紹介と翻訳

グリゴーリー・オシポヴィチ・ヴィノクール「言語史の課題について」(1941年)

小林 潔 (こばやし きよし:早稲田大学大学院ロシヤ文学専攻)

 1996年に生誕100年を迎えるヴィノクール (Григорий Осипович Винокур 1896-1947)の論文『言語史の課題について (О задачах истории языка)』を翻訳・紹介する。これは、言語学の各領域の研究内容を定めた上で、言語学的文体論と文芸作品の文体(スタイル)・作家の言語の研究との区別を説いたものである。1941年、モスクワの教育研究所の紀要に発表された。

 先ず、ヴィノクールについて簡単に触れておこう。

1:生涯と業績

 ヴィノクールの主な伝記的事実をあげる。

 彼は、189611月5日ワルシャワに生まれている。1904年8歳の時にモスクワに移り、191519歳でストラホフ・ギムナジウムを修了。既にこの頃には言語学を志しており、1916年にモスクワ大学に入学する。在学中は、ウシャコフ、ペテルソン、ポクロフスキ−らに師事し、モスクワ方言委員会、モスクワ言語学サークルに参加、未来派と交流して文芸学に関心を抱くようになる。『芸術左翼戦線 (Леф)』誌にマヤコフスキイ詩の評論などを執筆している。192024歳から一時期、大学を離れ、エストニア、ラトヴィアで大使館通訳として働く。192226歳、大学に戻り、卒業。タス通信で働く。192428歳、国立芸術学アカデミーに参加するようになる。192529歳の時、『言語文化 (Культура языка)』を著す。192731歳には、『伝記と文化 (Биография и культура)』、『詩的テキストの批判 (Критика поэтического текста)』。193034歳の時から大学教育にかかわるようになる。193337歳、プーシキン委員会に入り、プーシキンの作品集の出版に従事する。193539歳、プーシキン・ドーム研究員、プーシキン『エヴゲーニー・オネーギン』校訂を行う。193842歳からは、『プーシキン辞典 (Словарь языка Пушкина)』(1956-61)のためのカード制作指揮に入る。193943歳、『ロシア語技術用語における語形成の若干の現象について(О некоторых явлениях словообразования в русской технической терминологии)』。194145歳で言語研究所に移籍、『言語史の課題について』を発表する。194347歳で文学博士号。194448歳の時には文献学研究入門の講義を行う。194549歳の時も講義を行い、又、『言語史の問題としての正書法 (Орфография как проблема истории языка)』も著す。194650歳、『ロシア語語形成論考 (Заметки по русскому словообразованию)』。1947年5月17日、51歳にて死去。遺稿には、『ロシア標準語史講義 (Лекции по истории русского литературного языка)』草稿があった。その他、ウシャコフ編『ロシア語詳解辞典 (Толковый словарь русского языка)』(1934-40)、オジェゴフ編『ロシア語辞典 (Словарь русского языка)』(第1版1949)の編集に参加している。

 

2:ヴィノクールの学問

 彼の学問は、一般言語学からロシア語学、ロシア語史、文体論、文芸学から作品のテキスト校訂までと多岐に渡る。彼を単に言語学者であるとか、文芸学者であると呼ぶのは彼の広さを捉え切っていない。やはり、語の最も広い意味で、フィロローグと呼ぶのが正当である。彼は、諸学の中のフィロロギーの位置、使命、その構造の解明に従事したのであった。彼に依れば、フィロロギーとは、テキストの読解・解釈という共通の仕事にかかわる諸々の学の連合である。その根底の理念は、文化についての諸学の百科としてのフィロロギーというものであった。

 ヴィノクールは言語に対して2つのアプローチを行ったとされる。1つは、言語の組成を研究する解剖学的なものであり、もう1つは、知的活動の中で言語の組成がどう現れているかを究明する生理学的なものであった。ヴィノクールは後者のアプローチを重視し、それ故、文芸作品や作家の言語、詩的言語をも研究したのである。又、文体論や歴史文体論としての標準語史という彼の学問も現れているのである。そして、「標準語の文体の歴史的発展における標準語文体研究の対象と課題を文芸作品の文体、作家の個人的な文体(言語)の研究と区別して、はっきり定義したことにヴィノクールの功績があると言えるのである」(Барзударов 1956:3)。ここに翻訳・紹介する「言語史の課題について」も言語学的文体論の問題と文芸作品の文体研究の問題との区別を説いたものである。

 そもそも、ヴィノクールにとっての重要テーマはロシア標準語史と文芸作品の言語と文体の隣接問題であった。そのことは、死の直前にロシア標準語史講義の用意をしていたことが示している。勿論、ヴィノクールを一面のみで捉えるのは誤りであり、ヤーコブソン同様、詩学にも相応の貢献をなしていた。但し、ヤーコブソンが一般言語学、詩学の方向に進んだのに対し、ヴィノクールはより個別的な問題、歴史へと向かったのである。桑野隆は、「ヤーコブソンが今日披露しているような詩学は、ヴィノクールにとっても当然可能であったと予想されるだけに、詩学の分野での研究が後方に退かねばならなかったことはやはり惜しまれる」(桑野 1979: 132)とするが、ロシア語学に関して言えば、このヴィノクールというヤーコブソンにならなかった男の功績は、やはり正にこのこと、ヴィノクールがヤーコブソンと別の道を歩んだことにあるように思われる。もっとも、性急な評価は避けねばならないだろう。

 その他、ヴィノクールの学問に関しては、彼にとってのロシア標準語史とはどのようなものであったかという問題、言語学の理論の問題と実際の言語活動との関わりを論じた『言語文化』のこと、ロシアの書き言葉の歴史にとっての価値を論じた彼の正書法論のこと、又、ヴィノクールの学問をも規定したであろう当時の社会状況(例えば、フォルマリズム批判)との問題など考えるべきことは多い。だが、それはまた別に詳しく論ずるべきことである。

3:ヴィノクール関連文献

 まとまった著作集としては、

Винокур Г.О. Избранные работы по русскому языку.-М., 1959.: Репринт, -Токио, 1978.

Винокур Г.О. О языке художественной литературы.-М., 1991.

 ヴィノクールについては、例えば、

Русский язык. Энциклопедия.-М.,1979.-С.43.

Энциклопедический словарь юного филолога.-М.,1984.-С.288-289.

Бархударов С.Г. Г.О.Винокур// Винокур Г.О. Избранные работы по русскому языку.-М., 1959.: Репринт, -Токио, 1978.-С.3-8.

Цейтлин Р.М. Лингвистические труды Г.О.Винокура и современное языкознание. (К 90-летию со дня рождения)// ВЯ-1986.-No6.-С.11-22.

 日本語で読めるものとしては、

桑野隆 『ソ連言語理論小史 ボードアン・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ』 三一書房、1979年。

 ヴィノクールの翻訳としては、

ビノクール、グレゴーリー・オシポビチ 『ロシア語−語史概説』 金指久美子訳 (語研資料17) 東京外国語大学語学研究所、1995年。

ヴィノクール、石田修一編訳『ロシア語の歴史』吾妻書房、1996年。

ともに、Русский язык の翻訳である。(ただし、もととなる版が異なる。)




翻訳 

言語史の課題について

グリゴーリー・オシポヴィチ・ヴィノクール 

出典

Винокур Г.О.О задачах истории языка//Винокур Г.О. Избранные работы по русскому языку.-М., 1959.: Репринт, -Токио, 1978.-C.207-226.

 現代の言語学研究の全ては2つのグループに分けることが出来る。第1のグループに属するのは、諸言語のあり方を支配する一般法則を定めるべく世界の様々な諸言語の諸事実を研究すると言うものである。この種の研究は、その課題から言って、如何なる年代的・民族的制限も持ち得ない。より多くの言語が研究に付されれば付されるほど、又、これらの言語が多様であればあるほど、確立した法則は全般的な性格を持つのであって、ある一時期に観察することが出来た個々の偶然の諸事実の単なる一般化ではないことが、より保証されるのである。世界のあらゆる諸言語は、現存するものであれ、過去のものとなったものであれ、規範化されたものであれ、口頭での日常のコミュニケーションの手段としてのみ使われるものであれ、全国民的で国際的なものであれ、地方的な方言に過ぎないものであれ、この種の研究にとっては全く同様の価値を呈する。何故なら、言語の存するところでは何処でも言語のあり方の一般法則が存在するからであり、その法則を知ることが研究の目的をなすのである。数え切れぬほど多くの人間の諸言語は、この種の研究にとって、一種の等価物である。即ち、様々な諸言語は、ここでは、同一の本質つまり人間の言語なるものの歴史的に規定された多様な現れとして捉えられるのである。この様な研究の目的は、ある1つの言語もしくは多くの言語でもよいが、その中のあれこれの諸現象の目録を定めることにあるのではなく、あらゆる言語の内に何が常に存在しているか、そして、同一のものが様々な諸言語の内にどのように様々に現れているかを知ることにある。この様な諸研究の最終的な結果が我々に教えることとは、そもそも如何なる「可能な」あり方を諸言語はとるか、何が諸言語の内に「存在している」か、如何なる事実が言語のあり方の中で「たまたま現れている」のか、と言うことだが、この際、この様な可能性と偶然性は皆、科学的な考察にとって、諸民族の歴史的存在の表層に出現したバラバラの諸現象としてではなく、一般的合法則性の結果と発露として見られるのである。この様なやり方で我々が知るのは、例えば、どのような音から人間の発話は構成され得るのか、とか、これらの音は様々なタイプの諸言語でどのように組織されているか、とか、様々な諸言語の歴史の中でどのようにある音の別の音への移行が生じているのかなどである。ここにこそ、フランスで la linguistique g?n?rale と呼ばれ、私見では、лингвисика (言語学)「言語に関する学問」と言う名称のみに、固有の専門的対象を持った独立した学問として言語学を語る場合、この術語の全く文字通りで正確な意義で相応しい知の領域の究極の目的があるのである。

 言語学研究の第2のグループと私がするのは、ある1つの個別言語、もしくは起源と文化的歴史的な点で互いに関係しているある個別の言語グループを対象とする研究である。1つの個別言語を研究するのか、起源と文化史で互いに関係している幾つかの言語を研究するのかは、原則として違いはない。後者の場合、そのような言語グループは、一連の方言に現れた1つの言語に他ならないからである。スラヴ諸語そのもの、即ち、これらの言語がスラヴの言語世界に共通に属していると言う特徴で特別なグループをなしているグループを扱う研究は、全てのスラヴ諸語が、現存のものも死滅したものも、口頭のものも書記用のものも、日常的なものも規範化されたものも、あるまとまった1つのものとして研究されると言う条件のもとでのみ、当然のことながらその目的を達成するのである。さもなければ、これらの諸語が特別の独立した研究対象に統合されていること自体が理解されないことになろう。例えば、印欧語言語学全体は「1つの」言語に関する学問であり、この事実は本質的に、常に肯定的とは決して言えないにせよ、この領域の専門家達の間で生じた共通の言語学説に影響したことには如何なる疑いもない。第1のグループの研究と、個別のイディオムを対象とするこの様な研究が異なる点は、正にこの選択したイディオムをその具体的な歴史的存在の完全な形で認識することがこの研究にとっての究極の課題である、と言うことである。こうした研究が究明するのは、何が『可能』で、『存在』し、『現れている』かではなく、何が実際に、正にこの場合に、「現にあり」、「過去にあり」、「生じた」かである。勿論、如何なる言語学の研究も、個別言語を扱うものも含めて、言語学の共通の姿勢をとらないわけにはいかないし、人間の諸言語においてそもそも可能なことから必ず出発するべきである。しかし、本来的な言語学研究にとっては、そのような共通の姿勢が研究の究極の目的をなすのに対し、1つの言語の領域での研究にとっては、この共通の姿勢は、主要方針とすべき方法論的指示としてのみ役立つのである。逆に、個別のイディオムのために定められた諸法則が、術語の本来の意味の言語学と無関係だと言うことは勿論全くない。しかし、本来の言語学にとって、そのような諸法則は、本来の言語学研究の構成の単なる素材としてのみ役立つに過ぎない。言語に関する学問の究極の課題の観点から言えば、これは、総合的分析を必要とする多くの部分的な事例の1つに過ぎないからである。かくして、実際上、両タイプの研究は極めて密接にかかわり合い、しばしば、言語学研究の2つの方向の間にはっきりとした境界を引くことは不可能である。個別の諸言語の領域での研究は、一般言語学的研究を糧とし、一般言語学的諸法則をより正確に定式化することを可能にする。一方、そのような定式化を正確なものとすることは、個別の諸言語においても、その中で以前は気付かれぬままであったものを見付けることを可能にするのである。必然的なこの永遠の運動の中に、学問的知識の無限の進歩の保証もまさにあるのだ。しかし、一方の学問がもう一方の研究を方向付け、同時に、素材を利用しても、やはり、2つの学問は「異なる」学問であり続けるし、各々、学問の一般的体系の中でのその独自で独立した位置を失わないのである。

 全く明らかなことだが、いわゆる一般言語学は個別の諸言語の領域での研究なしにはあり得ない。しかし、このことは、一般言語学の課題が様々な諸言語の素材からデータの報告書を編纂することに尽きる、と言う意味では全くない。この様な様々な素材の比較が既にそれ自体、個別言語の研究を発生の必要な条件としない新たな専門的な諸問題を生み出しているからである。又、個別の諸言語の領域での研究の全ての意義は、一般言語学の課題に関わる補助的な役割に過ぎないと考えるのも全く同様に誤りであろう。一般言語学に必要な素材を供給しつつも、個別の諸言語の領域での研究は、同時に、ある1つの言語が研究される時にだけ生じ、術語の専門的な意味での言語に関する学問の眼前にありもしないし又あるはずもない諸問題を解決するのである。勿論、まさにこの様な形式で言語学に応分の貢献をなそうと言う特殊な目的を持ってただ1つの言語を研究することを誰にも禁ずることは出来ない。どのような学問の領域でも、補助的で予備的な作業の必要はある。しかし、このような補助的で第2義的な立場に留まる場合は、一般言語学の眼前に生じる課題を自分流に解決してはいけないし、内容が個別言語の研究で実際あるはずの特別な課題に気付くだけでもやはりいけない。個別言語の研究は、補助的で第2義的な目的に留まろうとせず、対象に完全に即した存在であろうとすると、当該言語の「歴史」の研究であるべきだと言うことから生じる諸課題を私は念頭においているのである。

 「歴史」なる語は言語に適用した時、様々なニュアンスの意味を持つことがあって、それを分析することが必要である。普通の意味となっているのは、例えば、言語のあらゆる研究はただ歴史的でのみあるべきであり、又、そうでしかあり得ない、と言う主張である。この主張は一般的形式では正しいが、如何なる種類の言語研究をするつもりであるかによって様々な意味を持つ。即ち、人間の言語一般の個別的で、歴史的に知られている発現として、言語を研究すること、つまり、上記の通りに、本来の意味での言語学的研究であるか、もしくは、人間の歴史の個性的で独特な現象としての個別のイディオムの研究であるかである。言語は人間の文化の条件であり産物である。それ故、言語のあらゆる研究は必然的に文化そのものを対象とする。換言すれば、歴史的研究であるのだ。しかし、人類の文化的発達を支配する共通法則は、地球の様々な場所で、様々な人間の集団の中で、地域的条件に左右されて、様々な時に独自の姿で現れるのであるから、各々の個別の文化の具体的な歴史がその他全ての歴史と似ていることは少ないし、同じく、ある文化が作った言語もその他全ての言語と似ていることも少ない。一方、あらゆる文化現象は、そして恐らく、まさに言語は特に、自らの一旦生じた物質的組織を遺物として、文化的発達のその物を生み出した段階が終わった後も極めて長い間保つ能力を持っている。それ故、もし、人間の言語一般の全体の歴史を語ることが出来るならば、明らかに、トルコ・タタールの諸言語もしくはある1つのオスマンの言語について我々が語る意味とは全く異なる意味においてでである。疑いもなく、どの歴史的に立証されたイディオムも人間の言語の形成過程でのある1つの知られた段階である。それ故、様々なタイプの言語構造の間の、又、人間の文化の発達における様々な段階の間のあれこれの関係を確定しようとする望みはまったく理解できることである。尤も、実際上、この課題はしばしば、実現できないほど困難だと思われてはいた。しかし、文化的段階の変遷が言語構造の変遷を必ず予定しているわけでは決してない。過去から受け継いだ構造は容易に新しい条件に適応するからである。従って、知られている言語構造間の如何なる具体的歴史的継承性、又起源上の継承性についてもこの意味で考えるには及ばないのである。別の物を前提とすることは、例えば、ロシア封建制は古典古代の奴隷制社会から発達し、イギリス資本主義は中国の封建制から発展したのだと推定するのと同様であろう。それでも、この様な推定の莫迦らしさは、封建制が奴隷制に代わり、封建制が資本主義に代わったと言う事実をいささかも動揺させはしない。厳密に確定された諸事実の厳密な解釈を立証することがもっと必要とはいえ、言語の屈折的構造が所謂ヤペテ諸語が示す構造にとって代わったことは充分あり得ることである。しかし、このことは、個々の印欧諸語が個々のヤペテ諸語と現実の歴史的継承性によって関係しているとか、知られている印欧諸語がどれもかつてヤペテ語であったとか、知られているヤペテ諸語がどれもいつか印欧語になるとかと言うことではない。歴史主義のこの2つの概念の混同とそこから必然的に生じた、様々な言語の経験的素材に対する放恣な圧迫の中に、私の見るところ、マール学派が練り上げた所謂新言語学説の根本的な誤謬があるのである。尤も、言語の発生の唯一の過程と言うアイデアそれ自体は、先に亡くなったマールを鼓舞したものであり、アイデアに対する別のアプローチを取れば、心惹かれるものであるばかりでなく、方法論的観点から言って非の打ち所のないものであり得るかも知れない。かくして、言語学と歴史との関係は疑いないままであり、一般言語学的諸法則は、実際、歴史的諸法則である。ただし、法則が作用する領域だけは、具体的な人間集団の具体的な歴史ではなく、文化的歴史的類型論の一般的諸関係である。

 全く異なるものが、個別言語、もしくは同じことだが、個別の語族を対象とする言語学研究の歴史主義である。個別言語は独立した一回限りの歴史的現象であり、ある独立した文化体系に属する現象である。だから、この言語は、この体系の他のあらゆる構成要素が研究されるのと全く同じ様に、余すところなくその命ある発現、関係、連関の中に研究されなければならない。ある文化的歴史的集団の、大抵の場合は民族の精神的創造の1つの産物として、言語は、文献、学術、芸術、国家、法律、道徳などとともに1つの部分を成している。尤も、言語は、これらの他のあらゆる文化構成の条件をも同時に形成しているから、この部分に於いて独自の立場を占めている。1つの言語の領域に完全に留まる時でさえ、即ち、ある言語を専らその言語そのもののために研究し、言語の助けを借りて言語で表現された他の文化現象にアクセスするために言語研究を行うのではない時でさえ、我々は既に、まさにこのことによって、当該の文化を、文化の歴史と言う書のまさに第1の、そして一定の点で恐らく最も重要な章を研究しているのである。個別言語の研究者は歴史家である。それは、単に、自分が確定する諸事実の説明のために広い歴史的文脈を必要とするからだけでは決してない。何よりもその理由は、自分自身の研究対象である言語が、やはり「歴史」であり、既に言語そのものが、他の歴史現象とともに、この全歴史的文脈の形成に関わっているからである。言語の歴史のない民族の歴史は、例えば、国家や法律の歴史がない歴史同様、原則として不完全である。かくして、民族の歴史とその言語との関係は、言語は歴史の鏡と言ったありきたりの格言で考えられるものよりも複雑なのである。言語は、実際、民族の歴史を反映している。しかし、同時に、言語はそれ自身この歴史の部分であり、民族の創造の作品の1つなのだ。このことが意味することは、ある個別言語の研究は補助的で技術的な課題だけだと言うことでは決してなく、同様に、当該の文化を全般的に研究する者の確かな直接の課題であると言うことである。それ故、ある文化の言語を研究する言語学者は誰でも、まさにこのことによって、望もうが望むまいが、自分が選んだ言語を産み出した文化の研究者となるのである。文化の個々の産物の物的な組織は独特であり、一般的な法学の準備なくしてある民族の法制度を研究することが不可能なことと同様、一般言語学の準備なくして言語を研究することは不可能である。このことから、必然的な専門化が文化の個々の領域ごとに生まれ、作業の分業が生じる。しかし、学問の一般法則が討議される限り、断固として主張されるべきは、様々な専門家間の分業の際にも、彼等の仕事は常に「共通」のままであると言うことである。それ故、方法も、個々の文化現象の研究が関係する素材の特殊性に左右され様々な変形を被るにしても、共通であるべきである。特に、文化についての学問と言う書の全ての章にとって共通であるのは、実際「1つ」の学問、しかも、まさに文化の「歴史」以外の何者でもあり得ない学問の個々の章についての様に全章を我々が語る時に依る条件である。勿論、ここでは、過去にあり、今はもうないものだけを歴史的であると断言する術語理解で歴史を見るのではない。徹底的に考えるなら、1秒前に起こったこと全てがやはり過去となってしまうからで、一体この様な条件の下で、過去と非過去との間の厳密な境を示すべき何らかの現実的な可能性があるだろうか?明らかに、このことが可能であるのは、非過去が、この表現の客観的意味と厳密に対応して、未来として理解される場合だけである。それ故、歴史の学問が関わり得る唯一の現実の境とは、既に実現したこと、具体的な生命ある形に具現化したもの、路上で簡単にと言うわけにはいかず博物館においてのみと言うことであっても観察し把握することが出来るものと、まだ実現していないもの、ある程度の用心をしつつ近づき接することが出来るもの、せいぜい推測し予見することだけが出来るものとの間の境である。過去と現在との絶対に断ち切られることのない関係は、現在存在している全てのものは過去存在したものの変形に過ぎないと言う単純な考察から容易に理解される。ただこれ故にのみ、そもそも歴史的予見が可能なのである。現在存在するものは、空から落ちてきたのではなく、過去存在していたものによって準備され生じたのである。過去が自ら自分自身の否定を生み出したと言う仮定の条件の下でさえそうなのだ。それだからこそ、文化の現存する事実の如何なる研究も起源を扱う研究であらざるを得ないし、「何処から」そして「何故」と言う問題を自己に課さざるを得ないのだ。何かそれ自体で現に存在しており、必然的に、たとえ完全に否定的なモメントに過ぎぬとしても、この『何か』が以前存在するための根拠を自己の内に含めないものの様に自己の対象に接するあらゆる試みは、研究者の運命を現実の代わりに虚構を研究するものとしてしまい、それ故、非科学的である。 

 言語に適用する場合、この観点は幾つかの特別な解説を必要とする。第1に指摘して良いことは、個別のイディオムに関してのみ、「何処から」そして「何故」と言う問題に対する言語学者の解答は真に現実的で具体的なものであり得ると言うことである。それは、これらの問題一般に答えることが出来るのは、これらの問題が何らかの現実的な文化的歴史的内容を前提としているならば、と言う場合だけであるからである。ロシア語には、セルビア語やラテン語ばかりでなく、例えば、バントゥ諸語とも一定の関係がある。しかし、後者の場合、この諸関係は類型論的なものであり、その研究から導き出すことが出来る様々な結果とは、人間の諸言語の組織の領域に存在する法則性に関するものと、この組織の様々な諸手段の間の構造的諸関係に関するものである。一方、ロシア語とセルビア語もしくはラテン語との間の諸関係は、もはや単に類型論的な問題であるばかりでなく、現実的な発生論的問題でもあって、これらの諸語の組成における相似と相違が然るべく科学的に解明されるのは、これら諸語が構造の上だけでなく、一定の歴史的事件の結果としても理解された後だけである。多様な諸言語に対する様々な観察から、例えば、短い a なる音は短い開いた音 o に変わる可能性があり、又現に変化していることが知られている。しかし、ラテン語とスラヴ諸語の間の諸関係に適用する場合、この様な公式化が必ず前提としなければならないことは、この様な音の変化が、現実の歴史的事件として、ある時代にある歴史的条件の下で、当該の音の純粋に生理学的な進化の所産であるのか、他の種族がある言語を習得した所産であるのか、話者集団の移住と言う状況下でのことなのか、そうした集団の生活もしくは経済の組織での何らかの激変と言う状況下のことなのか、等々いずれにしても、実際に生じたと言うことである。かなりしばしばあることだが、あれこれのイディオムの個々の諸事実の歴史に関するまさにこのような現実的歴史的コメンタリーが、折良く我々の手元にあると言うことはないものである。しかし、このことの原因は、我々の知識の程度と課題の困難さにあるに過ぎず、学問がまだこのことまで『達していない』ことにあるのだが、学問は研究のこの様な、勿論かなり遠くにある限界まで達する必要はないし、そう欲しもしないと言うことにあるのでは決してないのである。しかし、本来の言語学研究は、諸言語のあり方を支配する一般法則を発見することを課題とし、例えば、その目的のためにロシア語とバントゥ諸語を比較するものであって、そうした研究の前には具体的な起源のこの様な諸問題は実際、出てくることさえないのである。そこでは、実際、任意のあらゆるものを任意のあらゆるものと比較することがあり得る。しかし、そこで「だけ」である。

 第2に、上記からの当然の帰結、言語の現在の状態での言語研究は本質的に歴史的研究でもあると言う帰結に注意を向けなければならない。この結論はややもすれば奇妙で実際の事情に矛盾するものと思われるものだ。実際、例えば、我々の世代の観点でのロシア語学においては、現代語の研究は、過去のロシア語を研究することから学問の特殊な専攻分野として分離する著しい傾向を示しているのである。しかし、この対立は見せかけのものである。このことは、現代語の研究と同じ言語の過去の状態の研究とを分けようとする上記の傾向が、我々の言語学の発展のあるレヴェルで肯定的側面をも含んでいてさえも、断言し得るのである。問題は要するに、現代語の研究は必ず歴史的研究であるとしても、所謂言語史の研究は、他ならぬ現代語研究に目下最も明瞭に適用されているまさにその方法によって理想上実現されるべきだと言うことである。『静態』言語学と『通時』言語学に関するソシュールの有名な学説は、必要な批判をせずにそれに盲従し、その中で虚偽の結論から真理の種子を分け出さなければ、容易に大きな誤解へと至りがちである。静態言語学は必ず現代語の研究であり、通時言語学は言語史研究であるかのように考えることは全くの誤りであろう。実際は、現代語もやはり歴史であり、一方、言語史も通時的にではなく、静態で研究すべきなのである。勿論、こう言うことが出来るのは、ソシュールの諸術語の内容自体を彼流に解釈する場合だけである。ソシュールの所謂静態的方法は言語を一貫した「体系」として研究することを要求するのである。換言すれば、この方法は、コミュニケーションの現実の手段としてのある言語体系の内に同時に存在するあらゆる言語事実を同時に分析することを前提としているのである。言語の諸事実は相関しており、例えば、音 a は他の音 e, o 等がないうちは存在しないし、この時の言語の組成における音 a の機能は、他のどんな音が音 a に対置しているかに依ってまったく異なることがあり得るので、ソシュールの見解から導かれる上記の要求は文句のつけようがないものであり、彼の公式自体はジュネーブ学派の創始者たるソシュールの永遠の功績として残るものである。しかし、この要求を真剣に受け入れるならば、我々が現代の状況の言語ではなく過去の状況の言語を研究する時にもこの要求は効力を維持するのだと言う結論に至るのは難しいことではない。過去の状態の言語を生きた歴史的現実として我々が研究出来るのは、個々の要素が各々他の諸要素との相関においてのみ一定の機能を得る一貫した体系を言語の中に見出した時だけだと言うことは明らかである。そしてまさにここに、伝統的な言語史の最大の弱点があるのである。概して、ヨーロッパの言語学における言語史の構築は、歴史を、より正確に言えば、言語組成全体の丸ごとの進化をでなく、ある言語の個々の孤立した諸要素の外的な進化を研究する段階に未だ留まっているのである。音 a の歴史そのものは、音 a がその質を一度も変えなかったこともあり得るにしても、この音の変化が当該の体系の他の音の客観的機能に如何に反映しているか、そして、この音の機能を他の音の変化が如何に変えたかが示されるまでは、虚構のままである。ロシア語の音 y は、先史時代から如何なる音にも変わっていないのであるが、7世紀の音 y と20世紀の音 y は、1300年前に発音されていた同じ単語においてこの音自体が変化しないままであっても、別々の問題なのである。ところで、当然のことながら、ロシア語史の教科書には1冊たりとも『音 y の歴史』と言う表題の章はないのである。以上のことより疑問の余地なく出てくる結論は、真の言語史とは必ず、ソシュールの用語が客観的に持つ意味での『静態的』歴史でなければならないと言うことである。但し、この術語そのものは明らかに不適当であり、問題の本質を現してはいない。しかし、もしこれがそうなら、明らかに、『通時的』言語学の概念も何か別の意味で解釈されるべきである。この概念の内容は、言語体系は変化すると言うこと、言語史全体は言語体系の連続的な交替であること、加えて、ある体系から別の体系への移行は何らかの合法則的な関係に従うと言うことから把握される。してみれば、言語の歴史的存在のある一時点で言語体系を解明するのは不充分である。この体系の先行する体系と後の代わりとなった体系への合法則的な関係を明らかにすることが更に必要である。言ってみれば、この意味で言語の『通時態』を語ることが出来るのであるが、一方で、言語における『共時態』と『通時態』との対立そのものは、見せかけの対立であり、歴史的現実に於いて如何なる根拠も持たないものであることは、全く明らかである。

 かくして、言語史がその対象に適したものたらんとし、抽象ではなく現実を研究しようとするならば、言語史の課題は以下のような公式になるべきである。当該言語の存在たる歴史的過程において、研究される言語が各々の段階で先行の体系、後続の体系と区別される体系となる一定の段階を抽出しなくてはならない。そのような体系の各々は、その時代、その環境のコミュニケーションの現実の手段として研究されなくてはならない。即ちこの体系の中に含まれている内的連関、関係の余すところなき完全な形で研究するのである。しかし、この様な各々の体系は、先行の体系の変形であり、後続の段階の準備段階に過ぎないので、この体系そのものは、年代的に隣接する諸体系とこの体系を結びつける合法則的諸関係が把握されるまでは、解明され得ない。言語の変遷は一瞬も留まることを知らず、それ故、言語のある各々の状態には、言語のより後代の状態の観点から見ればその萌芽である諸事実が存在するのである。してみれば、実際の研究においては、言語体系の中に必然的に含まれている分割諸要素から離れて言語体系を研究することは不可能であり、課題に完全に答える研究は明らかに、ある言語体系の誕生は同時に、その体系が別の体系へと変わる始まりであって、それが無限に続くのだと言うことを示すことが出来る研究だけである。しかし、このこと全てに関して如何なる場合も忘れてはならないことは、言語は文化の全体史の部分もしくは独立した成分であることと、それ故、諸体系は、大気圏外ではなく一定の社会的環境の中で作用し、誕生し、消滅するのだと言うこと、その環境のあり方は歴史的過程の一般法則に規制されると言うことである。言語は、歴史的発達のこの一般法則に受動的にではなく積極的に従う。即ち、他のあらゆるイデオロギー形態と同様に、言語自体が一定の点で歴史に、例えば、文字文化の歴史や思想史等々に作用するのである。とりわけ、言語の内的メカニズムには独自の構成法則があって、この法則のあれこれの存在に多くの点で言語体系の実際の発展の具体的現象が左右されるのである。しかしそれでもやはり、内在的な自動の力のように言語自身がこのメカニズムによって動くのではなく、活動の中で歴史的使命を実現する人間社会が動くのである。つまり、言語の発生の性格と諸原因についての問題への「最終的な」解答はその集団の文化史からのみ得られると言うことであり、従って、個別言語の研究、言い換えれば、言語史とは、術語の絶対的に正確な意味で文化・歴史学なのだと言うことである。

 勿論、以上全ては理想に過ぎず、学問の現状に適うこと不十分である。この理想の実現のためには、望むだけでは足りず、恐らく短期間には成し遂げられない作業、一般言語学の対応した発達を要求する大規模な作業が更に必要である。それでも私が思うに、このことが理想そのものを簡潔に表現することを妨げることはいささかもないのである。道程の最終目標が如何に遠くにあろうと、何処に向かっているのか、何処に行こうとしているのかを知っていることは常に必要だからである。最も重要なことは、この理想は抽象的なユートピアではないと言うこと、学問の実際の発達は、近いにしろ遠いにしろ将来に理想を実現するための準備を個々の研究者の個人的な意欲や意図とは無関係にやはり必然的に為すと言うことである。この意味で、勿論、どんな言語のものであれ言語史の学問が、現在も既に持っている知識と結論の客観的な学問的価値を一瞬たりとも疑ってはならないし、これらの知識と結論なしにはそもそも言語史と言う学問の如何なる将来も全く存在しないと言うことも一瞬たりとも疑ってはならないのである。しかし、現代の言語史がその理想の課題に対して持つ準備の意義とは別に、現代言語史の立場、又、同じく方法は、自立した学問的な、但し、思うに、言語学プロパーのものではない意義を保っているのである。孤立して取り上げられるある個別の音もしくは語の歴史を解明することはそれ自体ある学問的知識を提出するものではないなどとは、言うことが出来ないし、このことは、言語体系の歴史を全体として構成するために知るべきものであるのは言うまでもないからである。勿論、この様な知識は、独自の価値を有する学問的知識なのだ。言語の知識と同様、この様な知識は、その対象が抽象的であるから、完璧なものだと認めることは出来ない。しかし、この様な方法で、例えば歴史民族誌が必要とする全く完全な諸特徴を我々が知ることはしごく当然のことなのである。なにがしかの言語もしくは方言の特性の記述に基づく作業に対する現代の言語学者の反論を理解するのは極めて容易である。実際、言語はその特性に基づいて研究することは不可能であるが、しかし、ある方言の担い手を彼等の発話の特性に基づいて民族誌的に研究することは可能であるばかりでなく、必要なことである。恐らく、まさしくその様な意義が、方言地図作成と言語地理学の言語史にとっての副次的意義を脇に置けば、こう言った方言学の伝統的形式で、現代方言学には客観的に備わっている。現代方言学は、未だ典型的な意義を得ていない例外には触れず、例えば方言地図のようなその最も遅くに現れる成果をも含める時、まさに民族誌であり、歴史的解明をこととする限り、歴史民族誌である。丁度、スラヴ民族の歴史民族誌の領域に、例えば、スラヴ語の発達のその他の諸問題と独立して取り上げられた、スラヴ諸語の鼻母音の歴史に関する学説がかかわっているのと同じことである。しかし、ここでもう一度次のことを思い起こすのが有益である。この種の素材は、特に、例えば、様々なスラヴ諸語・諸方言における鼻音の様々な変化がある一定の文化的歴史的諸条件で生じる単一でまとまった過程として把握される場合には、遅かれ早かれその固有の専門的課題と厳密に対応してこの素材を取り扱う術を知ることになる言語学的言語史に客観的に属しているのである。

 言語学的で文化的歴史的内容の独自で独特の学問としての言語史の内的構造に関する問題に移ろう。

 理想上、言語史は言語の「完全な」歴史であるべきだと言うこと、即ち、その対象を全ての面で記述すべきだと言うことを、証明する必要はあるまい。換言すれば、言語史は、音の単なる歴史もしくは音や形式などの単なる歴史ではあり得ないのだ。このことは、完全さの遵守の要求と言う観点からの外的な形式的側面からだけではなく、本質から言っても不可能である。言語体系の実際の歴史においては、形式の歴史は音の歴史に左右されるし、語の歴史は音や形式などの歴史に左右されるからである。それで、例えば、ロシア標準語の諸単語の歴史にとって大きな意義を持ったのは、先史時代にスラヴ諸民族が体験した幾つかの音声的過程だった。明らかなことだが、ロシア語の音の歴史が完全に対象に合致するのは、ロシア標準語の語彙にとってロシア語音声史から生じた結論が示されてからである。疑いもなく、言語史は、そもそも言語研究の前提となっている全ての部門を言語の構造の個々の成分に対応して含んでいなければならない。この様な基本部門は3つあるはずである。第1。言語とは、一定の思想を伝達する記号、即ち、所謂マテリアルな意味を持った記号の総体である。第2。これらの記号は、ある種の形式である。即ち、個別の記号と一貫した発話の中でのそれらの内的分節との間に生まれる構造の相互関係のうちに現れる一定の物質的組成を持っている。第3。思想の記号も、それによって形造られる形式も、これらを形成する音声を使って物質的に互いに区別される。書物言語の研究の際には、音声が書かれる時の表現に用いられる文字記号の問題が加わる。そして、これは本質的に音声の問題を変容させるものである。しかし、然るべき点で特別な正書法の学科があり得ることに黙ってして、私はこれ以上このことを説明しまい。上記に応じれば、言語研究は、記号即ちマテリアルな意味の担い手としての語の研究、形式としての語の研究、音の研究に分かれる。即ち、意味論、文法、音声学に分かれる。意味論そのものは3つの下位部門から成っている。第1。意味論では、部分的な思想の記号、即ち、それ自身未だ思想を丸ごと伝えるわけではなく、ただ、それらの構成成分、要素、色合いの類を表現し、定まった法則に従って実現される一定の結合においてのみ、まとまった思想の表現となる記号として機能する語の成分が研究される。この下位部門は、語形成に関する教説と呼ぶことが出来る。第2。上記3部門のうちの第1ではまとまった思想の個別の記号が研究される。これは語彙論である。第3。そこでは、まとまった思想の記号の結合の法則が研究される。これはフラゼオロギーと呼ぶことが出来る。主部門のその2である文法も3つの下位部門に分かれる。第1。ここでは、形式の構造の一般的で当該言語で実現されている原則が研究されるべきである。これは形態論である。第2。ここでは、一貫した発話における形式としての語の結合の法則が研究される。これは統語論の課題である。しかし、多くの言語で、語の一定のクラスがその構成の中で、一貫した発話における語の結合のために特殊なメカニズムとして働く特別の要素を際立たせるので、これらの言語の統語論に対してこの様なメカニズムの研究を先行させるべきである。これは語の屈折に関する教説である。最後に、第3の主部門である音声学は音声とコミュニケーションの実際の道具としての言語の中で音声の組織と機能にかかわる全てを研究する。勿論、これらの部門の記述は逆順ですべきである。即ち、音声学、そして、文法、最後に意味論である。上記全ての組織は全体として以下のようなシェーマにまとめることが出来る。

・ 音 音声学(書き言葉に対しては、正書法も)

・ 形式 文法:

イ 形態論(形式としての語に関する一般的教説)

ロ 屈折 (形式としての語の結合の為に働く要素に関する教説)

ハ 統語論(形式としての語の結合の法則に関する教説)

・ 記号 意味論:

イ 語形成(部分的思想の記号としての語の成分に関する教説)

ロ 語彙論(纏まった思想の記号としての個々の語に関する教説)

ハ フラゼオロギー(そのような記号としての語の結合の法則に関する教説)

 言語は外的な面では物理的物質(音声)であり、内的な面、マテリアルな意味では歴史的現実の対象と概念を反映しているので、言語学で言語記号のこれらの隣接領域を対象とする部門には、更に予備的部門がある。そこでは、然るべき言語学的素材がその(言語学的観点から)外的な性質の面から吟味される。音声学にとって、この様な予備的学科となっているのは生理学と音声の音響学であり、意味論にとっては辞書編纂学、即ち、意味される事物、概念との関係において現存の語彙的手段を登録することである。

 呈示したシェーマに対して、今や、3つの補足的注を加えることが必要である。第1は形態論の概念に関するものである。普通、『形態論』なる語は、語の屈折と形成の問題を統一する一般的名称として使われている。しかし、このように統合してしまうことは、内容の点で全く異なる現象に1つの対象と言う外見を与え、一方で、これらの多種の現象の具体的な内容の背後に、これらの現象に実際ある共通なもの、一定の意味を持つあらゆる音もしくは音声の総和を「形態素」一般と見ることを正当化するまさにそのものを見て取ることを妨げる。語形成の現象も語の屈折の現象も、様々なタイプの形態素間の、内的組成の観点から語を生み出す関係が当該言語で現れる様を示す多量の素材を含んでいる。語の組成のまさにこのような一般問題が、形態論と呼ぶのが最も都合の良い特別な文法学科の対象を構成すべきである。しかし、簡単に分かることだが、この様な意味の形態論は未だ、語の形成もしくは屈折の具体的な現象についての教説ではない。然り。この形態論が研究するのは、様々な形態素の音声面と意味ではなく、一定の「形式」としての語を生み出す、当該言語での形態素間のありうべき関係だけなのである。(こう言う時、この「形式」なる用語はフォルトゥナートフの学説の意で使われていると私は考える。)

 注の第2。上記のことで、呈示したシェーマでは語の形成に関する教説が文法ではなく、伝統に反して意味論に属している理由も分かる。マテリアルな意味と形式的な意味との間に全く明らかな違いがやはり存在しているのであり、この違いは、形式的な意味は思想の記号間の「関係」を伝えるが、思想そのものは伝えない点にある。一方、語の形成の基本的な現象である接辞や語根、語幹などは、まさにマテリアルな意味とその色合いに直接かかわっている。言語のこれらの要素に関する教説を文法部門の1つと伝統的に思わせたものが何かを理解するのは難しいことではない。この原因は疑いもなく、語の形成においては文法においてと同様、単語全体ではなく、語の一定の要素が取り上げられ、それ故、語形成は文法と同じように、言語がどのように構成されているかを教えるものだと言うことにある。しかし、音声学も言語の「構造」を研究しているのであれば、やはり、語彙論もフラゼオロギーもまさに言語の構造を研究することになっているのである。語の内部の意味の組織と語の結合の組織には「特有の」技術があるからである。上記のシェーマで示した学科システムはそもそも、全て結局、まさに「言語の構造」を唯一の対象としているのである。このことは語彙論に関しては充分に明らかだとは思えないかも知れない。しかし、そうなるのは、語彙論を単なる語の蒐集、語の外的辞書的記述と見なすときだけである。しかし、語彙論を語の「意味」と語の「歴史」に関する学問、語の歴史の中で語の意味の結合の法則を研究するフラゼオロギーへと続く学問だと理解すれば、語彙論は本来は言語学ではないとか、「必ずしも」言語学「ではない」とか言う通念が根拠を持つにしても、語彙論の現象は数え切れないが、各々の言語にとって音や接尾辞や変化語尾の数は一つ一つ正確に定めることが出来ると言う事実においてぐらいのものだろう。しかし、この様な見解には原理的な意義は何一つない。語彙論及び意味論部門全体の実状が惨憺たるままであることは別のことである。しかし、ここではより良い未来と、その未来を招くよう積極的に働きかけることを期待しよう。

 第3の注。上記のシェーマをより良く理解するためには、その3つの基本部門全てが極めて密接で直接的な形で互いに結び付いているべきだと言うことを念頭に置くことが極めて重要である。音なしに形式はないのだが、形式なしに思想もない。してみれば、音なしに思想もない。それ故、実際の研究にあっては、シェーマの異なる部門に本来属する意味を同時に持つ多くの問題が惹起する。形態論や語形成の問題の解決は普通、音声学に関する我々の知識に左右される。統語論や語彙論の問題の解決は形態論や語形成の問題と結び付いている。フラゼオロギーの問題の解決は統語論や語彙論の問題を予め考察しなければ不可能である。かくして、各々の部門は次に来る部門の一種の序論となり、次の部門と共にしてのみ前の部門の内容は極限まで解明されるのである。

 とはいえ、言語研究の様々な部門間の相互関係の更なる考察は言語記号の構造そのもののより詳しい分析を求めるもので、本論文の範囲を越えている。明らかなことは、言語学の学科の内的区分は常に一様であるべきであって、研究者の前にある目的、一般言語学的法則の確立もしくは個別言語の歴史の解明には左右されないと言うことである。それ故、言語史にとっても、言語学の諸問題の上記のシェーマは何ら特別なものを含んではいないのである。しかし、言語史にはまだ若干の問題がある。それは、一般言語学にとってもかかわりのない問題と言うわけではないが、まさに個別言語の歴史的研究の過程において特に目立って顕になるものである。そして、これらの特別な問題を示すためにこそ、言語学の学科の普遍的シェーマを予め確立しておく必要があったのだ。言おうとしていることはつまり、音声、形式、記号は未だそれ自体、現実に機能し実際の社会の必要に応じている言語のうちに存在しているもの全てを汲み取ってはいないと言うことである。既に先に示したように、言語のメカニズムが動くことになるのは、それ自体によってではなく、当該の言語を所有している社会によってである。それ故、言語の実際のあり方にとって甚だ本質的なこととなるのが、社会が自分の言語を如何に用いているかと言うことなのである。言語構造の問題と並んで、言語の「用法」の問題もあるのであり、言語と言うのはそもそもそれが用いられるときにのみ存在するのであるから、現実において、言語の構造は言語の用法のあれこれの形式のうちにのみ現れるのである。ここで用法と名付けるものは、言語手段の現存のストックの中から言語コミュニケーションの様々な条件にとって異なるある選択を行うのに用いる、ある社会で確立された言語慣習・規範の総和である。こうして現れるのが言語の様々な「スタイル」と言う概念である。即ち、正しい言語、正しくない言語、荘厳な言語、実務の言語、公式の言語、身内での言語、詩的言語、日常言語などの「スタイル」である。この様な「複数の言語」は全て、1つの言語を利用する様々な手法に他ならない。同一のことを様々に言ったり書いたりすることが出来る。内容、思想は、この時全く変わらぬままであり得る。しかし、思想の描写そのもののトーンや色調は変わるのであり、このことが、周知のように、内容の知覚に本質的に影響し、聞いたり読んだりしたことに対する反応の様々な形式を定める。従って、思想を伝達する言語記号の客観的構造と並んで、言語にはこの構造に対する独特の主観的な補いが存在している。しかも、最も重要なことは、この様な主観的補いなしには、現実においては言語はそもそもあり得ないと言うことである。如何なる特殊な色調をも持たない完全にニュートラルな発話でさえ、色々な色調の様々な言語ヴァリアントを背景にそれに対して否定的なモメントとして受け取られるからである。言うまでもなく、これら様々の話し方書き方は、集団の慣習となった言語利用の諸手段のなかから生まれ、独自の歴史を持ち、音、形式、記号が変化するのと同様に変化する。しかし、やはり忘れてはならないのが、実際の内容が言語の客観的構造の歴史によって勿論規定されるものであるこの様な慣習の歴史に、音、形式、記号の客観的歴史そのものも左右されると言うことがかなりしばしばあると言うことである。かくして、我々の前には、言語史の新たなそして極めて重要な問題が現れる。その研究なしには、言語史は対象に相応した正確さの点でも完全ではありえないのである。

 この新たな問題が構成する内容は、「文体論」もしくは、言語史が取り上げられている時は歴史文体論と呼ぶべき言語学の学科のものである。それ故、言語史には3つではなく4つの部門がある。即ち、音声学、文法、意味論、そして文体論である。最初の3部門と第4の部門の相互関係に関する重大な問題が惹起する。この相互関係を完全に明らかにするために、先ず注意しなくてはならないのは、この新しい学科が言語学の学科であり得るのは、現実に「集団のもの」である言語慣習と言語の用法の形式を対象とすると言う絶対的な条件のもとでのみだと言うことである。発話の、個人の特質と話者もしくは書き手の状態を源泉とする表現的性質と、言語表現の、社会心理に根があり当該社会に属する言語に対する社会的反応そのものの現れである事実を入念に分ける必要があるのだ。このことが重要であるのは、後者の場合、発話の表現的性質はもはや本質的に言語の事実そのものの「客観的な」属性となって、単なる言語保持者の特性ではなくなるからである。実際、例えば、приго′воры の代わりに пригово′ра と喋る時に、正しくない言語とか俗語などとして特徴づけられるものの数にこの事実を入れるためには、誰がまさにそのように話したか、NN もしくは NN' かはいずれにせよ、NN の内の誰かが何らかの手段でこの事実の特徴付けそのものを我々をして変えさせるまでは、全く本質的なことではないのである。従って、言語の然るべき表現的性質が主観的であるのは、ただ起源によってのみ、その性質の心理的発生の観点からのみであり、一方、実際の歴史的現実にあっては、その性質はあれこれの音、形式、記号の完全に客観的特質として存在するのである。まさにそれ故に、現実に「言語そのもののうちに」、そして言語学者が直接的な関心を抱かない話者や書き手の心理にでは決してなく、音、形式、記号の他に、更に何か、音、形式、記号に属する「表現」が存在しているのであると、我々が主張するのは正しいのである。上述のこと全体から結論として、1つの問題は言語の「スタイル」であり、別の問題は、書き手話し手のスタイルであると言うことになる。それで、例えば、個々の作家のスタイル、作家の創作の個性の独自性やある作品の発話のなにがしかの要素の具体的な芸術的機能が現れるスタイルの研究は、完全に文学史の考察するところに留まり、言語学的文体論に対しては恐らく、文化史の他の諸問題と同じく副次的な関係しか持ち得ないのである。プーシキンのスタイル、もしくは、しばしば言われたように、この意味でのプーシキンの言語なるものは、言語学的文体論の問題に対して、プーシキンの詩学とか世界観とか伝記以上に近しい関係にあるわけではない。これら全てに言語史家が通じていることは構わないが、これらは皆、言語学の対象ではなく、文学史の対象なのである。プーシキン在世に、本質的に2次的に過ぎないが、軟子音の前ではないアクセントの下での o の代わりに音 f が書物的詩的言語の表現を持たなくなり、未来に残したのは教会的典礼的発話スタイルの表現だけだったことは、彼の個人的影響がないわけでもなかろうと言うのは別のことである。これはなるほど言語学の問題であるが、しかし、それはプーシキンの言語ではなく、1810年代のロシア語の発音の文体論と呼ばれるのである。更に良くないのは、「語への現実の反映」のあれこれの手段の研究と言う口実の下、あれこれの作家の言語と文体の研究者が実際に研究しているのが、語でも語の表現でもなく、単に語に「反映された」もの、即ちテーマとテーマに対する関係である場合である。この様な方法をここで反駁するには及ばない。しかし、この方法も何らかの理由で時に言語学的方法と呼ばれている事を指摘するのは余計なことではあるまい。

 上述より更に、言語学の他の学科と異なり、文体論は、言語の構造の全ての面で一度に言語を研究する、即ち、音も形式も記号もそれらの要素も研究すると言う特質を備えていることが明らかになる。かくして、如何なる「固有の」対象も文体論にはないようだと言うことになる。実際、文体論は、言語史の他の部門で部分ごとに研究される全く同じ資料を研究する。しかし、その代わり独特の観点からである。この独特の観点が、文体論のために異なる資料でその独自の対象を作るのである。言語史の他の部門と異なり、文体論がかかわるのは1つの体系ではなく、多くの体系であり、そして、例えば、音声学にとってはある一つの音体系の全ての音が互いにどう対立しているかを知ることが必要であるのに対して、文体論が研究する問題とは、文体的な表現力を持つ個々の、様々な諸体系の音が互いに如何に対立しているかと言うものである。例えば、モスクワ・ルーシの時代には首都の日常語の破裂音 d と教会的書物的言語の摩擦音 d の対立である。更に、言語の構造を研究する学科にとっては、音は1つの体系であり、形式は別の体系、マテリアルな意味は第3の体系なのであって、これらの個々の体系間のより複雑な相互関係だけが結局、言語全体の共通する一貫した体系を作るのである。逆に文体論にとっては、個々の構造要素それ自体は未だ体系を作らない。それは、全ての音、形式、記号が文体論の対象であるわけではなく、特別の文体的色調を持って、他の文体的色調を持つ音、形式、記号に対立しているものだけが対象であるからに過ぎない。しかし、その代わり、なにがしかの文体的色調の音、同じ色調の形式と記号は、別の色調の音、形式、記号と対立して1つの文体的体系に含まれる。そして、この様な体系全ての相互作用から言語の一般的文体的なあり方が生まれるのである。こうした全ては、文体的体系は完全に独特な概念であり、言語の音、形式、意味の構造の体系と密接に結び付いているとはいえ、互いにかかわることの全くない概念であると言うことを語っている。文体論は、言語史を研究する他の学科と全くかかわらないのである。言語史の最初の3分野どうしが相互にかかわる領域では、1つの学科から別の学科へと一定の論理で移行することが見受けられる。しかし、言語史の今確立した第4の部門への直接的移行は最初の3部門のどれからも生じることはない。文体論への移行が生じるのは、音声学からでも、文法からでも、意味論からでもなく、ただ、1つのまとまりとして捉えられるこれら3つの学科全てからである。それ故、言語史のこれらの4部門は1つの断片に基づくのでもなく、1から4と数字で順番に番号を点けることもできないのであって、以下の関係なのである。

A. 言語の構造を研究する学科

 1、音声学(と正書法)

 2、文法

 3、意味論

B. 言語の用法を研究する学科

 文体論

 それ故、結局、言語史には4つの部門があるのではなく、2つの基本部門があり、その内の第1部門は3つに分かれるのである。ここで、これら2つの部門の第2部門にあってはどのような内的分類があるのであろうかと言う疑問が生じる。

 外見的な類似に惑わされ、文体論に対しても音声学、文法、意味論と内的に分類することを提案することは易しいことであろう。文体論が実際、これら3つの問題全てを扱うだけに尚更である。しかし、これは重大な誤りであろう。何となれば、上述より明らかなように、文体的事実としての音声はそれと相関する文法的事実、意味論的事実なしには存在しないからである。換言すれば、言語構造の個々の部分に従って文体論を組み立てることは、文体論の固有の対象、言語構造の個々の部分を1つのしかも質的に新たな統一体へとまとめることから成り立つ対象を無にするであろう。言語の文体史の記述方法が1つしかあり得ないことは明らかである。即ち、言語の変遷の中で際立つ各々の歴史的時代の個々の文体に従って行うのである。そのような時代の各々の内部で、言語のある時代に存在した文体が、必要な順序で記述され分析され、加えて、各々の文体は独特の体系として、他の体系に対立し、先行する時代における対応する体系の一定の変種であり、後続の時代の変化を導いた矛盾を含んでいる体系として観察されるのである。

 言語史の組成に関する最後の問題は、どのような相互的順序でこの学問の基本2部門を記述すべきであるかと言うものである。即ち、言語の構造の教説と言語の用法の教説を歴史段階に応じて2つの問題を交えつつ平行に扱うのか、連続的な順に第2部門を第1部門の後で一遍に扱うのかと言うことである。音声学と文法は言語史に関する現代の概説書では様々に記述されている。(意味論は普通全く論じられていない。)即ち、言語の変遷の個々の時代ごとに記述するか、もしくは、テーマそのものの順序で、つまり、初めに音声学を一遍に記述し、その後に文法を一遍に記述するかである。あれこれのシステムのもっぱら教育的な効用には触れないのなら、純粋に理論的な観点から言えば、1つの時代の音声と文法の事実を1まとまりにまとめるのがより正当と思われる。こうすれば各々の時代に対してまとまった単一の構造としての言語について語ることが出来るだろうからである。なるほど、言語のこの様な組成の必須の条件は、言語を内的に統一され関連づけられている何かとして見る見方から生じる音と形式の解釈であるが、我々は既に、我々の学問の理想とはまさにこの様なものであると取り決めていたのであった。そこで、今や、言語史のこの様な記述にあっては文体論の場所は何処なのかと言うことが問題となる。音声、文法、意味論の然るべき事実を語った後に、言語の文体的あり方についての然るべき話で言語史の中で際立つ個々の時代の各々を締めくくるべきなのか、それとも、あらゆる時代ごとに音声、文法、意味論全体を先ず記述し、その後初めて、パラレルで分離できない過程としての言語の文体的歴史の記述へと入るべきなのか。この問題の第2の解決が対象の性質により対応することは疑いないように思われる。一面で言語の構造の発展を規定し、別の面で言語の用法の文体的規範と応用の発展を規定する過程の内容そのものは極めて多様であるからである。言語史が描くのは、第1に、言語の絶えざる形成における言語のメカニズムそのものであり、第2に、社会が様々な目的のためにこのメカニズムを利用するのに用いる手法である。あるまとまった過程の記述を別のやはりまとまった過程の断片の記述で中断させることになる歴史叙述は事の本質に応えまい。この場合、実際に得られるであろうものは、2つの歴史的過程の互いに打ち消しあう断片である。言語史の両構成部分の方法そのものと素材は時に相異なっており、この面からもそれらのパラレルな記述は不自然であると思われるほどである。一つの学問のこれら2つの部分は全く別な風に、とりもなおさず、第2の部分の最後の台詞が語られていない間は、当該言語の変遷の完全な歴史図はまだ存在しないことによって、統合される。しかし、この台詞が語られる時には、それまでに語られた全ては別な風に真に歴史的に解明されるのである。

 終わるに当たって、言語学のフィロロギーに対する関係について若干述べよう。即ち、今まで言及してこなかったが、当然これまでの考察の行程全ての前提となっていた学術概念に対する関係である。『フィロロギー』なる語そのものには少なくとも2つの意味がある。第1に、この語はテキスト研究の一定の方法を意味している。これは普遍的な方法であり、テキスト研究が如何なる具体的目的を追求しているか、言語学のか、歴史のか、文芸学のかなどと言う目的にはかかわりなく、自分の力を保っている。第2に、『フィロロギー』なる語は一定の総和つまり、かつて言われたように、主として言語による文化の表現のうちで文化の歴史を研究する諸学問の百科を意味している。前者の点では、フィロロギーは、テキストを扱う他の学問と同じように言語学の土台である。テキストの解釈と言う、即ち、テキストから必要な情報を得るフィロロギー的方法は、既に述べたように、普遍的方法だからである。逆に第2の点では、言語学、そして、個別言語をその歴史で研究することもまさに、フィロロギー的百科の土台であり、その最初の章たるものである。それなしには残りの章は書けないのだ。言語史を文化の他の領域の歴史と直接結合する鎖として言語学的文体論は当然作用する。言語が、文化の事実として、社会に仕えるのみならず、文化の意識によって一定のやり方で体験され把握されもすると言うことの結果、文体論の対象が生じるからである。言語の領域での完全に意識された積極的な創作が、独占とは言えないが主としてまさしく言語の文体的性質を志向しているのは全く明らかである。ここでは、例えば、所謂正しい発話の存在と言う1つの事実を引き合いに出すだけでも十分である。これを考慮すれば、言語学的文体論は主として言語学のフィロロギー的問題と呼ぶことが出来るのだ。

 訳注

原文隔字は「」、《》は『』とした。

стиль はスタイルとした。 




トップページに戻る