夏といえば、海、山、そら、セミ、暑い、それこそそれだけでは、収まらないほどに、多くの単語を連想するのであるが、元気さをなえさせてしまうほどの暑さ、結局それに収束して来るように思う・・・が、それを裏切ることも、あるのである。まさに今年は、それであった。「ギンギラギンに」輝く太陽は、「梅雨明け」の大雨雲により、覆い隠され、「しょぼしょぼ」光量しか、届かない、「もう暑」なのである。暑いは、暑いで、また苦労も絶えないのではあるが、それでも、「梅雨明けだ」といって、大雨が、迎えてくれるということになるのは、調子を狂わせられるというのは、否めない事実である。「梅雨明け」の後の「本格的な夏」は、「暑い」夏であるのである。それが、灰色のあるいは、白い一面の空をみなければならないということになるのは、やはり、「嘘」である。それに追い撃ちをかけるように、普段なら上陸しそうもない台風が、次々とあがって来て、その天候を刺激してゆく。ますます、あの、背景に「入道雲」が似合う青空が、遠い存在になるばかりである。そういう日々の連続の中で、「夏」の遊びの象徴である、「溝浴び」の中の「淡水」部門の代表格である、「プール」に行くということが持ち上がったというのは、やはり、体の暦が実際の気温の変化に逆らってまで、それをさせた、というほど、今年の出来事は、予期せぬ出来事だったのか。あるいは、そういう期待のあらわれであったのか、どちらかは知らないが、とにかく、それは、何の抵抗もなく決まったことであった。もう少し、詳しくいえば、こちら側が、まず、その関連の提案として、「海水浴」を挙げたところ、相手側が、「疲れた」という言葉をもって、それを受け入れ難い意を表明したわけで、それに伴って、そういう感情をもって、それを行うのは、あまり意味のないものと思われたので、こちら側の妥協としての「プール」行きが、改めて提案された上で、始めは、先程の、受諾拒否の流れで、それを拒否したような素振りを見せたが、結局は(とりあえず、焼きたい、との後日談ではあったが、)それを受諾するに至ったわけである。
それは、その前の、旅行の帰りに、次回の行動の予定として、決めたことであったが、その日から、三日目ということに同時に決定された。その決定された日は、確かに、相手側が、その決定に影響を与えるほど、疲れたからだを持った状態であったが、 それでも、「夏」における「プール」というものは、それほど苦もなく受け入れられたのである。
その日の朝、十時、そこへ向かうべく、待ち合わせ場所に、私は向かうのであった。特に、時間を、そして場所を指定しない場合は、それと解釈する、時刻場所というのが、暗黙の了解として存在しているのである。それにしたがって、自転車を滑らせるわけである。くねくねと、できるだけ、大回りをせず、それでいて、見通しがいいか、それほどの交通量を保持しない、道路を選んで、巧みに進んでゆく。むかしよく、特に小学校時代にではあるが、自転車ではなく、足で直接、うろうろしまわった、いわゆる「近所」をすり抜けて行くわけである。それならば、その時代によく遊んだ人間の一人や二人に、あってもおかしくないのであろうが、やはり、ひところの日本のようでなく、同じ地にすんでいるということの方が、珍しい、年頃であるから、また、朝の十時という時間隊もたたったのであろう、まったくというほど、見掛けることはないのである。もちろん、というほどに、今日もその例外ではなかった。それ以前に、人という人が、そこにみえないのである。誰もいないのではないかと錯覚するほどである。しかし、その心配は無駄になるように、一人見掛けたわけではあるが、それにしても、少ない、人が。やはり、世間の夏休み休暇は、地元で過ごすことも少ないのだろうか。とも思いたくもなる、感覚である。
「おらんかぁ・・。」
一寸聞くだけでは、、そのままの意味にしか聞こえないような言葉をいった。それでも、その言葉、で、自分の気持ちは十分表せたという自信がもてるほど、深い意味を含んでいった言葉であった。
その様な、「近所」をすり抜けて、少し交通量のある、道に出て来ると、先ほどとは、一変したような風景があった。確かに、この道を先に進めば、あるショッピングセンターがいがあるのであるが、余り大きな声ではいえないが、その名前のイメージほどは、人は集まっていないところであると、認識される、程度の規模のところである。先程の静けさとの差が、非常に大きく感じられた。それが、何だ、といわれても、返答に困ってしまうが、何かはっとさせられるものがあった。まあ、半分寝てぼけていたというのが、相場であろうが、それでも、その時は、驚きに値するものであった。その後、その通りを通り終えて、線路沿いの道に入ってゆく。そこは、先程の通りと比較すると、それほどの数は見られない。朝夕を除いて、いつもこんな感じだ、というような、量である。夏休みにもかかわらず、下校してゆく、女子高生を何人か追い抜きながら、その様子を、伺っていたのであるが、やはり、それはそれで、目が、そちらの方へついついいってしまうこともあったりした。
「あっ、あぁっ、あー」
場を繕いたげに、発したその言葉は、その発する状況が変われば、ちょっと、その手の、小説にもなりそうなことであるが、もちろん、そういう意味で、発しているわけではない。そういうのは、今通り過ぎたばかりの・・・、そういうことは、とりあえず、おいといて、とりあえず、先に進むことにしよう。すなわち、その声は、あくびの拡張の形であるのである。ううーん、地域の性感帯。もう、ええちゅーねん。
進む、進む、どんどん進む。隣の線路では、JRの電車がどんどん走り、しかし、「走る電車」の歌を本当は知らないのに、かんで歌って、「知ったかぶり」してしまうことがあったとしても、そんなことはおかまいなしに、進んでゆく。何人の人を抜かしたであろうか?人は、かなりの数を横切っていたが、抜かしたのは、先程の、女子高生三人きりである。そうこう言っているうちに、今度は、50ccバイクで、逆に抜かれてしまった。
「こ、これは・・・。」
変なところで、意地をはってしまう私である。どうも、抜かされてしまうということには、嫌悪感に似た感情を持ってしまうのは、ほとんど、本能のように染み付いてしまっていることであった。やはりそれは、育って来た社会環境が、それを育んで来たということであろう。(自分のこともわからんのか?という声も聞こえて来そうであるが、往々にして、身近の物ほど、客観的にみれないため、冷静な判断や、分析ができないことが多いのである。)その、「悔しさ」もさめやまない頃に、今日の、「戦慄地獄プール作戦」同行者たる、M君が、サインを示しながら、迫って来るのを確認することになる。
合流して、その作戦をどうするかという協議に入る。すなわち、「交通手段はどうするか?」ということである。これを決定すること無しには、この作戦は、成功し得ないのである・・・・。というほどのことでもない。しかし、言っていることは、間違いではない。それこそそれをはっきりさせなければ、どこに向かうかということをも決定されないのである。しかし、それには、心配は及ばなかった、特に、そのときは。両方とも、暗黙の了解は取れていたのである。隣の市の、温泉が併設されている、「プール」へ向かうという、了解である。ほとんど、形式的な、話をさっとすまして、相手方の、自動車に乗りに行くべく、こちらは、順方向、相手側にすれば、逆方向に進んで行くわけである。
自転車をおいて、自動車に乗り換えて、早速、その「プール」への道を進んでゆくわけである。途中で、思わぬ出来事、簡単にいうと、いけると思っていた道を進む時に、右折する必要のあるところがあったが、そこが「右折禁止」であったことから、走るべき道と、川を挟んで、丁度反対側の道を走らざるを得ない状況になってしまったということであるが、それでも、五分ほど余計にかかっただけで、何事も、ほかにはなく、「プール」の駐車場に、車は滑り込んだ。
二階だての駐車場の一階部分に、バイトの案内役の指示通り進んでゆくと、入ってゆくのであった。一番上でなくてよかった。そんな考えが、その時、自然に浮かんで来た。やはり、特に意識してないとはいえ、この天候(車内は、クーラーでその気温には直接触れていなかったのである。)を風景として、目から取り込んでゆくうちに、自然とそうなるのは、考えれば当然のことであろうが。そうした、ほっとした、一見原因不明の安堵感を感じながら、車を車庫入れして、とりあえず、「プール」突撃の準備に入る段階まで、いっきに近づいて来たわけである。
「戦慄」の「プール」決戦、それは、計画としては、それこそ、昨年の夏からあったであろうか、(そりゃまあ、「来年もいこか」ぐらいは、いえるであろう。)それにしても、恐ろしいぐらいの、「戦慄」の環境である。(そら、あんたが券を買う時に、横から、ガキが、ちょっと、うろちょろして来ただけでしょうが。)しかし、入場料三千円は、痛い。(その編は、ただしい、ただ券でいきたいものだ。)しかし、傷つくことを考えれば、その程度の物・・・、やはり、痛いもんは痛い・・・。
そういう、初っ端から、休みなく、襲って来る攻撃にもめげず、(それぐらいでめげるなら、こんなとこもで泳ぎに来るな!そういいたい。)その、入場鵜を許される、西洋人と思われる、女性半裸体写真入りの券(こう書くと、何か、淫猥な雰囲気が感じられなくもないが、単なる、水着姿の写真が入っているだけである。それでも、興奮する人はどうぞ。)を「握り」のどうやらカップルの、女性の方に渡し、半券を手にして、入場するのである。Mは、それを意識してか、にやにやしながら、券をちぎってもらうな、という声を、脱衣場に入ってから、私に叫んだのである。ううっ、これはまさに、敵を欺くには、まず味方から、という諺の実践ではないか。私は、そう思ったものである。しかし、相手は、事実を述べたまでだ、と言い張る。確かに、そういう表現もあろうか、な。
かくして、我々は、前人多踏とでもいうべき、その淡水「プール」設置遊戯状に潜入できたのである。(大したことはないと、いいたげであろうが、痛い思いはしたのである。痛みは、過去にさかのぼって起こると言う、それは恐ろしい、ことである。また、未来にも・・。)
要は、金出して、「プール」に入ったというだけのことであるが、ものは、言い様ということで、自分でも感心してしまうほどである。
脱衣場で、その時、右手をグー、左手をパーの指をよした形にして、手を打った。思わず、行ってしまったその仕草は、相方には、一体何を意味するものであるかはわからなかったであろう。わかるはずあろうはずがない。やった本人も、その行動をしてから、その行動に付加する、真意を考えようとしていたのである。
しかし、Mは強かった、ここで、先程いった発言をしたのである。
「にやにやした顔で、もぎりのねーちゃんをみとったらあかんで。」(多少ディフォルメしています。)
放送コードにかからないであろうか、ほとんど、言い訳がましいこととしか言い様のない、言葉、そんなことで、対抗できるものでもなかったが、対抗したい、そういう気持ちだけが亡霊のように、そういう考えを生じさせたのである。しかし、それは、結局のところその思いとは裏腹に、効力のない心の中の叫びでは、どうすることもできるものではなかった。
早くいえば、一人よがりな、心の叫び、相手には、何の影響もない言葉であった。
「こ、これは・・・。」
ほとんど、どこかのグルメ漫画の決めゼリフのように言い放ったその言葉は、もちろん、私の言葉であったが、それは決め手になるものでもなかった。相方には、じっと黙っていた挙げ句に、突然、「これは・・」といわれても、何が起こっているのかすら、想像だにできない世界である。こまったものだ、そういうのが精一杯の反応であろう。
しかし、冷静に考えてみれば、そんな風に、うちにこもってわけのわからないことに入りこんでしまっているには、少し、ここは、場違いであるし、あまりにも、周りの好環境を無駄にし過ぎている、というものである。
それはそれとして、ここのロッカーは、一回使うごとに百円を要求するものと言う、ただでさえ、高い入場料をとりながら・・、まだとるか。(世の中の、道理というものはそんなものであるが。)そういった、足元を、それこそ、目鼻先の距離迄顔を近づけて、みているような、商売をしているのである。いや、これは参った。しかし、それはそれで、そんなことが嫌やったらここにこなんだらいい、ということをいわれれば、あれあれあれ・・・、それは、堪忍・・。(何か、この言葉は嫌いになれない。)まあ、文句はいうが、やはり、それは局所的なことで、大域的には満足している(するつもりでいる)のである。都合のいい子とをいう人間は困ってしまう。(もちろん、自分に言っているのである。)
さて、先程の、ロッカーの件に戻ってみる必要が、十分にあった。(話が進まないという意味でである。)十分にあった、というだけではなくて、その必要に迫られていたのである。それはそうである。そのままでは、ロッカーの前で立ちすくむ、男二人と言う、何の面白味のない構図が、周りから取り残されたように、そこにあるということになるからである。気がつかれれば、それはそれで、情けなく、気がつかれなければ、それは、その状況は、恥ずかしい光景であると言う、どちらに転んでも、地獄と言う、袋のネズミといった状態に陥ってしまうのである。これだけは、回避されなければならない。それは、本能的に考え付いたことで、自然なことであった。しかし、前一メーターのおやじのケツに焦点をあわせながら、そんなことをいった私の姿は、どう見ても、尋常ではないと思われるであろう。そのことは、
「ど、どないしたんや・・・?」
と言う、Mの言葉に端的にあらわれているであろう。もちろん、その言葉を言い出す直前ぐらいに我に帰り、実際に目をそらすことは相手が言葉をいい終えてからであったが、ともかく、その「恐怖な状態」から、脱出することができたわけである。
まず、靴、鞄、着替えた服、そういう順番で、狭いロッカーにしまい込む。すばやく、水着に着替える早業は、小学校の夏休み水泳実習じこみである。最小限の長さしかないバスタオルで、最小限の引っ掛けて、腰にまいたタオルを、落ちそうで落ちないという際際のところですばやく、「チェンジ」する。
となり町の駐車場付きのスポーツ用品チェーン店で購入したその青い、海水パンツ(トランクスタイプであるが)に、「チェンジ」したその姿は、凛々しい、といった人間は、いないであろうが、そのすばやさは、(もちろん、はき変えの、である。)やはり気持ちいいものである。そして、最後のしめとして、「多大な」役割を果たしてくれた、バスタオルを、「きれいに」折り畳み、そのロッカーにしまい込むのであった。Mも同様にしまい込み、協議の結果、ロッカーの金は、とりあえずMに持ってもらうことに決定して、激動の、更衣室を後にすることになる。
「大正漢方胃腸薬。」
Mが、その時、進行方向に向かって、例の、「ほぅー、ほぅー」の、「青大将」のような、口ぶりで呟いた。何だ、と思わず私は、Mの方向に向いたが、
「今日は、腹の調子が悪いんや。」
というわかりやすい解説で、その発言の因果関係を手にとるようにわかり得たのである。
「しかし、腹調子悪いなら、何で、こんなところにきたんや?」
しかし、自分で言っておきながら、この質問は、野暮なことであることに気がつく自分であった。
更衣室の出口にある、透明の、意外と思い、ビニール透明よれよれを、暖簾を左手で分けるように、出ようとすると、痛い目をみてしまうので、その準備に思わず、戦慄が走るが如く緊張を催していたのであるが、その緊張から、思わず、その「ノレン」を避けるタイミングがずれてしまい、半分突き指した形になってしまった。
「あっ、うおぁぉぃー、んヴぇふぉー。」
踊り悶えるようにのたうちまわるその姿は、さぞ、気持ち悪いものであっただろうが、それが、せめてもの抵抗で、そうしなくては収まらない自分に何か、嫌いになれないものを感じた。ウフッ。どうも、気持ちがよくない。思わず、以前、このプールをあがって着替えた後に便所へいく途中に、そこに入っていた、ガキが暴れて、水を跳ね飛ばし、思いっきりそれをかぶってしまったという、微熱温水、ジャクシーバス、に入ったろうか、とても思ったのだが、それを行動に移すほど余裕がなかったことは、情けないと今思い出しても、布団の縁を噛み契りほど思ってしまうほどである。(何者や、あんたは。とつっこみたくなる。)
その悶えに浸りながらも、しっかりと、更衣室プール側出口にある、「足洗い」とおもわれる、どうも水が淀んでいて、足をつける気にはならない、水たまりはしっかりと避けて、そこをすり抜けた。Mは、片足をつけて、ひょいと飛ぶようにそこを抜けた。
「中途半端なことをする奴やなあ。」
よっぽど、非難されるべきことをしているような人間がいえた口か、そんな声も飛んで来そうであるが、それは言ったもの勝ちである。Mは、お約束のように、
「おっ、おおおおー。」
と、右手で、アゴを撫でながら、半目を瞬かせるのである。(本人近辺しか解らんことをことを、説明無しに引用するなと、激が飛んで来そうであるが、それはそれで、知ってても知らなくても、そんなに意味のあるものではない、ということなので、「いったい、僕の、どこにそんなまねるところがあるのか、解らないなあ。」と、日本人のほとんどが知らなかった、ロシアの大統領に謁見して、日露親善大使として、剣の型を披露したと言う、二三十代の人間なら誰でも知っている俳優F氏もかたってしまいそうのことである。)
空は、晴れ、雲も気持ちよい配置をしている。今にも雨が降りそうで、遠くで、稲光がしているような天気とは大違い・・ではあるが、少し、この季節にしては、肌寒さを感じるのである。しかし、太陽光線は、熱気を帯びていて、光と陰の部分の差が、大きく感じてしまう。
そういう天候であった中のそのプールを見渡すべく、顔を挙げてみれば、その肌寒さの割に、意外に多くの人間がそこに広がっていた。やはり、目に入って来るのは、「ひなたぼっこ的な人間」である。プールサイドの日のあたるところ隙のあるところがないほどに、広がっていた彼らは、もう水に入る気もないといったかおしているようにもとれた。全ては、この、空気の寒さと、太陽光線の差である。しょうがないな、という言葉も、同時に、それをフォローするように頭にわいて来ていたということも付け加えておこう。
それは、ともかく、やはり、プールは、「泳ぐ」ところである。入ってそうそう、寝転がっているわけにもいかない。水の中に入るべし、である。
「冷たそうやなあ。」
Mがそういったが、まさにそれは、ズバリ当てましょうで、正解をもらったようなことであった。私も、この水の澄み様は・・・、と目の前の流れるプールの水の色を見て、びくッとしたのであるが、実は半分は久しぶりに見た、生の水着姿(もちろん、女性である。)のせいでもあったが、それ以上に、ふと、それから横に目をやったところに見た、ワンピースの水着女性が振り返った時の、その、愕然とせざるを得ない落差というものがあったのであるが、それは、この際置いておくことにして、水は冷たいということであるが、これは、プールサイドに腰をおろし、足先をその水につけたことでそれが明らかになったのである。それは、肉体が要求するショックであり、先程の、後ろ姿から想像に難かった、「見返美人」を眼中に捉えた時とは、生命への危機感が違うのである。冷たいものは、冷たい。一見すると、その無意味に近いその表現は、精神的なものを越えれば、その有意性を感じることができるのである。まさに、その時に感じたわけである。
「こ、これは、きてるなあ。」
いつもの冗談じみたMのその言い回しの中にも、隠しきれない真実を聞く私であった。その言葉を受ける自分の顔にもそれが端々に出て隠しきれないでいるのであった。それが、より、はっきり現れたのは、やはり、あの、端から見ていてどうも情けない絵にしか見えない、指先に水をかけて、ちょっとずつ腹や胸に当ててならしてゆく行為、の、それである。やっていると考えるだけで、恥ずかしいのだが、「それがいいのよ。」というわけはなく、実際にやっているとは、何とも情けない思いではあるのだが、やはりやってしまわなければならないほどに、水は冷えきっているように感じるのであった。冷たい・・。
競輪選手が、スタートを牽制するように、その、「トドの水浴び」を繰り広げていたのであるが、もちろんこのままで、「さ、よう泳いだ、帰ろうか。!といって、何事もなかったように、帰ってしまうのは、どぶに金を捨ててまで、ギャグにすること、それも、受けないそれであるが、でしかないわけである。これは、あまりにも、情けない。意地でも、状況は進展されなくてはならない。つらいなあ。そういわれても、困ってしまうというであろうが、その、二者択一の、一者を事実上強制されることは、経験はあると思うから、それを、まったくわからないなあ、と、しらばくれるのは、止めて素直になって欲しいと思うのだが、その、「皆さんお馴染み」の、「選択」の実行を迫られている我々であったが、「ここは男になるしかない。」とでも言いたげに、その身を、「冷水中」に投じる決心をしたわけである、私が。倒置法を用いるほどのことか、と、喝か飛んで来るような気配を勝手に感じていた私であったが、それ以上に、状況判断の遅さによる、鼻腔から侵入して来る、消毒過剰の水による痛みが、「しみるーッ。」と声にもでないほどの苦しみに、それが飲み込まれた格好になってしまっていて、よっぽど、先程の「見返美人」のイメージの方がきつく感じるようでもあるのでもあった。
「こ、これは、気持ちがいいぞー。」
照れ隠しのように、先に出てきた、「漢方胃腸薬」俳優声がかった、独特のこもりを持つ口調で言ったのは、私であったが、その誘いには、乗るような素振りを見せず、Mは、自分とは、ワンテンポずれたように、プール中を見渡しているような素振りを見せて、一行に入ってこようという様子は見せなかった。
「うーん。」
Mは、どうも解せん、とでも言うようなかをも見せながら、プールサイドに、まだ、固執しているようであった。一体どういうことを企んでいたのかということは、それを眺めていただけでは読み取ることはできなかったが、それを詮索していても、それこそ、何も生まれてきそうになかったので、とりあえず、単独行動をとることに相成った。
「誰か、おらへんかな。」
いきなりこれは、変であると思われるだろう。こんなに人がいるのに、何と矛盾したことをいうのだ、との疑問を投げかける人も多かろう。また、もっと、心の中を重点に考えている人は、なんて、寂しがり屋何だ、こいつは、と、号泣されている、人も多々あるように信じるが、それは、正解の八分の一程度のものにしかならないということは、やはり、明らかにされるべきことであろう。
確かに、世の中というのは広い、広い、と思っていたが、どうも思っているほど広くないなあ、という言葉を思わず、軽々しく、語ってしまうこともあるが、そういうのは、局所的な感覚であり、やはり、広いものは広いものである。しかし、それだからといって、その会う機会の少ない、見知っている人物を会いたくて、苦しくて、追いかけて、悲しい状態になるかというと、まだそれほどの年月は経っていないと、自分自信は認識しているわけであり、そういう意味で答えは十二・五点程度の配点しか与えられないのである。そんなことは、読者の推測が及ばないのではないか、とでもいわれそうだが、それで、ええ。(わざと関西弁をはずしていうと、こちら側の意図に沿って理解されるであろう。)おや、と思わせるのが、基本的に印象に残る方法というもである。
それでは、そのほとんどの、意味したい要素というのは一体何か。それは、キャッチボールで言うボール、エンジンで言う潤滑油、そう、会話で言う、「ネタ」である。そう、一体何なんだ、これは。といわれても不思議ではないその言葉に表されていることが全てである。これなくしては、第一宇宙速度に達しないロケットよろしく、墜落して、調和の言遍(ゴンベン)の頭の点にも至らない。単純明快なことが、軽んじてよいことかということは、必ずしも真ならずということである。無意識的にその行動に走る自分を全く自然に受け入れている自分は、やはり、その育った地の環境に染まっているんだ、と、思ってしまうのであった。
「どぶん。」
まるで、口で言ったのか、と問い正したくなるような、「ベタ」な音を立てて、水中に飛び込んだのは、もちろんその音に関しては少なくとも、Mの意図とはかけ離れたものがあっただろうが、そう聞こえたものは仕方がない。聞こえたものがちである。といったのは、無情な、ともとれるほどに、シビヤな、「ネタ」かき集め心を持つ自分であるとは、やはり、Mに直接伝えることは良心が許さないという思いであったが、そういうことであったどうかには関係なく、、それによって、とにかく、懸念されていた、「いつ入って来るんだ」という疑問は、目出度いことに、はれて、はれた(?)。
・・・・・・
はっとして、我に帰らされた、私は、ほとんど、自分に対するごまかしの様に、とは絶対に言わせないと自分では思っていたのだが、むさぼるように、周りを見回すのであった。(と、言っても、犯罪を犯すようなことはする勇気もないし、まだ人生は大切におくっていきたいもん。「なぁんじゃそら。」)
最初に目に入った、その後ろ姿の気持ちよいほどの見栄えのよさに、思わず、泳ぎ、(といっても何か、子供が、勝手に我流で身につけたような、わけの解らないような怪しげなものであったが、)も止まってしまうほどであったが、そのまま自然に流れに任せ、しかし、視線はずれないように微調整は欠かさなかったが、その、裏側に秘めた、「素晴らしい」ものの期待に胸膨らませる、自分であった。が、それを確認できるはずのMにふとその意識を移したところ、どうも、さっきから、様子が変わらず、関心は、遠いお空の六時の方向に向いているようだ。ちなみに、私の関心ごとは、二時の方向である。(北を十二時として見た時。)やはり、この状況は、何かを予感させるものではあったが、その瞬間には気に求めなかったほどに、やはり浮かれていたのである。しかし、その心とは裏腹に、両手両足は、別人格であるかのようにその流れるプールに逆らった軌跡を描くように、作用し始めていた。期待しきったその顔の表情とは、想像だにできないことが起こっていたわけである。汗は、見えるはずもないが、きっと、砂漠の枯れた川のように、地中深くではあっても、確実に流れていたに違いない。それも、ほとんど水分が占める、労働の汗ではなく、薄く広げた水たまりに落として、斜め上から望めば、嫌な虹色に広がる模様を見せてくれるであろう、汗である。しかし、その様な、自分の意図していたに違いないテンポでは、ことは進まなかった。それでは、想像できなかったほどに、遅かったのか、というと、そうではない。まったくその反対の、思考が追い付かないほどの、その速さだったのである。
「・・・・・・」
息が声帯をゆるわせる程どの料を供給するほどの勢いを持ち得てなかった。
先程、自分が、水中に見を投じて、浮かび上がってきた直後に見た、あの人物だったのである。一回目に見るものは余り印象に残さないという、自分の性格が、「功を奏した」とでも言うべきか。しかし、その薄い印象からでさえも、はっきり同一人物が判定されるとは、・・、げに・・、人間の感覚は恐ろしや・・・・、といってみたいよ。・・・あかん。
気を取り直した、のは私だけで、もちろん、その様な辛い出来事など知るはずもないMは、そんな必要もなかったので、どうしたというものでもなかったが、こちらは、そうしなければ、どうも先に状況を進めることもできなかったわけである。それを確認する意味も込めて、
「ふぅー。」
と、全身の緊張を一気に解く感じで、といっても、排泄しない程度にではあるが、(あたりまえじゃ。)深呼吸の息を吐くところだけを、するように、且つ、その吐いた息を口腔にため込んで、すぼめた口から勢いよく掃き出す。それと同時にョックで一度水中に沈んでいて再び浮かび上がってきたために、目にプールの水が入って来るのが辛くて、顔を手で上から下に拭き落し、その時に、滴る水がその水を跳ね飛ばし、水しぶきを作るのである。だから正確に先程の音を表現すれば、「ぶぅー。」であろう。
それを競泳用の水中眼鏡をかけながら、やってみれば、それこそ、「一体どこのおっさんが・・。」という一言も言って見たくもなることが、自分で容易に塑像できるのであったが、やはりそれは、少々、床屋へいく手間を惜しんで、特に、後ろから見た時に、その伸び放題の髪の毛が、水の関係で、毛が少しばかり、波打っているように見えたことが主な原因になるのではないかと、思われたからである。
「田中はおらんか?」
そんな一言を言ってみては、その危機を脱しようとするのではあるが、丁度去年に、「租の彼女M子」を同じところで見たからといっても、まったくそんなことは効果をあげるはずもなかった。しかし、半分そんなことを気にしていなかった素振りに徹していたのは、直接、自分の後ろ姿を見ていなかったからかもしれない。どうも、信じたくないという心が、自分の思考をも支配していたのである。その本来なら気にすべき心を心の一番w億にしまい込んで、封をしてしまっているのである。しかし、その本能ともいえそうな、その心の営みは、我ながら恐れ入ってしまう。そんなことはおかまいなしに、そこら辺にいる、女性たちに、「えも言われぬ」笑みを投げ付けていたのには、もう、自分でも言う言葉もないということだ。(しかし、実はここで、墓穴を彫っているといえるかもしれない。既にその行為自体が、自分の「後ろ頭」の表現しているであろう人物に五十歩ぐらい近づいているのではないか、ということである。しかし、それなら、そんなに口に出して言わないようだが、本人は「目の保養に来ている。」という意識の強い、Mの方がそれに該当するのではないか。自分の方は、「様子を伺っている。」というように解釈し、あくまで「目の保養ではない。」といいたいわけである。うん、納得、・・・できかねる、我ながら。)飛び込み台に立つ、小学生。滑り台から降りて来る、小学生。ふふふ、これは・・・。アンタはロリコンか?とでもいわれそうだが、いやいや、どうもそういう意味は含めたいわけではなくて、欧米化した食生活がやはり、人間の成長過程を前部に圧縮したということに感動していたわけである。
「はぁ・・。」
何だ、そのため息は。自分にきいてみてもまともな回答は返って来るようには、思えないが、そうせずにはいられないものである。「HのHは、ヘンタイのH。」ということをふっと思い出してしまいそうな気分であった。
それでも、小学生は、小学生。まだちっちゃいものはちっちゃいものである。やはり、同じ年頃の・・・、とでもいいたいが、見ただけでは、高校生でもよう区別ができないほどになっているのは事実である。やはり、ここでも先程のため息はますます効果を持つことになり、意味が確固たるものになるのを目にみえるように感じるのだ、あはは。これで、説明はついた。
思わず、一人で、顔半分水につけた状態で、ほくそえんだ顔面を、縦に振ってしまう私であったが、Mはどうも、どこともつかない方向を見ており、私自身の今までの苦労は、それこと、無駄骨に終わっているに近いことを悟る瞬間も持たなければならなかった。
しかし考えれば、こういう時にこそ、「抜け駆け」を行うことがかなり簡単なわけで、それをしなければ、自分の一つの大目標である、「ネタになるもの探し」への大きな手掛かりをも失うことのなりかねない。おいしいものは、「即断」「即実行」でなければ、やっと、電話したとしても、「もう、午前中で締め切りましたので、すいません。」といわれるのが落ちなのである。
「ごぼッ。」
といっても、某発行部数を誇る新聞紙上朝刊になっているような四コマのことではもちろんなく、洗面器にため込んだ大量の屁を一気に空中に放出させた時の音でもない。潜水行動に入ったのである。平泳ぎしかまともにできなくなってしまっている私は、それでも、大した、かき、の力を感じさせない、ヘロヘロ平泳ぎ潜水であったが、やはり、「流れるプール」の順方向に泳いでいることはある。気持ちよいほどに、前に進んでいるような気がする。(実際は大したことはないが。)それは、やはり、その、奇異な景色もその心理効果を誘発させているに違いなかった。首からしたの人間たちが、楽しげに動きまわっているのである。普通、滅多に見られるものではない。それだけに、同じ人物を見るに付けても、そういう見え方と通常のそれとは大きく違うように感じられる。何となく、親近感を感じるのである。しかし、あくまでも、なんとなくであるが。実際に1メートル以内に接近することは至難の業である。増してや、それが、「男」付きが多いとなっては・・・。結局それかい。そうその通り、そうなんです。とりあえず、当座はそれで行こうと思ってしまっていたのは、やはり抑えられなかった、「素直」なものが会ったからだと、冷静でない、自分にも分析はできた。
「ざばあ。」
息の続く限りは、「魚」になれる哺乳類は、逆に言うと租の息が続かない限り、魚にはなりきれないことを悟ったわけない、私は、しかし、そのことを「物理的、生理的」に悟ってしまい、ついに現実の厳しい世界よろしく、空気中に舞い戻って来た。やはり、そこには、遠くに望むMとカップル、小学生たちや親子しか見えない・・・・?と思ったのは、束の間、ふと目に入ったのは、これは、数多くある、私の秘蔵VTRではなくて、理想の一つに、「抵触」するその笑みであった。例によって隣にいる人物は、その同性で、どの理想ベクトルからもその延長線上にはならない、タイプである。(それでも、準・・・には、結構適合できたりすると思われるものではあったが、それでも、思い入れのしてしまう隣の、(「O嬢」とでもしておこう。)その人物の、適度の肉付き、前部線で描けてしまうような顔、うーんこれはよいですね。(敢えて、「ナイス」とは言わない。)うん、といいながら、思いに耽っているうちに、(耽るな。)ふっと気がつくと、
「何をしとんねん。」
Mの思いやりもへったくれもないように聞こえる言葉を耳にして、我に帰ってしまった自分が・・。と思いつつ、
「おぁ、もうちょっと泳ごうか。」
と言いつつ、目は、追跡する、「メイ演技」少女探偵のように、周りに下がってもらって引き立っていたにすぎない、「謙譲語的」なもろい能力しかないのにかかわらず、それでも、「それのもんだ」的なうぬぼれ調子で、彼女等を追いながら、現実的な行動をしようとする体が、それと、まったく噛み合わずに、不用意に、顔面を水中に沈めてしまうことになり、思わず、鼻から、水を飲んでしまい、「キーン」というような嫌な痛みをしばらく残すことになったが、Mがそれ今だ、と言わんばかりにあげ足をとるとでも思っていたのだが、しかし、Mも私がそうなる直前ぐらいに、結果が同様になっていた、(つまり、鼻が、「ツーン」である。)ということもあり、そういう、「フォロー」への期待も薄く、更に、本当に見失ってしまった結果もついて来て、泣くに泣けない、泥沼展開を迎え、単にまともにできることといえば、Mと互いに、
「おぅ、おまえも、水入ったんか。」
「おう、おまえもか。」
内情を知ってその会話を聞けば、およそ傷をなめあう、いったものではなく、見るに絶えないものに感じるに違いないのだ。ふぅ。
突然に、自分の耳に復活して来た、周りのざわめきに、はっとした驚きをおぼえた。「グー」と続けたくなるほど、それでもしかし、もう若手とはいえない歳に今はなっている、ある歌手、あるいは、タレントと呼ぶべきであろうが、を、思い出させられたわけではないが、(何だそれは、と時間の経過した自分も解らなくなりかねないことは、言わない方が・・)とにかく、急激に、自分のいる状況が、自分の半径2メートルそこらの範囲のみ意識していたものから、一気に少なくとも、自分が振り返るのも含めて、見渡せる範囲にまで、広げられたのである。実際は短い間であっただろうが、ある程度に感じられる時間、立ちすくまざるを得ない状況が、そこに作られていたことを、そういう目に遭って初めて、解る私であった。Mは、そうではなかったようではあるが、よっぽど、「目の保養」に勤しんでいたのである。