椿
朝飯は十分で終る。
一面にお日さまマークが並ぶ天気予報に背を向けて、溶けて固まったチーズとパン屑のこぼれた皿と、まだコーヒーの香りの残るバカでっかいマグを流しに放り込む。
ジャケットの袖に腕を通しながら、片手はテレビの電源を押し込み、そのまま占いを確認する。
今日の乙女座は6位。新しい出会いがあるでしょう。
電源から指を放すと画面は暗転し、17分の電車目指してドアを出る。
生垣を飾っていた椿は盛りをとうに過ぎて、落ちた花弁が踏みつけられて汚らしい。
何となく、その花弁を踏まないように歩くのが、最近の癖になっている。
道の真ん中を歩けば良いのだが、わざわざ花弁の染みを縫って歩くのが面白くて、下を向いたまま道の端を行く。
突然、目の前の花弁を無造作に踏んで来る黒い靴が視野に入って、ふと目を上げた。
一瞬顔まで見上げそうになったが、あまりの胡散臭さに思わず目を逸らす。
黒のトックリセータに黒のロングコート、ちょっと猫背の両手をそのポケットに突っ込んでいる。
無精髭の囲む口には煙草を咥え、鼻の上にはまん丸い銀ぶちに黒ガラスのサングラス。
そして、グレーに白の混じったバサバサの髪が決定的に異様な、四十がらみのうろんなおっさん。
目は合わなかったと思う。ただ、靴の下で生しい花弁がぐにゅっと潰れるのを感じた。
路地の向こうの大通りで大型トラックのクラクションが鳴り響き、ハッと我にかえる。
いつの間にか椿の生垣は過ぎて、目の前の信号が青に変わる。
その時、魔が差した。
何気なく振り返った視線の向こう、黒いコートの後ろ姿が今まさに路地を曲がって消えようとしている。
そのコートの背中には、あのホワイトグレーの髪が括られ、腰まで届いていた。
見失ってはならない…
今見失ったら、二度と出会う事はない…
その胸の痛みがどこから来たのか解らない。
焦りが背中を押す。
踏まれて腐った椿を踏んで滑りそうな錯覚を憶えながら、黒コートの消えた路地に急ぐ。
曲がり角の向こうをそっと覗くと、黒コートの猫背が見えた。
奇妙な安堵が肩からお腹のあたりまで下りてきて、へたり込みそうになる。
まだ低い朝日が正面から目を射て、軽い目眩すら憶えた。
黒コートは急ぐふうもなく歩を進めている。
ホワイトグレーの髪が、日の光に透けて輝く。
何故追いかけるのかは知らない。
ただ、見失ってはならないと思う。
あまり違和感の無い距離を取って、それでも道の端に寄りつつ、黒コートとの距離を少しずつ詰めていく。
時計を見た。17分はとっくに過ぎている。もう、間に合わないな…
黒いコートの背にかかったホワイトグレーの髪の一本一本がぼんやりと見分けられる気がした時、
黒コートがふっと歩みを止め、
そして
ゆっくりと、
振り返った。
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背中から陽光を浴び、翳った顔の丸い黒ガラスをもっと濃くしている。
咥えられた煙草の先がじわっと赤く発光して、薄い煙が立ち昇る。
動けない。
頭の中で、何かの警報が鳴っている。
思ったより長身の影が、足元に近付いて来る。
その表情の見えないサングラスから目を逸らす事ができない。
影が近づく。
じわじわと、
じわじわと。
そして黒コートの影が全身を包む。
何もかもが動かない。
自分の心臓の音だけが、耳の中にドクドクと響く。
不意に今朝の占いが蘇る。
今日の乙女座は6位。微妙な順位だな。
真っ白な逆光の中で、煙草を咥えたままの口の端が微かに持ち上がる。
黒コートの影の中だけが、一枚の白黒写真の様に時を止め、
気温が、1℃下がった。