートバイの整備をしていると、これからMTBで多摩川縁を走りに行く彼が部屋から出てきて、ひとしきり話しをしました。ぼくが不用意にオートバイを止めて、車を傷つけてしまった話をすると、「自分のオートバイで自分の車壊すなんて、珍しい物損だねぇ」とカラカラ笑うと、元気よくペダルを漕いで行きましたが、それがぼくにとっては、彼の最後の姿になってしまいました。

 この二、三日、普段は人の出入りのない彼の部屋に人がたくさん出入りして、何があったのだろうと、気にかかっていたのですが、まさか、彼が亡くなってしまったとは...。

 今朝、ちょうど出棺に行き合わせて、ぼくは、ジョギング姿のまま、手を合わせました。さほど懇意に付き合っていたわけではないけれど、18年間、同じアパートに住んできて、なんとなく気が合う間柄だったぼくに、彼は、最後の別れをしてくれたのでしょう。聞けば、知人にも近所にも知らせず、長年住みなれた部屋で、家族と近しい親戚だけの弔いをあげたのだそうです。

 彼は、荼毘にふされた後、故郷の秋田に戻るそうです。  合掌

――― uchida

 

 
 

02/11/07
立冬

 今日は、まさに立冬らしい寒い東京でした。それにしても、今年は冬が足早にやってきましたね。先日の土日に白馬で開かれたトレッキングイベントは、例年なら紅葉真っ盛りの目の醒めるような風景に包まれているのに、今回はホワイトアウト、吹雪の行軍だったそうです。

 夏は猛暑で、熱帯のように突然のスコールに見舞われ、まだ冬というには早いはずの晩秋に本格的な雪に見舞われたり、アウトドアでもっとも大切な技術の一つ、気象学のセオリーが通用しなくなってきています。観天望気といったいわばミクロな天候に関する技術は変わらなくても、季節変化のようなマクロのレベルで予測が難しくなると、プランニングが難しくなります。

 とくに今ごろの季節は、例年なら本格的な冬山装備はまだ必要ないところですが(非常の場合に備えてそれなりのものは持ちますが)、この数日の様子では、すでにアプローチの段階からアイゼン履いて、しっかり防寒装備を身につけないと、たちまち凍えてしまいます。

 越前の山に沢登りに向かったグループが遭難してしまいましたが、シャワークライミングのつもりがアイスクライミングになってしまっては、どうしようもありません。

 ミクロレベルの天気の変化は、知識と本能を動員してなんとかするとして、マクロレベルの変化は、再び昔の人の智慧に立ち戻って、24節季などを参考にしたほうが良さそうです。

――― uchida

 

 
 

02/10/31
タンデムツーリング

 先々週の週末から先週の半ばにかけて、静岡から愛知、長野とオートバイで巡ってきました。ぼくが調査取材を担当している昭文社の「ツーリングマップル中部北陸」の2003年版の最終取材でした。

 いつもは一人でキャンプ主体の取材が、今回はカミさんと二人、タンデムのツーリングでした。二人でツーリングなんて、考えてみたら20年ぶりくらいです。ほんとうは、BMWのR1150RTというゆったり乗れる大型クルーザーを借りたかったのですが、残念ながら広報車がなくて、R1150ロードスターというどちらかというと街乗りやシングルユース向けのコンパクトなタイプで、タンデムにはやや窮屈でした。

 もっとも、荷物をたくさん収納できるパニアケースが借りられたので、二人分の荷物はそれに押し込んで、あとはウエストバックとコンパクトなデイパックという装備で、宿泊まりともあって、不自由というほどはありません。

 日本では高速道路のオートバイの二人乗り走行は許されていないため、全線一般道を走って、トータル2000km。ぼくは、その程度の長距離は慣れていますが、カミさんのほうは、長距離タンデムは初体験で、戻ってから一週間経った昨日でも、まだ疲れが残っていたようです。

 それでも、秋から冬へ向かう季節の風を全身で受けて、海から山、都会から里へと移り変わる雰囲気をダイレクトに感じて、オートバイという乗り物のことが少しわかったようです。

 土砂降りの雨に下着まで濡れて、休憩のときに靴下を絞ってまた履いたり、ヘルメットで蒸れて頭が強烈に痒くなったり、寒さで手がかじかんで握った手を開くことができなくなったり、果ては16時間ぶっ通しの走行に疲労困憊となって振り落とされそうになったり....オートバイとは、過酷な乗り物であるということが、身にしみたようです。

 そんな程度は、まだまだ序の口なんですけどね。

 ちなみに、ぼくは、東京でのデスクワークにもどって二日目に、また旅に出たくなりました。オートバイ仲間の鍼の先生のところで、今回のツーリングの話をすると、「そりゃ、Nozomiさんは災難だったね。内田君はガキの頃から乗ってるから、オートバイがもう体の一部だもんね。それに、やたらと耐久系は強いもんね」と、笑われてしまいました(^^ゞ

大日堂への杉小立の道
秋葉山本宮

――― uchida

 

 
 

02/10/15
季節の変化に合わせて

 つい先日まで異常な暑さに閉口していたのに、めっきり秋めいてきました。先日の連休に、父の23回忌で田舎に帰ると、「涼しい」を通り越して「寒い」ほど。おかげで、少々、体調を崩してしまいました。

 といっても、風邪をひきこんでしまったとか、寝込んでしまったというわけではなく、季節の変化に合わせて、体も衣替えするように変化しつつあるといった感じで、ゆっくり睡眠をとり、昨日一日、表で秋の日差しを受けていたら、いつのまにか、身も心も新しい装いを纏ったような気分になっていました。

 自分の体が季節の移り変わりに合わせて変化していくことを実感する。そんなことまで含めて、「季節を感じる」ということなのでしょう。

 ずっと続けていた仕事場近くのスポーツセンター通いをやめてしまって、このところ運動不足を痛感していたので、連休中は、実家の周りを甥や姪を連れて散歩したり、犬の散歩をさせたり、つとめて体を動かすようにしていました。なんでもない身近な自然の中に身を置いていだけなのに....いや、だからこそ、日々、空の色や風の匂い、月の形や色、虫の声などが目まぐるしく変化していくのを感じました。そして、力を抜いて、ただ自分をあるがままにして、自然からの刺激を受け取る、そんなこともしばらく忘れていたような気がしました。

 自分が自然とともにあることを実感できれば、妙な焦りや不安に囚われることなく、悠然と構えていることができます。ところが、自然から切り離されてしまうと、とたんに、無用な焦燥に刈られたり、他人のことが気になってしまったりする。なんて、秋風に揺れるススキを見ながら悟ったように思っても、すぐにまた気忙しい日常に我と自然を忘れてしまう....なかなか、人生ってやつは難しいようです(笑)

――― uchida

 

 
 

02/10/02
台風一過

 昨夜は、関東の上空を台風が通過していきました。今日はその台風が空の汚れを吹き払って、気持ちのいい秋空になりました。

 23年前の10月19日、この日も台風が関東を直撃し、足早に駆け抜けて行きました。その台風に魂を運ばれて行くように、父が他界しました。台風一過の秋空を眺めると、いつもあの時を思い出します。

 父が懸命に生きようと力を振り絞っていた病室の窓には、その父の闘いに呼応するかのような風雨が叩きつけていました。その風雨が収まると同時に、父は苦しいもがきを止め、静かにベッドに体を埋め、二度と目を開くことはありませんでした。

 今年は23回忌を迎えます。

 父が亡くなったのは、ぼくが18歳の時でした。父親がいる家族で過ごした18年間とその後の23年間を比べると、18年間のほうが圧倒的に長かったような気がします。それは、大人になるまでの変化に富んだ成長過程がそこにあったからかもしれません。後の23年間は、自分が親になっていれば、子供の成長を見守っていくことで、それなりに長く感じられたのかもしれませんが、子供を持つこともなく来てしまい、振り向くと、滑るように過ごしてきてしまった平板な日常が横たわっている気がします。

 昭和4年生まれの父親は、幼少から思春期を戦争とともに送りました。そして戦後は、高度経済成長の先兵として走りつづけ、そのまま逝ってしまいました。もし、今まで父が生きていたら、この時代をどう思ったことでしょう? ようやくホッと一息つけるいい時代になったと思うか、それとも、なんとも気の抜けた情けない時代になったと思うか...それより、いつまでも風来坊のような生活を続けているぼくは、どやしつけられるだろうなぁ。

――― uchida

 

 
 

02/09/13
ソーラーパワー

 最近、オートバイツーリングの取材でも山歩きでも、GPSを持っていくことが多くなりました。

 アウトドア用のツールとして考えると、ドンピシャで位置を割り出してしまうGPSは、国土地理院の地形図とコンパスを使い、磁北補正をしてルートファインディングする昔ながらの作業と比べると、どこか味気ない気もします。

 でも、周囲に目ぼしいランドマークがないような場所で、そこを地図にプロットしたいときは、GPSが絶大な威力を発揮します。例えば、深い山の中にある巨石や巨木、藪漕ぎしていてたまたま出くわした絶景スポットといったところは、地図とコンパスでは、ピンポイントで特定するのは難しくて、「たしか、このあたりだったんだよなぁ...」なんて、後で行ってみると山を彷徨するはめになるものです。ところが、GPSがあれば、気になる場所をその場で登録しておけば、次にそこを訪ねるときは、ナビゲーションモードで正確に誘導してくれるわけです。

 レイラインハンティングで、怪しげな場所によく行く身としては、GPSは欠かせないツールになっているのです。

 ところが、問題は、GPSが電気で作動するということ。紙の地図とコンパスなら電池はいりませんが、GPSを絶えず使用していると、いくら単三2本で12時間駆動するといっても、予備の電池が必要になります。長い山行になると、予備電池の重さだけでもばかにならないし、なにより環境によろしくありません。

 そこで、GPSとともに、それに使うニッケル水素電池を充電するソーラーチャージャーを併用しています。椛セ陽工房が製造販売している「バイオレッタ」がそれです。片手に収まるほどのサイズで、太陽電池パネルと単三乾電池、もしくは単四乾電池が二本入るボックスが一体になったもので、晴れていれば2日くらいで単三2本をフル充電できるとのこと。

 先日の10日あまりの取材では、ずっと晴れに恵まれたこともありますが、2本の予備電池を充電しつつ、GPS本体の電池がなくなると入れ替えるといった使い方で間に合ってしまいました。ゴミになる電池を一本も出さずに済んだのは、爽快でした。

 取材となると、カメラやらパソコン、PDA、さらに携帯電話も持っていくので、ほんとうは、それらもソーラーチャージャーで充電できれば、もっと気持ちよくなるんですけどね。

 この「バイオレッタ」は、二台連結して急速充電ができたり、携帯電話用の充電ケーブルやPDA用にUSB接続アダプタも用意されています。なんといっても、本体価格が5000円というのがうれしいところです。ニッケル水素電池は500回は楽に充電ができますから、ニッカド電池を使い捨てするより、こちらのランニングコストのほうがだんぜんお徳です。

 発電所というと、巨大な設備投資が必要な施設の代名詞のようなものですが、バイオレッタも片手に収まるとはいえ立派な発電所です。ほんの少しのエネルギーですが、それを自分で賄える気分というものはいいものです。バイオレッタをきっかけに、ソーラーチャージャーや風力発電について調べていたら、札幌のノースパワー鰍フ「NP103」という風力発電機を見つけました。これは、バイオレッタと同じように、ニッカド電池やニッケル水素電池を充電するもので、アルミの羽根とダイナモで構成されるシンプルなもの。実用性を狙ったものというよりは、風力発電の仕組みを体験するための教材的なものですが、これなら天気の悪いときや夜間でも充電できますね。

 以前、このコラムで生活を見直そうと思っていると書きましたが、全国を行脚する取材が多くなってきたので、来年は、キャンピングカーをベースに取材旅行しながら現地発信していこうと考えています。

 車は、できればハイブリッドの極低燃費車で、ルーフにはソーラーパネルを据え付け、キャンプサイトでは小型の風力発電機を設置して、PCやら通信装置やらの電気はすべてそれらで賄う....どこまで消費エネルギーを削減できるか、そんな試みもレポートしたいなぁ。

椛セ陽工房 バイオレッタ
http://www.violetta.com/japanese/index_j.html
ノースパワー
http://www.northpower.co.jp/index_inf.htm

――― uchida

 

 
 

02/09/07
どこに逃げれば...

 先月30日から一昨日まで、信州方面を巡り歩いてきました。今回、山道をオートバイで走っていても、登山道を歩いていても、動物をたくさん見かけました。奥志賀林道で目の前を横切った熊、あやうく轢きそうになったリス、長野と大町を結ぶ幹線道路で横たわっていたタヌキ、カヤノ木平のブナ林の中では、空から木の粉が雨のように降ってくると思ったら、アカゲラがさかんに幹を突ついていました。

 急に動物の数が増えたとも思えないから、異常気象のせいで食べ物が少なくなって、人里や人が通るところにまで姿を見せるようになったのでしょうか。気になるのは、目の前を横切った熊にしてもリスにしても、なんだか急いでいるように見えたことでした。自分のテリトリーに侵入してきた闖入者に、少しは好奇心を見せてもよさそうなものなのに、こちらに一瞥もくれず、藪の中に一目散に飛び込んでいきました。

 信州はずっと晴れが続いて、ぼくのような旅をしているよそ者には別天地に思えても、農家の人たちは、「そろそろまとまった雨がないと、作物がほとんどダメになってしまう」と、頭を抱えていました。

 先月初めに出かけた北東北は逆に雨が続いて作物が生育不良だというし、少し広い範囲を見れば、大水害に襲われた朝鮮半島や、連続して大型台風に直撃された沖縄、台湾...信州の動物たちは、どこかへ逃げようとしているかのようでしたが、世界全体、どこにも逃げるところはありません。

 連日、9月とは思えない暑い太陽に照りつけられながら歩き回り、ホッと安らげたのは、瑞々しいブナの森で、こんこんと湧き出す水を飲んだときでした。

――― uchida

 

 
 

02/08/22
夏はやっぱり...

 例年、夏の盛りは気力体力ともに減退してまったく仕事にならないので、一ヶ月丸まる休みにしてしまえと思うのですが、そもそも思考能力が底を打っているので、具体的に何をする、どこへ行くという決断がつかぬまま、結局、東京で腑抜け状態のまま過ごしてしまうということになります。

 今年もそんな調子で、台風一過で涼しくなったこの二、三日、ようやく正気を取り戻して、「ああ、今年も夏が無為に過ぎてしまった...」と、後悔している次第(>_<) すべからく、機先を制して行動に移さないといけませんね。学生時代は、7月になるととっとと田舎へ戻ってバイトして、8月の声を聞くか聞かないうちに万年雪の傍らで安眠していたものでした。

 昨日、仕事の打ち合わせ先で、ツーリングライダーの賀曽利隆さんに、久しぶりにお会いしました。6月の終盤にユーラシア横断のツーリングに出発されて、つい先ごろ帰国されたばかりで、来週早々には、東北へ一ヶ月取材に行かれるとか。いつもながら底抜けに元気な人です。

「賀曽利さん、来年は、日本の夏とはおさらばして、ぼくもユーラシアを縦断しますからね」

「内田さん、でもね、今回はチベットで高山病で苦しんで、日本の夏の暑さのほうがまだましだと、本気で思いましたよ」

 夏はやっぱり3000mの稜線がちょうどいいのかも...。

――― uchida

 

 
 

02/08/04
空との対話

 来週は、東北方面に取材なので、その足となるオートバイの点検をしていると、なんと、リアブレーキのパッドがほとんどなくなっていて、危うくベースマウントまで擦りそうな状態になっているのを発見しました。そんな状態を露知らず、先日は高速道路をいい調子で走っていたのですから...まったく冷や汗ものです。レースの後で、メンテナンスをショップ任せにしていて、自分でチェックしなかったのは、まさに油断でした。

 それにしても、東北自動車道をかっ飛ばす前に気がついて良かった。そのまま乗っていたら、宇都宮あたりからリアブレーキ無しで走らなければならなくなるところでした。

 なんとなくブレーキタッチが変になったので、キャリパーを外してみて正解でした。オートバイとは16の時から25年も接してきたので、そこそこの対話ができるようになっているということでしょうか。それにしても、純正パッドの8000円の出費は痛かった(>_<)。ついでに、サイトで検索すると、BMWはリアブレーキの減り具合が一目瞭然ののぞき穴がありました。……一度、整備マニュアルを取り寄せて、じっくり眺めてみなければ。

 ところで、対話といえば、フィールドでは空との対話が重要です。いわゆる観天望気というやつですね。その観天望気には、ずっと自信を持っていました。雲の流れを見ていれば、数時間以内の変化から二三日先の天気まで、かなり正確に予測できたのですが、この数年、それが外れるようになってきました。外れるというよりは、セオリーが当てはまらなくなってきたといったほうが正確かもしれません。

 かつては、梅雨明け十日といって、太平洋高気圧が梅雨前線を押し上げてそれがなくなるとその後の10日間は天気が安定して、雷雨などもあまりおこらないものでした。ところが、この数年は、梅雨そのものがはっきりしないのに加え、梅雨明けしたと思ったら、熱帯のようなスコールと雷に襲われることがあります。かつては梅雨そのものがなかった北海道や北東北が前線に居座られてずっと雨だったり、明らかに地球の生理が変わってしまったようです。

 夏空を眺めていると、午前中から積乱雲が急激に発達して、昼過ぎに夕方のような暗さになって信じがたい集中豪雨になったり、天気変化が早すぎて、フィールドでの行動の目安がつきにくくなってきました。

 昔ながらに、空と対話していると、地球の怒りがひしひしと伝わってきます...。

――― uchida

 

 
 

02/08/01
月と太陽

 砂漠の民ベドウィン族は、太陽が照りつける空を地獄と考え、太陽は、生き物に嫉妬する卑劣な老婆に見立てているそうです。瑞々しい地上の生き物は、太陽によって干からびさせられてしまう。灼熱地獄の東京にいると、まさに太陽が意地悪な魔女のように見えます。

 先週は、久しぶりに茨城の田舎で骨休めしていたのですが、昼間はどんなに暑くても、日が暮れると、涼しい風が吹き渡ってきて一息つくことができます。ところが東京は、昼間温められたコンクリートからの輻射熱で、夜中ものた打ち回るような熱帯夜。年々、それが酷くなっていっているような気がします。

 暑いときには、水分の補給が欠かせませんが、ただ水だけを飲んでいるとミネラル、とくに塩分が不足してしまいます。昔、山に登るときは、体液のイオン濃度を調節するために塩のタブレットを飲んだりしましたが、都内を徒歩で移動するには、スポーツドリンクより塩のタブレットのほうが必要かもしれません。

 ちなみに、ベドウィンは、月をしなやかで活気に満ちた若い男性に見立てているそうです。「彼は、眠る遊牧民を見守り、夜の旅の道案内をし、雨を降らせ、植物に露をしたたらす。彼は不幸にも太陽と結婚する。彼は、妻と一夜をともにするだけでやせ衰える。彼が元にもどるには、ひと月かかるのである」(ブルース・チャトウィン著 芹沢真理子訳 『ソングライン』 めるくまーる刊)。

 遊牧民やイスラムのデザインには、太陽はほとんど登場しないのに、月のイメージ、その月に照らされる夜のイメージは豊穣です。

 夏は、月夜の晩がいいですね。

――― uchida

 

 
 

02/07/26
風切地蔵

 先日、登山専門誌時代からの古い仕事仲間と話をしていて、風切地蔵のことを教えてもらいました。白馬の小蓮華岳頂上と栂池、鬼無里に小さな地蔵が安置されていて、それを繋ぐと姫川の谷をまたぐ直線になる。それが、白馬から吹き降ろす「岳おろし」と呼ばれる空っ風や疫病が白馬のほうへ入り込むのを防ぐ結界の役目を果たしているとのこと。もう30年以上も白馬のほうへ足を運んでいる彼が、はじめて古老から聞いたのだそうです。

 栂池の落倉にある風切地蔵は有名ですが、小蓮華岳と鬼無里のものは、ぼくも初めて聞きました。落倉と鬼無里は里山だから石の地蔵を運ぶのも、そうたいへんなことではないでしょう。だけど、小蓮華岳といえば、もう後立山の稜線ですから、重い地蔵を運ぶのは容易ではなかったはずです。しかも、付近で一番高いピークである白馬岳を目の前にして、どうしてその前衛の山に置いたのか、それも不思議です。

 その話を聞いてから、デジタルマップで三つの風切地蔵を結ぶラインを引いてみたのですが、そこで、不思議なことに思い当たりました。ちょうどそのラインが横切るあたりで、土地の雰囲気が変わるのです。姫川に沿って大町のほうから糸魚川方面へ向かっていくと、栂池のあたりまでは、山が迫っていても、どこか明るい高原の雰囲気があります。ところが、ラインを踏み越えて小谷のほうに入ると、急に谷間の圧迫感が強くなります。道を辿っても、大糸線に乗っていても、稜線を辿っても、そんな変化をぼくははっきり感じます。そして、実際に、小谷から糸魚川にかけては、自然災害によく襲われるところです。

 風切地蔵が「結界」の役割をほんとうに果たしているのかもしれませんね。 

――― uchida

 

 
 

02/07/22
夏の停滞を脱出しよう!
 

 関東地方は梅雨も明けて、いきなり本格的、情け容赦のない暑さに見舞われています。この季節は、みんな朦朧としてしまうせいか、仕事も急に停滞してしまうことが多いですね。それにしても、このところ最悪で、先月まで順調に進んでいた仕事が急にフリーズしたかと思ったら、ルーズな人間に迷惑をかけられたり、いいところなしでした。

 自分ではにっちもさっちもいかないこんなときに助け舟を出してくれる、というか勇気を与えてくれるのはやはり友人ですね。

 とある友人が、今、台湾で事業を起こそうと、精力的に動いています。その彼が、「信頼できるパートナーが欲しいんだ」と声をかけてくれました。以前、台湾にしばらく滞在したり、台湾出身の友人が多いこともあって、ぼくで力になれることがあればとなんでもすると、即答しました。

 彼は、昔、とある二輪雑誌の編集長をしていました。編集長といっても雇われで、経費やギャラの管理は出版社の社長がしっかり握っていました。その社長というのが、じつに金銭にルーズで、我々外部スタッフに仕事をさせるだけさせておいて、なかなかギャラを支払おうとしません。ぼくは、友人である編集長に誘われてその仕事を引き受けたので、彼を通して請求しました。しばらくすると、その友人が自宅を訪ねてきて、「これ雀の涙ほどで申しわけないんだけど、とりあえず足しにしておいて」と、申しわけなさそうに言って、封筒を置いていきました。中には、銀行で下ろしてきたばかりらしいピン札が5枚入っていました。

 それからしばらくすると、彼は、その出版社を辞めました。後で知ったのですが、彼も給料を何か月分も滞納されていて生活に窮するほどになっていたのに、借金をして、自分が声をかけた外部スタッフには頭を下げてギャラの一部を払っていたのでした。

 金銭にまつわることというのは、じつはいちばん人間性が現われることだと思います。自分の身を削って仁義を通そうとした彼は、心から信頼できる人間だと思いました。

 その彼が、人生をかけて新しいことを始めようというのですから、応援しないはずはありません。

 彼が新しい空気を吹き込んでくれたおかげで、気分も一新、また、いろいろなことが動き出しそうです! 

――― uchida

 

 
 

02/07/08
The Complete Walker W

 今日、amazon.co.jpに注文していた「The Complete Walker W」が届きました。Vが刊行されてから18年、久々の改訂です。改訂とはいいながら、この15年でアウトドアグッズは大きく変わりましたから、御馴染みのコリン・フレッチャーのトレッキング装備を開帳した表紙は、個々の道具が、Vのときとはほとんどすべてといっていいくらい変わっていることに、あらためて驚かされます。

 さらに驚いたのは、コリン・フレッチャーがもうすぐ80歳になるということ。最初の版が出た1968年に30代の後半だったら、たしかに、もうすぐ80代になるはずです。だけど、まだまだ現役で、フィールドを逍遥しているのは、さすがというべきですね。

 このWは、フレッチャーとともに、共著者としてチップ・ローリンスという名前が登場します。ぼくは寡聞にして、この人の名前は初めてここで目にしましたが、80年代後半から90年代の初頭にかけてバックカントリーレンジャーを務め、その後、環境問題を含めたアウトドア関係の著作を持つ人のようです。フレッチャーとは、ともにバックカントリーを旅したり、アウトドアについて語り合ったりする友人で、もちろん、初版からの愛読者。そんな二人が書いた新版は、前の版より200ページ近く増えて、845ページにもなっています。

 B5版のずしりと重いペーパーバック。Vは、すべて読み通そうと思いながら、結局、ときどき拾い読みする程度で終わってしまいましたが、今度こそは、辞書と首っ引きで1年かかっても読み通そうと、決意しています(たしかVのときも、そう決意したけど(~_~;))。

 それにしても残念に思うのは、第二版までを日本語に翻訳された芦沢一洋さんが、もうこの世におられないことです。コリン・フレッチャーが80を目前にして、まだまだ120歳までは現役で頑張るぞと宣言しているのに、一世代若いはずの芦沢さんは、もうフレッチャーの足跡を訳すことができないのですから...。

 だけど、こんな大部な洋書でも、構成は初版から変わらず、挿入されているイラストも昔ながらのものもあって、とても馴染みやすいものになっています。英文を拾い読みしていても、それになんとなく芦沢訳のテンポが蘇ってきて、懐かしさを覚えます。

 第二版の日本語訳と、V、Wと並べてみると、それだけで、この40年あまりに及ぶアウトドアシーンの変遷と、長い時間が経っても揺るがないコリン・フレッチャーの姿勢を一度に感じることができます。

 フィールドは、もう夏本番! 早くアウトドアに飛び出したい!

――― uchida

 

 
 

02/06/24
夏至の太陽

 先週の金曜日、梅雨の晴れ間を突いて、夏至の太陽を追いかけてきました。

 21日4時40分、伊勢二見ガ浦の夫婦岩の間から昇った朝日を見届け、17時15分に丹後元伊勢の日室岳頂上に沈むまで、一年のうちでもっともパワーのある太陽とともに、バイクで走る旅。

 前日夜までは天候が思わしくなく、諦めていたのに、当日は曇りがちながら、御来光も日没も拝むことができました。こんな酔狂をしているのはぼくだけかと思ったら、初老の夫婦がそちらは車で、伊勢から元伊勢までを走りぬいていました。

 ご神体とされる岩の間から日が登り、ご神体とされる山に没する。そんなのはただの偶然、拝む方向によって、どうにでもなると思われるかもしれません。だけど、それぞれ、拝む場所は「遥拝所」として決まっていて、しかも、伊勢ではその朝日は、正確に岸辺にある興玉神社のご神体を通り、内宮へと達します。元伊勢では、内宮の本殿から日室岳を仰ぐ方向に没するのです。

 それは、単に暦として利用するための配置にしては大掛かりすぎるような気がします。古代の人たちが、何の目的でそんな配置にしたのか、正確なところはわかりません。でも、その様子は、古事記や日本書紀の天孫降臨にぴったりと符合し、何かを暗示している気がします。

 伊勢では多勢の人がその時に合わせて海に入り、禊をしました。元伊勢では、まさに日が山頂に没する瞬間にそこに居合わせたみんなが、内宮の宮司による大祓を受けました。

 普段、それほど敬虔でもない人でも、その瞬間に立ち会うと、言葉にできない感動に包まれます。初めて伊勢で禊を受けたという東京の主婦の一団も、人に勧められてたいした期待も持たずに写真を撮りにきていたカメラマンも、その瞬間は、誰もが息を飲み、何も考えずに、ただただその光景に見とれ、自然に手を合わせています。その瞬間は、太古から受け継がれてきた記憶が呼び覚まされたような、そんな感覚でした。

 一日、夏至の太陽とともにあって感じたのは、その日の太陽が特別な存在だということでした。夏至の太陽から自然の力の強さを感じ取り、冬至の太陽から、自然の恩恵のありがたさを感じ取る。そして、その瞬間の日差しを自然の中に配置された装置を通して、凝縮して受け取る。そんなことを昔の人たちはしていたのかもしれません。

 夏至の太陽を追いながら、忙しく人と車が行き交う街をいくつも通過していくと、今日が夏至であることも知らずに、一年の中のなんでもない一日として過ごしている人がほとんどで、誰もこの日の太陽が特別な力を持っていることを知らないんだということに、奇妙な驚きを感じました。 

 2002年6月21日4時40分。伊勢二見ガ浦から夏至の太陽が昇る。17時15分丹後元伊勢日室岳に沈む。こうした光景を見ると、それだけで胸が一杯になります。自然=神の偉大さをあらためて感じる時が、一年にニ、三度あってもいいような気がします。

 

――― uchida

 

 
 

02/06/13
大地の香り

 一昨日梅雨入りしたかと思ったら、東京は律儀にぐずついた空模様になっています。先日、サッカーのワールドカップのことを書きましたが、次の日、知り合いから、仕事場に主要各国の試合を解説したイラストのFAXが届きました。それを観て、なるほど、優勝候補の国が次々負けているのかとわかった次第。それにしても、ぼくがサッカーに興味ないこと知っているはずなのに(すっかり舞い上がって忘れているんだろうなぁ)、仕事場にFAXしてくるとは...この人、ほとんど仕事が手についていなのだろうと、ちょっと心配になったりするわけです。でも、どうやら、そんな人が多勢いるみたいですね。

 先日、サッカー観戦について批判的ともとれるようなことを書いたせいか、それを読んだと思しきサッカーファンの知り合いから、なんだか冷たい視線を向けられています。ほとんど非国民状態です(~_~;) 生まれながらの天邪鬼としては、そういう境遇は慣れっこですが、あんまりシリアスに排斥されてしまうと、さすがに悲しくなってきます。「サッカーごとき」で、友情にヒビが入るなんて...なんて、書いたら、また火に油だろうなぁ。

 と、まあ、それはおいといて、今、どうしたわけか香りにとりつかれています。それも、アロマとか香とかいうのではなしに、「シガー」の香り。タバコの煙は大の苦手なのに、どうしたわけか、パイプやシガーの香りがふいに嗅ぎたくなるのです。けして、それが吸いたいわけではなくて、上品なパイプやシガーの香りがほんの少し漂っているといいなぁと、何かの拍子に思ったりするわけです。

 それで、打ち合わせで赤坂に行ったついでに、いろいろな種類のタバコを置いているショップで、お勧めのシガリロを買ってきて、自宅で火をつけてみました。最初の吸い口だけで、すぐに灰皿に置き、あとは立ち上る煙が循環して、部屋に漂うほのかな香りを嗅いで満足。シガリロは紙巻タバコと違って、吸わなければ、すぐに消えてしまうので、そのまま、数日香りが楽しめます。

 どうして急に、そんな香りが嗅ぎたくなったのかというと、一ヶ月前のツールドニッポンで上陸した北海道で、大陸の香りを嗅いだからです。空気の中に漂う、泥炭のような石油のような、ほんとにかすかな香り。それは、ユーラシアのど真ん中で嗅いだ匂いに通じるものがあって、強い郷愁を呼び覚ましました。むき出しの地球の香りとでも言ったらいいでしょうか。タバコは本来、モンゴロイドやアメリカ先住民がマジカルな儀式に使っていたものですが、それは、タバコが大地のプリミティヴな力を象徴するもので、その力と共感するためのものととらえられていたためかもしれません。

 誰もいない大陸のど真ん中で、一人ぽつねんと、何を考えるでもなく佇んでいる。子供の頃から、それがぼくのいちばん安らぐイメージでした。そのイメージには、微かに大地の香りの記憶が染みついています。 

――― uchida

 

 
 

02/06/10
スポーツする人、観る人

 昨日、ツールドニッポン以来、久しぶりにオフロードライディングを楽しんできました。利根川河川敷のコースに、イタリア製の「VOR」と「tm」という二台のピュアエンデューロレーサーを持ち込んで、文字通り「ファンライド」してきました。「tm」のほうは、どうも燃料系の調子が悪く、コースを5、6周しただけでエンジンがストールしてしまい、その後再スタートならず。ちょっと残念でしたが、立ちの強いエンデューロレーサーならではのハンドリングは、なかなか手ごたえがありました。

 一方、VORのほうは、一台一台手作りされる芸術品のようなマシン。エンジンをかけると、排気音こそ勇ましいサウンドですが、エンジン本体に耳を近づけてみると、これがマルチエンジンかと思えるぐらい、メカノイズがなく、「シルキー」に回っています。そのエンジンのフィーリングはというと、低中速は530ccのビッグシングルらしいトラクションが聞いていて、だけどピックアップは2サイクルモトクロッサーとまったく変わらない。そして、高速の伸びはまさにマルチエンジン。低速でトコトコ行くのも可能なら、ギャップをアクセルワーク一つで、ポンッと飛び越えることも可能、しかも、回せば回すだけ伸びていく底なしパワー。足回りもしなやかでかつ踏ん張りが利いて、しかも車体は90kgしかなくて、MTBを操るように自在に振り回せます。まさに、目から鱗の経験でした。

 技術の進歩は、自分の体で感じてこそ、はっきり理解できます。10年前は夢のまた夢であったことが、現にここに存在している。その驚きはとても語り尽くせません。それは、自分で味わってこそのものです。それにしても、今、車にしろオートバイにしろ、ヨーロッパのメーカーは、じつに刺激的な製品をどんどん生み出しています。日本の製品は、残念ながら体感できないスペックやら、ドライビングプレジャー、ライディングプレジャーとはまったく関係ない「オマケ」装備の豪華さだけでユーザーを繋ぎとめようとしていますが、ユーザーが、ほんの少しでも「本物」に触れてしまったら、たちまち化けの皮が剥がれてしまうでしょう。

 それにしても、VORは、とてつもなく素晴らしいマシンでした。ぼくには530のパワーは扱いきれないので、その下の450あたりが良さそうな感じ。当分、夢に出てきそうです(~_~;)

 ところで、ライディングハイになって帰ってくると、なにやら仕事場周辺に歓声が木霊しています。いったい何事だろうとと思ったら、近くにある国立競技場にサッカーファンが詰めかけ、オーロラビジョンで「日本対ロシア」線を観て、歓声を上げているのでした。本物の試合を観るならいざ知らず、何故、わざわざ国立競技場まで詰め掛けて、テレビもどきをみんなで眺めてはしゃいでいるのでしょう? どうも、その心理は、よくわかりません。

 そもそも、ぼくは、スポーツを「観る」というのがピンとこないのです。自分で汗を流して気持ちがいいのがスポーツ。人が汗を流しているのを観ても、何も感じません。しかも、自分がその競技の現役だったり、かつて現役だったというのなら、スポーツを観戦して面白いこともあると思いますが、その競技をプレイしたこともないのに、ああだこうだ批評しながら観るのは、なんだか理解できません。

 仕事場からの帰り道、いつもと違って道がガラガラだったのも、どうやらみんなが日本戦をテレビで観ていたためらしい。いつもワールドカップの日本戦をやっててくれたら、道が空いててうれしいんだけどなぁ...。 

――― uchida

 

 
 

02/05/21
ウェイクアップ・ネッド

 数日前、「ウェイクアップ・ネッド」というアイルランド映画をビデオで観ました。人口52人のアイルランドの田舎町で持ち上がる宝くじ騒動の話ですが、ここに登場する老人たちの明るくて生命力溢れた生活の様子が、とても羨ましく思えました。

 村の中の誰かが巨額の宝くじに当たったことがわかり、それを突き止めるために、パーティを開いて村人全員を招待して探りを入れたり、ポンコツバイクに凸凹コンビの悪友二人が乗って、あちこち駆けずりまわったり、ひょんなことから、そのバイクに萎びた腹を風に震わせてスッポンポンで乗るはめになったり...。好奇心と行動力が並大抵ではないんです。

 舞台となるアイルランドの風景は、それだけを見ると、ひんやりしていてセピアの写真を見るような寂しさがあるのに、そこに老人たちが登場すると、風景までも躍動して見えるようになります。

 BGMで流れるケルト音楽も、どちらかといえば寂しげで、人生の悲哀を感じさせるような曲なのに、老人たちのキャラクターが前面にあると、「人生には、もちろん悲哀はあるけれど、無邪気な心を持ちつづければ、こんなにも輝き続けていられるんだ」と語っているようです。

 何か具体的な目標を持って、それにむかって突き進んでいくこと。それは、元気の秘訣の一つです。でも、その目標が挫けてしまうと、とたんに元気も萎んでしまう。その萎んでしまった元気を蘇らせるために、新たな目標を設定して、それに向かって歩み始める。...自分の今までの生き方を振り返ってみると、そういうことの繰り返しだった気がします。

 だけど、だんだん歳をとって、ある程度先が見通せるようになってくると、目標を設定することが難しくなってくる。何かを思いついても、それがどの程度実現可能なのか、やる前から見通しがついてしまうんですね。すると、目標設定することそのものが辛くなってくる。

 そんなことをふと考えていたときに観たのが、この映画だったわけです。遠くばかり見ていないで、ときには足元を見て、そこに面白さを見つけることも必要だなと思ったわけでした。ちょっと心が疲れたり、落ち込んだりしたときに、「ウェイクアップ・ネッド」はお勧めですよ! 

――― uchida

 

 
 

02/05/10
地霊の息吹を感じた8日間

 4月28日から5月5日までの8日間、北海道の芦別をスタートして宗谷岬をまわり、九州最南端の佐多岬まで駆け抜ける文字通りの日本縦断ラリー「TOUR DE NIPPON」を完走、先日、東京に帰還しました。

 BMWR1150GSという大陸横断をターゲットにしたタフなオートバイで、目まぐるしく変化する日本の自然の中を、その息吹をダイレクトに感じながら駆け抜け、あらためて、日本の自然の多様さと、奥深さを感じさせられました。

 まず、久しぶりに北海道に上陸して感じたのは、ここはまぎれもなく大陸の一部であるということ。雰囲気やイメージがどうのというのではなく、もう、本土とは即物的に匂いが違います。北京やロサンゼルスの空港に降り立って空気を吸うと、乾いた中にかすかに泥炭や石油のような化石燃料のような匂いが感じられます。地表をオブラートで包むように植物が覆う島とは違う、むきだしの大地の匂い。ここは、人間よりも自然のほうが主役。人は、常に自然を意識しながら暮らしている...そう実感できます。

 今まで、北海道は何度か旅をしていますが、今回の旅で、オホーツク沿岸やサロベツの原野に建ち並ぶ巨大な発電用の風車を初めて見ました。荒涼とした景色の中に、白く優美な風車が聳え立ち、ゆったりとその羽根を回して地球の息吹そのものである風をエネルギーに変換する様、その「シュン...シュン」という自然な鼓動は、とても心を落ち着かせるものがありました。同じ巨大建造物でも、高速道路やトンネル、橋といった自然を征する形に作られたものとは、根本的に異質な、とても利に適ったものとして、風車は見えます。それは、風景の一部として、見ているだけで涙ぐんでくるような美しさがありました。ただ、皮肉なのは、海の向こうに見える利尻富士を仰ぐサロベツの風車は、その背後に、人類の文明が生み出したもっとも厄介な廃棄物を埋めるための最終処分場が控えていることでした。

 最果ての荒野に自然との共生を象徴する風車と、自然からもっともかけ離れた汚染物質がある。そして、ここには、ぼくにとって、とても懐かしい人が住んでいます。今回は、レースの途中ということもあって、ヘルメットも脱がずに挨拶した慌しい訪問でしたが、その人は、ぼくの姿が見えなくなるまで道に出て、手を振り続けてくれました。厳しい自然に耐えながら、健気に生きてきたこの土地の人たち。自然が厳しいだけに、逆に人に対しては心底優しい人たち。そこにあるのが、新たな未来を象徴する風車だけなら、ぼくの心は和んでいたことでしょう。でもその背後の地下に秘められるもののことを考えると、どうにも胸が締めつけられます。「今度は、ゆっくり訪問しますから...」。バックミラーの中で小さくなっていく人に向かって何度も何度も誓いました。

 北海道を二日で駆け抜け、津軽海峡を渡って、八甲田、奥入瀬から十和田湖へ。根回り雪が残り冬から目覚めたばかりの八甲田、瑞々しい新緑の奥入瀬と十和田。やはり本土は北海道とは違って島なのだと感じます。この空気の中には、細胞の隅々にまでいき渡る潤いがあります。

 途中、八甲田から途切れた雨雲の向こうに津軽富士「岩木山」が遠望できました。日本各地には、その土地を象徴するランドマークである「富士山」があります。その形は千差万別で、とりまく環境も様々。そのご当地富士の環境が、じつはそれぞれの土地の個性に大きく関わっている気がします。目に見えるその山の形や、山がもたらす恩恵、そしてときには噴火といった荒々しさ...それらが全て土地の個性につながって行く。それは、そのまま土地に暮らす人々の気質となっていく。そう考えると、人は生まれ育った大地そのものであるともいえます。

 さらに南下して、宮沢賢治の故郷「イーハトーブ」のやさしい自然の中に飛び込むと、レースのことを忘れて、とても穏やかな気分になります。緩やかな起伏を描いてどこまでも続く草原、そして盛岡の盆地を挟んだ向こうには、イーハトーブの象徴「岩手山」があります。全てがまろやかなイーハトーブは、宮沢賢治が描いたファンタジーが、幻想や物語ではなく、現にここにあるリアルな存在だと感じさせてくれます。草原の向こうからカンパネルラやジョバンニが、今にも、楽しそうに駆け出してきそうな、こんもりとした林の奥では、夜になると密かな料理店の明かりが灯りそうな、そんな気がします。

 北上山地を抜けて南下すると、次第に山が大きく深くなっていきます。蔵王を抜け、磐梯山の裏にひっそりたたずむ五色沼のほとりに辿り着くと、そこはイーハトーブとは逆に、現実のほうの存在感が薄い「異郷」の気がします。夜中の会津街道を辿っていると、自分が異郷の中に迷い込んだたった一人の人間であるような、不安がのしかかってきます。そこは、自然が、まだ人間を安心させるほどこなれていない、いわば荒御霊が漂う土地のような気がします。北海道は、人間に対して厳しくとも、自然そのものが持つ魂は丸く穏やかなもの。でも、会津から奥只見の自然は、まだまだコントロールできない荒々しい力を内に秘めて、そこに不用意に入るものを拒んでいるかのようです。

 ここまで、目まぐるしく移り変わる自然を経巡ってきて、あらためて、鎌田東二が使った「日本という身体」という言葉がリアリティを持って迫ってきます。一ヶ所として同じ場所はなく、それぞれの場所は際立った個性を持っている。でも、通観してみると、それは「日本」という言葉で結ばれている一つの大地でもある。忙しくその中を駆け抜けていくぼくたちは、その身体の中を流れる血液なのかもしれない...そして、知らず知らずのうちに、滞留した「気」をそれぞれの土地から受け継いで循環させているのかもしれない。

 自分が日本という身体の血液として流れつづけていくと、日ごろバーチャルな世界に浸って滞ってしまっていた自分の中の血液までもが、同じように活性化していくような気がします。日本という身体も一つの生体としてたしかに息づいている。それを構成する人間も息づいている。そして俯瞰して見れば、地球という生物も息づいている。そのどれかが病めば、全てが病んでしまう。日本を、地球を健康で躍動させるためには、まず自分が健康でなければならない...。確かなミクロコスモスとマクロコスモスの照応を感得できます。

 峻険な中部山岳の山懐に入ると、今度は、よりプリミティヴな自然を感じます。人に対して優しいとか峻厳だとか、擬人化して例えられるようなものではなく、人間などおかまいなしに孤高の存在としてある。それにとりつく人間は、卑小な存在としての自分を自覚して、孤高の自然が見せる一瞬の和みをついて、その懐深く飛び込み、そして脱出してくるしかない。かつて足しげく通った北アルプスの3000m峰たちが、とても崇高なものとして迫ってきます。

 そして四国。脊梁山地から波紋のように派生した山襞が海にぶつかり、全体がその緑濃い山襞に覆われている。視界が開けるところは少なく、否応なく、自分に向き合わされてしまいます。そんな四国のバックロードを辿っていると、遍路の姿を多く見かけます。一人、杖をついて地面を見つめながらひたすら歩んでいる者、散策するようなゆっくりとしたペースで雨の中でも楽しそうに歩む夫婦連れ、白装束に菅笠の遍路姿で自転車を漕ぐ若者...。いったい、彼らは何を思って遍路の旅に出たのか? どんな体験が、きっかけで四国へ足を向けることになったのか? 街から遠く離れた山奥で黙々と歩く遍路の姿を見かけたりすると、人生の悲哀と同時に、それをなんとか克服しようというちっぽけな人間存在の健気さを感じます。それが人間そのものであり、自分そのものであるのでしょう。

 九州は、自然も人も「濃く」、「おおらか」です。暗いダートロードをヘッドライトの光だけを頼りに辿っていると、叢から野ウサギやテンが勢いよく飛び出してきて、目の前をずっと駆けて行きます。鬱蒼とした暗い森でも、生き物の気配がたくさん感じられる。そして、森自体の生命力もとても強く感じられる。その「濃い」生命の息吹を吸い込むと、自分の中にも生きる力が漲ってくる。自然もそこに暮らす人も元気がいいことのわけが、たちどころにわかります。

 四国のSSでも九州のSSでも、同じように過酷な試練に晒されました。いや正確にいえば、九州のほうが過酷だった。でも、「自分で考え、自力で脱出しろ」と冷ややかに突き放すような四国では非常な苦しさを感じたのに、「がんばれ! がんばれ!」とずっと励まし続ける九州では、過ぎてみれば楽しい経験でした。どちらが良いのでも悪いのでもなく、それは、その土地と土地に育まれた人間の個性の違いなのです。

 5月5日22時15分。ついに九州最南端の佐多岬に到達しました。残念ながら本当の岬までの道はすでに夜間閉鎖となっていて、岬を間近に見る海岸がゴールでした。そこには、ただ静かに波が打ち寄せるだけでしたが、「日本の自然を堪能する」という、ぼくのアプローチの幕切れには、それが相応しいものだと思いました。

 一週間のラリー、旅。日本列島の端から端まで、とびきり深い自然を繋いで辿るにはミニマムともいえるその時間の中で、ぼくは、体験の長さではなく、深さがとても重要なのだと痛感しました。そして、日本という身体の健康のために、地球という生命が輝き続けるために、まず、自分が心身ともに健康で輝いていなければいけないと自覚しました。

*ラリーの詳しい模様は、「TOURING WAVE」の特集でレポートしています。こちらも、ぜひご覧ください。
http://www2.mapple.net/touring/tdn/
 

――― uchida

 

 

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