01/08/27
陰陽道
今、陰陽道が若い女性を中心にブームになっているそうです。夢枕獏原作の「陰陽師」がその火付け役になったようですが、その裏には、物質文明が行き詰まって、「オルタナティヴ」を求めている現代人の心性があるような気がします。ぼくは、若い頃から山を通して目に見える自然の向こう側に広がるもっと広大なスーパーネイチャーのほうに関心を持ってきました。登山での経験から人間の秘められた能力やスーパーネイチャーが人間にもたらすメッセージや自然との共感に興味を持ち、さらに自然と関わる中から超常的な力と境地を得る修験道に興味を持ちました。
九州に求菩提山というところがあります。ここは修験のメッカでもあり、七日間一人きりで山に篭り、飲まず食わずで経を唱える荒行があります。ぼくが末席を汚している山岳修験学会は、この求菩提山の修験場から起こったものです。ぼくはまだこの荒行は体験していません。その経験者によれば、四日目くらいから魑魅魍魎が現れはじめ、様々な手を使って、修行者を篭絡しようするといいます。その甘言に騙され、あるいは恐怖に負けた修行者は、その場で発狂して、二度とまともな精神に戻れないそうです。
求菩提山を始め、日本各地には修験場がたくさんあります。そんな場所は、一種独特な雰囲気を持っています。西洋的な善悪二元論からすれば、聖なる場と邪悪な場は峻別されますが、日本の修験場の多くは、陰陽両方の雰囲気を持っています。それは、もともと、土地に秘められた強い力に引かれて修験者たちが集まり、今度は、その修験者たちの霊力を頼って、浮かばれない霊たちが集まってくるからだなどといわれます。やれ幽霊だ、やれ悪霊だといった物見遊山的な見方を修験者たちはしません。修験者にとって、一般で言われる「霊」というのは、大地に秘められた自然のオルタナティヴな力とどう接するかの違いによるもので、その方法を誤れば、自分が崩壊し、うまくコンタクトできれば、それは至高体験をもたらしてくれる、そういったものです。
「陰陽道」は、陰だけに目を向けるのではない、もちろん陽だけに目を向けるのでもない、この世には日の光と太陽の光があるように、表と裏、ポジティヴなものとネガティヴなものを同時に受け入れる柔軟さを持つことのように思います。修験の修行では、どんなにタフな修行者でも、必ず魑魅魍魎に取り囲まれ、そこから逃れたいと気も狂わんばかりに思いつめることがあります。そこで、恐怖に負け、声を張り上げたら、そこでしまい。そこで、もう一息踏ん張り、魑魅魍魎も自然の一部として受け入れることができれば、それは霧となって消えていきます。
色即是空空即是色、すべては自分のイメージが生み出すものです。夢枕獏の「陰陽師」の中で、安倍晴明は、何度も、「呪」という言葉を吐きます。すべては、人が何かをイメージすることが発端となって何かが生み出される。イメージする力が自然のオルタナティヴな部分に作用して具象化し、それが人にも伝わる。イメージがポジティヴなものであれば、それは人を感動させる芸術となり、ネガティヴなものであれば「呪」となる。
陰陽道でも修験道でも、あるいは密教や神道でも、そのネガティヴなものを祓ったり、浄化する技法を持っています。先日、テレビを見ていたら、一人の若い陰陽師が祓いの儀式をしていました。テレビですから、ドラマチックな展開になるような演出が凝らされていたので、因果についての説明は眉唾ものでしたが、終盤で、その陰陽師が唱えた祝詞には、とても感動させるものがありました。それは、いざなぎ流呪術などに伝わる「大祓えの祝詞」と呼ばれるものでした。その中身は、「ここにいて害成す霊よ、どうかその憤る気持ちを捨ててください。あなたの辛い、悲しい、悔しい気持ちは、ここにおわします神々が、川に流し、それが海に届き、海におわします海神(わだつみ)が、深い深いうみの底にまで運び、深い深い、広い広い海の底に流してくださいます。すると、あなたの辛い、悲しい、悔しい思いは、深い深い、広い広いうみの底に散ってゆき、それを海神の眷属が食べて、跡形もなく消し去ってくれます...」といった内容でした。悪霊と対して、それを調伏するのではなく、時間と誠意を尽くして納得してもらい、そのオルタナティヴを生み出した思いを解消していく。その作法は、本物を感じさせました。
陰陽道では、「返り(かやり)の風が吹く」という言葉があります。例えば、誰かを呪ったとして、その呪いが返されると、それは倍の力となって返ってくるということです。「人を呪わばなんとやら」ですね。
でもね、ぼくは思うんです。そんな諸々のことを含めて、すべては「自然」なのだと。
最近、鎌田東二編「神道入門」(角川選書)を読みました。神道というと、皇国史観の国家神道とすぐ結びつけて考えがちですが、この本は、そんな色眼鏡をはずして神道の本質を教えてくれます。それは、「万物に神が宿る。すべての物は大事に扱わなければならない」という、日本人の心性であるアニミズムそのものです。八百万の神とは、人間のイマジネーションのバリエーションそのものなのです。
――― uchida
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