21世紀を開く複雑系
パラダイムの大転換迫る

マンデルブロ集合

■現象を「複雑性」という
■共通の枠組みでとらえる
「複雑系(complex system)」という言葉は、1980年代の半ば、アメリカ、ニューメキシコ州にあるサンタフェ研究所(ジョージ・コーワンが設立した非営利の研究組織)に集まった数名の科学者たちによって使われ始めた。複雑系とは、ある特定の理論や学説を指す言葉ではない。生物学や物理学、化学、情報科学といった自然科学だけでなく、さらに経済学や経営学などの人文科学までも含め、現象を「複雑性」という共通の枠組みでとらえようとする、科学的なアプローチのことを言う。
近年、複雑系という考え方が脚光を浴びた背景には、近代科学の行き詰まりがある。21世紀を目前にした現在、私たちは、地球の温暖化やオゾン層の破壊、産業廃棄物の処理などの地球環境問題、人口増加や食糧危機の問題、エネルギー問題、バブル経済の破たんや株価暴落といった経済問題など、グローバルで解決困難な問題に直面している。これまでの近代科学の合理主義、科学万能主義へのアンチテーゼとして「複雑系」はパラダイム(広く多くの人に受け入れられる考え方)の転換を迫るものである。
■行き詰まる近代科学
■要素還元主義、機会論的世界観に限界
近代科学の祖デカルト、近代科学の父と呼ばれるニュートン以降の近代科学は「要素還元主義」、「機械論的世界観」の科学であった。要素還元主義とは、一見、複雑と思える事象も、原因を突き詰めていくと単純な要素で構成され、一つひとつの要素が理解できれば、そこから全体を理解できるという因果律的な考え方だ。すべての物質は分子、原子へ還元できる。さらに原子は原子核と電子に還元され、さらに素粒子へと究極の物質探しは今も行われている。機械論的世界観は、このような要素還元主義に根ざし、この世界は突き詰めていけば物質(部品)で構成され、それらは物理法則に従って動いている。つまりすべての事柄は運命的な決定論で説明できるとしたものである。
ところが、この近代科学の根底がゆらぎ始めたのである。ニュートン力学では、原子核の周りを回る電子の動きを説明するために、ある時点での電子の位置と運動量を計測しなければならない。1927年、ドイツの物理学者、ワーナー・ハイゼンブルクは、量子力学の分野で不確定性原理を発表し、電子の位置を知ろうとすれば運動量が、電子の運動量を知ろうとすれば位置が、それぞれ不確定になるため、同時に計測することは不可能であり、確率的にしか論じることができないことを証明した。さらに「カオス」、「フラクタル」などの登場が、ゆらぎを大きくした。
■全包括主義、生命論的世界観が
■複雑系の基本に
これに対して「複雑系」の考え方は、「全包括主義」、「生命論的世界観」の科学と言える。全包括主義とは、一つひとつの要素に還元するのではなく、その関連性の中で理解しようというもの。ただし、複雑系は近代科学を全面的に否定し、それにとって代わるものではなく、科学の枠組みを広げ、これまでの科学の対象外とされていた事象、あるいは意図的に目をつぶっていた事象をも科学の領域としてとらえようとする。つまり、複雑系は近代科学を補完するものだと言える。また、生命論的世界観は、生命は非生命に深く根差してはいるが、個々の要素は複雑に相互作用をし、自己組織化して全体を構成する。「全体は個々の要素の総和を超える」という考え方だ。
たとえば、「VTR(ビデオ・テープ・レコーダー)の規格であるベータ方式は、なぜVHS方式に負けたのか」、あるいは、「WindowsパソコンがMacintoshに比べ圧倒的シェアを占有するに至ったのか」。このような問題は、これまでの経済学の対象外、経済学の範疇(はんちゅう)ではとらえることができなかった。
サンタフェ研究所に集まった研究者のひとり、アイルランド生まれの経済学者、ブライアン・アーサーは「収穫逓増」という考え方でこれらの現象を説明を試みる。どちらかが技術的に優れていたからではなく、ある時点でどちらかが、たまたま、ほんの少し使用者が多かったから…。それが収穫逓増、つまり有利なほうには、さらに有利に働く市場原理によって決定的な差を生むことになってしまったというのだ。
別の例を紹介しよう。アリの行列の途中に障害物を置く、2分の1の確率で右を通るアリと左を通るアリが現れるが、あるときどちらかを通るアリが、たまたまほんの少し多くなると、そちらを通るアリが圧倒的に多くなり、逆に反対側を通るアリはいなくなり、完全に1つの道すじが出来上がる。
■情報通信の分野にも
■多大の影響を与える
これは複雑系を理解するための1つの例にすぎない。前にも述べたように複雑系は特定の理論を指す言葉ではなく、もっと幅広い概念だからだ。情報通信の分野に限って言えば、混雑を軽減するための交通システムや流通システムの構築と管理、インターネットなどの通信システムやデータ圧縮技術、人工知能や人工生命の研究、ロボットなどの制御技術、ニューロコンピューターやファジーコンピューターなど新しい回路の設計など、複雑系が与える影響は大きい。それが「21世紀を切り開く科学」として複雑系が注目されているゆえんだろう。
(金矢八十男)