01/09/22

 今朝、熱にうなされながら、不思議な夢を見ました。こんもりとした小山の麓、一本の道が頂へ向かって伸びている。それは、ぼくの先祖たちが眠る墓所へ続く見慣れた道(実際にではなく、その夢の中で見慣れた道として認識している)。そして、ぼくがその道に踏み出そうとすると、傍らで声がします。それは、亡くなった祖母の声だとわかる。振り向いても姿はなく、声だけがする。「あれはね、うちの鎮守様なんだよ」。その声に導かれるように視線を向けると、墓所へ向かう道の傍らに細い道があって、その先に鳥居と社が見える。それを確認して、どうして今までその道に気がつかなかったんだろうと思う。墓所への道は、幼い頃からずっと通ってきた道で、小山の麓のこの入り口も何度も何度も訪れているのに、左に山を巻いていくようにしてある墓所への道のすぐ横に、細いけれど、きれいに手入れされたこんな道があり、その先に社があることに40歳になる今まで気がつかなかった。それがなんとも不思議で、その場に立ち尽くしている。そんな夢でした。

 そして、夢から覚めてみると、体調がだいぶ良くなっていました。

 今、テレビから、アメリカを襲った戦争犯罪の犠牲者を追悼するコンサートが流れています。広く世界に募金を募るこの番組では、よく見慣れたハリウッドスターが募金受付の電話オペレーターを務め、グラミー賞クラスの歌手たちが次々と鎮魂の歌を歌っています。今回の事件に対しての報復如何は別として、失われた命を鎮魂し、自らの命を投げ打って人を助けようとした魂たちを称えることは、とても大切だと思います。そのために、立場とか主義主張を超えて一丸となれるアメリカという国の精神の強さと素直さを感じます。

 第二次大戦中、アメリカ軍の中でもっとも多くの功績を上げ、もっとも多くの犠牲者を出した舞台があります。ヨーロッパ戦線に投入され、常に最前線にあって、孤立したテキサス大隊の救出作戦を成功させ、ダッハウの強制収容所を解放した442部隊。これは、日系二世で構成された部隊でした。真珠湾奇襲攻撃によって強制収容所送りとなった日系人の中から志願した人たちで編成された部隊です。アメリカは元々移民の国です。442部隊の日系人たちもその親は日本からの移民です。でも、彼らは、アメリカ人としての誇りを回復するために戦いました。自分たちが選んだアメリカという国から虐げられながらも、アメリカ人としての誇りを取り戻すために、国のために戦う。どうして、彼らはそこまでしてヨーロッパまで運ばれて戦ったのか。それは、アメリカという国が間違いを犯しながらも、国民にとって魅力のある国だからでしょう。

 市民を標的にした無差別爆撃、広島・長崎への核の使用、ベトナム戦争への介入...第二次大戦後も、様々な、許しがたい間違いをたくさん起こしています。でも、そういうことに、自己反省して、方向修整を図ろうとする自浄作用を持っている国でもあります。442部隊は、戦後、アメリカ軍の中でもっとも勇敢な部隊として顕彰されました。そして、収容所に入れられた日系人たちには、正式な謝罪がありました。

 インターネットというまったく新しいコミュニケーション手段を生み出したのもアメリカです。もともとは、非常時のときの軍用の分散ネットワークとして作られたアーパネットが母体となり、インターネットに発達したわけです。ユーゴの内乱のとき、WEBを通して、戦火の中から無垢の市民の生の声が伝えられ、世界中の人に戦争の悲惨さが伝えられました。今回、とても残念なのは、政府の発表でもマスコミの報道でもなく、アフガニスタンからの市民個人の生の声がまったく届いてこないということです。タリバンは、テレビやラジオを西側文明の象徴として市民から供出させ、破壊したそうです。インターネットなんて論外でしょう。まさにデジタルデバイドです。毛沢東の文革やポルポトを思い起こさせます。

――― uchida

 

 

01/09/21
転機

 この数日、体調を崩して寝込んでいました。ずっと気をつけていたのですが、足の痛みの発作に襲われて、それがどうにもがまんのならない痛さで、鎮痛剤でごまかすんだけれど、薬が切れたらもっと痛くなる。そして、体中に毒が回ったような感じで、全身から嫌な汗が噴き出す。ここまで酷くなったのは久しぶりです。元々、ある持病があって、疲れたりストレスが溜まると、身体の反応として出やすく、ふだんはそいつがひとつのバロメーターとなっていて、うまく付き合っているのですが、今回は、「ストレス溜まっているよ」という信号が出たときに、いつものように、早めに休息をとったのに、症状は好転せずにどんどん悪化してしまいました。それは、病気そのものが悪化しているわけではなくて、別の原因があるんです。

 今回のように自分の制御が効かずに、体調がどん底まで落ちてしまうときは、自分の心身や周囲に大きな変化が起こる前触れなのです...というと、霊媒だかシャーマンだかの話のように聞こえるかもしれませんが、経験的にそう言えるのです。もうおしまいかというほど状態が悪くなって、でも、一夜明けると何でもなくなっている。そのときの感覚は、まさに生まれ変わったような感じです。今回は、なかなかにしぶとく、まだ、かなり朦朧としています。だけど、それだけに、これが自分にとって大きな転機になるような気がしています。

 秋分の日に出雲を訪ねる予定なのですが...果たしてどうなるでしょうか?

――― uchida

 

 

01/09/14
戦争の正体

 ぼくには、イスラムの友達が何人もいます。今、中央アジアで暮らしている人たち、その中には大学で日本語を教えている人、日本人相手のツアーガイドをしている人、イスラム教徒ながら酒好きの気のいい地方都市の役人、昔ながらの遊牧生活を送っている人がいます。そして、タリバン政権の前のナジブラ政権時代にアフガニスタンから政治的な理由で日本に逃れてきて、そのまま住み着いた人もいます。彼らはみな、人のいい、とても陽気な人たちです。そして、イスラムの戒律を厳密に守ってはいないけれど、アラーを崇め、イスラム教徒として誇りを持っています。

 大多数のキリスト教徒が毎週日曜日に教会で礼拝するわけではないけれど、キリストと神を崇めている。普段は神も仏も意識していない日本人が、神社や仏閣に行ったら、どこか厳粛な気持ちになって手をあわせる。それとまったく同じです。人は弱いものだから、心に何かのよりどころを求めている。それがアラーであったりキリストであったり、神や仏である。それでいいのだと思います。

 ところが、自分が信奉する神がいちばんで、それを広めなければいけないと思ったときに、間違いが始まります。「自分の信じるものはいいものだ。だから、人にもこれを勧めよう」という発想が、「自分の信じるものは、みんなを幸せにするのだから、みんなもこれを信じなければいけない」という理屈にすりかわってしまう。それが原理主義です。イスラムにも原理主義はあるし、キリスト教にだってある。カルトはいうに及ばず、アメリカがこれまで示してきた覇権主義も、それから、過激な環境保護主義だって、すべて原理主義です。人はどうして、自分の考えを人に押しつけたがるのでしょう?

 人間の営みなんて、自然の力に比べれば、ほんとにちっぽけなものです。あの痛ましい事件があった日の午前、東京は台風に翻弄されていました。この自然の力こそ、すべての宗教の根源だったはずです。自然の力を畏れ、謙虚に祈りを捧げる。それが、次第に様々な理屈がつけられて、個々の宗教になっていった。

 ぼくたちは、みんな自然によって生かされいるということを実感できれば、あらゆる宗教を越えた同胞意識が持てるとぼくは思います。日本に住んでいるアフガニスタン国籍の友人と話をすると、いつも、彼の故郷の景色の素晴らしさが話題になります。「国が平和になったら、ぜったい、ぼくの故郷を案内するからね。山も湖も、素晴らしいよ。富士山によく似た山もあるんだ...」。内戦で故郷を失い、心から平和が戻ることを望んできた彼は、故郷が新たな戦争に見舞われるのを目前にして、もう何も語ろうとしません...。

 理性的に話を終わらせるとしたら、この話はここで終わりにすべきだと思います。でも、理性を超えた、一個のちっぽけな人間としての気持ちを書いておこうと思います...。

 主義主張が何であろうと、やっていいことと、やってはいけないことがあります。今回のテロは、どれだけの言葉を尽くしてもとうてい正当化できるものではありません。この行為は、絶対に許すことはできない。ぼくは、断固、この行為に対する報いが必要だと思います。それは、当然、イスラム全体に対する宣戦布告になるでしょう。たとえ、ふだんは戒律なんか無視して生きているイスラム教徒も、アラーの神の元に団結するでしょう。そして、世界戦争となれば...ぼくは今自分が生きている陣営の側として銃を取ります。大儀のためではありません。西側社会の原理主義に荷担するためでももちろんありません。人として、あの行為が断じて許せないからです。

 「自然の偉大さをみんなが感じることができれば諍いなんかなくなるだろう」などと言いながら、戦いは辞さないと思う。たとえ友人に銃を向けることになろうとも...。それがぼくという個人の限界です。それが戦争の正体なのでしょう。

9月12日早朝、台風一過の気持ちのいい青空の下、富士山はいつもと変わらぬ優美な姿を見せていました。しかし、その北麓にある自衛隊演習場からは、そんな富士山の姿を不気味な嵐の前の静けさに思わせる、いつもと違う大きな、そして切れ間のない砲撃演習の轟音が響き続けていました。...ぼくは、ふと小松左京の『見知らぬ明日』という小説を思い出していました。

――― uchida

 

 

01/09/08
シンクロニシティという
ほど大げさなものではないけれど

 先日、諏訪大社に行ったときのこと。春宮の奥にある「万治の石仏」を拝むのが、大きな目的のひとつだったのですが、出発の時間が遅かったり、途中で細々と取材したり写真を撮っていたりした上に暑さも手伝って、肝心の春宮にたどり着くまでにだいぶ消耗して、万治の石仏のことをすっかり失念していました。下社本宮、下社前宮、上社秋宮と回ってきて、春宮にたどり着いたのは17時すぎ。もうだいぶ日も傾いて、鬱蒼とした木立に囲まれた境内は、薄暗く、参拝者の影もありませんでした。まだ泊まるところも決めていなかったぼくは、早く春宮にお参りを済ませて、先を急ごうと、気も漫ろでした。

 玉砂利を踏んで、社のほうへ足早に向かっていると、横の参道から、ふいに二人連れの女性が現れ、こちらに向かって歩いてきます。ふたりは、近所の奥さんで、夕餉の買い物帰りのようです。すれ違いざま、その二人の話しが耳に入ってきました。この前の春宮の祭りのときに、万治の石仏が云々...そのキーワードで、肝心の目的を思い出しました。しかも、参考にした資料を忘れてきてしまったので、四つある社のどの社の側に石仏があるのか、現地で調べてみなければなんて考えていたことまで、その場で思い出しました。結局、二人の会話のおかげで、石仏がこの春宮の側にあることまでわかりました。すぐに、境内の隅に道しるべを見つけ、石仏に対面することができました。ぼくが危うく通り過ぎてしまうところを、石仏のほうが呼び止めてくれたような、そんな感じでした。

 それから、御岳の麓にある王滝村周辺の林道を走ってみることも目的のひとつでした。でも、どんな林道があって、どれが通れるのか、資料を当たっても皆目検討がつきません。そんなわけで、「行ってみればなんとかなるさ」といった気持ちで、旅をスタートさせた次第...面倒くさがりやのぼくは、だいたいいつも、そうやって取材や旅を見切り発車してしまうのです(~_~;)。

 御岳の麓に向かっていたその日、御岳に近づくほどに雲行きが怪しくなってきます。そのうち、ついに雨が降り出して、キャンプの予定を変更して、木曽にある宿に飛び込みました。そこで、ゆっくり夕食も済ませて、宿のリビングで、定連さんが周辺の観光情報をまとめたファイルを何気なく開いてみると、そこには、王滝村の林道が、元々は切り出した材木を運ぶための「林間鉄道」、通称「リンテツ」と呼ばれて、御岳山麓にたくさんの支線が引かれていたことが記されていました。リンテツは林業の衰退とともに廃止され、軌道がはずされて、そこは林道になった。どうして王滝村周辺にはたくさんの林道があるのか、それでひとつの疑問が氷解。

 さらに、その人はマウンテンバイクが趣味で、自分が辿った林道を地図にマーキングして、道の様子を克明に記していました。それを参考にさせてもらったのは言うまでもありません。それで、翌日は、天気も回復したので、王滝村へ。ところが、実際に林道を走り出してみると、それは予想以上に支線が分かれていて、すぐに間違った方向に向いてしまいます。いよいよ、どこにいるのかわからなくなって、GPSと地図を照らし合わせていると、真昼間だというのに、どこからか、大きな蝙蝠が飛んできました。そして、ぼくの周りをヒラヒラとおぼつかなげに旋回しています。

 ようやく現在位置がわかって、走り出すと、蝙蝠は、ぼくの少し先を、まるで先導するように飛んでいきます。数百m行くと、道は、また紛らわしい分岐に...でも、蝙蝠は躊躇なく右の道へ行きます。なんとなく、彼が意思を持ってぼくを先導しているような気がして、そのまま右へと折れました。

 その林道は、交通量もけっこうあるようで、よく踏み固められ、道幅もけっこうありました。そのうち、蝙蝠は、現れたときと同じように、ふいに横合いの林のほうに消えていってしまいました。蝙蝠と分かれてしばらくすると、道は行き止まりとなり、そこには、村営の立ち寄り温泉がありました。せっかくだからと、その温泉に浸かり、管理人のおじさんと話をすると、その人は土地の人で、昔のリンテツのことや、今の林道の様子を教えてくれました。それによると、ぼくが向かおうとしていたのは、ずいぶん前に崩落が激しくて廃道になったところで、入り込むと危険だったとのこと。それから、岐阜の加子母村のほうへ抜ける道を探していたのですが、それも、どの道も固くゲートで塞がれているので、通り抜けできないと教えてくれました。蝙蝠に導かれて、この人に会っていなければ、いったいどうなっていたことか...。

 普段の生活の中にあっては麻痺している、あるいは閉じられてしまっている何かのチャンネルが、自然の中にあると目覚め、息づきはじめるのかもしれません。

――― uchida

 

 

01/09/06
エンデュアランス

 『エンデュアランス号漂流』(アルフレッド・ランシング著 新潮文庫)を読みました。1914年、南極横断を目指したアーネスト・シャクルトン率いる総勢28人の探検隊が遭難し、1年半に渡る苦闘の果てに、見事、全員が生還する物語です。南極探検といえば、見事に極点にたどり着いたアムンゼンと、それに遅れて極点を制覇しながら遭難死してしまったスコット隊が有名です。ぼくも、アムンゼンとスコットの話はもちろん知っていましたが、シャクルトンのことは、人に、この本を紹介されるまで知りませんでした。

 エンデュアランス=耐える、耐久という名の船で旅立った28人は、まさにその船名のように、大変な困難に耐えつづけて生還します。そこが大地の上なら、なんとか自分でルートを切り開き、前に進んでいくこともできるでしょう。でも、そこは海。小さなボートで、大波や強風に晒され、ただひたすら耐えて生き延びることで、ついに生還を果たす。ぼくなどは、根っからの山ヤで、自分の足が地面についていないと落ち着かない性質ですから、小さなボートやいつ崩壊するかもわからない氷盤の上で漂流しつづけるなんて、想像しただけで発狂しそうです。

 冒頭には、こんな言葉があります。「人間に不可能なことを成し遂げさせる何ものかに感謝を捧げて」。これは原作にあった言葉を星野道夫さんが訳された言葉だそうです。星野さんは、オーロラの写真を撮るために、一ヶ月に渡る厳冬期の北極圏での単独キャンプを経験し、そのとき、過酷な自然に何度もめげそうになりながら、この本を読んで勇気づけられ、快心の作品をものにしたそうです。たしかに、この本は、逆境にめげそうになったときに、勇気づけてくれる大きな力がありそうです。

――― uchida

 

 

01/09/02
自然の力

 昨日、今年最初のツーリングマップルの取材から戻りました。今回の取材は、地図の情報収集はもちろん、個人的に「自然崇拝」をテーマに目的地を定めました。御柱祭りで有名な諏訪大社、ピラミッド伝説のある長野松代の皆神山、戸隠神社、そして御嶽山周辺の修験道の修行場です。これらの土地や神社は、いずれも、山や取り巻く自然を崇拝し祀っている場所です。いずれはこれらの土地と関係のある土地を結ぶレイラインも検証してみたいのですが、今回はとりあえず、それぞれの場所をピンポイントで訪れ、何が感じられるか、空気を味わってみようと思いました。

 諏訪大社は、諏訪湖を挟んで、北側に下社の春宮と秋宮、南側に上社の本宮と前宮があります。この四つの社を合わせて「諏訪大社」というわけです。祭神は建御名方神(たけみなかたのみこと)と八坂刀売神(やさかとめのみこと)。建御名方神は記紀神話によれば、大国主命の次男で、天照大神に遣わされた使者が国譲りを迫ったときに、ただ一人反対し、使者と力比べをして敗れ、諏訪に逃げ下ってそこに落ち着いたとされています。建御名方神と力比べをした武甕槌神(たけみかづちのみこと)は、ほぼ真東の方向にある鹿島神宮に祭られ、前に紹介したように、鹿島神宮を頂点としてペアを成す経津主神(ふつぬしのみこと)は香取神宮に、この二神と関係の深い天鳥船神(あめのとりふねのみこと)は息栖神社に祀られ、この鹿島、香取、息栖の三社は「東国三社」と呼ばれています。東国三社を結ぶ線は、直角二等辺三角形を形作っていることは、以前紹介したとおりです。

 日本の神社の不思議なところは、天照大神の天つ神の系統と、いわばその敵であった国つ神、大国主神の系統の神様があるところではうまく住み分け、あるところでは混交していることです。東国三社を巡ったときに印象的だったのは、天つ神を祀ったそれぞれの神社が、じつは、本当の御神体としているのは、巨石や太陽であり、本尊を拝むとじつはその背後にある御神体を拝む形になっているという構造でした。諏訪神社では逆に、「御柱」という山から切り出された巨木が、天に向かって、まるでアンテナのように建てられ、それが社の両側にあって、祈りが天に届けられるような格好になっています。また、春宮の裏手には「万治の石仏」という鹿島や香取の要石を連想させるような巨岩があり、これも御神体とされています。

 陰陽道の話で触れたように、「天つ神」「国つ神」といかにもわかりやすい二項対立の図式が、じつは相互に入り組み、じつはもっと大きいものを示唆しているもののような気がしています。天と地は対立するもので、天から下った神たちは、土着の神々を放逐して、自分たちが替わって君臨した。それは、誰にでもわかりやすい形です。でも、実際に神社を訪ねてみると、天の神を拝むようで、じつは大地そのものを拝まされている。逆に、大地に根付いた神を拝んでいるつもりが、じつは天に祈りが届けられている...。陰陽、東西、南北、黒白、それらは分離しているものではなくて、ペアであるからこそバランスが保たれている...そんな感じです。

 今回訪ねたどの場所でもしみじみと感じさせられたのは、自然の力への崇拝と、謙虚さです。諏訪大社の前宮は、その背後に杖突峠を背負い、峠を越えて下りてくるものを浄化しようとしている。戸隠神社の奥社は、荒々しくそして神々しい自然の力の象徴ともいえる戸隠山を背後に、戸隠山から溢れ出る力を整流するデバイスの役目を果たしているように感じられます。松代にある皆神山は、一種独特な雰囲気を持った場所です。この頂上に立ったとき、ぼくは奇妙な静けさを感じました。巨大な出力を秘めたスピーカーに電気を流し、だけど何も音楽をかけず、そのままにしているような状態。「音」としては感知できないけれど、全身を震わす力が、今にも迸り出ようとして、「場」を振動させるハウリングを起こしているような感じ...そんな場所でした。皆神山の雰囲気を表わすのに、ピラミッドパワーやUFOを持ち出したくなるのも、なんとなくわかります。ユングがUFOを集合無意識が生み出した幻影であるとしました。皆神山に秘められた力は、既存の言葉や理屈では説明できないものの、確かに何かが感じられるといった種類のものです。「ピラミッド」や「UFO」というのは、それを理解しようとして、なんとかみんなにわかるイメージで表現しようとした結果のような気がします。

 自然が秘めた力を変な理屈に変換したり、大規模な神社や仏閣といった特別な装置を設けず、第三者に理解させようとして言葉に表わしたりせず、ただ「信仰する」というプリミティヴな形であるのが、御岳の修行場です。今回は、特に修行場としてもっとも早く開かれ、たくさんの信仰者が足を運んだ黒沢口を重点的に回りました。ここには、訪れた信仰者たちの様々な思いが込められた石碑がおどろおどろしい風景を作り出し、同時に、人の思いなどまるでちっぽけに感じさせるダイナミックな自然があります。修験の場には、良い霊と悪い霊が入り乱れているなどと言われます。まさに陰陽が渾然一体となった場所です。薄暗く苔むして滑りやすい小径を登っていくと、水子の地蔵の行列や祈念が記されたおびただしい数の木札、さらには修行者が捨てた草鞋の山がある。それらが薄暗い径の先にぼんやり浮かぶ様子は、多くの人の念が作り出した妖怪のようです。そして、登りつめた先に現れる滝は、人の思いや意思などをはるかに超越して、ただ自然の循環を果てしなく繰り返しています。その滝に打たれれば、「自分」というつまらない器から魂が洗い出されて、無の境地に至れるような、そんな気がしました。今回は、滝に打たれることはしませんでしたが、次の機会には、滝に打たれて自然の一部になりたいと思います...。

・次の旅では、秋分の日に日の光が結ぶ聖地の終点、出雲まで足を伸ばそうと思っています。

諏訪大社前宮の御柱。国つ神の神社に建てられたアンテナは、天つ神と交信するために設けられたものだろうか...。 余計な理屈は考えず、ただ自然に抱かれていること。それが理解へのいちばんの早道のような気がします。

――― uchida

 

 

01/08/27
陰陽道

 今、陰陽道が若い女性を中心にブームになっているそうです。夢枕獏原作の「陰陽師」がその火付け役になったようですが、その裏には、物質文明が行き詰まって、「オルタナティヴ」を求めている現代人の心性があるような気がします。ぼくは、若い頃から山を通して目に見える自然の向こう側に広がるもっと広大なスーパーネイチャーのほうに関心を持ってきました。登山での経験から人間の秘められた能力やスーパーネイチャーが人間にもたらすメッセージや自然との共感に興味を持ち、さらに自然と関わる中から超常的な力と境地を得る修験道に興味を持ちました。

 九州に求菩提山というところがあります。ここは修験のメッカでもあり、七日間一人きりで山に篭り、飲まず食わずで経を唱える荒行があります。ぼくが末席を汚している山岳修験学会は、この求菩提山の修験場から起こったものです。ぼくはまだこの荒行は体験していません。その経験者によれば、四日目くらいから魑魅魍魎が現れはじめ、様々な手を使って、修行者を篭絡しようするといいます。その甘言に騙され、あるいは恐怖に負けた修行者は、その場で発狂して、二度とまともな精神に戻れないそうです。

 求菩提山を始め、日本各地には修験場がたくさんあります。そんな場所は、一種独特な雰囲気を持っています。西洋的な善悪二元論からすれば、聖なる場と邪悪な場は峻別されますが、日本の修験場の多くは、陰陽両方の雰囲気を持っています。それは、もともと、土地に秘められた強い力に引かれて修験者たちが集まり、今度は、その修験者たちの霊力を頼って、浮かばれない霊たちが集まってくるからだなどといわれます。やれ幽霊だ、やれ悪霊だといった物見遊山的な見方を修験者たちはしません。修験者にとって、一般で言われる「霊」というのは、大地に秘められた自然のオルタナティヴな力とどう接するかの違いによるもので、その方法を誤れば、自分が崩壊し、うまくコンタクトできれば、それは至高体験をもたらしてくれる、そういったものです。

 「陰陽道」は、陰だけに目を向けるのではない、もちろん陽だけに目を向けるのでもない、この世には日の光と太陽の光があるように、表と裏、ポジティヴなものとネガティヴなものを同時に受け入れる柔軟さを持つことのように思います。修験の修行では、どんなにタフな修行者でも、必ず魑魅魍魎に取り囲まれ、そこから逃れたいと気も狂わんばかりに思いつめることがあります。そこで、恐怖に負け、声を張り上げたら、そこでしまい。そこで、もう一息踏ん張り、魑魅魍魎も自然の一部として受け入れることができれば、それは霧となって消えていきます。

 色即是空空即是色、すべては自分のイメージが生み出すものです。夢枕獏の「陰陽師」の中で、安倍晴明は、何度も、「呪」という言葉を吐きます。すべては、人が何かをイメージすることが発端となって何かが生み出される。イメージする力が自然のオルタナティヴな部分に作用して具象化し、それが人にも伝わる。イメージがポジティヴなものであれば、それは人を感動させる芸術となり、ネガティヴなものであれば「呪」となる。

 陰陽道でも修験道でも、あるいは密教や神道でも、そのネガティヴなものを祓ったり、浄化する技法を持っています。先日、テレビを見ていたら、一人の若い陰陽師が祓いの儀式をしていました。テレビですから、ドラマチックな展開になるような演出が凝らされていたので、因果についての説明は眉唾ものでしたが、終盤で、その陰陽師が唱えた祝詞には、とても感動させるものがありました。それは、いざなぎ流呪術などに伝わる「大祓えの祝詞」と呼ばれるものでした。その中身は、「ここにいて害成す霊よ、どうかその憤る気持ちを捨ててください。あなたの辛い、悲しい、悔しい気持ちは、ここにおわします神々が、川に流し、それが海に届き、海におわします海神(わだつみ)が、深い深いうみの底にまで運び、深い深い、広い広い海の底に流してくださいます。すると、あなたの辛い、悲しい、悔しい思いは、深い深い、広い広いうみの底に散ってゆき、それを海神の眷属が食べて、跡形もなく消し去ってくれます...」といった内容でした。悪霊と対して、それを調伏するのではなく、時間と誠意を尽くして納得してもらい、そのオルタナティヴを生み出した思いを解消していく。その作法は、本物を感じさせました。

 陰陽道では、「返り(かやり)の風が吹く」という言葉があります。例えば、誰かを呪ったとして、その呪いが返されると、それは倍の力となって返ってくるということです。「人を呪わばなんとやら」ですね。

 でもね、ぼくは思うんです。そんな諸々のことを含めて、すべては「自然」なのだと。

 最近、鎌田東二編「神道入門」(角川選書)を読みました。神道というと、皇国史観の国家神道とすぐ結びつけて考えがちですが、この本は、そんな色眼鏡をはずして神道の本質を教えてくれます。それは、「万物に神が宿る。すべての物は大事に扱わなければならない」という、日本人の心性であるアニミズムそのものです。八百万の神とは、人間のイマジネーションのバリエーションそのものなのです。

――― uchida

 

 

01/08/25
夏の風物詩

 今回の台風11号は、不思議な台風でした。まず、その進路が、本州の太平洋岸に沿って、まったく正確に地図をトレースするように舐めて行ったこと。そして、自転車ツーリング並みのもったりとした速度。今まで、こんな動きをする台風はほとんどありませんでした。紀伊半島や東海では年間降雨量にも相当するような雨を降らせたものの、関東では、「久しぶりの本格的な雨」といった程度でした。

 子供の頃、台風が来るというと、とてもそわそわしたものでした。昔の木造家屋は、建てつけもあまりしっかりしていなくて、隙間風もけっこうあったりして、台風の接近にあわせて、雨戸に板を打ちつけて飛ばないようにしたり、水を汲み置きしたり、何本もろうそくを用意して停電に備えたりしました。夏休みも終盤になって、宿題が終わっていないあせりもさることながら、急に楽しかった夏が思い出になっていく寂しさがつのってきたところで、台風がやってくると、これが夏休みの最後の祭りのような気がして、新学期を向かえる踏ん切りがついたものです。

 昔のような家屋はなくなり、少なくとも関東では、台風に備えることはしなくなりました。それだけでも、夏の終わりの風物詩としての台風の影が薄くなった気がしますが、それ以上に、台風そのものの「台風らしさ」のようなものも変わってしまった気がします。もっとも、これが大きな気候変動の前触れだとしたら、「風物詩」だなんて悠長なことも言っていられなくなります。

 その台風と飛び込みの仕事で一週間伸びてしまいましたが、来週は「ツーリングマップル中部・北陸」の取材に出掛けます。この夏は、けっこうフィールドで楽しく遊びましたが、このツーリングは、その仕上げのようなものですね。いったん戻ってから、来月中にもう一度取材に出て、そのときは、ついでに関西のレイラインのいくつかを訪ねようと思っています。

――― uchida

 

 

01/08/21
偽りの快晴

 台風11号がもうすぐ紀伊半島に上陸しそうです(21日12時30分現在)。この夏は関東から西では異常な猛暑、東北、北海道は冷夏に加えて天候不順と、地球の生理が狂ってきたことを実感させる天気続きでした。さらに、今度は巨大台風の本土直撃です。じつは、今週はツーリングマップルの実走取材を予定していたのですが、この台風に阻まれて、延期することにしました。

 この数年の日本の気象は、いままでのセオリーが通じなくなっています。たとえば、春先に夏のような陽気になったり、本州では明確な梅雨が見られなくなった代わりに北海道で夏の長雨が続いたり...、かつて、「梅雨明け10日」といって、梅雨が明けてから10日間くらい天候が安定して、雷などもなく、安心して登山ができる期間でしたが、梅雨がはっきりしないので、それも判断できなくなってしまいました。

 さらに、今回の台風は、速度が非常にゆっくりしていて、進路の予測もつけにくく、今までの台風とは違った不気味さがあります。昨日は、とくに注意して観天望気してみましたが、最初に絹層雲が現れて、台風の端がかかったことが予測つきましたが、その後、雲高が下がってきて、そのまま悪天候になるかと思いきや、夜には、逆に晴れ上がって、星が見えていました。この一時的な天候回復は、「偽りの快晴」と言われるものです。今、東京にいて、気象衛星の画像や天気図が見られて、昨夜の晴れ間が「偽りの快晴」であることはすぐにわかりますが、これが、山の中にいて、気象通報も聞いていないような状況だとしたら、騙される可能性はとても高くなります。

 小型の台風だと、スピードも速く、天気変化がめまぐるしいので、おのずと警戒する心理が働きます。ところが今回のように大型でしかも動きの遅い台風の場合、中心から離れたところでは、天気変化が比較的ゆっくりしていて、「偽りの快晴」も、長く続くので、天気が回復する兆しと判断してしまいがちです。晴れ間が何時間か続き、「これなら大丈夫」と判断して先へ進む。徐々に雲が厚くなってきても、荒れ模様にはならないだろうと楽観する。...ところが、いったん荒れ始めると、その荒れ方が半端ではなく、しかも長く続くのが大型台風の特徴です。人間でも、短気で喧嘩早い人は機嫌を直すのも早いけれど、おっとりした人が本気で怒り出すと手がつけられず、しかも機嫌を直すのに時間がかかるものですが、似たようなところがあります。

 11号は、大陸と太平洋の高気圧に挟まれて、その回廊を進みそうです。ちょうど日本の太平洋岸に沿って北上する進路。こんな進路をとる台風は、今まで、ほとんどなかったと思います。完全に上陸してしまえば、急速に勢力が弱まるものですが、この進路でいくと、太平洋から蒸気を吸い上げて勢力を維持したままになりそうです。

 ついに、穏やかな地球が、本気で怒りはじめた。そんな気がします。
20日12時。刷毛でなぞったような雲「絹層雲」が現れ、天候が崩れる兆候がはっきり読み取れます 20日16時。雲高が下がり、「高積雲」に。この後、全天が雲に覆われましたが、夜には一時雲がなくなり星が見えました。だけど、それは台風などに特有の「偽りの快晴」です
21日10時。全天、厚い雲に覆われ、雨も降り出しました。ただし、台風の進み方が遅いため、まだ荒れ模様というほどではありません

――― uchida

 

 

01/08/14
戦争はまだ終わっていない

 昨日、小泉首相が靖国神社に参拝しました。そのことについて、賛否両論巻き起こっていますね。ぼくは、大学が靖国神社の側だったこともあって、よく気分転換に静かな杜を散策に行き、参拝も何度もしました。個人的には、戦争の犠牲になった人たちの魂を心から弔いたいと思います。そして、A級戦犯もたしかに指導者責任は重大なものがありますが、時代の大きなうねりの中で翻弄された個人としては、これもまた犠牲者の一人であったと思っています。責任は責任として、後世に生きるぼくたちが、常にそれを意識して同じ間違いを繰り返さないように肝に銘じ、魂は弔う。ただし、それは私人として、そうする場合だけに許されると思います。公人としての首相が、デモンストレーションとして参拝することには、賛同できません。明日は敗戦記念日です。日本がポツダム宣言を受け入れて全面降伏することになった背景には、広島と長崎の尊い命の犠牲がありました。戦争責任を問うとすれば、「核」という恐ろしい兵器を一般市民に対して用いた、もう一方の当事者たちの責任も忘れてはいけないはずです。

 その核について、何故か、被爆当事国であるぼくたちの国は、きわめて無頓着であるような気がしてなりません。一昨年の9月30日、茨城県東海村の核施設JCOで起こった「臨界事故」も、喉もと過ぎればなんとやらで、すでに風化されつつあります。でも、一歩地元に足を運べば、そこにはとても恐ろしい現実があります。下の写真を見てください。いちばん左は、東海村から10km圏内にある旭村立旭東小学校です。その校門の横にとても目立つ大きな看板が掲げられています。二番目の写真はその看板のアップです。そこには、避難場所という大きな字の下に「原子力災害時の屋内避難所」という文字が書かれています。

 臨界事故当時、そのような事態に対処したことのない行政当局や学校関係者は、授業を切り上げ、子供たちを自宅に帰しました。しかし、後で、そのことが問題となりました。すでに事故が起こった後では、放射線が飛び交う表に子供たちを送り出す結果となり、「自宅避難」と言っても木造建築が大多数の民家では、放射線はたやすく貫通してしまい、かえって被曝の危険を増大させることになったからです。その経験を踏まえ(ある意味、何も知らない子供たちは実験台にされたようなものです)、まだしも鉄筋コンクリート作りで放射線に対する遮蔽性が高い校舎に子供たちをとどめ、周辺住民の避難所として告知することになったわけです。

 じつは、この旭東小学校は、核燃料サイクル開発機構の大洗研究所に隣接した場所にあります。ここにある高速増殖炉「常陽」は、ウランを燃やして新たな燃料であるプルトニウムを生産する実証炉として開発されたものです。すでにウラン燃料がだぶついている上に、そのまま核兵器にも転用可能で、しかも強い放射線を出すために取り扱いが非常に難しいプルトニウムを生産することの矛盾を指摘されてもいる問題の多い原子炉です。そして、この「常陽」こそ、あの臨界事故が起こった発端だったのです。常陽で用いるための高濃縮ウランを製造する過程で、臨界事故が起こったのです。

 三番目の写真は、防災無線のアンテナとスピーカー塔です。これも、東海村を中心とした地域に何本も建てられています。そのうちの42基には、環境放射線を測るモニタリング装置が備えられ、電話回線を通じて、県の公害技術センターにデータが送られています。もちろん、旭東小学校にも、モニタリング装置が備えられています。

 1999年9月30日、この学校の近くを通る国道51号線は、まさにその付近で封鎖されました。そんなことは、戦時中ですらなかったそうです。まるで戒厳令が下ったような異常事態に、地元の人たちは、自分たちが押しつけられているものの正体を見ました。誰も予想しなかったあの臨界事故に世界中が驚愕したように、防災無線塔から警報が鳴り響く日が来るとしたら...。「核」という脅威が目前にあるかぎり、あの戦争は終わらないのではないでしょうか?

 

――― uchida

 

 

01/08/09
ゲーム業界

 ぼくがSEGAで新しいタイプのRPGの企画の仕事に関わっていたのは、今から5年前から2年前までの3年間でした。その間、サターンからドリームキャストにプラットフォームが変わり、開発中だったゲームの仕様も大幅に変わることになりました。そして、ぼくがプロジェクトから離れて、SEGAはSONYとのコンシューマーゲーム機の競争に敗れ、ソフトウェアメーカーとして再スタートを切ることになりました。一時は空前の好景気で、リリースされるゲームは飛ぶように売れ、サードパーティが乱立していたゲーム業界も、キラーコンテンツと呼ばれるようなタイトルも売れなくなり、新たなITのブロードバンドの波に飲み込まれようとしています。SEGAは経営陣が次々に変わり、様々な部門が分社化して、身軽な体制に脱皮しようとしています。

 ぼくがゲーム開発に関係するようになったのは、SEGAのプロジェクトリーダーが昔からの知り合いだったことと、ぼく自身がゲームプログラムで使われる最新のコンピュータテクノロジーに関心があって、たまたまプロジェクトのテーマが馴染みのある中国の伝統文化だったためでした。当時、プロパーなゲームユーザーだけを相手にしていては頭打ちになっていた市場をなんとか広めようとして、より一般に受け入れられるタイトルを開発したいと望んでいたSEGAは、積極的にゲーム業界以外のクリエイターをプロジェクトに参加させていました。そこで、ちょうどコンピュータサイエンスの最前線が知りたかったぼくの利害とSEGAの利害が一致したというわけです。このとき勉強させてもらった成果は、「チキサニ」としてまとまりました。

 ぼくが関わったタイトルは、いまだに制作が続いていて、節目となる「パート2」が来月上旬にリリースされる予定です。その完成祝いのパーティに顔を出して、かつての仲間と会ってきました。たかだか5年の間に、初めの仲間のほとんどはプロジェクトから離れ、今は、ぜんぜん別のところで仕事をしています。連日徹夜続きの凝縮された時間の中での3年間は、IT社会がドックイヤーと形容されるそのままに、実際の10倍くらいの密度を持っていました。その仲間たちとの再会はとても懐かしかったのですが、どこか、宴の後の寂しさを感じました。

 今では、インターネットがまさに通信インフラの中心にあって、ぼくもこのようにメッセージを流しているわけですが、つい5年前には、一部のマニアのツールにしか過ぎませんでした。そして、当時隆盛を極めていたコンシューマー市場は、ブロードバンドの波に飲み込まれようとしています。SEGAを打ち負かしたSONYも、来年にはコンシューマーゲーム機市場そのものが消滅して、儚い勝利の美酒の夢を見ることになるのかもしれません。

 流行に敏感なゲームユーザーの中には、ネットワークゲームにはまり、会社にも出なくなって、バーチャル世界に完全に引きこもる人たちが出てきているそうです。ゲームディスクの中だけで完結しているコンシューマーゲーム機の世界では、どんなに長大なタイトルでもせいぜい1週間もかければエンディングを迎えることができました。ところが、インターネットを通したネットワークゲームは、世界中の対戦相手とつながり、原理的にエンドレスな世界です。そこから抜け出せなくなってしまったら...。それは、ゲームだけに限ったことではありません。現に、ぼくもライターとしての仕事を、気づかないうちにインターネットによる検索と情報収集に頼り、編集者とのやりとりもネットワークで済ませ、場合によっては、それだけで完結してしまうようなこともあります。そんな仕事を終えた後、無性にフィールドに出たり、実際に体を運んで取材したくなります...その感覚が残っているうちは、まだまともと言えるのではないかと思うのですが...。

――― uchida

 

 

01/07/30
試乗やら頭痛やら

 この半月の間、週末は試乗会にキャンプに、ウィークディがデスクワークがみっちりで、このコラムの更新もままなりませんでした。先々週の週末は、会津で「TOURING WAVE」のユーザーミーティングがあり、スタッフの一人として参加すると同時に、その行き帰りと現地で、トライアンフのニューマシンを試乗しました。普段、MGFというイギリス車に乗って、雨漏りしたり、パワーウィンドウーのストッパーが外れたり、車高が季節によって上下したりという「オチャメ」ぶりに慣れている身にとっては、同じイギリスの二輪がどんな調子か、とても興味があったわけです。すると、ミッションインポシブル2で登場した二つ目の「SPEED TRIPLE」は、三気筒の独特のパワーフィールが新鮮ながら、前のめりのポジションにハンドルはアップライトで、なにやら盆踊りスタイル、四気筒の「TT600」は、低速トルクがほとんどなくて1万回転以上ブン回していないとまともに加速しないながら、パワーゾーンに入っていればもうロケットに乗っている気分。そして、並列二気筒の「ボンネビル」は、トライアンフを象徴するマシンだけに、塗装やエンブレムも気合が入っています。走りのほうは、雰囲気重視ということで、エンジンの熱気でニーグリップし難いのがご愛嬌。SPEED TRIPLEが、東京に戻ってから新車なのにクラッチワイヤーが切れたり、ボンネビルが長時間の高速走行の後、都内を走ると、アクセルを戻す度に勇ましいバックファイアを轟かせるといった按配で、やはり「オチャメ」なイギリス車の例に漏れませんでした。だけど、不思議なもので、欠点も含めて、それなりのテイストとして許せてしまうんですよね。

 先週までの猛暑では、都内でセミの声がほとんど聞こえませんでした。会津に行ったときに、夏らしいセミの声に包まれ、東京に戻ってから、音の少ない夏に、異様なものを感じました。セミの声が少ないのには原因があったことを後で知りました。それは、セミの幼虫が最後の脱皮をするために、早朝、木の上に上り、そこで朝露を浴びて柔らかくなった殻を破って出てくるはずが、早朝から照りつける太陽のせいで、朝露が降りず、殻から抜け出せないままに死んでしまうためだったそうです。殻から抜け出せずにそのまま路上に転がったセミの幼虫の死骸がそこらじゅうにある光景というのは、生態系の深刻な破壊そのものですね。しかし、ここ数日、涼しい日が続いたせいか、ようやく夏らしいセミの声が響きだしました。普段なら、暑さを掻き立てるその声は鬱陶しいはずなのに、何かホッとした気分です。

 一昨日、用事があって田舎へ行ったので、またボディボードに挑戦しようと海へ繰り出しました。でも、沖を通過した台風6号の余波で、うねりがひどくとても海へ入れる状況ではありません。そこで、プールに行ったまでは良かったのですが、日頃スイミングクラブで鍛えている姪っ子に張り合おうとしたのが馬鹿でした。必死で泳いで、プールサイドに着いたとたん、激しい頭痛に襲われました。それは、脳溢血を起こしたかと思うほどで、後はもう泳ぐ気力もなく、プールサイド。その翌日も激しい頭痛が続き、今日、ようやくまともに動けるようになりました。さすがに、子供と張り合う歳ではないと自覚しました(~_~;)

 そういえば、昨日は国政選挙でしたが、ぼくは棄権しました。国政を任せるに足る人物も政党もなく、といって、差し当たって小泉内閣が何かやりそうだからとりあえず入れてみるかといった投げやりな気持ちで建前ばかり勇ましい輩に荷担する気持ちにもなれず、積極的な棄権とでもいいましょうか...。けして、政治に関心がないわけではなくて、最近の選挙は、真剣に考えれば考えるほど、投票できなくなってしまうんですよね。そんなとき、いつも思うのですが、積極的棄権という投票をして、それが例えば30%を超えたら、そのときの候補者すべては不信任として、次なる候補者を立てるような選挙ってできないでしょうか...でも、それができたら、今度は、いつまでたっても選挙が終わらなくなってしまうでしょうけどね。

 幾人かの候補者が、こうしてネットが発達して、投票や意思表示がしやすくなったのだから、もう二院制の意味、あるいは代議制の意味が薄れてきているのではないか、そろそろ直接民主制を考えてもいいのではといっていました。ぼくもそう思います。

――― uchida

 

 

01/07/18
海水浴

・先週末、久しぶりに実家に帰り、海水浴してきました。長大な砂浜が続く茨城県の鹿島灘の一角。このコラムでも何度か紹介している子供の頃から馴染んできた海です。5月の末にふいに田舎の海の香りを東京にいながら嗅いだような気がして、それから、何故か頻繁に思い出していました。そこで、金曜から思い切って出かけたというわけです。

・土曜日の昼近く、地元のDIYショップで1980円のボディボードもどきを買い、甥っ子と姪っ子を引き連れて、さっそく浜へ。頭上に「ドン」と太平洋高気圧を感じる眩しい天気の元、さっそく飛び込みました。10歳になる姪が、「おじちゃん、子供みたい」と呆れるほど、童心に返ってはしゃぎまくりました。その晩は、立ち上がれないほど節々が痛んで、全身から脱力してしまい、「こりゃ、夏バテを加速してしまったかな」と後悔。ところが、一晩ぐっすり寝ると、嘘のように体が軽くなっていました。そして、日曜の昼間も、子供の頃に戻って、一日中海ではしゃぎました。その晩は、日焼けした背中がヒリヒリしたけれど、身体はさらに軽く、気分も爽快。この一月くらい、太もものあたりにダニに食われたような湿疹が出来て、それが広がっていたのですが、それも、嘘のようになくなってしまいました。

・子供の頃、ぼくが海に出かけるときは、祖母から空のガラス瓶を渡され、それに海水を汲んでくるように頼まれたものでした。その瓶に汲んできた海水を汗疹などにつけると、一晩ですっきり治ってしまうのです。妹がまだ赤ん坊で、汗疹に苦しんでいたときも、ぼくの汲んだ海水が特効薬になりました。人間の遠い祖先は海で生きていて、例えば血液の塩分濃度などにその名残が残っているわけですが、その体にも残る太古の故郷とのつながりを取り戻すことで、乱れた体のサイクルが戻り、心も安らいだりするのかもしれません。ずっと、田舎の海に行きたいと思っていたのは、知らず知らずのうちに、体が元に戻ろうと訴えていたのでしょう。

この日は、いつもより波が穏やかでした。しかし、岸に近いところでジェットスキーを乗り回す低脳はなんとかなりませんかね 冷えた体を温めるのは、砂に埋まるのが一番。うるさい子供は、しばらく砂を重石にして埋めておきます

――― uchida

 

 

01/07/12
マキリ

・昨日、ついに関東が梅雨明けしましたね。といっても、今年は、梅雨らしかったのは入梅してから一週間くらいの間だけでした。いよいよ水がめが心配です。ところで、ゲストブックのほうで、アイヌのマキリという刃物について話題にのぼりました。今でも羅臼の漁師さんたちは、そのシンプルながら切れ味のいい小刀を愛用しています。白木の柄に、鋼の片刃がしっかり取りつけられ、漁師さんたちは、こいつ一本でトドも解体してしまうそうです。その飾らない素朴な作りは(アイヌの装飾用のマキリは、豪華な彫り物の入った鞘や柄がつきます)、ナイフでいえば、フランスのオピネルのようなものです。ぼくは、それをずいぶん昔に羅臼を訪れた折に買って、いまだに愛用しています。

・そのマキリがなんとか手に入らないかということで、調べてみたわけです。GOOGLEを使って、いくつかキーワードを入れると、羅臼の「浜屋金物店」の電話番号が見つかりました。ここは、まさに、ぼくがマキリを買ったところ。さっそく電話すると、気の良さそうなご主人が出て、「全国どこでも郵送しますよ」と答えてくれました。刃渡りが4寸から6寸まであって、値段は2000円から2800円、送料が300円くらいとのこと。今持っているのは、刃先がほんの少しこぼれただけで、まだまだ使えるのですが、もう一本、欲しくなってしまいました(^_^;) 440cとかATS34といった錆びない堅牢なブレードを持つナイフは、メンテナンスもほとんどいらず、それはそれで使い勝手はいいし、文句はありません。その点、使いっぱなしにしておいたら半日もしないうちに錆びてしまうマキリのような鋼の刃物は、それなりに気をつかわなければいけないわけですが、鋼の切れ味というのは、まさにカミソリのように鋭くて、この感触というのは西洋のナイフにはないもので、捨てがたいのです。

・昨日は、仕事場で愛用しているオフィスチェアの座面のファブリックが擦り切れてしまったので、埼玉のほうの椅子張り職人さんに張り替えをお願いしました。マキリも手仕事で作られているものだし、椅子も、元は大量生産品ですが、まだまだしっかりしているので、職人さんに張り替えてもらえれば、この先何年も使えます。見積もりに来てくれた職人さんは、まだ若い人ですが、自分でホームページを立ち上げていて、ぼくは、そのページを見て、仕事の誠実さに引かれてお願いしたわけです。

・マキリにしろ椅子の張替えにしろ、WEBを使って、自分のニーズに合った店や職人さんにたどり着いて、すぐにコンタクトとれるというのは、画期的なことです。そういえば、ツーリング用のライディングパンツで適当なものがなくて困っていたのですが、PHENIXがネットショップで、まさにぼくのニーズに合う製品を出していて、これもネットで注文しました。現物がすぐに届いて、今は、灼熱の東京の道もわりに平気に流しています。

羅臼「浜屋金物店」のマキリ。じつにシンプルですが、切れ味は抜群です。興味のある方は、直接問い合わせてみてください。
01538-7-2228

*椅子の張替えをお願いしたのは、埼玉の三芳町にある「(有)東加工所」さんです。
http://www.azuma-kako.co.jp/

――― uchida

 

 

01/07/08
イギリス車

 今月の21、22日に昭文社「TOURING WAVE」のユーザーミーティングがあるのですが、それに参加するのはもちろん、その前後を含めて、イギリスのトライアンフというバイクを何台か試乗することになりました。

 イギリス車といえば、MGFのオーナーであることは触れましたが、作りつけがいまいちなところが味があって良かったりするわけです。バイクでもBMWなどは、さすがにドイツ車らしく、一部の隙もなくしっかり出来ています。「道具は、使う人間のストレスをミニマムにして、ただ作業そのものに集中できなければいけない」、ドイツ車のポリシーはそんな感じです。でも、イギリス車は、「一応、肝心なところはしっかり作ってあるんだから、少々の難は目をつぶればいいだけのこと」といったジョンブル的割り切りがすっきりしていて、文句を言う気もなくなってしまうんですよね...。

 トライアンフといえば、かつてはモーターサイクルを代表するブランドの一つでしたが、長い休止期間があって、つい最近復活したばかりです。そのトライアンフが、ジョンブル的プロダクツなのか、はたまた、最近のイタリア車やアメリカ車のように、ユーザーの細かいニーズにまで対応した日本車的なものになっているのか、今から試乗が楽しみです。

 ちなみに、MGFの場合、細かいところは、かなり「インチキ」な作りなのですが、ありふれた4気筒の1.8リットルエンジンでありながら軽い車体のおかげでキビキビ走りますし、ミドシップの軽快なハンドリングもいかにも「ブリティッシュライトウェイトスポーツ」という感じで最高です。さらに、ハイドラガスのサスペンションは、しっかりダンピングが効いていながら、いわゆるスポーツサスペンションのようなゴツゴツ感はなくて、例えれば、ベンツのような乗り心地です。欠点も含めて、しっかりしたアイデンティティがあるのが、またいいところなんですよね。

 そうそう、リッター12kmはコンスタントに走るというのもMGFのいいところです。高速の連続走行なら、もっと伸びて、満タンで東京から神戸くらいまで行けてしまいます...って、なんだか、インプレのようになってしまいました。

――― uchida

 

 

01/07/06
機械と共感
???

 一昨日のこと、午前中は長期インプレッションをしているKAWASAKIのGPZ900Rのマフラーを外して、オイルとオイルフィルターの交換をしました(ワンオフのスペシャルマフラー付きなので、こいつを外さないとオイルフィルターが交換できないのです)。炎天下、汗だくになりながら、手入れをしてやると、その甲斐あって、ギクシャクしていたギアがじつにスムーズになりました(それにしても2000kmほどしかオイルがもたないのは、あまり経済的ではありません)。

 前にも書きましたが、フルチューンのこのバイクは、運転にもそれなりに気を使うし、夜中には、排気音がうるさいので大通りまで押して行かなければならないなど、いろいろ手がかかります。

 だけど、しっかりメンテナンスしてやると、その分、しっかり官能的に答えてくれるので、ついつい、手をかけてしまうわけです。四輪のMGFのほうも、雨はザバザバ漏るし、カビは生えるし、あちこち動かしてはいけない部分があるし(サイドミラーの調整レバーやサンバイザーを動かすと、たちまち脱落してしまうのです...これは、新車のときからで、文字通り「アクセサリー」なわけです(>_<))と、これまた手がかかるのですが、こいつも偏屈なところがある分、人車一体となったときの気分が良くて、愛着があるんですよね。

 さて、その午後のこと。バイクばかり手をかけていることにまるで嫉妬したかのように、普段、あまり手をかけてやっていないPCの調子が悪くなりました。そのうち、モニターの映像がブレだし、ADSLのルーターまでが連鎖反応を起こしてPPPが確立できなくなる始末...。いずれも、原因が皆目検討がつかないのです。

 昨日はルナティックなんて話をしましたが、人間様だけでなく、機械までがルナティックになるのでしょうか? そんな具合で、「やっぱり、バイクにばかり手をかけていたので嫉妬したのかな」とも、けっこう真面目に考え始めた矢先、今度は自分のほうが、頭痛がしてきました。

 体調や気分が落ち込んでいるときに、周囲にある機械の調子が悪くなることがよくあるんですが、今回は、機械の調子に体調が左右されるといった塩梅。最近、人とあまり付き合わずに、機械とばかりディープに付き合っているので、互いの共感が深くなっているのかもしれませんね...。

 そんなこんなが一昨日昨日とあって、今日になって体調が回復したら、PCのほうもルータのほうも、何事もなかったかのように動いています。身体も機械も元気なのがいいです、ほんと。

 そういえば、レイラインの取材のために、いろいろ資料を読んでいるうちに、最近、カバラやら易経やらニューサイエンスのほうで道草食って、モノとの共感やらイメージしたことが現実になるといった「魔術的思考」に、妙に興味の焦点が合ってしまっていたのですが、そんなことも関係しているのかもしれませんね。

 ところで、また話がぜんぜん違うのですが、6/29のコラムで書いたぼくの田舎の海でロケをしているライフセーバーのドラマというのは、「早乙女タイフーン」でした。テレビ朝日系列で明日スタート、土曜23時放送の連続ドラマだそうです。来週にでも、海水浴に行こうと思っているのですが、ロケに出くわすかな?

――― uchida

 

 

01/07/05
ルナティック 

 昨日、毎週木曜に「TOURING WAVE」で掲載しているコラムを書き終えて、深夜の道にバイクで走り出すと、あちこちで事故やら車の故障に出くわしました。そのコラムでは、前日に見た月がきれいだったというところから、「ルナティック」について書いたのですが、なんだか、それを証明したような感じでした。ルナ=月、ルナティックとは「月狂い」といったような意味です。狼男が満月の晩に変身するように、月が人を惑わすことを指します。実際、満月の前後には交通事故や犯罪の発生率が高くなり、警察や消防では警戒を強くするとか。

 怪しく赫く輝く月を見上げて、思わず引き込まれそうにうっとりしてしまった前の晩のことを思い出し、「ルナティック」について書いたその晩に、実際に多数の事故に出くわす...人を含めて、自然のリズムというのは不思議ですよね。女性なら、身体が月と同じ周期で変動するから、そんなことは当たり前なのかもしれません。男は、自然から疎外されている(あるいは、わざと自分を自然から疎外している)ために、ときとして、押さえつけられていた自然の本能が目覚めて、野生化してしまうのでしょうか。

 昨年の今ごろは、月明かりだけで撮影された「地球月光浴」という写真展を観に行って、日の光には浮かび上がらず、月の光によってだけ浮かび上がる「モノ」の神秘な表情に感動したものでした。そういえば、幼い頃、満月の光に浮かび上がる風景が好きで、一人で夜の散歩に出てしまったことがありました。...もしかしたら、あれ以来、ぼくはルナティックなのかもしれません。

 ところで、話がぜんぜん違うのですが、奇妙な縁について。

 今日の夕方、ぼくが本屋へ行っている間に、仕事場に電話がありました。相手は20年来の親友です。ぼくがいなかったので、一緒に机を並べているK氏が出ました。一応、面識があるので、近況を話したところ、ぼくの友人は、これから明日の講義のために熊谷にある大学の宿舎に行く所とのこと。それは、実はK氏の母校で、最近、10数年ぶりに同級生と一緒に訪問してきたばかりでした。ぼくの友人は、今年から、そこで教えはじめたというわけです(彼は宗教学者)。それだけなら、単に偶然なんですが、じつは、K氏の父親が哲学の教授で相模原のほうにある女子大で教えていたのですが、じつは、そこでもぼくの友人が教えているのです。ぼくが事務所をシェアしている相棒の母校と、その父親が教えていた女子大で、はからずも、ぼくの親友が教鞭を取っている...掘り下げると、また、いろいろ出てきそうです。そういえば、相棒の奥さんはぼくと郷里が同じなんだよなぁ...。縁は不思議です。

――― uchida

 

 

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