にじり寄ってくる秋の空を押し戻しいまだ衰えぬ陽光も、密集した枝葉に遮られて地面まで届かない。
一歩踏み出すごとに零点何度かずつ周囲の温度が下がっていく。
吹き出す汗も、朱の柱の隙間を吹きわたる風でいつの間にか乾いていく。

突如目の前がひらけて遥か下界を見渡した後、小さな滝の冷たさに心奪われた後、また石段を踏みしめる瞬間に大気の気配が変わる。
匂いが変わる。
濃度が変わる。
呼び交わす者達の声が変わる。
ひとつの結界を抜けて、新たなより深い結界に踏み込んでいくのがわかる。

ここは聖域。

生い茂る木々の中には得体の知れない気配が充満している。
呼び交わすいきもの達の声の合間に、明らかに鳥でも虫でもない何かの声が聞こえる。
ひとたび蜘蛛の巣の張ったこの境界の外に出てしまったら、捕われてしまって二度と戻ってこられなくなりそうな、そんな濃厚な気配たち。

身体のどこかが動きを止めたがっているのに、背中を押されるようにして一歩また一歩と歩み続ける。
まるで止まっては駄目だと、止まったら引き込まれるとでも言われているかのように。


いくつかの結界を抜けふと一息いれた時、視線を感じてふり向いた。

見ると、石燈籠を背にしてひとりの若い女が座っていた。
全身黒ずくめのその女は、これもまた黒ずくめの幼子を抱いている。
彼女の金色の瞳が、じっとこちらを見ているのだ。

 “どこから来たの?”

高く澄んだ声が囁く。

 「下から」
 “そう。お疲れさまね”
 「ここに住んでいるの?」
 “ええ、そうよ”
 「どれくらい前から?」
 “さぁ。気がついたらここに居たわ”
 “ここでずっと子供たちを育ててきたのよ”

抱かれていた幼子がこちらをふり返る。
母親と同じ金色の瞳がきらきらと輝いている。
丸い小さな口の端がにっと笑うと、幼子は再び母親の胸に顔を埋めた。

 「あなたは誰?」
 “わたしは誰でもないわ。あなたが見たいと思っているモノよ”

いつの間にか腰を下ろしていた身体に薄い倦怠を感じた。
足がだるい。
汗が額から顎を伝って落ちていった。

黒衣の女の、金色の瞳が笑っている。
気温が上がり熱い大気が纏わりついてくるようだ。

 “もう降りなさい”

促されて立ちあがると僅かに目眩がした。
身体が少し重い。

 “運動不足ね”

ころころと笑う声が頭の中に響いてふり返ると、彼女も、抱かれていた幼子もいなかった。
頭の上でギャーッとひと声、鳥が鳴いた。



2003.9.16


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