人魚姫
人魚姫

 海水浴にはまだ早い季節外れの海に、僕は来ていた。砂浜に腰を
下ろし、何をするでもなく、ただ、ぼんやりと海を眺めていた。
 夕方近くになって、一人の少女が靴を脱ぎ捨て、海へと入ってい
くのが見えた。
 まだ、水も冷たいのに、物好きだな。僕は苦笑し、仰向けに寝転
がった。

 絵を描けなくなって、もう、一ヶ月になる。いや、描けなくなっ
た訳じゃなく、描く事に情熱を失ってから、一ヶ月だ。
 ただ、絵を描く事だけが楽しかったのは、いつの頃だったろう。
そんな事も思い出せない僕は、画材道具のある部屋に、絵の具の匂
いのする部屋にいられなくなって、当ての無い旅に出た。

 宿に戻ろう。僕はゆっくりと起き上がり、ふと、海を見た。少女
の姿は無い。いや、少女の脱ぎ捨てた靴は、まだ、砂浜に転がった
ままだ。
 自殺? 僕は顔から、血の気が失せていくのを感じていた。
 波打ち際に駆け出し、海を凝視する。運良く、波間に少女の頭が
見えた。が、それはすぐに沈んでいった。

 気がつくと、僕は少女の沈んだ場所まで泳いでいた。初夏の水の
冷たさも気にならない。ただ、少女を助けたい一心だった。
 息を大きく吸い込み、海の中へと潜る。そんなに深い所ではなか
ったのが幸いし、少女の姿をすぐに見つける事が出来た。
 が、僕はそこで、少女に見とれてしまった。まるで眠るように海
の底に漂う少女の姿が、あまりにも美しく見えたからだ。

 我に帰った僕は、少女を抱え上げると、砂浜へと引きずり出した。
少女は華奢で軽く、それは驚くほど簡単な仕事だった。
 その後、少女を砂浜に寝かせると、僕は荒い呼吸を落ち着かせる
のに終始した。それと言うのも、少女は水を飲んだ風でもなく、呼
吸も普通にしていたからだ。
 しばらくして、僕の呼吸も整った頃、少女は両目を開き、ゆっく
りと起き上がった。そして、辺りをきょろきょろと見回した後、不
思議そうに僕を見詰めた。
「どちら様?」少女は微笑みを浮かべると、僕にそう聞いた。
「え? あ、いや。僕の名は和人」思わず、僕はそう、答えていた。
「そう。私の名は……、カイリ。よろしくね」そう、カイリと名乗
った少女は、僕に右手を差し出した。
「よろしく……、じゃない」僕はそう右手を伸ばしかけて、その手
を止めた。
「?」その僕の行動を見て、カイリが首を傾げる。
「どうして、自殺なんてしたんだ?」
「自殺? してないよ」カイリはきょとんとして、そう答えた。
「してないって、事実してただろ? 服着たまま、海に……」
「変……、かな? いつもしてる事だけど」
「いつもって」
「海に沈んでると、服も体も全てが海と一体になって溶け合うよう
な気がして、気持ち良くなるの。今日はいつもより水が温かかった
からかな? つい、うとうとしちゃった」
 僕は溜息を吐いた。そして、何かどうでもよくなり、苦笑した。
「じゃあ、僕は宿に戻るけど、気を付けるんだよ?」
「うん。また、明日ね?」
「ああ」僕はそう答えると、宿へと戻った。

 次の日の昼、浜辺に行くと、砂浜にカイリがいた。カイリは僕の
姿を見ると、駆け寄ってきた。
「ねぇ。何か、お話ししようよ。一人で海を見ていても、つまらな
いでしょ?」
「そうだね」
「和人は旅行? どこから来たの? どんな仕事してるの?」カイ
リが矢継ぎ早に問い掛けてくる。
 僕はその問いに、一つ一つ答えていった。都会から来ている事、
バイトをして生活費を稼いでいる事、バイトの無い日は絵を描いて
いた事。
「へぇ。画家なんだ。じゃあ、今度、私の絵を描いてくれる?」カ
イリが無邪気に言う。
「ああ、今度ね。今は、道具を持ってきてないけど」もう、絵を描
かないかもしれないと思いつつも、僕はそう答えていた。
「約束だよ」
 その後は夕方まで、僕とカイリは他愛も無い話をしていた。
「と、もう、こんな時間か。じゃあ」
「うん。また、明日ね?」

 次の日もまた、僕とカイリは話をして過ごした。昨日は僕の話ば
かりだったからか、今日はカイリの話を僕が聞く番となっていた。
 カイリは生まれた時から、この海からそう遠くはない所に、親と
一緒に住んでいるらしい。カイリは昔の話を良くしてくれたが、今
の事はあまり話したがらなかった。それは、僕も同じかも知れない
が。
「人魚姫の最後って、知ってる?」帰り間際、カイリがそう聞いて
きた。
「知ってるよ。海の泡になる奴だろ?」
「そう」カイリはそう頷くと、波打ち際へと歩いていった。
「私ね。その人魚姫のように、海の泡になれたら良いなあって、思
うの」海を眺めながら、カイリがそう言う。
「海の中で目を瞑る時も、このまま、泡になりますようにって、願
うの」カイリの言葉には、いつもの明るさが無かった。
「でも、私は泡にはなれない。だって、私は人魚姫じゃなくて、た
だの人間だから」その時のカイリの表情は、僕にはわからなかった。
「カイリ」僕は言葉が見付からず、名を呼ぶ事しか出来なかった。
「あ、もう、帰る時間でしょ?」そう、振り返ったカイリの顔は、
いつもの笑顔だった。
「そう、だね。じゃ、また」
「うん……。また……、ね?」いつもと違うカイリのその言葉に、
僕はその時、カイリにあえない事に気づいていたのかもしれない。

 次の日、僕は浜辺に行った。もう、家へと帰るつもりで、カイリ
に連絡先を教えるつもりだった。だが、カイリはその日、浜辺に来
なかった。
 帰る前にも、海へと立ち寄ったが、やはり、カイリの姿は無かっ
た。

 家へと帰った僕は、気がつくとキャンバスに向かっていた。そし
て、記憶の中の彼女の姿を描いた。
 寝食を忘れて、絵に没頭するのは、久し振りの事だった。絵を描
く事を止めようとしていた事も、忘れていた。

 次の年、僕は描き上げた絵を持って、あの海へと旅をした。だが、
彼女は来なかった。その次の年も。
 今年は行けなかった。丁度、絵の仕事が入っていたからだ。彼女
の絵を描き上げた後も、僕は絵を続けていた。そのおかげか、今で
はそれだけで暮らせはしなくとも、多少の絵の仕事を受けられるよ
うになっていた。

 僕はこの頃、こう考えている。きっと、彼女は海の泡になれたん
だ、と。人魚姫の様に。
 額縁の中の彼女は、今も海の底に静かに眠っている。

戻る