円形の花壇が出来たことをのぞけば、中庭の様子はたいして変わっていなかった。静かな住宅街の中にあって幹線道路からも遠く、いちばん近い駅までは歩いて10分。今時珍しいことに近くにはコンビニもなく、あるのは正門前の文房具屋と、50メートルほど先の小さな食堂のみ。相変わらず静かだ。卒業から8年、細かい違いはあるとしても、おおむね記憶にあるとおりだった。都立深葉高校は、戦前から続く第九高等女学校がその始まりだという、歴史の長い高校だ。たぶん数回の改築を経て、昭和の終わり頃に現代的な鉄筋コンクリートの四階建て校舎に建て替えられたのだと思う。見慣れたコンクリート製の校舎には、思い出はたくさんあるものの、特になんの趣もない。妙に長いただの箱だ。  東西に長い敷地の北側は、敷地の長さいっぱいに図書館・校舎・食堂・柔道場が建っている。四階建ての校舎が陽の光を遮るため、正門のある北側は暗い。正門を入ったところにある、25メートルプールを二回り大きくしたぐらいの広さの場所が、通称「中庭」。深葉高校には夜間部があり、昼間部の生徒は午後5時30分までに下校することになっている。部活動も含めて生徒の活動は盛んとは言えず、中庭を使ってまで何かをすることはまずない。自分が在学していた頃も、この中庭で何かをしたという記憶はひとつもないぐらいだ。今は、中央に直径5メートルほどの丸い花壇が作られて、さらに中庭スペースの利用価値を下げている。東西に長い校舎は、西側部分だけ二棟構造になっていて、各階が教室を縦に二つ繋いだほどの大きな渡り廊下でつながっている。この部分が全天候型のスペースになっているので、ほとんどのことは渡り廊下のスペースを使えば間に合った。学生の時はなんとも思わなかったが、この二棟目の校舎はちょっと不思議な構造だ。大きな渡り廊下がある割には、建物は極端に小さい。渡り廊下を進むと正面が階段、左右に部屋がひとつずつしかない。多目的スペースとして渡り廊下を造ったついでに小部屋をつけたのか、あるいは、耐震強度を上げるためにT字型の構造部分が必要だったのかもしれない。将来のクラス増に合わせて増築することを予定したデザインだというのが、いちばんありそうなことだろう。だが結局、予算がなくて増築は行われなかったのだと思う。私が在学していた頃はどのクラスも生徒でぎゅうぎゅう詰めだった。在校生の数に対して、教室が足りなかったからだと思う。この8年で200人近く生徒数が減ったおかげで、一クラスあたりの生徒数も減り、ある程度空間にゆとりがあるようだ。  中庭の左手には玄関があり、その先に生徒用の長い長い屋根付きの自転車置き場がある。パースが付くほど長く続く自転車置き場も、今は半分も埋まっていないし、置かれた自転車の間隔もゆったりとしている。  中庭の右手、図書館のある西側は、少し雰囲気が違う。図書館は第九高女時代に建てられたものらしく、とても古くて時代を感じさせる装飾が施された、趣のある建物だ。その二階が図書室になっている。建物自体は図書館と呼ばれるが、一階は生徒に開放されておらず、暗く天井の高い廊下に、分厚くペンキを塗り重ねられた木製のドアがいくつか並んでいる。  今でも周囲に緑が多いこと、起伏の多い土地や学校の名前などを考えると、昔はこのあたりはちょっとした小山のような土地で、森のような場所だったのかもしれない。そういえば、造成地に特有の切り通しのような道も多い。東西に長い深葉高校の敷地は、図書館のある西側が傾斜地になっているため、道路や周囲の建物からは数メートル高くなっている。その上に、敷地の周りを取り囲むコンクリート製の塀があるため、図書館の一階は北側の道路からも、西側の細い脇道からも見えない。図書館と校舎の間のスペースは、生徒用と同じ、屋根付きの職員用自転車置き場になっている。自転車置き場の構造はかなり頑丈で、図書館に面する部分にも側板が貼られているため、自転車置き場から見えるのは足元の地面から40cmほどの部分だけだ。そして図書館の裏側、図書館と塀の間に残されたわずかな敷地には、校舎一階の端にある会議室の窓から出ない限り立ち入ることが出来なかった。高校時代、深葉祭の準備で会議室を使っていたとき、不思議に思ったことがある。図書館の西側、窓から出ない限り入れないその場所にも、図書館を囲むように塀が立っているのだ。かなり古びて苔の生えたブロック塀だったので、おそらく校舎を建て直す前からあるものなのだろう。デッドスペースとして忘れられた隅の狭量地、昼でも鬱蒼と暗いその一角は、誰も入らず手入れもされないまま放置されていた。桜の古木が光を遮り、鬱蒼と茂る下草も丈が高い。  たぶん、周りでは誰も気づかなかっただろう。たまたま私は、繰り返される建て替えや改築で行く先のなくなってしまった階段や、意味をなくしてしまった小さな空間を見つけるのが好きだった。在学中は三年間図書委員だったこととも、この建物に興味を持った理由のひとつだ。中庭から見るときちんと一階が存在するこの図書館は、入り口を入るとすぐ右に二階へ上がる階段があり、一階は生徒の立ち入りが禁止になっている。しかも、正面以外の一階部分はどこからも見えない。だから、図書館に一階があったということすら、多くの生徒の記憶には残らないのだ。この図書館の二階が、九月からの勤務先だった。  図書館の玄関周りと一階の床は、深緑の人工大理石(もしかすると天然かもしれない)の石板が敷き詰められている。それぞれの石板は真鍮の枠に固定されているようで、靴にこすられる部分は金色に輝いている。分厚い両開きのドアは鉄製で、上下に分かれた分厚いガラスがはまっている。今のガラスと違って平面ではなく、このガラスを通して見ると、世界はかなり歪んで見える。光と大体の景色は通すものの、ディテールは通さない。ドアの上には、手の込んだ鉄製の飾りが付いた明かり取りの窓のようなものがある。レトロでお洒落なデザイン、とても高い天井、随所に見られる時代を経た装飾。高校生の時には感じなかったが、大人になってから見ると、とても雰囲気のある建物だ。鍛鉄に木材を組み合わせた年代物の手すりがある階段を上がると、途中に広い踊り場。階段はそこで左に曲がり、二階の図書室入り口へ続く。この階段部分には照明がなく、高い位置にある明かり取りの窓が唯一の光源で、雨の日はかなり暗い。冬になると、閉館時間の4時45分には真っ暗になる。階段を上りきると、ちょっとした小部屋ほどの広さを持った空間がある。ガラスがはまったアンティークなデザインのドアは木製で、綺麗な装飾が施してある。このドアを開けると、図書室独特のにおいがする。  自分が図書委員だったときには、井関先生という50代の女性の司書がいつも詰めていた。頼めばどんな本でも図書室に入れてくれた。ジュブナイルものから犯罪小説までかなりの数を買って貰い、誰かに借り出される前に片っ端から読みまくったものだ。ちょっと心配になって「あまり真面目な本じゃなくても買っていいんですか?」と質問した私に、「何でもいいから、とにかくたくさん読みなさい。文庫本なんて安いんだから、いくらでも買ってあげる」といって笑っていた。実は、井関先生が退職することになって、私の母校のへの勤務が決まったのだ。引き継ぎを兼ねて一度だけ顔をあわせる機会があってご挨拶をしたが、井関先生は私のことを覚えていて、とても喜んでくれた。私が図書館司書の資格を取ったのは、この先生の影響がとても大きいと思う。  図書室は普通教室を三つ繋げたほどの広さがあるが、蔵書は決して多くない。歩くたびにミシミシと音を立てる木の床の上に並ぶ書架は、これまた年代物の木製で、高さは160センチほどしかない。三方の壁はその低い書架が並んでいて、部屋の中央には、これも年代物の大きな木の机がゆったりと並んでいる。間に何カ所か、ロー・パーティションのように低い書架が置かれているが、とにかくゆとりのある空間だ。普通の図書館のような、背の高い書架がぎっしり詰まった、圧迫感のある場所とは全く雰囲気が違う。三方の壁は高い位置に大きな窓がずらりと並ぶ。天上板がない構造なので、ただでさえ高い天井は二階分の吹き抜けぐらいの開放的な空間になっている。これだけ贅沢に空間を使える建築は今では考えられないだろう。重みのある木製の机も書架も、今同じものを作ろうとしたらとても高価なものになってしまうと思う。第九高女と同時に建てられたこの建物は、外国の名のある建築家のデザインによるものだそうで、校舎を建て直す際になんとか残してほしいという声があって今に至っているらしい。もともとは図書館として建てられたものではなかったようだが、詳しいことは分からない。時間のあるときにでも、旧校舎のやこの図書館について調べてみようと思っている。倉庫を探せば、当時の写真なども残っているだろう。  図書室の貸し出しカウンターの後ろに一段高くなった部屋があって、そこが司書の部屋になる。図書室内を見渡せる大きな窓がある部屋で、事務机とPCデスクがひとつずつ並んでいる。私が図書委員だった頃は、PCではなくポータブルのワープロが置いてあったように思う。壁際にスチールのキャビネットが二つ。どれも年代物だ。  深葉高校では、図書室に関することは、掃除から購入図書の選定まで含めてすべてを司書が行う。各教科から図書室に置いてほしい書籍の購入依頼を受けることもあるが、予算の関係もあって、実はあまり多くない。老朽化した書籍の買い換えや選定図書の購入以外は、できるだけ生徒からの要望を入れて本を買おうと思っている。井関先生がそうしてくれたように、一冊でも多くの本を後輩たちに読ませたい。参考書の類を買い揃えることについては、あまり力を入れようとは思っていない。各学年に300人を越す生徒がいるので、レポートを書くときに使う化学の参考書などは、たとえ同じ本が10冊あっても足りないのだ。その手の参考書は、持ち出し禁止の[禁帯出]というシールが貼られた古い本が何セットかあるだけだ。私の時もそうだったが、生徒の多くは参考書を自前で買っているし、それ以上のことは自宅近くの図書館で調べている。私の頃と違うのは、かなりのことまでネットで調べられるようになったことだろう。深葉高校でも学内LANは事務処理に使われているし、都とのやりとりも、かなりの部分がネット経由で行われる。図書室に解放端末を併設する高校もあるが、ここでは解放端末は視聴覚室のみで、図書室には司書の部屋にしか回線が引かれていない。そんなわけで、昼休みと放課後に本を借りに生徒が来る以外は空き時間のある三年生が自習に使うぐらいで、この図書室はいつも静かだ。  他の高校の図書館を知らないのではっきりとは言えないが、深葉高校の図書館司書の勤務はかなり変わっていると思う。まず、司書は校舎に入る必要がほとんど無い。出勤・退勤は司書室の端末で済んでしまう。教科部会にも属さず、職員会議にも参加の義務はない。図書委員会には担当の教師がいるため、委員会に顔を出すこともない。そして、出勤から退勤まで、この図書館の二階で全てが済むようになっているのだ。司書室には、もう一つ小さな続き部屋がある。図書室側からは分からないし、私も三年間図書委員をしていたにもかかわらず、生徒の時はこんな部屋があることは知らなかった。実際は、階段を上りきった二階の踊り場には、図書室入り口の大きな両開きのドア以外にもふたつのドアがある。司書室入り口と、旧第九高女時代からの古い資料を収めた倉庫の入り口だ。ただ、浅いアルコーブのように入り込んだ位置にある上に照明もなく、明かり取りの窓からも光が届かない位置なので、ほとんど壁の一部に見えるほど目立たない。空間を贅沢に使えた時代の特徴なのか、この建物は死角だらけなのだ。司書室からの続き部屋は6畳ほどの広さで、司書の休憩室・更衣室として使われてきたようだ。年代物だが立派なソファと小さなテーブルがひとつずつ、14インチの古びたテレビ。奥には水道とガス台があり、湯沸かし器も付いている。そして、こぢんまりしたトイレまである。特に事情がない限り図書室か司書室に詰めていることが仕事なので、昼食もここで済ませることになる。人間関係の軋轢とは無縁な、静かで自由な仕事だ。  勤務に就いた最初の日に職員全員に挨拶をし、体育館で全校生徒にも紹介された。私の頃は1000人を越えていた生徒数も、今では800人ほど。数の上では二割減だが、壇上から見る景色はずいぶんと違って見えた。そのあと、事務室で様々な説明を受けた。その多くは事務手続きに関するもので、実務の内容は井関先生が後任のためにまとめてくれた資料を読みながら把握することになる。八月にお会いしたときにある程度の引き継ぎをする予定だったのだが、ついつい昔話に花が咲き、実務の話は僅かしかできなかったのだ。それでも、仕事の内容はそれほど煩雑ではないし、何よりも時間はたっぷりある。分からないことがあればいつでも電話してきなさい、と言ってもらえたので、不安は全くなかった。なんと言っても、私は古巣に戻ってきたのだから。  八月に図書室以外の場所を井関先生に案内されて、びっくりしたことがひとつあった。図書館の一階、厚く古めかしい扉が並ぶ、真っ暗な廊下のことだ。丸いアーチを描く暗い廊下を進むと、右側に三つの扉が並んでいる。閉架図書を収めた部屋が二つ。一番奥、三番目の扉はトイレだった。トイレがあることもその日初めて知ったのだが、驚いたことに、その奥で廊下は右に曲がって続いていた。その突き当たり、ちょうど図書室の下に位置するあたりに、ブロンズの装飾を施した頑丈な両開きの扉がある。扉の脇には、白ペンキを塗った40センチほどの板が表札のように掛けられている。井関先生は、板のすぐ下に取り付けられた年代物の丸いブザーを押した。いかにもブザー、という単調な音が厚い扉の奥からかすかに聞こえてくる。明るい表から入ってきた目には、照明のない廊下はとても暗い。その廊下を曲がり込んだ先にある扉のあたりは、目が慣れるまでは真っ暗に感じられるほどだ。その暗い中、私は板に書かれた文字を読んでみた。「東京都都市整備局施設部調査課深葉分室」という、長い名前が読み取れたところで扉が開かれ、40代くらいの愛想の良い男性が現れた。いかにも公務員、といった感じのその人は中島さんという。招き入れられると、そこは教室の半分くらいのスペースに古びたデスクや戸棚が雑然と詰め込まれた部屋で、室長の伊藤さんという定年間近の男性と、他に目立たない感じの下田さんという男性がいた。この三人が深葉分室の全員だという。この図書館の一階は、ずっと昔から東京都の機関の分室として使われていたらしい。一応窓もあるのだが、ちょうど職員用の自転車置き場の前なので、光を遮られて昼でも薄暗い。新しい図書館司書として井関先生に紹介され、簡単な挨拶だけを交わした。二階の司書室に戻って、入れてもらった紅茶を飲みながら井関先生と話しているときに聞いてみたのだが、井関先生も深葉分室が何をしているところなのか正確には知らないらしい。私たちが見たのは入り口の部屋だけだが、考えてみれば、あの奥にはかなり広い空間があるはずだ。そこには戦前から引き継いだ大量の資料が集められ、深葉分室の職員が整理・保管をしているらしい。この図書館のように海外から建築家を招いて作られた施設や、特徴のある建築に関する資料を集めているのだろうという話だった。  深葉分室の存在、というより、在学中に全く気づかなかったことに、私はずいぶん驚いていた。そんな私の様子を見て井関先生は、教師でも知らない人が多いといって笑った。図書館司書は同じ建物にいるので一応紹介をするが、教師は一階に立ち入ることも図書館の戸締まりをすることもないので、わざわざ紹介はしないのだという。生徒に至っては、分室の存在など誰も知らないはずだ、と。  ずっと昔の話だから単なる想像だけど、と断ってから、井関先生はこの一階について自分の意見を披露してくれた。かつて学生運動が盛んだった時代には、大学だけでなく、高校でもそういった活動に参加する生徒がいたそうだ。昭和40年代前半、つまり1960年代後半から70年ぐらいまでのことだそうだ。ちょうどベトナム戦争のまっただ中のことで、「戦争反対」や「軍拡反対」といった罪のない、というより、しごくまっとうな意見が主体だったという。頭でっかちな思想をブチあげても、実際に何か行動をするわけではなく、戦争反対のビラを配ったり、討論会を開いたりする程度で危険なものではなかったらしい。ただ、同じ高校の敷地内に都の分室があったりすると、「身近で安全な攻撃目標」と見なされる可能性はあった。本来なら、国政への批判と、建築の調査をしている都の機関は結びつかないのだが、要は何でも良かったのだろう。都の分室というだけで窓ガラスにビラを貼られたりすることもあったそうだ。井関先生自身はその頃深葉高校には赴任していなかったのだが、当時の古株の先生からそういった話を聞いたのだという。昨今の殺伐とした世相に比べれば、窓ガラスに「戦争反対」のビラを貼るぐらいかわいらしいものだとは思うが、それが暴力的なものへエスカレートする可能性も考えられる時代だったという。目隠しのように位置する職員用の自転車置き場、苔むしたブロック塀、塀と図書館の間に密に植えられた木々などは、深葉分室を目立たないようにするためのものだったのではないか、というのが井関先生の意見だった。三年間図書委員だった私でさえ全く知らなかったのだから、その目隠しは今も十分に機能している。実際、分室に関する表示は図書館のどこにもなく、学校のホームページにも、学校のパンフレットにも記載がない。こんな時代に分室の存在を隠す理由は全くないので、おそらく説明するのが面倒で今に至っているのだろう。  母校に赴任してから三月あまり、仕事もあらかた把握できたし、余った時間を使って書籍の管理を電算化する計画も、ある程度までまとまった。実は、深葉高校の図書室はいまだに紙のカードで管理する古いやり方のままなのだ。ネットを利用すれば、個々の書籍情報の入力はかなり簡略化できる。そういった規定のデータベース化以外に、生徒の意見を入れてちょっとした付加情報も載せていこうという考えもある。貸し出し係としてカウンターに来る図書委員の生徒たちとも、まだ全員ではないが顔見知りになれた。きちんと貸し出し当番に来るような生徒は、みんな真面目な良い子ばかりだ。深葉高校は特別校則が厳しいわけでも進学校でもないが、静かな住宅地のど真ん中にあるせいか、生徒はみんな落ち着いている。そして、化粧っ気のない女の子達は、みんなかわいい。顔立ちが、というより、存在がかわいらしい。たった8年の違いでも、私はすっかり大人になりきってしまったのだろう。先生、と呼ばれることにも、僅か一週間ほどで慣れた。昼休み、カウンターに来る当番の生徒たちと購入希望図書の話をしたり、好きな小説や映画、音楽の話をしたりするのは本当に楽しい。精神的には大分大人になってしまったが、まだギリギリで兄弟でも通る年齢差だし、同じ深葉高校の先輩後輩でもある。毎日の小さなことが、みな楽しく感じられる。自分で立てた計画を時間に追われることなく進められるので、その他大勢として大学の図書館で働いていた時には感じられなかった満足感も得られる。 大学の図書館は五階建ての立派な建物で、二階から四階までが図書館になっていた。かなりの部分が専門書だがで蔵書も多く、貴重な文献も少なくなかったようだ。だが、当時の仕事は資料集めや過去の論文の整理など、およそ楽しさとは縁のない無味乾燥なものだったのだ。おまけに、私がおもに仕事をしていた四階には、定年間近で頭のおかしい土井という女性職員(長らく精神科のやっかいになっているらしい)がいて、一日中怒鳴り声を発しているという劣悪な環境だった。そのため、学生の来ない四階の職員はヘッドフォンを着用しても良いという暗黙のルールが出来ていた。けっこう値段は高かったが、逆位相波を出す消音機能のついたヘッドフォンが人気で、それぞれが作り出された静寂の中で好きな音楽を聴きながら仕事をしていた。そう話すと会社勤めの友人から羨ましがられることもあったが、あまり気持ちの良いものではなかった。この土井というキ印は、以前に他の職員を突き飛ばして怪我をさせている。わめき声を聞きたくなければヘッドフォンを使うしかないし、周囲の音が聞こえなくなれば、後ろに誰がいても分からない。目で周囲を確認しながら、相手を驚かさないように一定の距離を置いて仕事をするという状態は、なかなか慣れるものではないし、神経をすり減らす。職員の間では、島流しになぞらえて「四階流し」と呼ばれていたほどだ。 そんな環境から、本物の静けさ、木漏れ日、緑の中を過ぎる風の音といった贅沢が当たり前なこの深葉高校に移れたことは、本当に嬉しかった。生徒はみんな可愛いし、母校での仕事は、平和で幸せな気分が満喫できるものになった。  司書の勤務時間は、8時30分から午後5時まで。深葉分室の職員は少しずれていて、8時45分から午後5時15分までの勤務となる。そんなわけで、毎朝図書館の鍵を開けるのは私の仕事だ。図書室の利用時間は、9時から午後4時45分まで。私の一日は、8時15分に図書館の玄関を開けるところから始まる。二階の司書室に上がり、端末を立ち上げて自身の職員コードを打ち込む。データは校内LAN経由で職員室と事務室、同時に専用回線経由で都庁に送られる。そのため、判子を押すような出勤簿やタイムカードはない。20分ほどかけて司書室と図書室の掃除を済ませ、9時には図書室の扉を開ける。広すぎて朝の掃除だけでは全てをまかなえないので、生徒がいないこの時間に書架を拭き掃除したり、床を掃いたりすることもある。生徒による掃除当番はなく、ときどき図書委員がゴミ箱の中身をゴミ捨て場に捨てに行く程度だ。他校のことは知らないが、私が在校生の時から続いているこのやり方は、一日のどの時間に来ても静かに時間を過ごせるというメリットがある。一国一城を預かった私にしてみれば、「自分の図書室」にはとても愛着があり、毎日の掃除も手を抜いたことはない。 授業のない三年生が自習に来るのは、大抵9時半を過ぎてからだ。この時間は、司書室でコーヒーを飲みながらのんびりと仕事を進める。係の生徒はいないので、質問や貸し出し希望があれば、それも私が処理することになる。午前中に図書室を訪れる生徒は10人にも満たないが、三学期になればもっと増えるのかもしれない。  12時40分、生徒は昼食の時間になり、飲食禁止の図書室は空になるので、私も司書室か、その奥の休憩室で昼食をとる。午後1時から1時半までが昼休みで、図書委員の貸し出し当番がカウンターに詰める。午後になると、図書室を利用する生徒の数が増えてくる。授業が終わってから閉館まで図書室で勉強する生徒がそこそこいるからだ。午後4時から4時45分まで貸し出し当番がカウンターに詰めるが、彼らも勉強していることが多い。昼休みと違って、この時間は私もおしゃべりを遠慮している。他の都立は知らないが、受験対策の補習が一切ない深葉高校では、自発的に勉強しない限り受験は厳しいのだ。これが、参考書や過去の試験問題と一緒に代々先輩から受け継がれる深葉スタイルだ。委員会や文化部の生徒は5時までには下校できるので、ここで勉強しながら待ち合わせて一緒に帰る生徒もいる。私が知る限り、外れに位置しているとはいえ今時の東京にある高校の生徒としては、もの凄く健全な高校生たちだといえるだろう。私の頃と全く変わらない。もしかしたら、今も昔も、ほとんどの高校生はそんなに変わっていないのかもしれない。  4時45分に最後の生徒を送り出すと、図書室の扉を閉め、明かりを消す。あとは司書室の自分のデスクを片づけて、5時を回ったところで端末で退勤手続きをとって帰るだけだ。この15分間、照明のついた司書室から暗い図書室を見ると、なんだか少し、切ないような気分になる。私の退勤時間には、一階の分室にはまだ人がいるので、玄関の施錠は彼らに任せることになる。  この図書室は昼間部の生徒専用で、夜間部の生徒が使う図書室は校舎内にある。そちらは蔵書量も遙かに少ないらしく、夜間部の図書担当の教師が発注から管理までこなしているそうだ。従って、夜間に図書室を開けておく必要はないし、残業をする場合にも、5時半以降は図書館の玄関に施錠するようにと指示されている。 私は母校での司書の仕事がとても気に入っているし、倉庫からみつけた第九高女時代の資料にも興味があったので、夜も残って資料を調べることが結構ある。勤務時間内に倉庫にこもりっぱなしというわけにはいかないので、退勤時間以降に作業するのがいちばん良いのだ。仕事というより単なる趣味の世界なので、こういった資料整理は残業扱いにはならないが、私にとっては楽しい作業だ。いずれきちんと整理して生徒に公開するつもりだし、深葉高校のホームページにも載せていきたいと考えている。 ホームページは有志委員会とよばれる同好会が遊びながら作っているものだが、なかなかどうしてレベルが高く、他校からの評価も高い。有志委員会の半数が図書委員だというのも、私としてはちょっと鼻が高いところだ。もともと図書委員会は、構内のイントラネットのみで閲覧出来る新刊図書案内のページを作っており、そのためのソフトやマニュアル本も書籍購入予算から出している。ようするに、図書委員会のホームページ担当チーム(その名も図書委員会電脳セクション。公式名称だ)を中心に興味のある生徒が集まって出来た同好会が有志委員会なのだ。彼らは常に貪欲にネタを探し求めているので、面白い資料があれば活用してくれると思う。第九高女時代の生徒の写真など交えて、彼らなりのロマンチシズムを発揮してくれることだろう。もしかしたら、どこかのクラスかクラブが深葉祭で発表してくれるかもしれない。倉庫の中の資料は整理されているわけではないし、実に様々な文書がごった混ぜになっているようだ。はっきりしたことは分からないが、何カ所かに分散していた資料を、とりあえずこの倉庫にまとめ入れておいたという感じだった。後々のために付箋で番号を振り、自分のノートパソコンを持ち込んで記録をつけていく。記録や整理自体はお手のものだが、ひとつひとつ内容を見ていくと、ついつい時間が経ってしまう。夜間部は生徒の最終下校は夜の10時15分だが、気がつくと校舎の照明が全て消えていることもある。私は自宅から自転車で通勤していて、かかる時間も20分ほどなので、雨さえ降らなければ通いは楽だ。そのせいもあって、つい深夜まで残ってしまうこともある。  最近では珍しいことだと思うが、この図書館には警備機器がない。煙や熱に反応する火災用のセンサーはあるが、対人用の赤外線センサーなどの機械警備は導入されていないのだ。おかげで、深夜まで居残っても警備会社に連絡を入れる必要もないし、特に誰かの許可を得る必要もない。そんなとき、休憩室の存在は便利だった。さすがに風呂までは付いていないが、冷暖房と最低限の炊事設備、トイレは付いている。食料と、あとは毛布でもあれば、ソファで寝ることだってできる。さすがに泊まり込みをしたことはないが、カップラーメンやスナック菓子など、保存の利くものをいくつか休憩室にストックすることにした。どうせ昼食もここで摂るのだし、食料品のストックが無駄になることはないだろう。司書室から玄関までの階段はほぼ完全な闇だが、自転車用のライトをいつもデイパックに入れているので、照明のない階段も困ることはなかった。自分でもいささか子供っぽいとは思うが、こんな毎日にちょっとワクワクしているのも確かだ。ひとことで言えば、毎日が幸せで仕方がなかった。