05/06/13
阿武隈

  昨日は早朝に東京を出発して阿武隈の山々をオートバイで巡った。 茨城県の北部から福島にかけて標高1000mにも満たない小山が連なる山地。高さはない代わりに途方もない広がりがあって、小高いピークに登って見渡すと、低木と草原を載せた緩やかなカーブの山並みが見渡す限り続いている。

 高山のピークを目指すのもいいけれど、こうした広がりのある山域を気ままに辿るのも気分がいい。何より阿武隈の山々と向き合うと心の底から落ち着く。ぼくが高校時代に始めて登山を体験したのは、この阿武隈の一角だから、故郷に帰ったようで安心するということもある。でも、それ以上に、日本の「山」を象徴する風景や雰囲気がこの阿武隈にあるからだろう。日本人として血に刻まれた記憶が、阿武隈の山に接することで呼び起こされ、郷愁を掻き立てるのだろう。

 じつは、同じようにそこはかとない郷愁を感じさせる山並みが各地にある。東北なら北上山地、信州の後立山連峰に対峙する東山の連山、あるいは高山から郡上八幡へ抜ける間の優しく明るい山並み、四国や中国のカルスト台地、熊野の果無山脈、そして九州の九重……。

 北アルプスや八ヶ岳といった高山がピークを征服することを目的としたスポーツの対象であったり、山岳信仰の対象として同じくピークを目指す修行の場であったりして、天にそそり立つ「一点」にすべてが集約されるのに対して、阿武隈のような場所は目的など持たずにただ心を開きに訪れるのが似合う。そして、阿武隈のような広がりを持った山地では、神聖が集約する高山に対して、それが拡散して偏在する場所ともいえる。

 何にしろ、集約されて何かの密度が高まった場所は緊張感があり、そこに居るあるいは向かう人間のテンションは高まる。平地になると密度は薄まりすぎて、緊張感がなくなってしまう。阿武隈のような場所はちょうどその中間にあって、緊張と弛緩がちょうどいいバランスにある。

 今回はこの阿武隈の山の中に点在する7ヵ所のポイントを巡るのが目的だった。巨石遺構に関係のあるその7ヵ所を結ぶと、大地に大きな北斗七星が描き出される。それぞれの場所が実際にどんなところで、そこに何があるのか確かめることが目的だった。でも、抜けるような青空と間近に行過ぎる雲と追いかけっこするように草原の道を駆け抜けていくと、古代だか超古代だかの謎なんてどうでもいいことに思えてくる。北斗七星の一つ一つの星に対応する7ヵ所のポイントはそれぞれ特徴があるが、走り抜ける途中の丘の上からあたりを見渡すと、そこらじゅうに愛嬌のあるピークがあって、それぞれが何か意味を秘めて、密やかに語りかけてきているように思える。

 このあたりに太古か古代に住んでいた人たちが、大陸から渡来してきた陰陽道もしくはその原型となる思想に基づいて大地に北斗七星を描き、さらにその先にある北極星を指し示した……といった推論を確かめにやってきて、北極星に位置する面白い場所も見つけたりしたのだが、たおやかな山並みに抱かれているうちに、めっきり興奮が醒めて、どうでもいいことに思えてきた。

 阿武隈の丘の上で眺める星空は壮絶だ。目の前で眩しく輝く星星を見た古代人たちは、夜が開けて大地を見回して、そこに天に散らばる星と同じように散らばる丘を見て、ほんの少し酔狂を起こしたのだろう。一つ一つの丘をそれに対応する天の星に見立てて、頂上の岩盤を露出させて目印を刻んだ。そしてまた夜の星空を眺めて、それと自分たちが刻んだ大地の星とを見比べて悦に入っていたに違いない。

 気候が温暖で、食料も豊富なこの土地では、そんな酔狂にうつつをぬかす暇も体力もそして想像力もあっただろう。

 なんだか、山を巡るうちに、陰陽道との因果関係やら太古の思想体系やらと、理屈を考えていた自分が途方もなく愚かに思えてきた。唯一絶対神ではなく、もっとずっと低級というか穏やかで角がとれていて、人間に近い親しみやすい八百万の神々をイメージしたぼくたちの祖先は、まさにこんな自然をそのまま神話化したのだろう。

 ここには最も崇めるべき抜きん出た聖地などどこにもないけれど、一つ一つの丘がちょっぴり神聖で、そこに立ったらペコリと頭の一つも下げたくなるようなところで、だからこそその自然を大切にしたくなるような場所といえるだろう。 

―― uchida

 

 

05/06/09
アウトドア人種

  今月3日から6日まで、四国香川の「野遊び屋」にご厄介になって、「シーカヤックミーティング」に参加してきた。前回ぼくが参加したのは2001年の第一回のイベント。特集のコーナーでもそのときの模様を紹介したが、あれから4年ぶりの参加だった。

 前回は岡山県の牛窓で、地元のペンション「黒潮丸」が協力してのコラボレーションスタイルだったが、その後、主催者のG-Outfitterが「野遊び屋」として四国に拠点を築き、ここが文字通りベースとなった。全国から50人あまりのビギナーからベテランまで多彩なシーカヤッカーが終結し、天気に恵まれ、湖のように凪いだ瀬戸内海に浮かんで、のんびりと漂った。

 前回、アーバンアウトドアライフという話を書いたが、フィールドに出て風に吹かれると、「やっぱり大自然の中にいるのがいちばん」だと思う。たぶんぼくは修行が足りず、芦沢一洋さんのように都会にあっても大自然と自分が繋がっているという意識をまだ明確に持てるようにはなっていないのだろう。

 海に浮かんでぼんやりしていると、「ようやく自分の居場所に帰ってきた」という、なんともいえない安堵感に包まれる。

 その昔、2ヶ月あまりのシルクロードの旅から帰ってきて、現地で出会った少数民族運動会(中国新疆のローカルオリンピックのようなもの)の紹介記事を『スポーツ批評』という雑誌に書かせてもらった。そのときの担当編集者が日本人として初めてドーバー海峡横断を成し遂げた大貫映子さんで、初めて会った際に、大陸ボケをひきずっていたぼくが「東京の人ごみの中にいると、ペースが合わなくてほとんど廃人ですよ」とぼくが言ったら、彼女も「私もそう。自然の中にいないと自分じゃないみたいなんです」と朗らかに笑って、いっぺんで心が通い合った気がした。

 大貫さんにしろぼくにしろ、アウトドアにいてなにかしら体を動かしていないと調子が出ないという「人種」なのだろう。そういう人種にとってアウトドアスポーツは単なるアクティビティではなくて、生活の主体、体や精神の拠り所なのだ。

 シーカヤックミーティングで海に出たみんなは、海上やキャンプ地の砂浜で、みんな生き生きとしていた。それぞれに職業や立場は違うけれど、みんな自然から疎外されるとストレスがたまってしまう「アウトドア人種」なんだなとふと思った。

 今、そんなアウトドア人種のための拠点が増えている。単にサービスを提供するだけの観光業ではなく、ライフスタイルとしてのアウトドアをきっちりと体験できるプログラムを持ったアウトフィッターや宿。シーカヤックやトレッキングが未体験でも、基本技術はもちろん楽しみ方まできっちり伝授して、さりげなくサポートしてくれる。またベテランなら気の置けない「たまり場」的に、そこで仲間たちと交流できる。

 いずれも個々のアウトフィッターや宿が自分たちの持ち味を最大限に出すように工夫しているのだが、最近、全国に散らばるそうした拠点が連携するようになってきた。連携といっても業務提携とか協会を作るといった堅苦しいものではなく、それぞれのスタッフが互いのフィールドを訪ねて個性の異なる自然を満喫し、そのすばらしさを訪れたお客さんにも紹介するといった形だ。この連携の中で、どこか一つのアウトフィッターを訪れたお客さんが、また別なフィールドの魅力を感じて、そこに足を運ぶ……そんなふうにして日本全国の自然を堪能して、「アウトドア人種」として目覚めていく。そんないい感じの循環も生まれている。

 ぼくもいずれは気に入った場所に自分なりのベースを築き、そこをアウトドア人種のたまり場にしたいと思う。以前は、単に自分のライフスタイルを実現する場としてのカントリーライフをイメージしていた。自然の中に身を置いて自分だけを開放できる世界への憧れ、隠遁生活ともいえるそんなスタイルは、じつは歪なのではないか。自然と共生するためには心が頑なではだめだ。そして心を開くということは人も受け入れるということではないか。最近、アウトドア人種との交流が増えて深まるにつれて、そんなふうに思えてきた。

 ぼくなりのアウトドア人種たちが交流できるベースが実現するのはまだ先になりそうだが、今お勧めのベースを紹介しておこう。

「野遊び屋」
http://www.noasobiya.jp/noasobi.shtml
「あそぼーや」
http://www.pamco-net.com/asobo-ya/
「エイベルタズマンアドベンチャーズ」
http://www.onjix.com/ata/
「漕店」
http://www.h3.dion.ne.jp/~souten/

―― uchida

 

 

05/05/25
アーバンアウトドアライフ

  いつも京王線の列車で通り過ぎるだけの明大前界隈へ今日は自転車で出かける。

 京王線の車窓からは密集したビルと線路と並行して走る首都高4号線の高架ばかりしか目に入らないが、MTBのハンドルにマウントしたGPSを頼りに、わざと路地裏のような道ばかり選んで行くと、意外に緑が多いことに驚いた。

 井の頭通り沿いにある輸入スクーター専門のショップでMTBからプジョーのモペットに乗り換えて、さらに永福界隈まで裏通りを行くと、あちこちにこんもりとした森や林をひかえた公園や神社が目につく。そんな公園の一つに乗り入れて気の置けない古くからの仕事仲間とのんびり撮影仕事をしていると、フランス製のモペットが被写体ということもあって、ここが東京ではなくどこかヨーロッパの瀟洒な都市の一角のような気がしてくる。

 東京も鉄道の駅の周辺や幹線道路沿いばかりに目を向けていると無機質で殺伐とした風景ばかりだが、少し足を伸ばしてみれば意外に緑が多くて静かな場所がある。そんな都心の緑に目を向けて、そこを楽しむことを綴った名著がある。『アーバンアウトドアライフ』、今は亡き芦沢一洋さんの珠玉の一冊だ。

 もう20年もの昔、登山専門誌の見習い編集者としてアウトドアの世界に足を踏み込んだとき、その雑誌のアートディレクターを務めておられたのが芦沢一洋さんだった。1960年代後半に、バックパッキングというアメリカ発祥の新しいアウトドアライフのスタイルを紹介し、それまで社会人登山や学生山岳部ばかりが目立つ泥臭い日本のアウトドアシーンに清新な風を注ぎ込んだ立役者だった。

 山岳部出身者といえば、街にあってもどこか垢抜けず、無骨さがトレードマークだったりしていた頃、芦沢さんはスタイリッシュで、話し方やその内容、そして語り口も洗練された「ジェントル」という言葉がぴったりの人だった。

 環七通りにほど近い自宅に表紙の見本刷りを持って訪ねると、狭いけれどとても心地よく木々が植えられた庭を広がりがあるように見えるように設計された居間に案内されて、冷たい飲み物をいただいた。そこが大気汚染では一二を争う幹線道路の間近であることを完全に忘れさせてしまう静けさと木漏れ日に、デリカシーとは程遠い典型的な「山ヤ」だったぼくもなんともいえない安らぎを感じたものだった。その自宅も「アーバンアウトドアライフ」の中で紹介されている。

 また、他の出版社の仕事も忙しくこなされていた芦沢さんには、よく外でも原稿を届けたり引き取りに伺った。よく指定されて行ったのが、新宿の京王プラザホテルのラウンジ「樹林」だった。ここも広いガラス窓の向こうにまばらだけれど涼しげな樹林がある都会のオアシスのようなところで、もちろん本の中でも紹介されている。

  アメリカンアウトドアの世界とその精神を日本に初めて紹介された芦沢さんは、ダイナミックな自然の中で遊んで学ぶことにかけては大ベテランだった。さらに身近な都会の中でも自然のテイストを感じ取って、大自然の中にいるように過ごす名人だった。

「アルプスやら、ヒマラヤやら、ヨセミテやらに行かなければ自然を感じられないというのは、貧しい精神だよ。身近なところにある自然を探して、感じ取って、それもヒマラヤの奥地にいるときと同じように楽しめてこそ、ほんとのアウトドアマンじゃないか」

 都会の真ん中のとてものんびりした公園でカラスの鳴き声を聞いていると、そんな今は亡き大先輩の言葉がふいに蘇ってきた。

―― uchida

 

 

05/05/21
蝶が岳の夜明け

 先週の日曜日、大学時代の友人の結婚式に出席した。

 もう卒業してから20年以上経ち、当時の親しかった仲間たちの中では最後に結婚式を迎えた新郎は45歳初婚で、新婦も40歳で初婚。脂の乗った大人どうしの結婚式は、落ち着いていて、しんみりと幸せをかみ締めるようないいセレモニーだった。

 惜しむらくは、新郎の両親がすでにこの世になく、もともと慎重で優しくて、頼りがいのある仲間内ではいちばん最初に所帯を持ってもおかしくなかった彼が、ようやくその風采に合った家庭を持つことになったことをその場でともに喜べなかったことだ。でも、のんびりおっとりしたあいつらしいと、きっと彼岸で喜んでいることだろう。

 男も女も自己主張が激しい世の中で、じっと静かに文句も言わず着実に歩み続け、互いに自然にひかれて共同で生活を営んでいこうと決意した大人の二人。浮き草のように行き当たりばったりで、自分の人生を軽々しく博打にかけるような生き方をしてきた身の上には、なんだか二人がとても神々しくさえ見えた。

  式の前日、熊野に住む仲間の一人が上京したので、彼に付き合って、学生時代に住んでいた高円寺界隈を歩いたり、神保町の大学を訪ねた。高円寺の彼のアパートは瓦屋根にサンルーフが切ってある当時としてはモダンに見えたバストイレ付きの部屋で、築58年の傾いたあばらやだったぼくの中野のアパートから歩いて20分程度の距離だった。そんなわけで、大学に入学して彼と親しくなると、ほとんどどちらが自分のアパートだったかわからないほど、彼の快適な部屋に居座って、勉強の邪魔ばかりしていた。

 彼とはその後も不思議に縁があって、今でも時々彼の住む熊野を訪ねたりしているが、一緒に思い出深い場所を巡ると、記憶の彼方にあった学生時代の思い出がつい昨日のことのようによみがえってくる。

 司法試験を目指してがんばっていた彼に対して、当時のぼくは山登りと旅に明け暮れていて、ちょうど正反対の生活を送っていた。だけど、なぜか気があった。

 その熊野の友人は30歳直前までがんばったが、結局、司法試験への挑戦を諦めることになった。

 彼が高円寺から田舎に戻ることにしたとき、今になって結婚式を挙げた友人が運送会社に勤めていたので、引越しの手配をした。そして、ぼくとよく山に行っていたもう一人の友人も手伝いに来て、四人で引越し作業をすることになった。

 当時、フリーランスの身で(今でもそうだが)、浮き草のように不安定な生活をしていたぼくは、戦友を失うような気がして、無性に寂しくて、ついつい前夜の送別会で飲みすぎた。そして、肝心の引越し当日は、みんなが忙しく立ち働く中で、青い顔をして自分がお荷物になってしまった。

「内田は、Wが田舎に帰ってしまったら寂しいよな。10年も兄弟のように仲良くしてたんだものな」と、戦力外のぼくに言ったのが、今では当の大手運送会社の事業所長で、めでたく45歳の新郎になった奴だった。

 結婚式前夜、熊野の友人が宿をとった青山で、もう一人の山登りの相棒を呼び出して、三人で飲んだ。熊野の友人は風邪気味で、翌日のことを考えて先に宿に引き取り、今度は、山の相棒と場所を変えて続きを飲んだ。

 彼とは、奥多摩、奥秩父、八ヶ岳、北アルプスといろんな山に登った。

 あれは大学2年の夏だったか、後立山を縦走して槍ヶ岳まで行く計画を立てた。

 燕岳から入山し、稜線を辿って順調に進んでいったのだが、進むにつれて天気が思わしくなくなってきた。難所を控えた槍ヶ岳に向かうのは無理と途中で判断して、上高地に下山するために蝶が岳のほうに向かった。

 だが、その蝶が岳の稜線に差し掛かったところで、本格的な悪天に飲み込まれてしまった。強風と雨に加え猛烈な雷で、遮るもののない稜線にいたぼくたちの髪の毛は逆立ち、半ば死を覚悟した。

 なんとか山小屋に逃げ込もうと互いに必死で励ましあいながら、ようやく砲火の真っ只中のような雷をかいくぐって小屋にたどり着いた。

 小屋に入った途端に雷雨は止んで、晴れ間が顔を出した。

 ほっとして、傍らの幕営場にテントを張り、朝から何も食べていない空腹の体に、とりあえず命拾いしたことを祝してビールを流し込むと、これが異様に効いてしまった。なにしろ、空き腹の上に疲労困憊していて、しかもそこは標高3000mの高山の天辺だった。そのまま二人とも昏睡してしまった。

 どれぐらい時間が経ったのかわからないが、相棒が先に目を覚まし、ぼくを揺り起こした。

「おい、どうも夜明けのようだぞ」

 ぼくたちは、ふらふらしながらテントから這い出した。そして、そこに信じられない光景を見た。眼下はびっしりと綿を敷き詰めたような雲海、遠方に、富士山と中央アルプス、御岳、南アルプス、八ヶ岳、浅間山が顔を出し、今まさに、東の彼方から朝日が昇りつつあった。

 雲海の上に顔を出したピークに朝日が当たると、ダイヤモンドのように輝いた。そして、今度は雲海自体が朱に染まり、世界が燃え上がった。

 ただただぼくたちはその光景に魅入られていた。

「また一緒に山に登ろうぜ」

 バーの止まり木に腰掛けてウイスキーのグラスを傾けながら、相棒が言った。

「あの蝶が岳の朝日がもう一度見てえよ」

「俺もだよ……」

―― uchida

 

 

 


05/05/07
人間のペース

 もう30年も付き合ってきた花粉症。この数年はあまり酷い症状もなく、自然治癒に向かって行っているものと楽観していたが、なんのなんの今年はしっかりと旧交を温めに帰ってきてくださった。

 クシャミや目のかゆみ、喉の痛みもさることながら、思考力が大幅に低下して、集中力もなくなり、物事全般に対する意欲が減退してしまうのが辛い。3月の初めから4月の下旬まで、ほとんどルーティンのこなし仕事だけを片付けるのが精一杯で、気の利いたことなど何一つできなかった。しかもこんなときに限って花粉にまみれるような表での肉体労働が続き、なんとか取材の間だけは意識を持ちこたえているけれど、いったん気が抜けてしまうとそのまま魂まで行方不明といったありさま。

 この二月の間に、ぼくが不義理や失礼を働いてしまった人がいたら、それは花粉症による心神耗弱のためだったということで、どうぞお許しを……。

 それにしても、ぼくのような基本的に世の中にあってもなくてもいいようなエンタテイメント系の仕事の人間なら花粉症でぼんやりしていても、生産性が落ちて自分の明日の生活が心配になる程度で世間に迷惑をかけることもたいしてないが、先日のJR西日本の事故のように人の命を預かる仕事では運営者側のコンディションや体制の陥穽なんてことを言っていられない。

 あの事故の後、4月29日に京都から登りの新幹線に乗ったが、指定席の乗客は数人のみ。連休初日で帰省とは逆方向ということもあっただろうが、それにしてもあまりにも乗客が少なく、事故による鉄道離れもあるのではないかと思わされた。

 連休の前半は遣り残しの仕事を片付けたり、雑用が重なってずっと自宅にいたが、5日から久しぶりに茨城の実家に帰省している。こちらには母親と妹一家がいるのだが、妹の家で無線LANを導入したというので、これで茨城でも快適にネットにアクセスできると期待して出かけてきた。

 ところが、新しモノ好きながらメカには疎くて設定は他人まかせという妹夫婦は、無線LANの設定の詳細を何も知らず、アクセスするためのパスワードも忘れてしまっていて、せっかくのブロードバンド環境もこちらは使えず仕舞い。仕方ないのでAirEdgeを繋ごうとしたら、これはもう町中がサービス範囲外。妹の家で有線LAN環境を利用しようとすると、回線が一つしかなく、これが子供たちがはしゃぎまわっている今でしか使えず、結局、安心してPCを開くことのできる母親の実家のほうで、古い回線でダイアルアップしてアナログモデムによる接続となってしまった。

 ブロードバンドの常時接続に慣れているため、メールチェックするにもいちいち回線を繋がなければならないのはいかにも億劫だし、何よりその都度通話料が掛かってしまうのがばかばかしい。skypeを使ってのミーティングなども予定していたのだが、それも諦めて、休みは休みらしくネットとも距離を置いてのんびりすることにした。

 はじめのうちは不自由を感じていたが、田舎のペースに慣れてくると、自分がテクノロジーに急かされていたことに気づかされる。新しい技術によって便利になったり合理化されたら、その分、時間的なゆとりができるから、より人間的な営みの深みが増す……はずだったのに、知らず知らずのうちに「より新しい技術の開発や導入、さらなる合理化」というパラノイアに陥って、自分を追い詰めていたことに気づかされる。

 JR西日本の事故もそんなパラノイアに嵌ってしまった人間社会が招いた悲劇だろう。たった数分の時間短縮のために汲々としたがためにあれほどの人数の人が亡くなってしまったなんともたとえようのないバカバカしさ。マスコミはここぞとばかりに重箱の隅をつついてJR西日本を叩いているが、そもそも合理化を推し進めるように世間の雰囲気を誘導した責任が彼らにもあるはずだし、あの扇情的な体質はパラノイア社会の元凶そのものだ。

 しばらく前にソローの『森の生活』について触れたが、これを久しぶりに読み返している。さらに図らずも時間ができたので、なにげなくカバンに詰めて持ってきていた『エリアーデ幻想小説全集』も拾い読みしている。

 みんなが寝静まった真夜中や遠くから一番鳥の鳴き声が響いてくる早朝に、それぞれしみじみとした味わいの本を呼んでいると、他愛もない一つ一つの出来事にじっくりと時間をかけて向き合うことが少なくなっていたことに気づかされる。そして、他愛ないと思ってやり過ごしてしまっているさまざまなことが、じつは人の心や体にとってとても大切なものであることを思い知らされる。

 インターネット草創期には、ぼくも「ドッグイヤー」のハイテンションなペースが心地よくて、走り続ける快感をここに書きもした。それはそれでいいし、まだまだ元気に駆け回っていたいと思う。でも、たまには落ち着いて他愛もないことに現を抜かす時間も持ちたいと思う。「忙中閑あり」……パラノイア的忙しさにあるときこそ、頻繁に他愛もないことに現を抜かす時間が必要なのかもしれない。

 

―― uchida

 

 

 


05/03/19
パウロ・コエーリョ

 ふと書店で手に取ったパウロ・コエーリョの「悪魔とプリン嬢」。花粉症のひどい状態の中で、朦朧としながらも一気に読んでしまった。「アルケミスト」では無垢な少年のイニシエーションをモチーフにしてスピリチュアルな世界をファンタジーとして語り、「ベロニカは死ぬことにした」では退屈の果ての絶望から覚醒の輝きへの劇的な反転をドラマチックに描いて見せた。もう一作「ピエドラ川の辺で泣いた」という象徴的な作品とされるものがあるが、ぼくはこれは読んでいない。

 パウロ・コエーリョはスピリチュアルなテーマを扱う他の作家たちと似たような筆致で語っていくが、しっかりと現実に足場を持っていて、ともすれば作家自らが物語り世界に没入しすぎて宣教師となってしまう罠には嵌らずにいる。物語の構成も、たとえば「聖なる予言」といった作品のように、作家が妄想の中に取り込まれてしまって支離滅裂なご都合主義に堕してしまっているのとは対照的に、精神主義の世界に深く入り込んでいきながら、破綻の無い物語構成を最後まで保っていく。

 「善」一辺倒のドグマではもちろんなく、善悪、陰陽が常に混ざり合っていて、そこそこに皮肉も効いている。ボルヘスやマルケスと同じラテンアメリカ文学のテイストが心地良い。

 「ベロニカ……」ではクライマックスで陰から陽への転換が劇的に起こって、読者は爽快なカタルシスを得られるが、「悪魔と……」では初めから最後まで善悪の微妙なせめぎ合いが続いていく。善悪二元ではなく、善悪は全ての場所に並存していて、その時々でシーソーのようにバランスを変えていく。そんな世界観は、現実に即していて、自己内部の感覚にも合致して納得がいく。

 神が持つ強さゆえの矛盾や無慈悲、悪魔が持つ弱さゆえの憐れみとでもいおうか、矛盾、ダブルスタンダード、ダブルバインドといったものこそが本質であり、だからこそ究極の問題解決や「真理」といったものはありえないことを『ほのぼの』と語る。 

―― uchida

 

 

 


05/03/13
鏡心

 ガラスのコップをテーブルに置く音、リキュールの金属キャップを捻る音、錠剤をガラスビンから振り出す音、ビデオカメラにテープを挿入する音……普段、人が無意識にバックグラウンドノイズとして感覚から締め出している音が、クローズアップされる。

 雑踏にカメラが向けられると道行く人のそれぞれの靴音や衣擦れの音が、さらに車や電車の騒音も分解増幅され、それまで一塊だったノイズが、ふいに一つ一つの音に意味があることに気づかされる。

 音に含まれた「意味」を感じた途端、スクリーンに映し出された映像は、単に平面の「記録」ではなく立体感を持って迫ってくる。

 普段の会話ではありえない息苦しいほど間近にある人物。普通、人は他人の言葉を聞くときに、吐き出される息が形を成した意味のある言葉だけを無造作に拾う。しかし、間近にある主人公の言葉には、吐き出される言葉とともに、吸い込む息にも言葉がこもっていることを自覚させられる。

 どこにでもある、なんでもない、ある種陳腐ともいえる日常。切り詰められて情状言語以上の意味を持たない台詞。そんなものにどこまでも肉薄していくことで、ふと気づくと、日常の向こう側に突き抜けている。

 鏡に映し出された自分の顔。その顔に近づいて見つめ続けるうちに、鏡の向こうにいる人間は自分ではない「何か」に感じられてくる。鏡が古代から常に怖れの対象であったのは、見慣れた当たり前のものを映し出しているはずなのに、気がつけば向こう側に異世界を出現させ、そこに人を引き込んでしまうからだろう。

 鏡に映し出された世界に見入っているうちに、足元にあったはずの磐石な世界の底が抜け落ちて、どことも知れない変性の世界に漂い出してしまう。それと同じことが「鏡心」のスクリーンを見つめているうちに起こる。

 石井聰亙は、高画質のハンディカメラを使い、自らが「鏡心」を体現したデバイスとなることで、誰もが生きてそれが当たり前だと思っている日常の向こう側へと切り込んでいく。システム化された大作映画の手法ではなく、撮り手の息遣いもそのまま感じられる手法だからこそ見ているこちらの気持ちを鷲づかみにするようなリアリティがある。

 映画を「観て楽しむ」のではなく、映画を「体験して感じる」。「鏡心」はそんな種類の映画だ。そして、「鏡心」が体験させてくれる世界は、個々の人間の体験や意識の違いによって様々に異なるだろう。

―鏡心公式サイト―
http://kyoshin-xx.com

―― uchida

 

 

 


05/02/05
森の生活

 先週末、恒例の「八ヶ岳スノーシューオフ」を開催した。

 イベントの詳細は特集のほうに書いたが、久しぶりに八ヶ岳山麓を訪れて、かつて自分が八ヶ岳山麓で「森の生活」を営むつもりでいたことを思い出した。

 学生時代、暇があれば山に登っていたぼくの一番の気に入りの山域は八ヶ岳だった。北は蓼科から南は小淵沢、西は茅野から原村あたりまで、東は八千穂から清里まで、広大な麓まで含めて、八ヶ岳という場所はぼくの心と体と土地の雰囲気が一体であるかのように馴染んでいる。

 清里から長い尾根筋を詰めて赤岳に登り反対側の赤岳鉱泉に下山したり、赤岳鉱泉をベースに赤岳や阿弥陀を巡ったり、あるいは麦草峠から入山して赤岳まで縦走したり、冬に本沢鉱泉から夏沢峠を越えたり……、様々なルートから山に取り付き、それぞれの山行でいい汗をかき、いい思い出を携えて様々な場所に下山した。

 八ヶ岳のどの山に登っても、どこに下りても、そして登降の間に通過するどの場所も、そこが「自分の場所」だと感じられるしっくりと馴染んだ土地で、何度訪れても心安らぐ場所だった。大学の四年間通いつめる中で、ぼくは、卒業したら八ヶ岳の麓のどこかに居を置いて、山を生活の中心に据えるつもりでいた。

 当時のぼくの生活のイメージは、まさにソローの「森の生活」だった。当時は、ごく一般的に社会人になって街で暮らそうとは露ほども考えていなかった。一人で小さな小屋に住み、煩わしい世間とは距離を置いて、静かにミニマムな晴耕雨読の生活を営む……。頑なでストイックだったあの頃、自分の気持ちに素直にそんな生活に飛び込んでしまっていたら、今頃はどんな人間になっていただろう?

 あれから20年以上、当時思い描いた生活とはかけ離れた環境に身を置きつづけてきた。久しぶりにお馴染みの場所を訪ねると、当時の感覚がよみがえってきて、そこには、20年前にイメージした森の生活にそのまま入った自分がいて、ふいに出くわしそうに思えた。そして、20年間、「自分の場所」から切り離され、常に違和感を持って生き続けてきたような気がした。

 やっぱり山はいい。人や世の中がどんなに変わっても、どっしりと昔のままにそこにあって、いつでも待っていてくれる。

 スノーシューで八ヶ岳山麓を巡り歩き、夜は表に森々と雪が降り積もっていく中でロッジの薪ストーブの温もりに包まれてゆったり過ごしていると、そろそろ昔イメージしていた「森の生活」に入っていくいい時期なのかもしれないと思った。

―― uchida

 

 

 


05/01/24
虫の知らせ

 昨日の朝方、妙な物音に目を覚ました。

 一度寝付いてしまうとちょっとやそっとでは起きないくらい眠りが深いのだが、このときは、物音を敏感に感じ取り、さらに異様な気配に頭が冴え、そのまま再び眠りにつくことが出来ず、気配を確かめてやろうと起き上がった。

 そして、まだ夜明け前の暗い中で、玄関に続くふすまをそっと開けて、玄関のほうを覗くと、そこに黒い影がうずくまっていた。薄暗がりの中でより暗い影の塊としか見えず、顔かたちもどんな服を着ているのかもわからないけれど、そこにいるのが男であることはわかった。

 そのとき、ぼくは、自分が感じた気配が、この影であることを確信して、敏感に反応できたことに満足して、何するでもなく、ただ5mほど先にうずくまる影を見つめるだけだった。そんな怪しい影を前にしたら、恐怖で立ちすくむか、ただちに何か武器になるものを探して手にとって対抗するかすべきところなのだが、何故かそんな必要はないことがぼくにはわかっていた。

 そして、しばらく見つめているうちに、影はスッと目の前で消えてしまった。

(今の影は、いったいなんだったんだろう)

 と、ふすまにもたれて考えているところで目を覚ました。夢の中での覚醒の度合いと実際に目を覚ましたときの覚醒の度合いがほとんど変わらない妙な感覚……。

 時計を見るとまだ6時になったばかりだった。

 そのまま寝付けなくなってしまい、本を読んだりしているうちに明るくなってきた。朝のうちに届け物をするという友人との約束を思い出して、8時過ぎに自転車で10kmあまり離れた友人の家へ。

 その帰り道、携帯が鳴った。

 出てみると、母からで、今朝方、伯父が亡くなったとのこと。

 昨年4月に階段から落ちて足を骨折して入院していた伯父は、リハビリの最中に軽いくも膜下出血を起こした。これは、伯父の異変にすぐに気づいた医療スタッフのおかげで緊急手術が行われて軽微なもので済んだ。

 その後、怪我も頭のほうも順調に回復し、12月の初旬の段階では、年末には退院できるとのことだった。見舞いにいかなければとずっと思っていたが、従兄弟が「退院してから、ウチのほうに来てくれよ」というので、そのつもりで、ずっと順調に回復しているものとばかり思っていた。

 ところが、そろそろ退院の準備をという月末に急に体調が思わしくなくなり、そのまま入院がずるずると長引いた。ノロウィルスの院内感染だった。抵抗力がさほど弱っているわけでもなく、病院関係者もさほど事態を重く考えていなかった。ところが、突然、様態が悪くなり、そのまま逝ってしまった。それが23日の未明のことだった。

 4年前に伯母が亡くなり、そのとき伯父は最期の別れに、棺の中の伯母に長い口づけをした。50年以上、仲良く連れ添った夫婦だった。その後、とても寂しそうにしていた伯父は、迎えにきた妻に素直にしたがって彼岸へ渡る道を選んだのだろう。

―― uchida

 

 

 


05/01/16
アウトドアの技術革新

 しばらく前から「培倶人」と「バックオフ」という雑誌で、アウトドアやライディングギアを解説する連載をしている。

 ぼくは、気に入ったギアがあると、それをとことん使い尽くすというスタイルなので、身の回りにあるものは、ほとんどが何年も使いつづけてきて体の一部になったようなものばかりだが、最新のギアに触れて、試してみると、その技術の進歩には驚かされる。

 振り返ってみると、ぼくが山登りをはじめた30年近く前から、アウトドアギアは驚くほどの進歩を遂げてきた。まず、懐かしいというかこんなことを懐旧すると自分の歳を感じてしまうのが、ドームテントの登場だ。それまでのウォールとグランドシートが別体の「家型」テントから、一体型のドームテントに変わり、テントの設営は圧倒的に早く手軽になり、行動時間を拡大してくれた。

 それから、エルゴノミックデザインを取り入れて担ぎやすく、パッキングもしやすくなったザック。コンパクトで強力になったストーブやランタン。アルミからチタンと進化してこれも信じられないくらい軽くなったコッヘル(クッカー)……。

 そして、なんといっても個人的に人類が月に到達したくらい画期的に映ったのは、ゴアテックスが拓いた「防水透湿」という夢の機能の実現だった。

 人一倍汗っかきのぼくは、それまでのゴム引きやハイパロンコーティングの雨具では、雨の中で行動しているうちに内側がビショビショになり、しまいには雨に濡れたほうが涼しくて快適とばかりに雨具を脱いでしまったものだった。

 初めてゴアテックスの雨具を着て槍ヶ岳に挑んだとき、嵐の中を肩の小屋にようやく辿り着いて、冷え切った山小屋の土間でザックを下ろすと、雨具の肩から汗が蒸気となって立ち上った。それを見たとき、「ああ、これで雨が憂鬱じゃなくなる」と心から感動した。

 近年では、LEDヘッドランプの登場がエポックメイクな出来事だった。長時間の点灯が可能になりしかも明るさも格段に増し、コンパクトで球切れの心配もないLEDランプは、単にヘッドランプとしての用途以外に、テント内でのランタンの変わりや読書灯などとして、電池切れを気にせず使い続けることができる。

 ストーブはマイクロサイズのガスストーブが登場し、ランタンもしかり。

 クロージングでは、最近使い始めたファイントラックの製品に目を見張った。これまで、アウトドアでのレイヤード(重ね着)は、基本的に「アンダー」、「インナー」、「アウター」という3レイヤードで考慮するのが当たり前になっていたが、ファイントラックは「ベースレイヤー」、「ミッドレイヤー」、「アウター」というコンセプトをベースにする。

 ベースレイヤーは、3レイヤーシステムでいうアンダーウェアというだけでなく、アンダーウェアの下にさらにもっと肌の機能に近いレイヤーを付けるという意味を含んでいる。そのコンセプトを具体化したのが、「フラッドラッシュスキン」という製品だ。

 これは、汗を吸い上げるウィックドライ性能を持つと同時に、表面は撥水加工されて、これの上に着用したアンダーやインナーの保水性が飽和状態に達したときに水か戻ってきて肌を冷やすいわゆる「濡れ戻し」を防いでいる。しかも、極薄のニット生地のためにぴったりしたアンダーウェアの下に着こんでも、ボリュームが出てしまうことがない。

 ミッドレイヤーもベースレイヤーと同様の発想で、今まではインナーかアウターにはっきり区分けされてしまったようなものをどちらの性能も持たせることで、よりフレキシブルに活用できるようにしたものだ。

 「ブリーズラップ」という製品がそのミッドレイヤーコンセプトを具現化したもので、これも薄く軽い生地にウレタンコーティングを施すことで防水透湿性能が持たされている。この製品の画期的なところは、防水透湿性を持ちながら生地に伸縮性があることで、体にぴったりフィットしたサイズを着用することでバタつきなどがなくすっきり着られることと、ボリュームが出ないためにインナーとして着用したときに外側への影響が少ないことが上げられる。

 動きが激しいために発汗が多く、さらに外気温が低い厳冬期のアウトドアでは、ファイントラックのレイヤードシステムはまさに理想的といえる。今のぼくの定番は、まずフラッドラッシュスキンの上下を身に着け、その上からクロロファイバーのアンダーウェアを着る。さらにクロロファイバー製もしくはウールの厚手のシャツにブリーズラップを着る。ボトムのほうはドライテック生地のパンツをそのまま履く。さらにトップスのアウターはゴアテックスのジャケットもしくはダウンジャケットといういでたちになる。

 行動中はブリーズラップがそのままアウター代わりで、軽快に動くことができる。このレイヤードシステムだと、今の時期に必須だったフリースのインナー(上下)が省略できて、ほとんどスリーシーズンと同じようなボリュームになるので、圧倒的に軽快だ。しかも、ウィックドライ性や保温性の点では、従来の3レイヤードシステムを越えている。もちろん、これにフリースを加えることも可能で、そうすれば厳冬期の休息でも非常に暖かく過ごすことができる。

 クロージングの分野では、ゴアテックスに代表される防水透湿素材の登場があまりにも衝撃的だったため、その後の革新はさほどインパクトが感じられなかったが、このファイントラックが切り開いた新しいレイヤードシステムは、ゴアテックス以来の衝撃的な革新といえる。

 それから、もう一つありそうでなかったコロンブスの卵的な革新といえば、シュラフにストレッチ性を持たせて快適性と保温効果の両立を実現したモンベルのストレッチシュラフが上げられる。シュラフは、インシュレーター(中綿)に高性能な化繊が登場したり、シェルに防水透湿素材が使われるということがあったが、基本的な機能は昔から対して変わることがなかった。

 そのシュラフを大きく変革したのが、モンベルのスーパーストレッチだ。マミータイプのシュラフは、シュラフ内部と外部の空気の交換による熱の消失を防ぐために体にぴったりフィットするフォルムになっている。このため、ジッパーをしっかりとクローズしてネック・フェイスコードを絞ってしまうと、文字通りマミー(ミイラ)となって身動きがままならなくなってしまった。

 モンベルのスーパーストレッチシュラフは、生地を多めにとり、これをたくし込むようにステッチすることで大幅な伸縮性を持たせることに成功した。シュラフに包まって、手足を思い切り伸ばしても、インシュレーターによって外気からは遮断されているので対流が起こらずにぬくぬくでいられる。どちらかというとテクノロジーに偏重した素材革新ばかりが目についてきたこのところのアウトドアシーンの中では、固定化された感のあった「フォルム・構造」の部分でのこの革新は、視点を変えて見るということで、おおいに他への応用が期待できる。

 先日、モンベルのショップにお邪魔した際に、試しにクロージングからキャンピンググッズまで最先端のものを揃えたとすると、どの程度のボリュームになるのかシミュレーションしてみた。すると、装備重量は、20年前の装備と比べると半分近くに収まってしまうことがわかった。たとえば、1週間程度の縦走登山でフル装備となると、かつては70リットルクラスの大型ザックがパンパンになるほどの装備で、重さは50kg近くになった。それが最新の装備でアレンジすると、40リットルクラスのザックに収まり、重量は30kgそこそことなる。

 軽く、高性能で、扱いやすい、この三拍子が揃えば行動半径は広がり、より困難なチャレンジが可能になるわけだ。なにより、心理的に身軽、気軽であれば、周囲の自然により深く関わろうという姿勢が生まれる。

 長く使い込んで馴染みのある道具もいいけれど、そろそろ全体を見直して、刷新する潮時かなとも思っている。個々の装備についての詳細はOBT本編にも反映していくので、どうぞご期待を!

** 製品リンク by 野外道具屋 **
LEDヘッドランプ
マイクロサイズストーブ・ランタン
ファイントラック
モンベル・スーパーストレッチシュラフ

 

 

―― uchida

 

 

 


05/01/14
生きる力

 今、仕事で使っている椅子はスチールケース製のエルゴノミックスチェアだが、これは97年に事務所を開設する際に2年落ちくらいの中古を購入したものだ。それを3年ほど使ったところでファブリックが擦り切れてきて、そのまま捨ててしまおうかと思ったのだが、サイトで椅子の張替えをしてくれる職人さんを見つけてお願いすることにした。

 東加工所の荒川さんという若い職人さんがわざわざ埼玉から都心の事務所までトラックを運転して椅子を引き取りにきてくれ、1週間後にはファブリックとともにへたっていたウレタンも新しいものに替えられて新品同様になった椅子をまた元気に届けてくれた。

 それから、彼はこの椅子のことを我が子のように心配して、「不具合があったら、いつでも直させていただきますから」と、何かの折に丁寧なメールをくれるようになった。

 その荒川さんから長野県に居を移すという連絡をもらったのは一昨年のことだった。

 一昨年の9月に、荒川家には娘さんが生まれた。

 「湖白ちゃん」と名づけられたその子は心臓に重い障害を持ち、手術が必要だった。その手術とケアができるのは長野県立こども病院しかなく、湖白ちゃんのために一家で病院の近くに移り住むことを決意されたのだった。

 その後、手術は成功し、湖白ちゃんも元気になった。ただし、それでふつうに健康になったわけではなく、まだ幾度かの手術が必要で、経過観察も続けていかなければならないという。

 それでも、長野県立こども病院での入院生活はひとまず終え、今は地元の埼玉に戻って、親子水入らずで暮らす幸せを噛み締めている様子が、湖白ちゃんとの生活を綴ったサイトからひしひしと伝わってくる。

 東加工所は今ではインターネットで椅子の張替えをする受注する工場としてメジャーになっているが、そもそも自慢の職人の腕をネットで一般の人に直接知ってもらおうと発想してサイトを立ち上げたのは荒川さんその人だった。インターネットの黎明期ともいえる頃からコツコツとWEBサイトを作ってきた荒川さんだけに、湖白ちゃんの経過を追うサイトは、同じような心臓疾患を抱えた子を持つ親にとってはもちろん、障害を持つ子の親にとって有意義でかつ励まされる内容のサイトに仕上がっている。

 そこで登場する湖白ちゃんの今の無邪気に遊ぶ姿を見ると、本来生命が備えている「生きる力」というものをつくづく感じる。

 昨日、ぼくは朝からずっと昭和大学の付属病院にいた。

 ぼくの息子は、湖白ちゃんのちょうど1ヶ月前に生まれたが、生後二ヶ月のときに高熱を発して、生死の境をさ迷った。

 息子は、腎臓と膀胱を繋ぐ尿管の弁が未発達で、細菌を含んだ尿が腎臓へ逆流して腎盂炎を起こした。症状が進んでしまい、敗血症から熱性痙攣を起こした息子は抗生物質が効かず、最後の手段である血液製剤を使うことで一命を取りとめた。

 血液製剤の効果があらわれなければ諦めるしかないと医者に言われ、酸素吸入器と心電計に繋がれた息子は、紅葉ほどの大きさしかない手なのに、驚くほど強い力でぼくの右手の小指を握り締めていた。その息子の手からは、生きようとする力がはっきりと伝わってきた。

 息子は、なんとかその死の縁から這い上がったが、退院した後に再び腎盂炎を起こし、生後6ヶ月までの間の半分を病院で過ごすことになった。その後も、投薬と経過観察を続けているのだが、昨日の通院は、その経過観察のための検査だった。

 そんな事情もあって、湖白ちゃんのことは他人事ではない。

 荒川さんは、湖白ちゃんの病気を湖白ちゃんの「個性」だと書く。そして、その個性とうまく付き合い、より元気な個性に変えていこうと。そんな言葉に力をもらった親も多いだろう。もちろん、ぼくもそんな一人だ。

 それにしても湖白ちゃんからも、自分の息子からも、ぼくは、命が本来持っている逞しさも教えてもらっている気がする。二人が今生きていられるのは、進んだ医療技術のおかげでもある。でもそれ以上に、二人の「生きる意志・生きる力」がなければ、危機を乗り切ることはできなかっただろう。

 そして何より、障害など意識せずに、元気に明るく成長していく姿を見守っていると、いささか草臥れた中年男にも、新たな「生きる力」が湧いてくる。

 

―― uchida

 

 

 


05/01/10
2005年

 戦争の悲惨と天災の悲惨が相次ぎ、地球ももうお終いなのではないかと思わされるような2004年もようやく暮れようというとき、まさに驚天動地の大天災。締めくくりが未曾有の悲惨となってしまった2004年が明けて、2005年を迎えたわけだが、果たしてこの新年を祝っていいものやら……なんて考えているうちに、もう10日が経過してしまった。

 前回のこのコラムで、唐突に「海」というテーマが浮かんできて徒然に思いつくままを書いたが、まさか、そのすぐ後に海の猛威を見せ付けられようとは……。ちょうどその翌々日、古い友人と久しぶりに会って、新潟の地震の話から、江戸時代の東南海地震とそれに伴う津波の話などして、その帰り道に別な友人のところに寄って、インド洋大津波のことを知った。

 年末年始は久しぶりに茨城の実家で過ごしたが、年が変わって気分も一新するというよりは、ここまでリニアにエスカレートしてきた天災やら戦争やらが、そのままエスカレートし続けて行くような気がして、どうにも浮かぬ年明けだった。

 初詣に大洗の磯前神社に出かけ、磯に向かう一の鳥居の下から海の彼方を見やったが、そのとき思ったのは、あのインド洋の津波で、波が引いたときに、ものめずらしく思った地元の人や観光客が取り残された魚や貝を拾って沖まで歩いていってしまったというが、自分なら、あるいは日本の海の沿岸で生まれ育った者なら直ちに異常を感じて、なるべく海から離れるように行動しただろうにということだ。

 波打ち際で子供を遊ばせていると、瀬戸内育ちの妻やその妹は「波が来るから、早く逃げて」なんて黄色い声をあげる。こちらは、地元の海の波のリズムを体が覚えているので、どの波が、今自分と子供がいる際を洗うかは正確にわかる。そのリズムを捕らえている間は安心して子供を遊ばせているが、ふいに引きが強くなり、打ち寄せる波の間隔が広くなると、次は高波が来ることが本能的にわかって、子供を抱いて逃げる。

 外海の波のリズムは、どうやら瀬戸内の海で育った人にはわからないようだ。また、ぼくの傍らで打ち寄せる波と遊んでいたカップルは、これも高波のリズムを捕えることができず、逃げ切れずに足を洗われた。

 子供を抱いて、新年の海を見やりながら、「今年は、きちんと本能を磨こう」と思った。

 スリランカでは、津波に洗われた自然公園の中で、不思議なことに犠牲になった野生動物は皆無だったそうだ。ゾウやトラなどの大型動物はまだしも、ネズミの死骸も皆無で、現地の当局者は首をかしげているという。その場所に「癒し」を求めて旅に出かけた日本人ツアー客は、そのほとんどが波に飲まれて命を落とした。

 アンダマン海のある島では、隣の島が1万人以上の島民のほとんどが犠牲になったというのに、3万人の人口のうち津波の犠牲になったのは6人だけだったそうだ。この島には20世紀初頭の頃の大津波の話が伝説となって伝わっており、波が沖に引いたときに、島民のほとんどが「海の水が引いたら高台に逃げろ」という伝説に従って高台に逃げて助かったのだという。

 幼い頃、「年寄りのいうことは聞くものだよ」と、祖母が噛んで含めるようにしつこく言っていた。先人の記憶をしっかり受け継ぎ、自分の本能を磨き、2005年はしっかりと自然の息吹を見極めたいと思う。

 だが、先人の智慧も本能も、人間が起こすもっとも愚かな「戦争」には通用しそうもない……。

―― uchida

 

 

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